EP 4:美咲と子犬
梅雨の季節へと差し掛かった頃、花澤美咲には、数日前から気になっている事があった。
それは登下校の際にいつも見かける子犬だ。子供特有のまるっとした身体は全体的に茶色、お腹の方は白。
(柴犬の子供かな…?)
毎度同じ電柱の根元にちょこんと座り、ただジっとしているその子犬から、寂しそうな波動が出ている事を美咲は感じ取っていた。
だが気になったのはそれだけではない。その子犬に興味を示す人間が自分以外に居ない事も不思議に思っていた。
思い切って一緒に登下校している花園百合香にその子犬の事を聞いてみると、
「え?何処に居るの?」
という答えが返って来た。
この時になって美咲はやっと、その子犬が自分にしか見えていないという事実を受け入れた。
とある雨の日、夕食の食材の買い出しを終えての帰宅時、やはり同じ場所で寂しそうに座っている子犬を見ると、子犬の身体はまるで濡れていない。雨がすり抜けて地面を打っている。
(う~ん、この子、私にしか見えてないみたいだけど…私がおかしいのかなぁ?)
そう思いながら子犬に近付きしゃがみ、そっと手を差し出すと『フンフン』と子犬はその手の匂いを嗅ぎ、尻尾を振った。
(やっぱりここに居るよね?何か証明出来ないかなぁ?)
パタパタとビニール傘に雨粒が当たる音を聞きながら、唇に指を当てて考える。
「あ、そうだ。」
何かを思い立ち、つい声を出してしまった。
『ハッ』と口に手を当て周囲を見回すが、流石に元々人の通りが少ない町で雨の日に出歩く人影は見当たらない。
「ちょっと待っててね。」
子犬に小声でそう言うと、美咲は小走りに桜荘へ帰った。
それから少々の時間が経って美咲が子犬の元に戻って来ると、その手に持っていたのはチェリー用に買った玩具だ。その中からゴムボールを取り出し子犬の前で転がして見せる。すると子犬は恐る恐るそのボールの匂いを嗅ぎ、前足でつんつんと弄り始めた。
だがその前足はボールをすり抜け地面を踏みしめる。
(あ、物に触れないのかなぁ…?でも地面にはしっかり立ってるんだよね、どうしてだろう?)
しゃがんだまま子犬を見つめていると、何となしに手を伸ばし子犬に触れてみた。
すると突然、何かが美咲の身体から出て行く感覚と入って来る感覚が入り混じった不思議な感じを覚え、一瞬意識が飛ぶ。
身体がグラりと揺れ、肩にかけていた傘が地面に落ち、倒れそうになった瞬間…。
「美咲ちゃん、どうしたの!?大丈夫!?」
そう言って両手でガシっと身体を支えてくれたのは百合香だ。
その声で意識をハッキリと取り戻した美咲が
「あ、百合香ちゃん…どうしてここに?」
何事もなかったかのように言う。
「どうしてって…桜荘に遊びに行ったら美咲ちゃんが帰ってないって聞いて、こんな雨の日に何処に行ったのかって考えたら、最近気にしてるここしか無いかなって思って来てみたの。そしたら美咲ちゃんの様子がおかしかったから慌てて…。」
心配そうにする百合香に
「ありがとう、ごめんね?でも大丈夫だよ。」
と嬉しそうに謝る。
その時百合香の身体が硬直した。
「?どうしたの?百合香ちゃん?」
美咲が不思議そうに首を傾げて百合香の手を取ると、
「あ…あれ、何かおかしくない…?」
百合香は美咲の背後を指差した。
振り向いて指差す方を見てみると、子犬がゴムボールを蹴飛ばしたり咥えたりしながら遊んでいるではないか。
(あれ?ボールに触れてる…?)
まず美咲に浮かんだ疑問はソレであったが、すぐに百合香の態度の原因に気付く。
(あ、百合香ちゃんには子犬が見えてない筈…だからボールだけが勝手に動いてるように見えるのね。)
雨こそ降っているものの、風はほぼ無い天気。その中で明らかに不規則にボールが転がり、浮き、何者かの意志が無い限り有り得ない動きをしているのだ。驚きもするだろう。
「百合香ちゃん。」
動揺する百合香の両肩に手を置き、目を見る。
百合香もハっと我に返りその美咲の真面目な視線を直視する…と同時に顔が赤くなる。
「信じて貰えないかもしれないけど、あそこに子犬が居るの。私にははっきり見えてるの。…私がおかしいって思う…?」
真剣にそう言う美咲に、百合香は首を横に振り
「あたしは美咲ちゃんを信じてるよ。それに、こんなの見ちゃったら美咲ちゃんの言う事が一番納得出来るもん。」
いつの間にか美咲の足元に浮いているボールを見て軽く溜息をついた。
美咲の目に映るその足元には、ボールを咥えて尻尾を振りながら美咲の足に擦り寄る子犬。その波動からはさっきまでの寂しさが消え嬉しさが感じられる。その様子に美咲の表情には微笑みが零れた。
「それで、その子犬?はこれからどうするの?」
百合香が当然の疑問を投げかけてきた。
「うーん、そこまで考えてなかったんだけど…。」
唇に指を当て、
「この子がまだここに居るなら、たまに遊びに来ようかなって思う。」
さも当然のように答えた。
「そ、そう…。」
(考えたくないけど、これって多分お化けだよね…?美咲ちゃん大丈夫かなぁ…?でも余計な事言って悲しませたり不安にさせるのは嫌だしなぁ~。)
百合香が頭を抱えて悩む姿に、美咲は小首を傾げた。
「それじゃぁ、また来るね。」
子犬に手を振り別れを告げた美咲。
しかし今まで同じ場所から微動だにしなかった子犬が美咲に付いてくるではないか。
「あ、あれ?」
美咲の少し困ったような声と視線で百合香が悟る。
「付いて来てるの?」
「うん、どうしよう…?」
「どうしようって言われても…取り敢えず桜荘のみんなに相談してみたらどうかな?」
「うん、そうだね。」
百合香に拒絶されなかった事が嬉しく微笑む美咲。その笑顔に百合香も癒される。
美咲と百合香が桜荘事務所に帰り着く。
「ただいま戻りました。」
「やっほー。」
その声に振り向く桜荘の面々。だが第一声は田口稲穂の驚きの声だった。
「どうしたの、その格好!?」
驚くのも当然だろう。美咲も百合香も途中から傘をささずに雨に打たれていたのだ。その姿はびしょ濡れで、美咲に至っては白いワンピースが肌に張り付いて透けて見えてしまっている。
「男共はあっち向いてな!」
