EP 6
慰安旅行から帰って翌日。
パッチリと目を覚ました美咲はチェリーの位置を確認すると静かに身体を起こし、洗面所で顔を洗う。
テキパキと昨日の洗濯物を干してから朝食の用意をしていると、その香りに誘われるようにチェリーもリビングに姿を現した。
「おはよう。」
と笑顔を向けると、チェリーもそれに『にゃ』と応える。
チェリーの餌皿にザラザラと朝食を入れると、チェリーがそれを食べ始めるのを確認してから自分も食卓に着き、
「いただきます。」
小さく手を合わせて食べ始める。
食後は手際良く食器を洗い、火の元の確認をすると身なりを整え、チェリーを肩に乗せると意気揚々と部屋を出た。
(今日からまたお仕事!頑張らなくちゃ!)
その気持ちを応援するかのように空は青く澄み渡り、太陽は眩しい日差しを注いでいた。
「あ~、昨日はああ言ったもののな…実は今日まで仕事は休ませてもらうと周知させていたものだから、多分今日は仕事無いぞ。」
元気いっぱいに事務所へ顔を出した美咲に申し訳無さそうに櫻が口を開いた。
「え…?」
笑顔のまま固まる美咲の肩からチェリーがしなやかな身のこなしで事務所の中へ下りる。
「まぁ休みの事を知らない人の依頼が来る可能性も否定は出来ませんが、そういう人は大体この『桜荘』の存在を知りませんからね。」
櫻へコーヒーを差し出しながら幹雄が付け足す。
そういえば周囲を見てみると大樹と稲穂の姿が無い。
「あの二人には昨夜の内にその事を伝えてあったからね。お前さんは先に部屋に戻ってしまったもんだから伝えるのが遅くなってしまったんだ、スマン。」
両手を顔の前で合わせ謝罪の言葉を述べる櫻。
「…いえ、櫻さんが謝る事では無いですから。」
我に返った美咲が申し訳なさそうに言うと、
「一応お客さんが来るかもしれないのなら、取り敢えず制服に着替えておきますね。」
そう言って稲穂ルームへ姿を消した。
「やれやれ。ここで休むと言わない辺り、相変わらずだねぇ…。」
呆れながらも半ばその性格を認め、小さな溜息をつく櫻。
「良い所は認め伸ばし、欠点は周囲の者で補う。人間なんてそれで良いと思いますよ。」
幹雄が事務机の前に座ると、椅子をギシリとしならせながら、
「さてさて、こちらはSNSで旅館の情報をそれとなく広めていきませんとね。」
そう言ってパソコンのキーボードをカタカタと叩き始めた。
「あまり露骨な売り込みみたいな事はするなよ?」
「勿論、解っていますよ。」
そんな事を言っていると稲穂ルームの扉が再び開き、制服に着替えた美咲が姿を見せる。
薄手の生地を使い、半袖に少し丈を短くしたスカートの夏服仕様のエプロンドレス。夏休み前に稲穂が仕上げ、衣装部屋へ置いておいた物だ。色も従来の白黒だけでは無く、所々に薄い水色のシースルー生地を用いた涼しげな配色である。
「おぉ、これは可愛らしい。よく似合ってますよ。」
「うん、流石は稲穂と言うべきか。」
二人に褒められ、美咲は顔を赤らめてスカートをギュっと握り俯いてしまう。
余り褒めても逆効果と察した櫻。
「さて美咲。折角お前さんがやる気を持て余してる事だし、ここは一つ、約一週間ぶりの事務所掃除をお願いしよう。」
言われて顔を上げる美咲。
確かに見回してみるとたった一週間足らずにも拘らず、薄らとした埃がそこかしこに見受けられた。
仕事を与えられ、美咲の表情が明るくなる。
「はい。」
その声も明るく返事を返すと再び奥の部屋へ姿を消し、掃除道具を取り出してきた。
その手に持っていたハンディモップを見た櫻。
「ん、待て。美咲、お前さんひょっとしてまだ念動力が残っているかい?」
そう言って美咲を制止する。
「え?どうでしょう?」
唇に指を添えて少し首を傾げると、試しにと手にしたモップに意識を向けて手を離した。
するとそれは微動だにせず空中に静止している。
「あ、まだ残ってるみたいですね。」
事も無げに言う美咲。しかし櫻と幹雄はその特異性に驚きを隠せない。
二人が見守る中を美咲が念動力でモップを操りながら事務所の中を掃除していく。
「凄いです。今まで背伸びしたり長い柄を使わないといけなかった所の掃除が凄く簡単に出来ます。」
能力の有無よりもその便利さに感動する美咲。
「…ひょっとして、あたしの読心術も残ってるのかい?」
その質問を受けてモップを静かに床に置いてから意識を離し、
「どうなんでしょう?私に移った読心術は人の心を読む程では無いみたいだったので、今試すのは難しいかも…?」
と困惑気味だ。
「だがチェリー相手なら解るんだろう?」
そう言われて
「あ、そうですね。」
ポンと手を叩く。
「チェリー、おいで~。」
そう言って両手を広げると、何処に隠れていたのか『トトトト…』と姿を現したチェリーが美咲の胸へ飛び込む。
「ねぇチェリー?私に何かお願いとか、あるかな?」
チェリーに向けて小首を傾げ質問をする。
すると
「う~ん、おやつはまた今度ね。」
と困った顔を浮かべた。どうやら読心術も健在の様子。
その様子を見ていた櫻が考える。
(複数の能力を、しかもこれだけの間保持していられるとは…どれだけの能力を同時に身につけていられる?どれだけの時間それが残っている?)
難しい顔で腕組みをし、『う~ん』と唸る櫻。
「そういえば、あたしと幹雄の能力以外にはコピーを試していないのかい?」
そう問われると
「あ、楓さんの千里眼を試してみたんですけど…。」
と海辺での事の顛末を軽く説明する。
するとその話を聞いて少し考えた幹雄が
「美咲ちゃん。その時ブロッサムは何処に居ましたか?」
と不意に疑問を投げかけた。
「え?」
突然の質問に少々困惑するが
「いつも通り頭の上に…。」
そう言いかけた時に『ハッ』と思い立つ。
「あ、ひょっとして…?」
思い立つと、美咲にしか見えないブロッサムを頭の上から床へ下ろし、千里眼の感覚を思い出す。
すると、美咲の意識に自分を見上げる視界が映ったではないか。
驚きの表情で幹雄を振り向き、
「見えました!ブロッサムが見てる私が!」
と美咲にしては珍しい、興奮したような大きな声で嬉しそうに報告をする。
その報告を聞いた幹雄も、自らの仮説が正しかった事に嬉しそうな表情を浮かべた。
「ふむ、原理や理屈は全く解らんが、千里眼の能力はブロッサムに一任されているという事なのか?」
「恐らくはそうなのでしょうね。美咲ちゃんの能力は今までに例を見ないものばかりなので、様々な角度から観察していかないと色々と見落としがあるかもしれませんねぇ。」
恐らくはブロッサムを通じて色々な場所を見て居るのであろう美咲を眺めながら、櫻と幹雄は改めて美咲の特異性に感心した。
「そうだ、折角使い方も判った事だし、そのままブロッサムが何処まで離れられるか試してみたらどうだい?」
櫻が案を出す。
元々ブロッサムは美咲の目の届く範囲しか行動する事が無かったが、それは美咲の認識の範囲から外れる事が出来ないからでは無いかと思われていた。
それをブロッサム自身が認識の範囲を広げる存在となった事で、行動範囲が格段に広がるかもしれないという仮説が出来る。
「はい、やってみますね。」
美咲は素直な返事を返すと、事務所の裏口まで歩き扉を開ける。
「そういえば、ブロッサムは霊体のようなものだと思うんだが…壁をすり抜けたりは出来ないのかい?」
「はい、何でか生き物は通り抜けるのに建物は通り抜ける事が出来ないんですよね。不思議です。」
唇に指を当てて首を傾げる。
「となると、取り敢えず障害物が無い辺りに行ってみるのが良いかね。美咲、適当な場所までブロッサムを歩かせてみな。」
言われるがままにブロッサムを裏口から見送ると、美咲は事務所内のソファーに座りブロッサムの視界に意識を向ける。
ブロッサムは普段美咲が意識する事も無く別個の意思で行動をするが、美咲がそれと意識した時には二人は一人の存在のように美咲の意思で動く。
そして今、ブロッサムの視界を得てブロッサムの身体を歩かせる美咲は、まさに子犬の感覚で町を歩き始めていた。
(わぁ…地面が凄く近い。チェリーもいつもこんな感じに見てるのかな?)
