EP 5-6
いよいよ慰安旅行最終日。
穏やかな波音と小鳥の囀りが今日も良い天気である事を知らせる。
パチリと目を開くと、そのまま顔を横に向ける。
隣りには、胸の上にチェリーを乗せ、重さにうなされる百合香。
その光景に呆れながらも微かに笑うと、繋いだままの手を優しく解き、身を起こしてチェリーを抱き寄せた。
『にゃ~』
居心地良い場所だったのか、その場から引き離された事に不満の声を漏らす。
「ダメだよ。百合香ちゃんが苦しそうだったでしょ?」
額と額をくっつけて小さな声で叱る。
すると、その僅かな声にピクリと反応した百合香が薄らと目を開けた。
「あ…美咲ちゃん…おはよう…。」
まだ眠そうに喉から声を絞り出すと、のそりと起き上がり美咲の顔を見つつも、未だ夢の中のように『えへへ』と微笑んだ。
美咲もその表情に応えるように微笑み返すと、朝の挨拶となった頬への口づけを交わす。
「おはよう。」
優しい眼差しで微笑みかける美咲の声にやっと目が覚めた百合香。
「それじゃ着替えてくるから、また後でね。」
小さく手を振りチェリーを抱えて部屋を出て行く美咲を見送ると、百合香は頬に残る柔らかな唇の感触を閉じ込めるように手を添えて顔を緩ませるのだった。
美咲と百合香が着替えを済ませリビングへ顔を出すと、そこに居たのはテレビを見ている剛だけであった。
「パパおはよー。」
「おはようございます…あの、他の皆さんは?」
二人の声に顔を向けると
「おぉ、百合香。美咲ちゃんも、おはよう。」
にこやかに挨拶を返す。
「鷹乃さんと稲穂さんは今丁度キッチンに向かった所だよ。功刀はまだ起きて来ていないけど、楓は大樹君と砂浜の方で朝の稽古だ。」
その言葉を聞いて美咲が
「あ、それじゃ私もお手伝いに行って来ます。」
と踵を返しリビングを出て行く。
折角朝食までの間一緒にテレビを見て過ごそうと思っていた百合香は少々不満気に
「えぇ~…。」
と小さな声を漏らすが、僅かに考えを巡らせた後に美咲の後を追ってリビングを後にした。
残された剛は、父よりも友達を選んだ百合香に親離れの寂しさを感じながらも、再びテレビに目を向けるのだった。
「おはようございます。何かお手伝いする事はありますか?」
キッチンにひょっこりと顔を覗かせる美咲。その後に続いて百合香も顔を覗かせる。
「あら美咲ちゃん。百合香ちゃんも、おはよう。」
稲穂が顔だけを振り向かせ挨拶を返すと、
「おはよう。それじゃ美咲ちゃんにはお味噌汁を担当して貰おうかな?」
と鷹乃も、玉子焼きを作りながら視線を逸らさずに挨拶をする。
様子を見るに今日の朝食は和食のようだ。
稲穂は鮭の切り身を焼きつつ、ほうれん草のおひたしを作っている様子。
「はい、解りました。」
ハッキリと返事を返すと、美咲も既に出汁取りまでは済ませてある鍋に向かい調理を引き継ぐ。
取り残された百合香。
「ねぇ、あたしは何かする事無いの?」
少々拗ね気味に鷹乃に近付く。
「あら、手伝ってくれるの?ありがとう。う~ん…とは言っても今作ってるもので出来上がりだから…そうね、おかずのお皿を並べて、あとはおかずの盛り付けタイミングに合わせてご飯をよそってくれる?」
娘が自主的に手伝いを申し出た事が嬉しい鷹乃は声が明るくなる。
「うん、任せてよ!」
そんな想いを知ってか知らずか、百合香も明るい返事を返した。
その様子に美咲と稲穂も顔を見合わせて微笑むのだった。
朝食の準備が整うと、百合香のテレパシーで男性陣に声をかける。
少しすると皆が食堂へと集まってきた。
シャワーを浴びて来た楓に
「楓兄ぃ、今日は何でわざわざ海岸でやってたの?」
と百合香が問うと、
「昨日はうるさくて起こしてしまったみたいだからね。」
爽やかな笑顔で百合香の頭をポンポンとしながら答えた。
どうやら昨日の朝の百合香のテレパシーを、安眠妨害による文句だと思っている様子。