春乃櫻が松木幹雄と杉山大樹を睨みつけると、二人は慌てて談話室へ引っ込んだ。
「はいタオル!ちゃんと身体を拭いて早く着替えちゃって。百合香ちゃんもよ。」
稲穂にタオルを手渡されて美咲と百合香は顔を見合わせると、事情の説明は後回しに奥の部屋へ向かった。
手早く服を脱いで下着姿になった百合香が、身体を拭きながら気付く。
「着替えてって言われても、あたし何に着替えればいいの?」
そう言われて同じく下着一枚の姿で、制服を両手で持っていた美咲が、少し考えその手を突き出す。
「百合香ちゃんも、私と背丈はあまり変わらないからコレ着れるんじゃないかな?」
差し出された制服を見て百合香が目を丸くする。度々事務所に遊びに来ている百合香は美咲がその制服を着ている姿を知っては居るのだが、普段Tシャツにショートパンツやショートスカートといった動きやすさを重視した、どちらかと言えばボーイッシュなファッションばかりを着ていた百合香にとって、可愛らしいエプロンドレスなど自分には似合うと思えなかった。
「あ、あたしそういうの絶対似合わないから…!」
両手をイヤイヤと振り慌てる。
「でも他に着るものって…。」
周囲を見回す美咲。
「ああいうのしかないよ?」
その指差す先には、美咲が持っている制服よりも更にフリルの多い、稲穂特製少女趣味全開の衣装が並ぶ。
示されたラインナップを見て、雨で冷えた身体がブルっと震えると、
「ごめん、その服借りるね…。」
他に選択肢が無いと妥協して、恥ずかし気に美咲から制服を受け取り袖を通した。
その様子を見て美咲も替えの制服を取り出し着替えを済ませ、
「お揃いだね。」
と微笑むと、百合香もまんざらでは無い様子で
「えへへ…。」
と微笑み返した。
因みに毎日着替えても大丈夫なように制服は同じデザインのものが七着用意されている。
着替えを済ませ二人が事務室へ戻る。
「あら、百合香ちゃんもその服似合うわね。」
「うむ、普段とのギャップが新鮮で、これはこれで良いね。」
稲穂と櫻に褒められて百合香の顔が赤くなる。
「でも百合香ちゃんはもっと明るめの色の方がいいかもね。新しく作ろうかしら?」
稲穂が頬に手を当てながらそんな事を言い出した。
「い、要らないから!別に作らなくていいから!」
百合香が慌てて拒否すると、
「えー?百合香ちゃん可愛いのに。絶対似合うと思うよ?」
まったく他意無く無邪気な美咲にそう言われ、まんざらでも無い百合香は顔を更に赤くして俯くと、無言で小さく首を横に振って最小限の意思表示を続けた。
「まぁ無理強いは良く無いものね。でもその気になったら言ってね?」
稲穂も少し残念そうにしながらも諦めてくれた。
そんなやり取りが談話室まで聞こえたのだろう、幹雄と大樹がチェリーを抱えて出て来た。
するとチェリーが床に降り、美咲の回りをウロウロし始める。
「あ、チェリー。大丈夫だよ、その子は怖い子じゃないよ。」
美咲がなだめるその言葉に皆が顔を見合わせた。その様子を見て思い出した百合香が口を開く。
「えっと、実はね…。」
ここまでの経緯を美咲と百合香に説明され、流石に唖然とする一同。
「えっと…二人の悪戯ジョーク…とかじゃないよね?」
大樹が困惑の表情で聞き返すと、
「何であたし達がそんな嘘つかなきゃならないのよ。そんな事ならもっと騙せそうなお話考えるし!それに美咲ちゃんが嘘つく筈無いでしょ!」
自分が疑われた事より美咲が疑われた事に対して怒りを強め頬を膨らませる百合香。
「でも流石に突飛すぎて簡単には信じられないのも事実ですねぇ。」
幹雄も腕を組みつつ首を傾げている。
信じて貰えない事に美咲の表情が曇り始めると、見かねた櫻が案を出す。
「美咲に見えているというのなら、百合香の共感能力を使えばあたし達にも見える筈じゃないかい?」
「あ、そうか!」
百合香は手をパンと叩き素早く美咲の手を握ると、
「さぁさぁ、早く!」
と、皆を手招き。
「それじゃ言いだしっぺのあたしから試してみるかね。」
櫻が一番に踏み出し百合香の手を握ると、美咲の感覚が流れ込んでくるのを感じる。
「おぉ…。」
思わず声が漏れた。その視線の先、美咲の足元に確かに子犬が居る事が確認出来る。
続く稲穂、大樹、幹雄も同じように言葉を失いながらも確かにそこに居る子犬の姿を見た。
だが一番驚いたのは全員の共感を終えた後の百合香だ。
「あ、あれ?超能力を使ってないのにあたしにも見えてる…。」
薄ぼんやりとだが、目を凝らすと美咲の足元で尻尾を振っている子犬の姿が百合香にも見えるようになっていたのだ。
(うぅ…はっきり見えない分余計に幽霊っぽい…。)
百合香の顔が軽く引き攣る。
(でも、態度を見てると悪い子じゃないっていうのは判る気がするなぁ。)
そう思うと強ばった表情も緩んだ。
その百合香の状況に大樹が仮説を立てた。
「恐らく美咲ちゃんと連続で共感を繰り返したので、その子犬を見る為に必要な脳のチャンネルが美咲ちゃんと近くなっちゃったんじゃないかな?」
「え?そんな事で影響を受けちゃうなら今まで協力してもらってた私達だって似たような事になってない?」
稲穂が驚きの声で質問をする。
「うん、多分これは同じテレパスの二人だから起きた事なのかもしれない。超能力と霊能力は実は同じものなのではないかという説があるんだ。美咲ちゃんは言葉では無い感情や念を感じる事も出来るという事だから、霊能力者が幽霊を感じ取れるのと同じ理屈なのかもしれないね。」
人差し指を立てて饒舌になる大樹。
「その上で、同じテレパスという事は脳の同じ部分を使っている可能性が高い。ならば多少の差があり今まで美咲ちゃんにしか見えていなかった子犬が見えるくらいまで、百合香ちゃんの波長が引っ張られた可能性があるという事なんだ。」
その説明に百合香の顔が青ざめる。
「え…?それじゃあたし、幽霊が見えるようになっちゃったの…?」
「うーん、それはどうかなぁ?美咲ちゃんは今まで幽霊に遭った事はあるのかな?」
「え?どうでしょう?今までそんな事は無かったと思いますけど。」
唇に指を当て記憶を掘り出しているが思い当たる事は無い様子だ。