そんな事を考えながらいつもの商店街の通りを抜け、何となしに通い慣れた学校への道を進む。
川の音と夏草の香りが感じられる校門前を通り、通い慣れた展望公園へと山を上る。
(あ、匂いも音も判るんだ。)
通い慣れた道を新鮮な感覚で進むと、開けた公園へと出る。普段でも開放的な気持ちになる公園の自然が、子犬の視点では更に雄大に感じられ美咲の胸に感動をもたらした。
(あぁ、いつもブロッサムが楽しそうに走り回るの、解るなぁ。)
そんな風に思える程に、その景色は普段の、建物に囲まれた世界とは一線を画していた。
一先ずいつものようにベンチへ向かうと、ひょいと飛び乗り町を見下ろす。
吹き抜ける風の香りを感じながらそのまま辺りをぐるりと見回し、草木のざわめきや小鳥の囀りに耳を傾けていると
《やっほー美咲ちゃん。今から桜荘に遊びに行ってもいいかな?》
百合香からのテレパシーに一気に意識を引き戻され、気付くとブロッサムも美咲の頭の上に戻って来ていた。
《あ、百合香ちゃんおはよう。うん、今日はお仕事無いみたいだから来ても大丈夫だと思うよ。》
少々突然の事に心臓の鼓動が早ったが、平静に返事をすると
《うん分かった!それじゃ今から行くね~。》
という元気な声が頭の中に響く。
クスっと笑うと、
「あの、今から百合香ちゃんが遊びに来るみたいですけど、大丈夫…ですよね?」
咄嗟に返事を返してしまった事で確認をしなかった為、少々申し訳なさ気に幹雄に訪ねた。
「えぇ勿論大丈夫ですよ。」
にこりと微笑み幹雄が頷くと
「で、ブロッサムの千里眼のテストは上手く行ったのかい?」
と櫻。
「あ、はい。」
そう言うと美咲は今経験した事を櫻と幹雄に聞かせる。
「…ほう。なかなか面白いね。」
櫻がニヤリとした笑みを浮かべると
「櫻さん、妙な悪戯に美咲ちゃんを巻き込んだりしないでくださいよ?」
と幹雄に釘を刺された。
そんな二人の様子に微笑みを浮かべていた美咲だが
「あ、そういえばお掃除の途中でした。」
両手をパンと叩き思い出すと慌ててソファーから立ち上がった。
「いや待て美咲。」
櫻が制止する。
「?」
動きを止めて首を傾げる美咲。
「折角なんだ、能力の使い方の練習をしようじゃないか。」
「?さっきみたいにモップを念動力で動かすんですか?」
「あぁ、それに更に加えて、美咲はそのソファーに座ったまま、千里眼を使って部屋の中を見てモップがけをしてみよう。」
櫻の提案に上手く出来るか不安な美咲であったが、
「はい、やってみますね。」
そう言って再びソファーに座り、小さく深呼吸をすると身体を落ち着かせる。
念動力によるモップの保持と千里眼の為のブロッサムへの意識、両方をバランス良く行わなくてはならない。
心の準備を整え終えると気を引き締めモップに念動力を向けた。
ふわりとモップが宙に浮くと、櫻と幹雄もそれを見守る。
見事に空中で静止し微動だにしないソレを見て、能力の働きにブレが無い事が見て取れた。
次にブロッサムに意識を分け、頭の上から下ろす。
一瞬、宙に浮いたモップが揺らいだものの、再びその安定性を取り戻すと見守る二人から小さな息が漏れた。
そこからは実に安定したモップ捌きで部屋の中の埃を取り除いていくではないか。
時々棚の上の小物にブロッサムが引っかかったりしているのか、カタカタと揺らす事はあったものの、大方のモップがけを無事完了させた。
モップを優しく手元まで戻すと、美咲は『ふぅ』と息を吐き、大きく胸を上下させた。
「流石に疲れたかい?」
櫻が心配げに聞くと
「はい…でも、能力を使って疲れたって言うか、緊張で疲れた感じです。」
と微笑む。
その様子に安堵しながらも
「そうか。それじゃ、その能力がいつまで保持されているかは解らんが、これから事務所に居る時には色々と練習をする事にしようか。」
そう言ってモップを拾い上げると、それを片付けに奥の部屋へ姿を消した。
「あ…。」
手を伸ばそうとするが
「お疲れ様です。どうぞ。」
横から差し出されたジュースにその手を遮られた。
コップを両手で受け取り、
「あ、ありがとうございます。」
礼を言う美咲に幹雄は笑顔を返す。
「それにしても、初めてで二つの能力を同時に使いこなすとは器用だねぇ。」
奥の部屋から戻って来た櫻が感心したように言う。
「櫻さん、出来ると踏んでやらせたんじゃないんですか?」
呆れた様子の幹雄。
「いや、確証は無かったが出来るとは思っていた。子狸達とのやり取りを見た時のアレは、テレパシーと読心術を切り替えながら使ってるようには見えなかったからね。恐らく最低でも二つの能力は同時に使えると思った訳さ。」
そう言い、コーヒーカップに目を向けると中身は既に飲み干していた事に気付く。
「美咲、済まんがコーヒーを入れてくれるかい?」
「はい。あ、能力を使ってですか?」
「いや、流石にコーヒーはまだ危ない気がするから普通にやっとくれ。」
そんなやり取りもありながら、美咲の能力練習は一先ず終了となった。
少しの間、事務所のソファーに座り身体を休めていると
「美咲ちゃん、来たよ~。」
元気な声と共に裏口が開き、百合香が姿を現した。
「あ、百合香ちゃんいらっしゃい。」
すっと立ち上がり百合香の元へパタパタと歩み寄る美咲。
「わぁ、制服、夏服になったんだね。可愛い。」
「うん。稲穂さんが旅行前に作って置いておいてくれたみたい。凄く着心地も良くて涼しいの。」
そう言ってくるりと身を翻し一回転して見せると、水色のシースルー生地が配されたスカートが涼しげな水面のようにふわりと舞う。
時の流れがゆっくりになったかのように百合香がその光景に見とれていると
「美咲ちゃん、百合香ちゃん、お菓子とジュースを奥の部屋へ用意しておきましたので、そちらでゆっくりしてください。」
と言う幹雄の声で我に返った。
「え、あ。ありがとうございます。」
慌ててお礼を言う百合香にクスリと微笑む美咲。