気を使わせてしまって少し申し訳無いと思ったが、不機嫌の本当の理由を言うに言えず顔を赤らめるだけの百合香であった。
朝食を済ませて男性陣に食器の後片付けを任せると、女性陣は掃除道具の準備に取り掛かる。
すると外から低音の響くエンジン音が聞こえてきた。
何事かと窓際に集まる女性陣。するとそこに来たのは昨夜旅館の駐車場で見た赤いスポーツカーだ。
そしてその中から降りて来たのは櫻と幹雄、更に運転席から出てきたのは沙羅だ。
「え、えぇ~?あの車って沙羅さんのだったの…!?」
驚きの声を上げる百合香。他の面々も声にこそ出さないものの一様に驚きの表情を浮かべていた。
それはそうだろう。年齢より若く見えるとは言え、高齢の、しかも霊能者という世俗から離れた存在の人物がまさかという他無い。
「送ってくれて助かったよ、ありがとう。」
「いえ、大した手間ではありません。私も出立の時間でしたので、お気になさらず。」
「それでは道中、お気を付けて。またお会いしましょう。」
三人の挨拶が窓越しに聞こえて来る。
その窓から眺めていた一同に沙羅が目線を向けると、小さく会釈をして軽く手を振り、車へと乗り込む。そしてそのまま別荘の敷地は静かに走ったかと思うと、姿が見えなくなり公道に出たのだろう辺りでエンジン音が響き、遠ざかって行った。
「意外ねぇ~。」
「そういえば私も沙羅さんの移動手段って知らなかったわ…。」
鷹乃と稲穂が感想を漏らすと、
「あいつは昔からモータースポーツが好きでな。あんな車を何台も乗り継いでるんだよ。」
そう言いながら櫻が入って来た。
「あ、櫻さん、幹雄さん、お帰りなさい。」
美咲の迎えの言葉に
「あぁ、ただいま。」
とにこやかに返事をすると
「どうやら朝食は済んだ所のようだね。」
用意された掃除道具をちらりと見て状況を把握する。
「はい、これから掃除をしようと思ったんですけど…手分けしてやるにしても道具が少なくて、特に掃除機が一台しか無いので何処から手をつけたものかと思ってたんですよね。」
確かに廊下は兎も角、各部屋はカーペット敷きになっており箒やモップを使う事は難しい。
それを聞いた櫻、
「うん、まぁ正直なところ、掃除とかは別荘の管理を任せている会社に丸投げでも良いんだがね。」
と何とも身も蓋もない事を、事も無げに言い出す。
そして辺りを見回し
「そういえば男共は?」
と聞く。
「あぁ、今朝食の後片付けをしてもらっています。私達はその間に掃除道具を用意してたんですけど。」
鷹乃の言葉に櫻が少し考えを巡らせる。
「ふぅん?男共もそれくらいはする甲斐性があったんだねぇ。」
ニヤニヤとしながらも櫻は感心とばかりに首を縦に振った。
「まぁ掃除って言ったのは、帰る準備やらで午前中に出来る事は少ないだろうと思って時間潰しと思って言っただけだからね。掃除道具もこれっぽっちだとは思ってなかったし、やらんでも良いだろう。」
用意された用具を見て把握していなかった自身に小さく溜息をつく。
「折角だ。泳ぐ訳でも無いが、昼まで皆で海風でも満喫しようじゃないか。」
そう言って幹雄に目配せすると、幹雄も了解と頷き部屋を出て行った。
男性陣が洗い物を終えてから皆が砂浜へ下りると、そこには既にパラソルやデッキチェアが用意され、昼食の下準備も完了していた。
「おぉ?昼はバーベキューか!」
そこに用意されていた用具一式を見て、功刀が明らかなハイテンションで声を上げる。
「えぇ。折角ですから、食材は出来るだけ食べきってしまおうと思いまして。」
準備を一通り終えた幹雄がクーラーボックスを大量にぶら下げてやって来た。
「幹雄さん、言ってくれれば手伝ったのに…。」
申し訳なさそうに剛が言うと、
「いえいえ、元々慰安旅行なのですから、むしろ手伝っていただいた事の分こちらが感謝したい程です。のんびりとしていてください。」
やんわりと断られてしまった。
「パパ、何かお手伝いしたっけ?ずっとテレビ見たりしてただけじゃない?」