「という事だそうだよ、百合香ちゃん。可能性はゼロでは無いけれど、恐らく幽霊にも、見える幽霊、見えない幽霊といった波長の相性があるんじゃないかな?そのうえで今回この子犬がたまたま見える波長を持っていたと考える事が出来るね。」
大樹の説明に多少の不安を残しながらも安堵の溜息を漏らす百合香。そんな姿を見て、
(まぁ美咲ちゃんには随分ハッキリと見えているようだし、ひょっとしたら今までもそれと知らず幽霊を見ていた可能性は否定出来ないんだけどね…。)
そう思ってはいたが話を蒸し返す事になると思い心の中に留めておく事にした。
「あの、今更なんですけど、この子ってやっぱり幽霊なんでしょうか?」
美咲が小さく手を上げて、本当に今更な質問をする。
「あたしの知り合いに霊能力者が居るが、何なら視てもらうかい?A県に居るんだがね。」
櫻が提案し懐から携帯電話を取り出して見せるが、
「いえ、そこまでしなくても。ただみんなが幽霊って言うから気になっただけなんです。」
両手を振り遠慮する美咲。
「まぁそれはいつでも良いとして、その子、連れて来ちまってどうするんだい?」
「どうって…う~ん?取り敢えず私にくっついてくるので好きにさせておこうと思います。」
足元にちょこんと座り尻尾を振っている子犬を見ながら軽く言う。
「お前さんがそれで良いなら特に言う事は無いがね…何か悪いものだと思ったらあたしらも何か考えるとするさ。」
その態度に櫻も一先ず納得するしかなかった。
稲穂が美咲と百合香の服を乾燥機にかけている間、二人はチェリーと子犬と共に戯れ時間を潰す。
チェリーには子犬の姿がはっきり認識出来ているのか、飛びかかってはすり抜け、子犬は面白がってチェリーの回りを飛び跳ねる。
「この子、全然幽霊っぽくないね。」
百合香が二匹のじゃれあいを微笑ましく眺めながらそう言う。
「みんなにも見えて触れればいいのにね。」
美咲がポツりと言い、子犬に手を伸ばす。その手が子犬の頭に触れると再び美咲と子犬の間で何かが循環したような感覚を覚えた。しかし今度は意識を失う程では無く少々立ちくらみのように意識がボヤけただけで済んだ。
「あっ…。」
思わず声が出てしまったが、先程の百合香の慌てようを思い出して咄嗟に平静を装った。
「ねぇ、『この子』じゃ何か判り辛いから、名前付けてあげようよ。」
美咲の肩に頭をもたれかけながら百合香が提案をするが、
「いつまで居るかも分からないのに名前を付けると、愛着が湧いて別れが辛くなるぞ?」
櫻にそう言われ楽天家の百合香も『ハッ』と理解した。だが美咲は
「実はもう名前を考えてあって…『ブロッサム』ってどうかな?」
そう言って再び子犬を撫でる仕草をすると、三度起きる循環。しかし今度は先程までと違い逆に意識がハッキリとし、美咲と子犬の間に言葉では無く通じる何かが生まれたのを理屈では無く認識した。
言葉を失い見つめ合う子犬改めブロッサムと美咲。その様子を不思議そうに見つめる百合香。普段は割り切った思考の多い美咲がここまで固執している事に違和感を覚える櫻。
ほんの数秒の静寂を破ったのは大樹だ。
「そういえばその子犬…あぁ、ブロッサムだったね。犬種は何だろうね?さっきは驚きが強くてそこまで考えが回らなかったから良く見てなかったなぁ。」
「そういえばそうでしたね。見た印象では柴犬のように見えましたが。」
幹雄が相槌を打つ。
「私は種類とか余り詳しく無いので…どうなんでしょう?」
そう言いながら美咲はブロッサムに手を伸ばし、何の気無しに抱き上げた。
「えっ!?」
百合香が声を上げる。それはそうだろう。今まで触れる事が出来なかった筈のブロッサムを、美咲が持ち上げている。
「あっ、あれ?」
その驚きの声の意味を遅れて理解した美咲も今更に驚いた。
だが驚きの声はそこで止まらない。
「姿が…。」
「ハッキリと見えてますね。」
大樹と幹雄も唖然としながら言葉を漏らす。
「どれ?…おぉ、触った感触もちゃんとある…完全に実体化してるね。これは一体どうしたってんだい?」
櫻がブロッサムをワシャワシャと楽しそうに撫で回しながら言う。
余りに激しいスキンシップに嫌々をして美咲の手から離れ床に降りると、再び姿が見えなくなった。
「これは…美咲ちゃん、もう一度持ち上げてみてくれるかな?」
大樹の要望に素直に従い美咲はブロッサムに手を伸ばす。少々腰が引けたブロッサムに優しく微笑むと、そっと抱き上げた。
「おぉ、また見えるようになりましたね。」
張りのある驚きの声を上げる幹雄。一方大樹は顎に手を当てつつ一つの推測を立てた。
「恐らくだけれど、美咲ちゃんの手から何らかのエネルギーが伝わり、ブロッサムが実体化するんじゃないかな。」
「どうして手からだけなんでしょう?」
美咲が自分の手をジっと見て疑問に首を傾げる。
「多分、本当は手だけに限らないのだと思う。ただ、人間は手を使う事に長けているので、自然とエネルギーを出すのに適した部分になっているんだろうね。事実僕や鷹乃さんも、超能力を使う時は手を使うし、百合香ちゃんの共感能力も手を繋ぐでしょう?」
手のひらを突き出し力説する。
「あたしの能力コピーは頭を当てるけどね。」
櫻の指摘に
「まぁ例外というのは何処にでもありますから…櫻さんは殊更に特別ですしね。」
苦笑いで流す。
「それは兎も角として、触れられるなら僕の超能力で…。」
大樹が美咲の腕の中に居るブロッサムに手を伸ばすとサイコメトリーを開始する。
見えてきたのは空き地の片隅に捨てられたダンボール箱。その中で目を覚まし、周囲を見回す子犬の姿。どうやら寝ている間に飼い主に捨てられたのだろう。一生懸命に箱から脱出するとそのまま街の中を彷徨うが、美咲が見つけたであろう路地の辺りで衰弱し、力尽きた。
「…と、大体こんな様子でした。もっと深く探れば飼い主の姿も見えるかとは思うけれど、生き物…この場合は生き物と言って良いのかなぁ…?まぁ意思のある存在のサイコメトリーは複雑で、あまり記憶を遡れないんだよね。更にこの子の場合はこの状態になってからの記憶がループして見えるので何とも…。」
「まぁそこまでせんでも良かろう。今更飼い主を見つけた所でどうなるものでもあるまい。」