「ありがとうございます、幹雄さん。」
両手を揃えお辞儀をすると、
「百合香ちゃん、行こ。」
と言って百合香の手を取り、談話室へと向かった。
「やれやれ、昨日の今日で直ぐに遊びに来るとは、余程美咲と一緒に居たいのかね。」
呆れる櫻。
「昨日の今日『だから』一緒に居たいのでは無いですか?五日も一緒に居れば、突然隣りに居なくなるのは淋しいものでしょう。仲が良いなら尚更に。」
「まぁ、そうかもしれんね…。」
幹雄の言葉に何かを想うように天井を見上げ呟いた。
談話室。主に所員が事務所に詰めつつも仕事が無い時に暇を潰す場所であるが、チェリーや、たまに遊びに来る百合香にもお馴染みのスペースとなっている。
「あのね、朝コンビニに行った時に小夜ちゃんに会ったんだけど…。」
百合香が幹雄の用意してくれたケーキにフォークを入れながら話し始めた。
「小夜ちゃん?っていうか、何で朝からコンビニに?」
水島小夜。美咲と百合香のクラスメイトで、オカッパ頭と丸い眼鏡が特徴的だ。
趣味はオカルトなのだが、霊感がまったく無いのか、その手の経験は皆無らしい。
「うん、旅行に行くからって家の冷蔵庫の中身殆ど空っぽにしちゃってて、ジュースが無かったからちょっと買い物にね。」
そう言ってジュースの入ったコップを手にとりストローを咥えると、『チュー』という音を立てて吸い込む。
「それでね。小夜ちゃんから面白そうな話を聞いたの。」
「へぇ。どんな話?」
「それがね。いつも行く展望公園あるでしょ?あそこの入り口よりもっと山の方に別の入り口があって、そこから奥に行くとちょっとしたお堂があるんだけど…。」
テーブルの上に指を這わせ、見えない地図に道をなぞる。
「そのお堂ってもう随分前から荒れ放題で、肝試しとかでしか行く人が居ないのね。だけど最近、そのお堂に夜になると薄暗い明かりが灯ってるのが見えるんだって…そしてその明かりの中にゆらゆらと揺れる影が…。」
話の途中から何故か怪談話でもするかのように両手を下げ言葉にもおどろおどろしさを加えて来た。
「え?それって…。」
美咲が何かを言おうとするが、その言葉を遮り
「それでね。早速今晩肝試しに行ってみよう!って事になったの!」
百合香がテーブルの向かいからグイっと身を乗り出し顔を近付ける。
「えぇ…?今晩って突然だね。」
困惑する美咲。
「うん、突然だからあたしと美咲ちゃんと小夜ちゃんだけなんだけどね。」
当然のように美咲も数に入れられていた。
するとそこに
「こらこら、そんな夜中に子供達だけで外出なんて許さんぞ。」
と櫻が顔を覗かせた。
「え~。子供だけだから楽しいんじゃん!」
百合香が素直な反論をすると
「まぁその気持ちは解らんでも無いがね。だが今のご時世物騒なモンだ。せめて功刀か楓を保護者にでもせんと、あたしは認めないからね。」
と、眼光鋭く百合香を睨んだ。
その、自分より小さい身体とは思えない迫力に気圧されると、百合香も渋々『はい』と小さく呟き肩を竦める。
「う~…それじゃぁ…功刀兄ぃにでも頼んでみる…。」
不満気に口を尖らせながらもケーキを口に運ぶ手が止まる事は無かった。
そんな様子をクスリと笑い、百合香の頬についたクリームを指で掬い取ると美咲はそのまま自らの口へ運び、ぺろりと舐める。
「それじゃ、後で功刀さんにお願いに行こ?それで櫻さんに許して貰おう?」
そう微笑む美咲に、指の触れた頬にそっと手を添え、顔を赤らめながら百合香はコクコクと頷くばかりであった。
「まぁそういう事なら、今日はもう大丈夫だからソレ食べ終えたら早々に功刀に許可を貰って来な。」
その光景に両手を腰に添えた櫻が呆れ気味に言う。
「え?良いんですか?」
「あぁ。大体、功刀だって直前になって言われても困るだろう。こういうのは事前に相手の都合も考えて許可を得ておくもんだよ。いくら兄妹だろうと、そういうのはキチンとしておかないとね。」
そう言って百合香を見据えると、自身に身勝手な甘えがあった事を自覚した百合香は肩を竦めて反省するのだった。
おやつを食べ終えると、美咲が空いた食器類をまとめて、談話室の更に奥にある給湯室へ持って行く。
手早く皿とコップを洗い終えると
「ちょっと待っててね。」
と百合香に声をかけ稲穂ルームへ入って行った。
百合香が微妙にソワソワしながら待っていると、時間にして一~二分。稲穂ルームの扉が開き、中からいつものワンピース姿の美咲が姿を現した。
「百合香ちゃん、お待たせ。それじゃ櫻さん、行って来ますね。幹雄さん、チェリーをお願いします。」
そう言うと美咲は裏口で靴を履き、とんとんと爪先を鳴らす。
「あぁ。車に気をつけてな。」
櫻が小さく手を振り見送ると、二人は楽しげに事務所を出て行った。
「ふふ、ああいう所は矢張り子供だねぇ。」
「別に背伸びをしたり無理をしている訳では無いのでしょうが、周りが大人だらけの事務所では無意識に子供心を殺してしまっているのでしょうね。」
「まぁまだこれから長い人生だ。いつかその内に、肩の力の抜き方も覚えていくだろうさ。」
そう言って再び事務所のソファーに腰を下ろすと、既に冷めたコーヒーに口を付け一息を入れた。
「ところで、どうして功刀さんなの?」
「ん~?だって功刀兄ぃの方が歳が近いから。」
道を歩きながら美咲の素朴な疑問に、いまいち理屈の解らない答えを返す。
「ひょっとして功刀兄ぃだと嫌?」
「ううん、そんな事は無いよ!」
美咲は慌てて手を振り全力で否定する。
確かに美咲は功刀の事が少々苦手ではあるが、嫌っている訳では無い。むしろ出来るならば仲良くなりたいと思っては居るのだが、功刀にそのつもりが無いように思えてしまうのだ。
「それに、楓兄ぃだと千里眼で正体が簡単に判っちゃうでしょ?それじゃ折角の肝試しが面白く無いもん。」
そう言われると『確かに』と思ったものの
(楓さんならそこは判ってても言わないんじゃないかな?)