百合香が遠慮の無いツッコミを入れると、
「まぁ、そうですね。帰りの運転もありますし、体力を温存させてもらいしょう。」
と話題をはぐらかし、笑って誤魔化すのだった。
波打ち際ではしゃぐ美咲と百合香を眺めながら、大人達もパラソルの下で心地よい海風を浴び、何もしない有意義を楽しむ。
「いや、本当にお前さん達には、あたしの都合で色々と手間をかけさせてしまって悪かったね。」
美咲達を見る目はそのままに、その場に居た者に聞こえる声で櫻が言う。
「本当は一週間皆にのんびりとして貰おうと思っての旅行だったのに、結局力を借りる事になってしまったのは反省するばかりだ。」
小さく溜息を漏らす。
「何言ってるんです。休息なら十分に取れましたし、メリハリがあって良かったってものですよ。何より一番大変な目に会ったのは櫻さんじゃないですか。」
大樹が朗らかに言葉を返すと
「そう言ってくれると助かるよ。ありがとう。」
と、皆に向き直り顔を綻ばせる櫻。
「何だよ櫻。変に素直で気持ち悪りぃな?」
功刀がポツリと漏らすと
「おい功刀…目上は敬意を持って呼べって言ったよな…?」
櫻の表情に不敵な笑みが浮かぶ。
「う…。」
気圧される功刀。
「す、済みませんでした…櫻…さん。」
渋々…というよりも、どう見ても年下の櫻に敬語を使う事に照れを感じながら素直に謝る。
「まったく、そんながさつな性格だから他人に要らん誤解を与えるんだぞ。」
その気持ちを汲んでか、呆れつつも軽い説教をすると、
「まぁまぁ櫻さん。功刀だって櫻さんが囚われた時には凄く心配したんですよ?態度に出さないだけできちんと解ってますよ。」
と剛から擁護の声が上がった。
「ほぅ?そうなのかい?」
意地悪い笑顔で功刀を見る櫻。
すると功刀は気恥ずかしいのか、プイっと顔を背けると百合香達の元へ走って行ってしまうのだった。
「櫻さん、ちょっとからかい過ぎでは?」
呆れる鷹乃。
「いや、すまんすまん。アイツは素直過ぎるからつい面白くてな。…まぁ、その素直さが長所でもあるんだろうが、敵を作りやすいのがねぇ。」
そう言ってデッキチェアに横たわり、クーラーボックスから取り出したジュースに口を付けた。
美咲達が砂浜から岩場へ移り、蟹やウミウシ等を見つけてははしゃいで過ごしていると、楽しい時間は瞬く間に過ぎる。
「あ、いたいた。皆、そろそろお昼だよ、戻っておいで。」
探しに来た楓が昼食の時間を知らせてくれた。
待ってましたとばかりに功刀が岩場をピョンピョンと跳んで行くと、美咲と百合香も顔を見合わせてから慎重に岩場を渡る。
美咲が皆の元へ戻ると既に火起こしも済んでおり、テーブルの上に紙皿と割り箸が並べられていた。
焼き網の上にも大量の肉を筆頭に玉ねぎ等の野菜も並んで食欲をそそる香りを立たせている。
「お、来ましたね。さぁ、食材は沢山ありますから遠慮せずに食べたい物を取ってください。」
幹雄がトングで食材を焼き網に乗せながら言うと、その腕に載せたトレーには言葉通り食材の山。
「予定通りもう一日あったとしても、この食材の量は買いすぎだったわね。」
「食べきれなかったらウチで貰おうかしら?」
稲穂と鷹乃がそんな事を言っている内に、男性陣…主に功刀と大樹によって焼き上がった食材はみるみる消化されていくのだった。
「幹雄さん。はい、どうぞ。」
焼く事に専念し、全然食べていない事を気にした美咲が、肉と野菜のバランス良い盛り付けの紙皿を幹雄に差し出す。
「おぉ、これは。ありがとうございます。美咲ちゃん。」
食材をテーブルに置き、美咲から紙皿を受け取る幹雄。その手を離した時、美咲は自分に向けられる視線を感じた。
視線の元に顔を向ける。するとそこには昨日の狸…モリカミさんの姿があった。
「あれ?モリカミさん。」
美咲が思わず声に出すと、皆がそれに反応して視線を美咲に合わせる。
すると確かに、砂浜の端、岩場の陰から顔を覗かせる狸の姿が皆の視界に入った。