捨てた元飼い主への軽蔑が滲む声で櫻が流す。
「ともあれ、これで幽霊説は確定ですかね?」
ブロッサムを撫でたりつついたりしている美咲と百合香を眺めながら幹雄が口を挟む。
「まぁ幽霊なんだろう。それが美咲に付いてきたというのは、単純に考えれば『取り憑かれた』って事なんだろうが…。」
同様に眺めていた櫻も腕を組み首を傾げる。
「どうにも平和過ぎて深刻さは感じられんな。」
そう言うと軽く微笑んだ。
「ふーむ、どうやら特徴としては秋田犬の可能性が高いですね。」
事務所のパソコンで検索をしていた幹雄がブロッサムとPCモニターを交互に見比べる。
「秋田犬…柴犬だと思ってたんですけど、違うんですね。」
美咲が少し驚いたようにブロッサムを見つめた。
「えぇ、しっかりした足と、くるっと巻いた尻尾が特徴的ですね。主人に忠実なのも有名な所です。美咲ちゃんを主人と認めているならきっと悪い事はしませんよ。」
「だが手元に置くつもりなら躾はしっかりしないと駄目だぞ?」
年長二人の飴と鞭。
「はい、ちゃんとさせます。」
微笑み自信満々に返事をする美咲。
そこに稲穂が乾いた二人の服を持って戻ってきた。
「あら?子犬が見えてる。」
軽い驚きを含んだ声で即座に現状を把握すると、大樹が今までの経緯を掻い摘んで説明した。
「なるほどねぇ~。それで美咲ちゃんは、チェリーの他にブロッサムも飼う事にした訳ね。」
頬に手を当て感心半分呆れ半分で『うんうん』と頷く稲穂。
「飼うとは言っても、この子お世話は多分要らないんじゃないかなって思うんですけど。」
腕の中で胸に身を摺り寄せるブロッサムを見て言う。
「ともあれ美咲以外に手を出せないのであれば、美咲の意思を尊重するしかない。これから先どうなるかは解らんが、今の所はもう考えるだけ無駄だろうからこの話は終わりだな。」
パンパンと手を叩き櫻が解散を促す。
「それじゃはい、お洋服が乾いたから百合香ちゃんは着替えちゃって。雨はそんなに強くないけど、後で大樹さんに送ってもらいなさい?」
「うん、ありがとう、稲穂さん。」
百合香は服を受け取ると着替える為に再び奥の部屋へ姿を消した。
「さ、ブロッサムはチェリーと遊んでおいで。」
そう言って床へ下ろすと美咲以外の目からは姿を消したブロッサムは、言われた事が解るのか、ソファの上で丸くなっていたチェリーの元へ歩み寄ると寄り添うようにして身を縮めた。チェリーも片目を開けたかと思うと再び閉じ、特に不満を表す事無く平静だ。
(これなら上手くやっていけそう。)
その様子を見て美咲は優しい笑みと共に安堵の息を漏らした。
その後、大樹が百合香を自宅へ送り届けて事務所へ戻り、もう周囲も暗くなった頃にお客が訪れた。
「やぁ、皆さん。お邪魔します。」
入って来たのは大沢静流だ。
「おや、いらっしゃいませ。」
幹雄が事務机の前で首だけを動かし挨拶をすると、
「あ、所長さん、いらっしゃいませ。」
エプロンドレス姿の美咲がパタパタとスリッパを鳴らして出迎える。
「おぉ、所長。久しぶりだね。こんな時間に来るなんて珍しいじゃないか。」
談話室でテレビを見ていた櫻も顔を出した。
「所長さん、お飲み物はいかがですか?」
そう言って美咲が差し出したのは、手書きの可愛らしい文字で『ホットコーヒー』『アイスコーヒー』『ココア』『緑茶』『オレンジジュース』と書かれたメニュー表。美咲の手作りだ。
「やぁ、ありがとう美咲ちゃん。それじゃホットコーヒーをお願いしようかな。」
にっこりとした顔で注文をすると
「はい、ホットコーヒーですね。少々お待ちください。」
同じくにっこりと微笑み返し、くるりとスカートを翻してコーヒーを淹れに行った。
「以前よりも大分くだけた感じになりましたね。」
美咲の様子を微笑ましく見ながら櫻に言う。
「あぁ、桜荘に居る事で随分と他人との接触に慣れたね。ただ未だに粗野な大人の男には苦手意識というか恐怖を覚えるようだが…まぁこればかりは仕方無い。トラウマみたいなもんだしね。」
美咲との出会いを思い出し表情を少し曇らせる。
「それで、今日はどのようなご用件でしょうか?」
事務机に座っていた幹雄が、空気を読んだか話を切り出した。
「やぁ、そうでした。実はですね…。」
「はい、ホットコーヒーお待たせしました。櫻さんもどうぞ。」
「やぁ、ありがとう。」
「お、すまんね。」
唐突に話の腰を折られて場の空気が緩む。
「で、実はですね。少々長期になるかもしれないお仕事の依頼をしたいのです。」
コーヒーをすすりながら所長が話し始める。
「長期…とは、何ともハッキリしないね。」
「えぇ、大体一ヶ月程を想定しているのですが、問題の解決が図れればそこで依頼終了という感じでお願い出来ないかと思いまして。」
所長は頭を軽く掻きながら少々申し訳なさそうにしている。
「まぁそういう不規則な依頼は今までだってあったんだ、問題では無いさ。」
コーヒーをふーふーと冷ましながら櫻が言うと、
「期限については分かりましたが、一体何をすれば良いのですか?」
話を聞いていた幹雄が本題に迫る。
「やぁ、これは失礼。それで本題なのですがね?」
手に持っていたコーヒーカップをテーブルに置くと両手を組んで親指をくるくるとし始めた。
「実はまだ余り公に知られていないのですが、最近この町でひったくり被害が数件起きているのです。」
指の動きが止まると少々の間を挟み
「被害者は全員女性ばかりです。」
その言葉に櫻の眉がピクりと動く。
「幸いにも今の所大怪我をした等の被害は無いのですが、ショルダーバッグを狙った犯行ばかりというのが現状ですので、いつ身体的被害も出るかと思うと悠長にはしていられない状況な訳ですよ。」
『はぁ』と大きな溜息にコーヒーから上る湯気が揺らいだ。
「それで?あたしらにはどんな役割を求めているんだい?」
櫻の声のトーンが下がった事を感じて所長が少々気後れしながら
「本当はこういう事をすると上から怒られるので、内密に行いたいのですがね…『囮』をお願いしたいのです。」
意を決して非難覚悟で打ち明ける。
「まぁそんな所だろうね。」