と心の中で突っ込みを入れる美咲。
そんなたわいない話をしていると百合香の家へ到着した。
「ただいま~。ほら上がって上がって。」
「おじゃまします。」
二人が家の中へ入ると、
「あらお帰り。美咲ちゃんもいらっしゃい。」
と出迎えたのは百合香の母、鷹乃だ。
「あ、鷹乃さん、こんにちは。おじゃまします。」
礼儀正しく頭を下げる美咲。
「ほんとにお行儀良いわね。でもそんなに畏まらないで良いのよ。もっと気楽に遊びに来てね。」
にこにこと微笑み鷹乃は台所へと姿を消した。
「さ、それじゃ早速功刀兄ぃにお願いしに行こ。」
そう言うと百合香は美咲の手を取り二階へ上がる。
階段を上がると横に二つ、奥の突き当たりに一つの扉が有り、その一番手前が功刀の部屋だ。
「功刀兄ぃ、居る~?」
コンコンとノックをすると
「あ~?何だ?」
と気だるそうな返事が返って来た。
「居るみたい。」
美咲を見て頷くと
「入るよ~。」
言うが早いかノブを回し、ガチャリと扉を開けた。
「何だよ?遊びに行ったんじゃなかったのか?」
ベッドの上に仰向けになり漫画を読んでいた功刀が顔だけを横に向け部屋の入り口を見る。
すると、そこには百合香と、その隣に居るのはまさかの美咲。
一瞬、時間が止まったかの如くの静寂。
即座に部屋の中へ目を向けると、そこは決して綺麗に片付いているとは言えない空間だ。
「お、お前何で!?」
慌てて起き上がるが声が上ずる。
「あ、おじゃまします。あの、今日はお願いがあって…。」
両手を揃えて会釈をする美咲。
「美咲ちゃん、功刀兄ぃにまでそんな丁寧に挨拶しなくても大丈夫だよ…。」
百合香が呆れて言うと
「おい、何だその俺の扱いは…。」
ムっとした功刀が呟く。だがそのやり取りによって功刀の一応の平静が取り戻されたのだった。
「それで?俺に頼みって何だよ。」
ベッドに胡座で座り、床のクッションに正座する美咲と百合香を見下ろす。
美咲にはそれが少々威圧的に感じ、声を出す事が躊躇われたが、百合香は特に何も物怖じする事なく話を始めた。
「あのね、実は…。」
朝から今までの経緯を説明すると
「へぇ、面白そうじゃん。いいぜ、保護者役受けてやるよ。」
思いの外すんなりと了承を得た事に美咲が内心驚く。
(もっと嫌な顔されると思った…。)
そんな美咲の考えを察してか、
《ね?何も心配無かったでしょ?》
とテレパシーで語りかけるとウィンクして見せた。
「んで?用はそれだけか?」
「うん、ありがと。」
功刀と百合香のやりとりを目で追う美咲。
「それじゃ、あたしの部屋に行こ。」
百合香はそう言って立ち上がると美咲の手を引き、功刀の部屋を出て行く。
足音が遠ざかって行き、百合香の部屋の扉が閉まる音を確認した功刀は大きく息を吐き出した。
自分の部屋に妹以外の女子が来るなど夢にも思っていなかった功刀は、その間中緊張に身体を強ばらせていたのだが、その為に美咲に余計な威圧感を与えていたとは本人の知る処では無かった。
百合香の部屋は階段を上った廊下の突き当たりにある。
ウキウキしながら美咲を部屋へ通すと、ベッドの上にあったクッションを床に置き、二人は思い思いの場所に座る。
するとそこへ、ジュースとお菓子を持って鷹乃が姿を現した。
「はい美咲ちゃん。百合香も。」
そう言ってお盆を二人の間に置くと、
「ありがとうございます。」
と美咲が会釈をする。
「どういたしまして。それで今日は何かあったの?功刀の部屋に行ってたみたいだけど。」
音で判断でもしているのか、行動は把握されていたようだ。
美咲と百合香は顔を見合わせると、今晩の予定について打ち明けた。
「…はぁ。あなた達、そういう事を子供だけで決めちゃ駄目よ?小夜ちゃんのご両親だって心配するわ。」
呆れる鷹乃。
「でも言い出したのは小夜ちゃんだし、櫻ちゃんは功刀兄ぃが保護者をやれば許すって言ってくれたよ?」
怒られている事に気付かない百合香は思った事を素直に口に出す。
(櫻さん…。)
額に手を添え小さく溜息をつく。
「まぁ、そういう事なら私は止めないけどね?」
少し言葉を溜めると
「でもパパにはそれ言っちゃ駄目よ?絶対に止められるからね。」
と指を突き出し念を押すのだった。
「はぁ~い。」
明るい笑顔で返事をする百合香に、鷹乃もやれやれという風に微笑みを返すと
「それじゃ美咲ちゃん、ゆっくりしていってね。」
と言葉を残して部屋を出て行った。
一階へ戻る途中、鷹乃は功刀の部屋の扉をノックすると返事を待たずに開け、顔を覗かせる。
「功刀、あなた安請け合いしたみたいだけど、百合香に何かあったらお父さん怖いわよ?気をつけなさいね?」
そう言い残して扉を閉じた。
血の気の引いた功刀は気を引き締め、夜に向けて仮眠を取る事にするのだった。
「ところで美咲ちゃんは、何で功刀兄ぃが苦手なの?」
お菓子を口に運びながら百合香が疑問を口にした。
唐突な質問に答えを頭の中で整理すると、チラリと部屋の扉に目を向けた。
「大丈夫だよ。間には楓兄ぃの部屋があるから声が聞こえたりはしないよ。」
意図を察した百合香が太鼓判を押す。
『うん』と頷いて見せる百合香を信頼する美咲。
「私、声の大きい男の人がちょっと苦手で…。」
少し俯きながら理由を話し始めた。
「功刀さん、私に何かイライラしてるみたいだし…。」
『うんうん』と頷きながら美咲の言い分を大人しく聞く百合香。
「私と話す時に、目を見てくれないから、嫌われてるのかなって。」
そこまで聞いて百合香の頷きが止まる。
(あ~、美咲ちゃんて信頼してる人相手だとお話する時に目をジーっと見るもんね…。功刀兄ぃの性格じゃアレは耐えられないかもね~…。)
そんな事を思いながらも素直な想いを打ち明けてくれる美咲に百合香は笑顔が絶えない。
「あのね美咲ちゃん、前にも言ったけど、功刀兄ぃは別に美咲ちゃんが嫌いな訳じゃないよ?声が大きいのは言いたい事をはっきり伝える為だし、イライラして見えるのは…まぁいつもだから気にしないで。」
(目を見ない事は美咲ちゃんに意識されると嫌だし黙ってよっと。)
と微笑んで誤魔化し、美咲の不安を取り除く。
美咲も百合香から流れてくる気遣いの想いを感じ取ると、それに報いるように笑顔を返した。
暫し百合香の部屋で漫画を読んだり雑談をして過ごし、夕方近くになると美咲は一旦家へ戻る。
事務所からチェリーを引き取り、玄関の鍵を開け中へ入ると手洗いを済ませてテキパキと夕食の準備を始めた。
夕食を終え、一通りの片付けを終えると宿題をして時間を潰す。傍らではチェリーが玩具にじゃれて転げまわっていた。
少しすると百合香からテレパシーが届く。
《美咲ちゃん、そろそろそっちに着くよ~。》
《うん、解った。今出るね。》
返事をし、チェリーに留守番を頼むといそいそと外へ出た。
夏とは言え既に辺りは暗い時間。手にした懐中電灯をカチカチとチェックしながら事務所脇で立ち尽くしていると、程なくして百合香と功刀がやって来た。
「お待たせ、美咲ちゃん。」
言うが早いか美咲の腕に抱き付く百合香。
その声に気付いた櫻が事務所の窓から顔を覗かせると、功刀と目が合う。
「おぉ、功刀。よく引き受けたな。」
「まぁ別に、断る理由も無かったしな。」
何となく気恥かしそうに頬を掻く。
そんな様子に何かを察した櫻は小さく笑みを零すと、
「そうかい。それじゃ、ちゃんと年下を護っておくれよ。」
そう言って手をひらひらとさせ、顔を引っ込めると窓を閉めた。
「なんか、本当に功刀兄ぃに来てもらったら簡単に許してくれたね?」