「え?あれモリカミさん?判るの?」
狸の見分けが付かない百合香が問うと、
「うん。昨日と同じ感じがするから、多分…。でも何か用があるのかな?」
と、美咲がモリカミさんへ近付く。百合香がその後を追うと、会話が必要になるかもしれないと櫻も続いた。
モリカミさんの元へ歩み寄ると、モリカミさんも岩陰から美咲の前へ姿を現す。そしてその陰から更に子狸達も現れた。
モリカミさんが美咲に鼻先を突き出し小さく鳴くと、美咲もその言葉に耳を傾けるように姿勢を落として顔を近付ける。
「美咲、通訳は要るかい?」
後ろから櫻が声をかけるが、
「大丈夫です。何だかモリカミさんの言ってる事は判るみたいなので。」
そう言ってモリカミさんと見つめ合い、笑顔を向ける。
「わざわざこんな所まで下りて来てくれてありがとうね。」
話を終えたのか、美咲が立ち上がる。
「それで、何の用だったの?」
百合香が美咲の背後からモリカミさんを覗き込むように聞くと、
「何でか私達が今日帰る事を知ってたみたいで、お別れの挨拶に来てくれたみたい。」
と言って、百合香と櫻の背をそっと押す。
モリカミさんの前に立った二人が何事かと思うと、不意に、しかし自然に感じる不思議な感覚を覚える。
それは例えるなら呼吸をするが如く、何も疑問を感じる事無く受け入れられるような自然な感覚だ。
しかしその自然は意思を持って語りかける。その意思は染み渡るように入って来る。言語ではない。だが心で理解出来る。
「…成程。あたし達にも礼を言いに態々来てくれたのかい。律儀だねぇ。」
「不思議~。あたしは櫻ちゃんみたいに考えが解る訳でもないのに解っちゃった。」
二人も狸と意思の疎通が出来る事にそれ程違和感を感じずに居るようだ。
そんな二人と一匹の姿をにこにこと眺めていた美咲が、モリカミさんの後ろでうろうろして落ち着かない子狸達に気付く。
《どうしたの?》
子狸に想いを飛ばす。すると、子狸は意思の疎通が出来る事を理解したのか揃って美咲の足元へ駆け寄ってきた。
再びしゃがみ視線の高さを子狸達に近付けると、皆から一斉に想いが飛んでくる。
それは酷く単純で、そして可愛らしいものであった。
思わずクスリと笑うと
「どうしたの?美咲ちゃん。」
と百合香がその様子に気付き近付いてきた。
「えっとね。この子達、あっちのバーベキューの匂いが気になってるみたいなの。」
そう言うと櫻を見て
「お肉、分けてあげていいですか?」
と問う。
櫻は少し考えるが
「まぁ問題無いだろう。な?」
とモリカミさんに声をかけた。
モリカミさんもコクリと頷くと、子狸を先導するように皆の居るバーベキューコンロの傍へ歩いて行く。
コンロの傍から遠目に様子を窺っていた一同は、美咲達と一緒に狸の群れが近寄ってくる事に少々驚いたものの、
『まぁ櫻さんだからなぁ。』
と思うと、様々な事が受け入れられる面々であった。
櫻と美咲が事情を説明すると、幹雄が手際良くネギ類を抜いた食材を生肉中心に紙皿に取り分け狸達の前へ置く。
焼いた方が良いかとも思ったが、野生動物に熱の加わった物を与えるのも問題があるかと思い、敢えて生での提供とした。
子狸達は差し出された食材の匂いを嗅ぐと、モリカミさんの許しを貰い一斉に食べ始める。どうやら少なくともこの群れの中でのモリカミさんの統制力は確かなようだと一同も安心。
そのモリカミさんの様子を眺めて、櫻が確信を得たように話を始めた。
「昨夜旅館で沙羅と話をしてな、このモリカミさんについて色々と聞いたんだ。」
功刀と大樹以外の箸が止まり、皆が耳を傾ける。
「なんでも、昨日の段階で神に至るまでの三つの要素を既にクリアしているらしい。」
指を立てて一つずつ、
「先ずはこの土地の霊気との霊的な繋がりを得た事。これだけでも動物としては霊的成長がかなり促されるらしい。ただしこの土地を離れる事は出来なくなるという制約付きのようだがね。」