だが返って来たのは呑気な声だ。
「あたしらだって何の手がかりも無しにいきなり犯人を特定なんて出来ないし、出てきて貰うなら囮捜査が一番手っ取り早い。世間体があるから警察はおおっぴらにそういう事を出来ないのも知っているしね。」
呆れ顔の櫻が手をパンパンと叩き
「おーい、全員集合だ。」
と声をかけると、談話室でくつろいでいた大樹と稲穂が姿を現した。
「…と言う訳で、所長の依頼を受ける事にしたいのだが、何か異論はあるかな?」
依頼の内容を伝え、皆の意思を確認する。
「いえ、私は何も問題ありません。」
「僕も。」
「私も異論は無いわ。弱い者しか狙えないヤツなんてさっさととっ捕まえてやらなきゃ。」
大人三人が快諾すると、最後に美咲も
「私も大丈夫です!」
と力強く頷く。
櫻としては美咲を危ない事に関わらせるのは不本意なのだが、今は美咲の自主性を重んじて見守る事にしているのでその意思を汲む事として首を縦に振り黙認した。
「よし、それじゃぁひったくり誘き寄せ作戦の内容だが…。」
所長に目配せをする。
「はい、警察としては犯行が行われそうないくつかの路地の巡回を強化する方針でして、その巡回ルートの中に敢えて穴を作っておきます。」
「穴?」
道路の真ん中にぽっかりと空いた穴を想像して首を傾げる美咲。
「穴というのは比喩…例えの事だ。」
普段しっかりしている割に時折子供らしい思考になる美咲に、櫻が微笑みながらも説明を入れる。
「要するに巡回の目が行き届かない範囲をわざと用意しておくという事だよ。」
大樹もフォロー。
そんな様子を微笑ましく見ながら所長が話を続ける。
「それでですね。その巡回の無い路地を、大体日没頃から毎日稲穂さんに、決まったパターンで歩いて頂きたいのです。これは犯行が行われたのが揃って、日が沈んで辺りが暗くなってからの帰宅時間という点で一致している為です。」
コーヒーを口に含み、一息つく。
「そして残りのあたしらは、その路地の要所要所に身を潜めて犯人が現れるのを待つ、という事だね。」
櫻の言葉に所長が頷きで応える。
「犯行が少々の間を開けて行われている事から、犯人はターゲットに目星を付けてから行動パターンを把握して、一番やりやすい場所を選んで犯行に及んでいると思われます。なので、少々の長期戦が予想されますが、皆さん、宜しくお願いします。」
そう言って深々と頭を下げた。
日も落ちしとしとと小雨の降る中、人通りも無く街灯もそれ程多く無い、少々長めの路地を歩く一人の女性。稲穂だ。傘を差し、それを持つ手と逆の肩にはショルダーバッグを掛け、周囲に存在を知らしめるかのようにハイヒールの音を響かせる。
その路地の両端に美咲と、美咲の能力をコピーした櫻を配し、不審者が見えたら連絡を出来るようにし、その間を取るように大樹と幹雄が身を潜めていた。
このフォーメーションで稲穂が『会社帰りのOLが商店街へ行き、買い物帰りに同じルートを戻る』という体での往復を毎日繰り返す事となったのだ。
しかし張り込みを始めてから既に二週間。何の変化も無く、しかし別の場所でまた被害が出たという話も聞こえてこない。ただ待ち構えるだけとは言えども、日中は他にも受けた小さな依頼をこなす等して居る身には疲れが蓄積してくるものだ。
ましてや美咲は学校へ通っている身。事務所での手伝いを控えさせてはいたのだが、疲れを癒す時間は夜の睡眠くらいしか無い。
(ここまで長くなるなら美咲にはもうそろそろ休みを与えた方が良いかもしれんな…。)
櫻がそんな事を考えていると、まるでその疲労した状態を狙っていたかのように路地の中央付近のブロック塀から人影が軽やかに降り立ち、稲穂の背後から素早く襲いかかりバッグを奪い取った。
「えっ!?」
余りに突然の事に稲穂も何の抵抗も無くするりと腕からバッグを抜かれ間抜けな声を出してしまう。
慌てて大樹と幹雄が飛び出し犯人を前後から挟み込む。しかし犯人は状況を即座に理解すると逃げる方向を定めて幹雄に向かって走り出した。
「ふんっ!」
大きな身体で立ち塞がり、逃走を阻もうとする幹雄。しかしその巨体に対して左から右へとフェイントを掛け素早く犯人は走り抜けてしまう。その先に居たのは美咲だ。
「と、止まってください!」
慌てて咄嗟に飛び出し両手足を広げて立ち塞がりはしたものの、迫り来る犯人の顔が薄ぼんやりと街灯に照らし出されると、その男の顔に恐怖を感じ身体が強張ってしまった。
思わず目を瞑り
「ヒッ…。」
と情けない声を出してしまう。
そんな美咲の事を横目に犯人がすり抜けると、その時に広げた手に掠った僅かの衝撃で美咲は尻餅をついて倒れてしまった。
その衝撃に我を取り戻した美咲が、倒れたままに腰をひねり犯人を振り返ると、手を伸ばし
「ブロッサム!」
大声で叫ぶ。
すると突然犯人の目の前に大型犬が姿を現し唸りを上げると、怯んだ犯人の右足に噛み付いた。
いきなりの出来事にその場に居た全員の動きが止まる。
「うわぁぁーー!?」
驚きと痛みに悲鳴を上げる犯人は、突然の状況に混乱しながらも足に牙を突き立てる獣に二発、三発とパンチを打ち込むと、獣は『キャイン』と悲鳴を上げて姿を消した。
「くっ…くそっ!」
突然遭遇した不可思議な現象よりも先ずは逃げる事が最優先とばかりに駆け出そうとする犯人だが、利き足に痛みが走りよろけ、その隙に背後から迫っていた大樹に取り押さえられ後ろ手に締め上げられ地面に転がる事となった。
その光景を見て緊張の糸が解けた美咲の意識が遠のく。
『トサッ』と倒れる音がすると、犯人を取り囲んでいた皆が美咲の方を振り向いた。そこには仰向けに倒れた美咲の姿。
「おい、美咲、どうした!?」
櫻が慌てて近付くが顔面蒼白で意識が無い。先程のブロッサムと思われる大型犬の姿を思い出し、霊障の類ではないかと不安が脳裏をよぎる。
「幹雄はそいつをふん縛って警察に持って行け。大樹は車を回して美咲を病院へ連れて行くんだ。稲穂はあたしと一緒にちょっとひとっ飛びしてもらうよ。」
冷静に役割を指示する櫻だが、その声には僅かに動揺が混じっていた。
美咲が目を覚ますと白い景色が飛び込んできた。
(あれ…?ここは…?)