百合香が美咲に引っ付いたまま窓を見上げて呟いた。
美咲達が集合予定の小学校前へ向かうと、校門前に人影が見えた。
「あ、居た居た。おーい、小夜ちゃーん。」
「あ、百合香ちゃん。美咲ちゃんも来てくれたんだ。ありがとう。」
その人影は小夜だ。白と紺のボーダーTシャツにデニムのジャンスカ姿で、互いに手を振り小走りに駆け寄る。
そこで小夜が功刀の存在に気付くと
「えっと…この人は?」
と百合香に耳打ちした。
「コレはあたしのお兄ちゃんの功刀兄ぃ。今晩の事を大人に聞かれちゃって、誰か保護者が居ないと許さないって言われちゃって仕方なく来てもらったの。」
少し唇を尖らせて説明をする。
「へぇ、お兄さんなんだ。言われてみれば似てる…かも?」
気を利かせたつもりなのか、本当にそう思ったのか、血の繋がりが無い事を知らない小夜は何の気なしに言う。
だがその言葉に
「え~?何処が?」
と言う百合香の声は、何処か嬉しそうだった。
「それじゃ早速行こ!」
小夜が元気よく出発の号令を発すると、小夜を先頭に美咲と百合香が並び、その後を功刀が見守る隊列となる。
だが展望公園入り口を過ぎた辺りから、山の木々の深さが増してくると小夜は腰が引けたのか、いつのまにやら美咲と百合香の後ろに隠れるように歩いていた。
「そういえば小夜ちゃん。」
軽く振り返りながら百合香が声をかける。
「朝妃ちゃんと夕輝ちゃんは誘わなかったの?」
「うん、朝ちゃんと夕ちゃんにも声はかけたんだけど、夜遅くに外に出ると親に怒られちゃうって断られちゃったんだ。」
海原朝妃と和泉夕輝。水島小夜と合わせ、いつも一緒の仲良し三人組だ。趣味は全員バラバラなのに何故か気が合うらしい。
そんな話を聞き、功刀は
(そいつらが来なくて良かったぜ…ここに更に二人も増えたら居心地悪くてバックレてたかもな。)
などと心の中で安堵していた。
そんな話に気を紛らわせながら歩いていると、いよいよ例のお堂に通じる道の入り口が見えて来た。
美咲も普段公園の入り口までは良く来るものの、そこから更に上った事は無かった為に初めての場所だ。
公園の入り口も木々によって目立たなかったが、こちらは更に枝葉が伸びており判り辛い。
入り口で美咲達三人が立ち止まる。
美咲の表情は普段と変わらないものの、百合香と小夜は明らかに恐怖心が浮かんでいた。
「おい、お前ら行かないのか?」
功刀が背後から声をかけると、その声にすらビクッと反応する二人。
そんな様子を見かねて小さく溜息をつくと、
「ったく…そんなんで良くお前らだけで来ようと思ってたな…。」
と頭を掻き、美咲達の前へ歩み出ると、伸びた枝葉を手で避けながら先導するように道へ分け入った。
入り口の枝を潜ると、意外な事に道自体は普通に歩ける程度に開けていた。地面も元々がお堂への参道だった為か所々を丸太で補強してあり、木々の根が張り出している以外には歩き辛い所も少ない。
功刀が念の為に周囲を見回していると、何やら視線を感じ振り向いた。
するとそこには後に続いて入って来た美咲の姿が。
どうやら功刀の行動を見守っていたようだが、その真っ直ぐな視線に耐え切れず功刀はすぐに顔を逸らすのだった。
いつの間にやら美咲の手を握っていた百合香と、その後に続く小夜もようやく入り口を潜り、一同が揃った所で今度は功刀が先頭になり先へ進む事となった。
時折吹く風に森が騒めく度に百合香と小夜は小さく身を震わせ歩みを止める。
しかし恐怖からか口数は異様に少なく、ほぼ無言の歩みが続いた。
一方美咲はと言えば、森の中に感じる独特の空気を堪能していた。しかしそんな中に微かに混じる匂いに眉尻を下げる。
「美咲ちゃん、どうかしたの?」
美咲の様子には敏感な百合香が小さな声で問うと
「ううん、何でもない。」
と笑顔を作る。
百合香はそれが作り笑顔だと見抜いていたが、美咲がそういう事をするのは気遣いだと察して深くは聞こうとしなかった。
それから暫しの道中には、鳥の声や道を横切る野生動物等のビックリポイントが存在はしたものの、特にハプニングも無く目的のお堂が見えて来た。
それは確かに苔むして柱のあちこちが緑色になっており、長い年月使われていないように見える。雨戸も締め切られていた。
だがその隙間から確かに薄らと明かりが漏れているのが見える。
息を呑む一同。
功刀が三人を振り返り、懐中電灯を下ろすように手で合図すると、皆も無言で頷きそれに従う。
功刀は自分を指し、次いでお堂を指す。先ずは自分が様子を見てくるというジェスチャーだ。皆それに同意すると『コクコク』と頷いて返事をし、それを受けて功刀がそろりとお堂へ近付いた。
物音を立てないように慎重に雨戸に手を添え、隙間から中を覗き込む。
するとそこに見えたのは、恐らく高校生くらいの集団だ。
わざわざ持参したのか、お堂に放置されていたのであろう蝋燭立てに蝋燭を灯し、更に懐中電灯等で明かりを確保している。
お菓子や漫画等を持ち寄り、ハメを外す為に秘密基地のように使っているのだろう。
(まぁこんなこったろうと思ったけどよ。)
そう思いつつ、更に中の様子を見ると
(だけどコレはアイツ等に見せる訳には行かないな…どうやって誤魔化すか。)
そんな考えを巡らせながら向ける視線の先に有る物。それは、高校生が嗜むべきでは無い嗜好品や、子供に見せるべきでは無い雑誌の数々。
功刀がそんな葛藤をしているとは思わずにその様子を見守る美咲と、その美咲に抱き付くように身を寄せる百合香。その後ろに隠れるようにしていた小夜であったが、突然その肩に強い力がかかり、思わず『きゃぁ!』と声を上げてしまった。
その声に振り向く美咲と百合香。そして功刀。
するとそこには、片手にコンビニの買い物袋を下げた男が小夜の肩を強く掴みつつも困惑した表情を見せ立っていた。
そして今度は背にしたお堂の雨戸が開き、中に居た者達がぞろぞろと姿を現し、『なんだ?』『どうした?』と言いながらも美咲達を包囲し始める。
直ぐ傍に居た功刀も捕まりそうになったものの、既のところで身を躱し美咲と百合香に合流する。
「何だコイツら?」
男達の一人がそう言いながら功刀達をジロジロと見る。
「ハッ。大方肝試しって処か?」
「女三人連れて『いいとこ見せてやるぜ~』ってか?ガキの癖にマセてんなぁ?」
周りの男達もからかうように言うと、功刀の顔が瞬く間に紅潮していく。
《功刀兄ぃ、落ち着いて!まず小夜ちゃんを何とかしないと!》
百合香の声に大きく息を吐いて気持ちを落ち着ける功刀。だがその拳は強く握られている。
功刀は周囲の状況を目で見回す。男達の人数は全部で八人。米の字状に取り囲まれてしまっているうえに来た道には小夜を捕らえた男が立ち塞がる。
小夜は肩を強く掴まれているとは言え、その気になれば身をよじり逃げ出す事も可能ではある筈なのだが、恐怖に足が震え身動きが取れないようだ。
「ところでコイツらどうする?中見られたみたいだぜ?」
「チクられるのも面倒だしな…ちょっと痛い目見てもらって口塞いどくか。」
周囲から聞こえる不穏な言葉。
功刀が身構え、その背に美咲と百合香が互いを庇い合うように身を寄せ合う。
その美咲の身体は小さく震えていた。美咲にとって恐ろしいのは夜の闇でも幽霊でもなく、悪意のある人間なのだ。その中でも特に暴力的な男性にはトラウマを持つ。
だがテレパシーで助けを呼ぶ事をしないのは、保護者として了承してくれた功刀に迷惑をかけない為であり、そこには信頼も恐らくあった。
(…楓ならこんな連中簡単にノシちまうんだろうけど…まず俺に出来る事で百合香のダチを何とかしないとだな…。)