ぼんやりとした意識で首を横に向けると、椅子に座った稲穂と目が合う。
「あっ、美咲ちゃん!良かった…やっと起きた…。」
安堵の息を漏らすと
「ちょっと待っててね。皆を呼んでくるから。」
そう言って部屋を出て行った。
(あぁ、ここって病院…なのかな?)
身体を横たえたままでゆっくりと部屋を見回すと、ベッドの横に腕を垂らし、その下に居るブロッサムを指先で撫でた。
「ふむ、やはりそうですか。」
その様子を見て確信したかのように入って来る老年の女性。その後に櫻を筆頭に桜荘の面々も続いてやって来た。
「え…と、あなたは…?あと、ここは一体…私どうしてこんな所に?」
身体を起こして疑問に思った事を素直に口にする。
「私は木霊沙羅と申します。櫻さんとは古い知り合いでして、今回は急用という事で呼ばれましたの。」
ゆっくりと優しい言葉で自己紹介をする。
「以前に知り合いの霊能力者が居ると話をしただろう?それがこの沙羅だ。」
櫻がベッド脇の椅子に腰掛けて言う。
「あと二つの疑問については、一気に説明出来るぞ。」
そう言って稲穂に目配せをすると
「美咲ちゃん、ひったくり犯を捕まえた後に倒れちゃったの、覚えてない?慌てて大樹さんに病院へ運んで貰ったのよ。」
稲穂は心配そうに美咲の顔を撫でながら説明をした。
「お医者様が言うには疲労が溜まっていた所へ急激な緊張の変化が重なり倒れたのではないかと言う事でしたが…。」
幹雄がそう言うと間髪入れずに櫻が口を挟み
「だが我々が見たブロッサムと思われるあの犬の姿がどうにも気になってな。こうして沙羅に来てもらった訳だ。」
と言って沙羅を見た。
「で、あたしは回りくどい事は好きでは無いんで結果から先に聞きたいんだが、そこに居るらしいブロッサム…そいつはどういう類のモノだい?」
その櫻の言葉を聞き、美咲がハッとする。
「櫻さん、この子は悪い子じゃありません!」
「憑かれている本人が言っても意味が無い。こういうのは第三者の意見が必要な事なんだ。」
美咲の言葉をやや冷たげに諭す。
二人の間に流れる微妙な空気に、その場に居た面々が不安な表情を浮かべると、沙羅が口を挟んだ。
「この子の言う通り、その子犬は悪いモノではない…というより、もうそういう段階の話では無くなっていますよ。」
「ん?どういう事だい?」
いまいち言っている事の要領を得ない櫻は、間の抜けた声で聞き返す。
「この子…美咲ちゃんとこの子犬は、既に魂の部分で繋がっているような状態です。美咲ちゃんには何か心当たりがあると思いますが?」
問われて記憶を辿ると、思い当たる事は初めてブロッサムを撫でようとした時の感覚だ。その出来事からの思い当たる部分を説明する。
「その数度の接触でお互いの魂が結びつき、今では美咲ちゃんの一部と言ってもよい程に馴染んでいるのです。これは最早、守護霊や式と言っても良い存在になっています。それが証拠に、先程美咲ちゃんは姿の見えない位置から子犬の存在を認知し、撫でていましたね。」
言われて初めてその事に気付くと
「そういえば…。」
と、口に手を当てて驚く。
「でも、そんな何度か触れたくらいでそんな事って…有り得るんですか?」
大樹が興味深そうに質問をした。
「これは本当に珍しい事ですが、有り得ない話ではありません。そう、何がしかの縁がもたらした運命…としか言い様がありません。」
「運命…。」
その言葉に美咲が俯く。
「それじゃぁ、美咲が倒れた原因は?いくら疲労が溜まっていたとはいえ、顔色はそれ程悪いものでもなかったのに、いきなり倒れるなんて…それにあの時のブロッサムの豹変もだ。あれが美咲の昏倒と無関係とは思えんのだが?」
「お話を伺った限りでは、成犬の姿になって突然姿を現したと。恐らくそれは美咲ちゃんがブロッサムを実体化、成長、瞬間移動をさせるといった事に力を注ぎ込み過ぎた事で一度に体力を消耗したせいでしょう。」
「瞬間移動…?成長…?美咲はそんな事まで出来るのか?」
「えぇ。現に今このベッドの脇に居るブロッサムは子犬の姿。でも美咲ちゃんがまた力を注ぎ込めば成犬の姿にする事も、触れずとも姿を見せる事も出来るようになる筈です。」
「だがその度に美咲が倒れるようでは使わせる訳にはいかん。下手をすれば身体や命に関わる。」
「今回倒れたのは力の加減をせずに、無意識的に咄嗟に呼び出した為でしょう。」
幼い姿の櫻をつま先から頭までゆっくりと見て
「櫻さんにも経験がある筈ですが?」
微笑む沙羅。その態度に櫻は過去の無鉄砲を思い出し少々恥ずかし気にムっとした。
「美咲ちゃん、これからまた皆に心配をかけたくなければ、力の加減を覚えてくださいね?」
優しい声で諭されると、美咲も何となく気恥ずかしく顔を赤らめ
「はい…。」
と小さく頷いた。と思うと、少しの間を置き
「あの、さっき運命って言いましたよね。」
突然美咲は顔を上げ沙羅に問い掛ける。
「運命って本当にあるんですか?それなら、私が捨てられた事や、百合香ちゃんが家族と別れる事になってしまった事も、最初から決まっていた事なんですか?これから先も…。」
堰を切ったように胸の内にあった言葉が溢れる。その様子を驚くように見ていた面々の前で沙羅が手の平を突き出し、言葉を遮った。
「運命はあります。けれどもそれは、未来が決まっているという事ではありません。運命とは、起こった事、既に確定した出来事に過ぎません。未来は未知数で不安定で、行動の数だけ変化するもの。未来を選ぶ事を恐れたり諦めたりはしないでください。」