包囲網の距離が徐々に狭まる中で手を考える。
するとその時、
『ショー…』
小さな水音が聞こえた。
「うわ、コイツ漏らしやがった!」
小夜の肩を掴んでいた男が声を上げ、慌てて放すと距離を取った。
その隙を見逃さず、功刀がダッシュでその男の腹部目掛けて渾身の頭突きを食らわせる。男は手に持っていたビニール袋を落とすと、その腹を押さえ蹲ってしまった。
頭に残る衝撃をこらえながら、
「おい、大丈夫か?逃げれるか!?」
そう小夜に問い掛ける功刀。美咲と百合香も駆け寄るが、腰が抜けてしまったのか小夜は足元に出来た水溜りも気に止める事も出来ずにヘタリ込み、嗚咽を漏らすのみであった。
そんな中で仲間をやられた事に怒った男達は、二人がかりで功刀に飛びかかり両腕を抑えると、リーダー格と思われる男がすかさずその頬に拳を叩き込む。
『ゴッ』と鈍い音が美咲達の耳にも届く。だが功刀は唸り声一つ上げずに目の前の男を睨んだ。
「何だコイツ?生意気な目しやがって。」
今度は腹部に打ち込まれる拳。
これには流石に『ウッ』と声が漏れてしまうが、それでも反抗的な目つきは変わらない。
男達も悪ぶっては居ても結局は単なる不良高校生に過ぎず、余り酷い怪我を負わせるつもりは無かった。
しかしリーダー格の男は、その立場上周囲で見守る者達への示しとして引く訳にも行かず、更に暴行を重ねる事を余儀なくされる。
二発、三発と拳を打ち込む度に、気後れからかその威力は徐々に落ちていった。
残りの男達に囲まれ、何も出来ずにその光景を見守るしかない美咲達。
その時、生ぬるくも一際強い一陣の風が森を吹き抜け、周囲の木々を大きくザワめかせた。
何か不気味なものを感じた一同は思わず周囲に目を向ける。
その時、辺りにポツポツと明かりが灯りだしたではないか。
それは明らかに何の土台も釣り糸も無い、宙に浮く火の玉。不自然な現象であった。
「な、何だこれ?人魂!?」
周囲の男達が慌て怯え始めている。
何が起きているのかと驚きに目を見開いた美咲の脳内に、百合香の声が響く。
《あれ、功刀兄ぃの超能力だよ!》
その声に視線を功刀に向けると、それに気付いたのか、功刀も視線を合わせる。
そしてその瞬間、
《俺の考えに気付いてくれ!》
ハッキリと功刀の意思が言葉として伝わってきた。そして同時に美咲に流れ込む思考。
それに応えるように小さく頷いてみせると、功刀は驚きの表情を浮かべたが、その中には希望も溢れたように見えた。
美咲が意識を集中する。
周囲の男達が出ては消える火球に翻弄されていると、その中に突如大型犬の影が浮かび上がった。
それもまた宙に浮き、薄らと透けているように見える。
その影が低く唸り声を上げると、美咲達の周囲から男達の悲鳴が上がった。
それは美咲が念動力を使い空へと持ち上げたブロッサムであった。功刀のアイディアにより霊体と実体の間の状態に出来ないかという行き当たりばったりを実行してみたが、繊細な能力加減によって何とか実現出来たのだった。
功刀を押さえつけていた男達、そしてリーダー格の男もその光景に魂を抜かれたかのように呆然とする。
宙を飛ぶように動くブロッサムに功刀が火球を追随させると、それはさも犬の霊が人魂を従えているかのように見えた。
そうして周囲の男達を一箇所に追い立てるように唸り、吠え、噛み付く仕草をすると、男達は不良という小さなプライドをかなぐり捨てて逃走を始めた。
だがリーダー格の男だけは最後の意地なのか、その場に残ると
「ナメるんじゃねぇー!」
と自分に気合を入れる為の大声を上げ、拳を振り上げブロッサムに殴りかかったではないか。
しかしその拳が当たる直前にブロッサムはその視界から消え、次の瞬間には背後に現れ再び唸り声を上げる。
そんな何度かの空振りを繰り返すものの、男が諦める素振りが無い。と言うよりは混乱と恐怖からただ只管に目の前の影を振り払おうとしているだけのようだ。
困惑した美咲が功刀を見つめると、その表情から察したのか、肩を竦めて『やれやれ』といった素振りを見せ、渾身の力を込めて目の前の半狂乱の男の鳩尾に下から抉るように拳を打ち込んだ。
ブロッサム以外目に入らなくなっていた男は簡単にその拳を受けると、腹部を押さえて地面に膝を着く。
呼吸がままならず目からは涙が滲み、口からは涎が溢れる。
そこにとどめとばかりに功刀の火球が取り囲み、ブロッサムが男の顔面目掛けて大きく口を開けると、男は声にならない悲鳴を漏らし気を失ったのだった。
危機を脱した事で火球とブロッサムの姿が消える。
「おい、大丈夫か?」
功刀が美咲達の元へ歩み寄ると、腰を抜かし言葉も無く目の前の出来事を見ていた小夜に声をかけた。
だが小夜はその現実に理解が追いつかないのか、意識はあるようなのだが半ば自失しており返事が無い。
小夜の両脇で心配そうに肩に手を添える美咲と百合香を見ても、声をかけては居るが反応が薄いようだ。
そこに出来た水溜りを見て溜息をつくと
(しょうがねぇか…。)
と意を決し
「おい、お前ら。こいつは俺が背負うから、俺の背中に乗せろ。」
と小夜の前に背を向けしゃがみこんだ。
「え?でも…。」
美咲が言い淀むが
「いいから早くしろよ。コイツが起きても知らねぇぞ。」
そう言って顎でノビている男を指すと、美咲もそれが怖いのか言われる通りに小夜の腋に首を通し、百合香と共に両脇から支え功刀の背に預ける。
ぐっしょりと濡れたスカートが背中に当たるも、それを嫌な顔一つせずにしっかりと背負い、立ち上がる。
「よし、早い処ずらかるぞ。」
まるで悪事を働いた後のように言うと、功刀は先頭になって小走りに走り出した。
倒れたままの男を振り返る美咲であったが、
「美咲ちゃん、早く行こ!」
と百合香に手を引かれてその場を離れるのだった。
桜荘事務所。
ソファーに身を預けていた櫻と稲穂が意識を取り戻すと、大きく安堵の息を吐いた。
「やれやれ、功刀はもうちょっとスマートに出来んもんかねぇ。」
「でも私達の出る幕が無くて本当に良かったですよ。」
そんな二人の言葉に見守っていた幹雄と大樹も察し、ホっと溜息をつく。
「さて、またこんな夜中に迷惑電話をかけなきゃならんか…。所長には世話をかけっぱなしだねぇ。」
そう言って電話を取り出すと手馴れた操作で履歴からコールする。
「あ~、所長かい?済まないね、またこんな夜中に。なに、ちょっと悪ガキの補導を頼みたくてね…。」
こうして美咲達の預かり知らぬ処で一つの案件が片付いていたのだった。
小学校校門前まで戻って来た美咲達。
功刀の歩みに揺られていた小夜がやっと我を取り戻すと、その状況を認識し一気に体温が上昇した。
「あ、あの。」
功刀の耳元で小さな声を出す。
「ん?気がついたのか。」
素っ気ない返事。その歩みも止まる事は無い。
「あの、下ろしてください…一人で歩けますから…。」
恥ずかし気に言葉を続けるが、
「無理すんな。まだ震えてるぞ。」
そう言われてハッと手を見る。
確かに自分では気付かない震えが続いていた。
「で、でも、汚れちゃう…。」
自分の粗相に泣き出しそうになりながら、震える声で訴える。
「んなもん今更気にする事じゃねぇだろ。」
少し下がった小夜の身体を背負いなおすように両腿を支える腕に力を入れ直し、しっかりと掴む。まだ水気を含んだスカートがグシュっと音を立てるが、それでも嫌な顔一つしない。
(とは言え、この状態で家に帰らせるのもマズいか…ウチに連れてって…いや、それもマズい…どうする?)
そんな事を考え無言になっている功刀。
しかしその思慮を巡らせるような横顔に、小夜の目は奪われ、鼓動は高まっていた。
自然と功刀に掴まる腕に力が入る。
「そうそう、素直に厚意は受けとけ。」
「はい…ありがとうございます…。」
そこから暫くは無言のままであったが、小夜にとってその間には計り知れない程の新鮮な感情が生まれていたのだった。
結局功刀の考えの纏まらぬままに桜荘の前まで到着してしまった。
すると美咲が
「小夜ちゃん、私のお家でお風呂入って行って?」
と提案する。
「え?」
突然の申し出に困惑する小夜。
学校ではそれなりに話をする仲ではあるが、美咲は余り他人に自分の事を話さない。美咲の家の事も聞いた事がなければ、こうして学校外で行動を共にしたのも初めての事であった。
その美咲が自らこんな事を言い出したのだから、驚くのも当然であった。
「そのままだと帰れないでしょ?服も下着も洗濯して乾燥機を使えば一時間くらいで済むから、ね?」
その言葉に他の選択肢を思いつかなかった小夜が
「うん。ありがとう。」
と礼を言うと、功刀の背からそっと下りる。
功刀の背の温もりが薄れていく胸に名残惜しそうに両手を添える。
「あ、あたしも美咲ちゃんの部屋に寄って行くから、功刀兄ぃは先に帰って大丈夫だよ。」
「あぁ?んな事したら俺が父さんに殺されるっつーの。いいからお前は一緒に帰るんだよ。」
百合香の手を引き功刀が歩き出す。
「あの。」
小夜がその背に声をかけると
「今日はありがとうございました。」
そう言って頭を下げた。
「あぁ。」
功刀は軽く手を上げ応えると、文句を垂れる百合香を引き摺り遠ざかって行く。美咲と小夜はその姿が暗闇に消えるまで見送るのだった。
何でも屋『桜荘』の裏手に建つアパート『桜荘』。
その二階の一番奥の部屋。その前に立ち、ポケットから鍵を取り出すと『ガチャリ』と音を立ててロックを外し扉を開ける。
「さぁ、どうぞ。入って。」
美咲に促されるままに玄関に入ると、小夜は自分の知る『家』とは違う感覚を覚えた。
(どうしてこんな時間なのに美咲ちゃんが鍵を持ってるの?お家の人…居ないのかな?)
そんな事を考えていると、美咲が靴を脱ぎ、向きを揃えた。
その玄関には美咲の靴しか無かった。いや、靴だけではない。傘や帽子、雨具等も一人分しか見当たらない。
「…美咲ちゃん、ひょっとして、ここに一人で住んでるの?」
恐る恐る、聞いてはいけない事を聞くかのように口を開く。
「…うん。ちょっと事情があって…。」
困ったように眉尻を下げた笑顔で答える美咲。
その表情に、小夜もそれ以上は何も聞けない空気を感じた。
美咲が先導するように明かりを点けながら奥へ向かう。
「おじゃましま~す…。」
小夜もそれに続いておずおずと上がると、
「チェリー、ただいま~。」
と明るい声が奥から聞こえてきた。
(誰か居るの?)
ひょっこりと顔を覗かせると、部屋の奥から真っ黒な影が飛び出して来たではないか。
お堂で見た影を思い出し、思わず身構える小夜。
しかしその姿は小さく、クリっとした瞳が愛らしい猫であった。
一気に緊張が解けると、力が抜けリビングの柱にもたれかかる。
「あ、まだ立ってるの辛い?ごめんね、今お風呂用意するから少しそこで休んでて。」
美咲がパタパタと浴室へ姿を消す。そんな様子を見送ると、何かが足に触れた。
驚きにその足を上げると、そこに居たのは先程の黒猫。チェリーだ。
小夜を見上げ匂いを嗅いで『にゃ』と小さく鳴くと、そそくさと奥の部屋へ姿を消した。
(あ、ひょっとして、おしっこの匂い…?)