言葉一つ一つが想いを込めて美咲に向けられる。それを理解してか、美咲はそれ以上何も聞く事はせず、息を飲むと頷いた。
「それにしても、霊ですか…随分とオカルトな話になりましたね。」
腕を組んでそう言う幹雄に対して
「いえ、それを言うなら僕たちが使う超能力だって十分オカルトと呼ばれる類なんですけど…。」
大樹が突っ込みを入れると、
「そうですね。霊能力も、超能力の一種と言えるのかもしれません。」
沙羅はその言葉に静かに頷いて見せるのだった。
「さて。折角来てもらったのに美咲を視てもらっただけとあっては勿体無い。何なら何泊かして行くかい?」
場の空気を変えるように陽気な声で櫻が提案するが、
「いえ、お勤めがありますので、あまり長居をするつもりはありません。折角のご好意ですが申し訳ありません。」
丁寧に頭を下げられ断られては、いくら押しの強い櫻でも無理強いは出来ない。
「そうか…それなら土産くらいは受け取って行ってくれんか。」
そう言って幹雄を見る。
「確か日本酒の良いのが手付かずであったよな?あれを持たせてやってくれ。」
「分かりました。それでは一足先に事務所に戻って用意をしておきます。」
頷き、幹雄は病院を後にした。
それから暫くの間、櫻と沙羅の世間話を中心に残った面々が語らい時間が過ぎる。
「美咲ちゃんは今晩一晩検査入院って事になってるから、ゆっくり休んでね。」
「明日の昼頃に迎えに来るからね。チェリーの世話は幹雄さんに任せて安心してお休み。」
稲穂と大樹も美咲の容態を気にしつつも病室から出て行くと、
「病院の朝食に味は期待するなよ?」
と茶化して櫻も続き、
「それでは、お大事に…。また会う事もあるでしょう。」
沙羅も会釈をして姿を消した。
一気に静寂に包まれた病室で再びベッドへ横になり天井を見る。
(またみんなに迷惑かけちゃった…。)
大きな溜息をついて目を閉じる。そのまま数度の深呼吸をすると、まだ抜けきらない疲労からか、深い眠りへと落ちていった。
翌朝。
出てきた食事はご飯に味噌汁、焼き魚と葉物野菜のサラダ、それにパックの牛乳だ。
普段美咲が朝食として食べているものよりラインナップは豪勢なのだが、如何せん盛り付けが少なく素っ気ないのが難点だ。
口に運ぶと一般的な食事に比べてやはり薄味なのは否めないが、櫻に『味は期待するな』と言われて覚悟していたよりは十分に美味しい。ついつい食が進み、ぱくぱくと平らげてしまった。
美咲と繋がっている存在だからなのか、ベッドの横に座っているブロッサムも心なしか満足しているように見える。
食事を終えてベッドの上で天気の良い外の景色を眺めていると、
《美咲ちゃん!入院したってどういう事なの!?大丈夫!?》
突然元気なテレパシーが飛んできた。相手は勿論百合香だ。
《あ、百合香ちゃん、おはよう。》
《あ、うん、おはよう…じゃなくて!》
《うん、大丈夫だよ。ちょっと色々あって倒れちゃったみたいなんだけど、一晩ゆっくりしたらもう全然平気。》
《う~…それで、いつ退院出来るの?》
《今日のお昼頃に大樹さんが迎えに来るって言ってたから、多分そのくらいかなぁ?今日は学校お休みしちゃうと思う。ごめんね?》
《そんな、謝る必要なんか無いって!ゆっくり休んで元気になってね!》
《うん、ありがとう。詳しい事は後で話すね。心配してくれて嬉しかった。またね。》
《うん、それじゃまたね~。》
詳しくは聞かない百合香の気遣いを感じながら再びベッドに横たわる。
(う~ん、する事が無いって何か困っちゃうなぁ…。)
そんな様子を察してブロッサムが美咲の胸の上に乗ると、自然な流れのように抱きかかえる。美咲にしか感じられないふわふわの毛の感触が気持ちを落ち着けてくれた。
魂で繋がっている、いわば自身の一部と言ってもよい存在だが、それでいて別個の存在でもある不思議な一人と一匹。きっと生涯離れる事は無いだろうという不思議な確信を感じるのだった。
その後結局ベッドの上でブロッサムとのんびりして過ごし、昼過ぎに大樹と稲穂の迎えで退院となった。
帰りの車内で今回の依頼の話になる。
何でも犯人の男は学生時代にサッカー・バスケットボール・ラグビーを経験し、大会のレギュラーメンバーに選ばれる程だったそうだ。
「幹雄さんへのフェイントや逃げ足の早さは、そうやって鍛えられたものだったって訳ね。」
「そんな経歴があるならもっとマシな活かし方は無かったものかねぇ…。」
稲穂と大樹は呆れた声で感想を漏らした。
犯行の動機は元々金銭目当てでは無く、自身の能力を持て余した犯人が自分の自尊心を満たす為に弱者を脅かすという、ちっぽけで身勝手な考えからだった。
その自慢の足をブロッサムに深々と噛まれ、縛り上げられ逃げる事も敵わない状態で幹雄に担がれ近くの交番に運ばれ、御用となった。
「結局のところ、決め手はブロッサムの…美咲ちゃんの力ね。倒れる前の事だったけど、あまり記憶にないかな?」
助手席から稲穂が振り返り後部座席の美咲を見る。
「はい…あの時どうしてブロッサムを呼んだのかも、よく解りませんし…。」
俯く美咲をバックミラー越しに見ていた大樹が
「別に責めている訳じゃないんだから、そんなに申し訳なさそうにしないでよ。」
そう言いながらウィンカーを点けると、近くのファミリーレストランへと入った。
「あれ?真っ直ぐ帰るんじゃないんですか?」