顔を赤くしてお堂での事を思い返す。
怪談話のような噂は単に不良の溜まり場だった。しかし、その後にあったあの出来事は果たして現実だったのだろうか?例え現実だったとしても、余りにも実感が沸かない光景だった。
小夜はオカルト好きではあるが、今まで一度たりともそのような体験をした事が無い。故に、未知との遭遇には強い憧れがあった。
その折角の初遭遇を、不良達のせいで堪能出来なかった事に今更に強い憤りを感じると共に、大勢の前でおもらしをしてしまった事を恥じ…そして功刀の横顔を思い出し頬を染める。
熱くなった頬を両手で冷ますように顔を覆うと、浴室へ向かった美咲が戻って来た。
「お待たせ。お風呂の準備出来たから、入っちゃって。」
優しい微笑みで小夜の背に手を添えて脱衣所へ誘導する美咲。
「あ、ありがと…。」
流されるままに脱衣所へ入ると扉を閉め、汚れた衣服を脱ぐ。
自身の尿と泥で汚れたジャンスカを摘まみ上げ、自分の粗相を改めて認識すると、大きく溜息をついた。
浴室からシャワーの音が聞こえて来ると、美咲は脱衣所へ入り、タオルと着替えを用意し、脱ぎ捨てられた衣服を拾い上げる。
一番汚れの酷いジャンスカを先ずは洗面台で大まかに洗い、パンツ、靴下、Tシャツも汚れをチェック。問題無しとして洗濯機へ入れると乾燥までの全自動のスイッチを入れた。
ダイニングのいつも食事をする時に座る椅子に座り、あまり点ける事のないテレビの電源を入れると、さして興味の無い番組を何となく眺めながら時間を潰す。
少しすると浴室の扉の開く音が聞こえた。
脱衣所に顔を覗かせる美咲。
「今お洗濯してるから、終わるまでそれ着てて?」
そう言って用意しておいた洋服を指差す。それは美咲のワンピースだ。
「パンツは、小夜ちゃん私のを穿くのちょっと嫌かなって思ったから、乾くまで我慢してね?」
言う事だけを伝えると、手をヒラヒラと小さく振って見せ扉を閉めた。
普段学校で見る美咲は余り自分から積極的に他者に関わる性格に見えなかった為、小夜は呆気にとられながら言われるままに用意された服に袖を通すのだった。
脱衣所から小夜が出てきたが、何処か恥ずかしそうにしている。
「どうしたの?」
美咲が不思議に思い声をかけると
「あたし、こういう服あまり着ないから何か恥ずかしいな。」
スカートをつまみ上げて照れる。
「何も恥ずかしく無いよ。似合ってるよ。」
普段見ない小夜の姿に美咲の声は明るい。
(そっか、稲穂さんもこんな気持ちで私に衣装を作ってるのかな。)
そんな事を考える。
「あ、そこにでも座ってて。」
美咲は対面の椅子を指すと立ち上がり、冷蔵庫からジュースを取り出し、二人分の飲み物を用意した。
「あ、ありがとう。」
差し出されたコップを受け取り礼を言う。
「あの、美咲ちゃん。」
「ん?」
「どうしてお風呂貸してくれたの?いつもは美咲ちゃん、お家の事も家族の事も何も言わないし、余り知られたく無いみたいだったのに。」
コップを口に当てたままで疑問を口にする。
美咲は唇に指を添えて少々答えを整理すると
「お家の事は、ちょっと複雑だし人に話しても面白く無い事だから…。」
困った笑顔を浮かべ、それ以上は言わない。
「お風呂に誘ったのは、それが一番かなって思ったから、かな。」
「一番?」
「小夜ちゃんが真っ直ぐ帰っちゃったら、あの格好にご両親が心配するでしょ?だけど百合香ちゃんのお家に行っても、百合香ちゃんのご両親にバレたらやっぱり大変だし、保護者を引き受けてくれた功刀さんにも迷惑かけちゃうから。」
その言葉に小夜はコクコクと頷き納得を示す。
「でも私のお家なら私しか居ないから大人の人にバレる事も無いし、…帰りが少し遅くなっちゃうから、やっぱり少しは心配はかけちゃうかもだけど…これならって思って。」
美咲としては大人に内緒の『良く無い事』をしていると感じるのか、少しバツが悪そうに笑った。
小夜も美咲の言い分に納得したのかそれ以上は深く追求せず、その後はテレビを見ながら番組内容に突っ込みを入れつつ美咲と談笑をして時間が過ぎた。
『ピピー』と脱衣所から音が聞こえた。
「あ、終わったみたい。もうちょっと待っててね。」
美咲が席を立ち脱衣所へ向かう。
「え?もう乾いたんじゃないの?」
小夜が美咲の後を追い脱衣所へ向かうと、手早く取り込んだ洋服を持って美咲が出て来た。
危うくぶつかる所だった小夜がよろける。
「あ、ごめんね。」
「ううん、こっちこそごめん。」
そう言いつつ美咲の持つ洋服を見ると、微妙に湿っているようではあるが着るには十分に乾いている。
「それ、もう着れるんじゃないの?」
洋服を指差す小夜。
「うん、でもこんなにシワだらけだと怪しまれちゃうから。」
と言うと、ダイニングから更に奥、美咲の自室へ向かい、アイロンとアイロン台を用意する。
そして手際良くTシャツ、ジャンスカ、パンツまでも綺麗にシワを伸ばして見せると、
「うん、綺麗になった。」
と満足そうに広げて見せた。
「靴下はちょっと、乾き難くて履くのは気持ち悪いかも…。」
申し訳無さそうに言う美咲に
「ううん、いいよ、ここまでしてくれただけで十分だよ!ありがとう!」
小夜は慌てて礼を言う。
普段母親に全て任せている小夜にとって、同い年でありながら洗濯からアイロンがけまで手際良くこなす美咲に感心しっぱなしだ。
「それじゃ、着替えてくるね。」
洋服を受け取り脱衣所へ向かう小夜。
着替えを終え、元の服装へ戻ると現実に戻ったかのように思い起こす先程の醜態。
「あ、あのね、美咲ちゃん…。」
口に出す事も恥ずかしいが、言わずには居られない。
「お漏らしした事、誰にも内緒にしてくれる…?」
今更ながらに俯き、顔を赤らめての懇願。
そんな誰かに言いふらす等、露程も思わなかった美咲は呆気に取られるが、
「大丈夫だよ。私も百合香ちゃんも、功刀さんだってそんな事誰かに言ったりしないよ。」
と自信を持って断言し、
「それに、私もこっちに引っ越してくる少し前に怖い事があって、しちゃったんだ。お漏らし。だから仲間だね。」
そう言って『内緒』と唇に人差し指を添えて笑った。
「一人で大丈夫?良かったら送るよ?」
桜荘の前で美咲が心配そうに声をかける。
「大丈夫だよ。ここからなら学校に行くより近いから。」
そう言って自宅方向を指差し
「今日はありがとう。」
と手を振り、歩き出す。
美咲も手を振り返し、小夜の姿が見えなくなるまで見送った。
帰り道の途中、小夜はフと思う。
(そういえば美咲ちゃん達、あの犬のオバケに全然驚いてなかった気がするけど…見えてなかったのかな…?)
そんな事を考えながらも、今更に『凄いものを見た』という実感が湧いてきたのか、その足取りはウキウキとして軽かった。
部屋へ戻った美咲は着替えを用意すると衣服を脱ぎ浴室へ入る。
シャワーで汚れを落とし、ぬるま湯を張った浴槽に身を沈めると、今晩の出来事を振り返った。
(あの時、功刀さんの考えが読み取れたの、やっぱり櫻さんの読心術なのかな?でもあんなにハッキリ聞こえるなんて初めてだった…どうしてだろ?)
天井を見上げながら考えを巡らせるが、理由は解らない。
「う~ん、解んないや。」
独り言を呟き両手を上に上げ身体を伸ばすと、立ち上がり浴槽を出る。
髪と身体を洗うとパジャマに着替え、冷蔵庫からジュースを取り出し先程使ったコップに注ぐ。
自室へ入ると机に向かい、飛び乗って来たチェリーを膝に乗せたまま宿題を始める。
少し前には怖い目に遭った事も、こうして日常に忙殺される事で気持ちをリセット出来る。
当然心の底からと言う訳では無いが、表面上は平常を保てる。美咲の長所だ。
そうして時間が過ぎ、時計を見る。
(あ、もうこんな時間。明日からまたお仕事だし、早く寝なきゃ。)
「チェリー。」
膝の上で丸くなり寝息を立てていたチェリーに優しく声をかけ小さく揺すると、チェリーは手足を大きく伸ばして床に下りた。
その様子に微笑みを向け、
「ちょっと待っててね。」
と席を離れると、自分の使ったコップと小夜の使ったコップを洗い、歯磨きと、火の元のチェックも怠らずに済ませる。
美咲がベッドへ横たわると、チェリーも美咲の頭の横に位置取り丸くなる。
「おやすみ。」
チェリーをひと撫でして照明を消すと、思いの外疲れがあったのだろう。ほんの僅かの間に深い眠りに落ちたのだった。