てっきり桜荘へ向かっていたと思っていた美咲は驚きの声を上げてしまう。
「ふふ、美咲ちゃんお昼まだでしょ?私達もなの。どうせだから外で食べちゃいましょ。」
確かに朝の少ない食事だけで昼を過ぎた時間に、健康な子供が空腹を覚えるのは当然で、美咲も例に漏れずだ。
「勿論、大樹さんの奢りよ。」
にっこりと微笑む稲穂に大樹が苦笑いで応えた。
「あはは…。」
そんなやり取りに、一気に『いつも通り』を感じ、美咲も気が楽になった。
店内に入ると、昼食時を少し過ぎた平日という事で、そこまでの混雑は無くすんなりと席に通された。
各々がメニュー表を眺める中で、美咲が沢山あるメニューに目移りしているのを見て、大樹と稲穂は微笑ましく思う。
注文を終えると、品物が出てくるまでの間に稲穂が美咲に声をかけた。
「ねぇ美咲ちゃん、ブロッサムって今ここに居るのかしら?」
その質問の意図を考えた美咲は『ハッ』として
「あ、動物が入って来ちゃ駄目ですよね…どうしよう?」
慌てて席を立とうとする。
「あぁ、そういう意味じゃないのよ。それに…。」
慌てる美咲を制して小声で言葉を続ける。
「幽霊が居たって誰も判らないでしょ?」
そう言われて『それもそうか』と今更な認識をする美咲。それも仕方なく、美咲にとってブロッサムは普通に生きている子犬と同じような認識なのだ。
「あ、そうですね…。えぇと、ブロッサムは今ここに居ます。」
と、小声で自分の頭の上を指差した。
「えぇ?重くないのかい?」
大樹が驚きと呆れの混ざった声を上げる。
聞かれて初めて
「あ、そういえば、重さはあまり感じない…のかな?でも触ってる感じはちゃんとあるんです。…不思議ですね?」
唇に指を当てて首を傾げる美咲。
「う~ん、本当に不思議な存在ねぇ…。まぁそれはそれとして、ブロッサムは何か食べたりするのかな?って思って聞いてみたのよ。」
「いえ、食べる事は無いと思います。」
思いの外キッパリとした答えに稲穂が驚いた。
「それは、幽霊だから物理的干渉が無い、とかいう事なのかな?」
大樹が興味深げに聞いてくるが
「?よく分かりませんけど、私が食事をするとブロッサムも喜ぶっていうか、元気になるっていうか…ごめんなさい。上手く説明出来なくて…。」
申し訳なさそうに言われては大樹も追求は出来ない。
「いや、今ので大体の想像は出来るから問題無いよ。沙羅さんも言っていたけど、恐らくブロッサムが居るこの状態は超能力の一つと考えて良いんだ。霊とテレパシーが繋いだ特殊な例だと思う。」
また始まった…という顔で稲穂が呆れている。
「そして超能力を使うには多少なり体力を使う。その消耗を補う為の食事な訳だから、美咲ちゃん本人が体力を回復すれば自ずとブロッサムの栄養補給に繋がるという事だね。だからブロッサム自身の食事は不要。そしてそれを美咲ちゃんは感覚で理解していた訳だ。」
早口に推論を述べる大樹に稲穂と美咲は呆れ笑いを浮かべたが、程なくして注文した料理が出てくるとやっと大樹の口が止まる。
大樹はチキンステーキセット、稲穂はボロネーゼとベーコンサラダ、そして美咲は目玉焼きハンバーグランチだ。
「いただきます。」
大樹と稲穂に軽く頭を下げて行儀よく食事を始める美咲。その小学四年生とは思えない出来た様子に、見守る二人は少々複雑な表情だ。
しかしハンバーグを一口、『ぱくっ』と口に含むと、美咲の表情が目に見えて子供の笑顔になる。
「美咲ちゃん、ひょっとして今ブロッサム、尻尾振ってない?」
笑顔で聞く稲穂の顔を驚きの表情で見る美咲。指摘された通りブロッサムはパタパタと尻尾を振っていた。
「え!?見えてますか!?」
慌てて頭の上を手で隠し周囲を見回すが、自身に視線が集まっていない事を確認するとホッと安堵の息を漏らした。
「ごめんね、驚かせちゃって。何となくそんな風に思っただけで別に見えては居ないわ。」
『フフッ』と笑ってパスタを巻くと、口元へ運ぶ。たったそれだけの所作だが、その大人の女性の動きに美咲は目を奪われた。そしてその横で大きく切り出したチキンステーキを豪快に口に運ぶ大樹には、同学年の男子と同じものを感じたのだった。
食事を終えて会計を済ませると店を出る。
「ごちそうさまでした。ありがとうございます。」
大樹に礼をする美咲。
「いやいや、そんな畏まらないでよ。僕は美咲ちゃんが喜んでくれる事なら何だってするよ?」
そう言って笑う大樹の脇腹を肘でつついて
「何?あんたまさかロリコンに目覚めたんじゃないでしょうね?」
稲穂が冗談交じりに耳打ちする。
「ははは、まさか。僕も稲穂さんと同じ気持ちなだけですよ。」
その返しに稲穂の顔が紅潮すると
「もう…。」
恥ずかし気にもう一発、少し強めの肘打ちを見舞った。
そんな様子を首を傾げて眺める美咲。ブロッサムも頭の上で首を傾げていた。
その後、桜荘事務所へ戻った美咲は、櫻と幹雄、それに何故か居た百合香に迎えられると勢揃いで、快復祝いと言う名の小さなお茶会が始まった。
「たった一日入院しただけなのに…。」
と戸惑う美咲だったが、皆が自分の心配をしてくれた事は素直に嬉しく、終始笑顔が絶えなかった。
今回の事の顛末を百合香に話しながら、チェリーとブロッサムを膝に乗せ、皆に囲まれ、幸せな現在を強く実感する美咲であった。
相変わらず文章力・語彙力共に無く、自分の描きたいものを上手く表現出来ないのが悔やまれます。
因みに依頼料は所長のポケットマネーから出しています。公金ではありません。