僅かに山を振り返り森の木々に目を向けた。
続いて二本目の指を立てる。
「次に美咲との同調。これによって魂に変化が起き、僅かばかりだが人間的感性を持つようになったそうだ。」
三本目の指を立てると、
「そして最後が名前だ。」
「名前?それが神様になる事に関係あるんですか?」
と美咲が疑問を口にした。
「うん、何でも、個体としての名前を持ち、それを本人…本狸?が認識する事によって霊格は大きく上昇するんだそうだ。」
櫻がモリカミさんを見ると、その説に同意するかのようにモリカミさんが頷いて見せた。
「へぇ~…。でもチェリーだって自分の名前を覚えているように見えますけど、普通の猫ですよね。」
「そうだねぇ。まぁそういう霊的な話はあたしの管轄外だから何とも言えんがね。案外チェリーも霊的な成長をしているのかもしれんぞ?」
美咲の疑問に櫻がニカリと笑う。
「それじゃいつかチェリーとお話出来るようになるかもしれないね。」
百合香が楽しそうに言うと
「それじゃ化け猫じゃねぇか。」
と功刀に突っ込まれるのだった。
モリカミさん達の登場もあり、当初の予想に反して粗方の食材を食べ尽くした面々。
「さて、後片付けをしてしまいますので皆さんはゆっくりしていてください。」
幹雄が炭の処理をしながら皆に言うと
「あ、私も手伝います。」
と美咲が声をかける。
(まったくこの娘は…。)
呆れる櫻。
休める時には休むべきと言いたい言葉をグッと飲み込み、美咲の自主性を尊重する。
恐らく美咲のこの質は、捨てられたという現実から自身を必要とされたいと願う無意識が起こさせているのが根本かもしれない。だが最早そんな事はどうでもよく、これが美咲の性格なのだと理解する。
そして美咲の行動に惹かれるように、百合香を始めとした子供達も手伝いを始め、更には大人達も後に続くと結果として全員での片付け作業となった。
モリカミさんはそんな皆の姿を、砂浜で戯れる子狸達の傍らで大人しく見守っていた。
荷物は全て車に積み込み、別荘に元々置いてあった物も片付け終わると砂浜は元の姿を取り戻す。
炭の破片等が残っていないかを全員で見て回る。
「…よし、ちゃんと片付いたね。」
櫻の一声で撤収準備の完了が宣言されると、皆が一様に肩の力を抜く。その様子に作業が終わった事を認識したモリカミさんが近付いて来た。
そして一同の前まで来ると、美咲に身をすり寄せ、まるで何かの呪いでもするかのように周囲をぐるりと一回り。
その様子を頭に『?』を浮かべながら目で追う美咲。
その動作が終わったと思うと、再び皆の前へ。そして何と二本足で立ち上がり、前足を揃えたかと思うと人間がお辞儀をするように頭を下げてみせた。
一同がその所作に驚く中、美咲はモリカミさんの視線に合わせるようにしゃがみ、
「うん、きっとまた来るね。」
と言うと、その手をそっと取り、握手をする。
「美咲ちゃんは、あたし達よりずっとモリカミさんの言ってる事が解るみたいだね。」
「美咲の元々の動物コミュニケーション能力とモリカミさんの特異な念話のような能力の相乗効果だろうね。」
美咲とモリカミさんのやり取りを見ながら感心する一同。
「それじゃぁ、もう行くね?」
少し名残惜しそうに立ち上がる美咲。その言葉にモリカミさんも頷くと、美咲の気持ちを汲んでくれたのだろうか、少し後ずさり距離を取ると手を振った。
「さ、名残惜しいかもしれんが、そろそろ帰るとするかね。」
美咲の名残を断ち切るように櫻が声を出すと、美咲も小さくモリカミさんに手を振り踵を返し櫻達の元へと向かう。
モリカミさんと子狸達は、その姿が小さくなるまで見送ると元来た岩場へと去って行った。
「改めて思い返すと、随分と不思議な体験でしたねぇ。まさか狸と旅館の橋渡しをするとは。」
運転席に座りシートベルトを締めながら大樹が口にする。
「そうだねぇ。あたし達が今までしてきた仕事は、超能力なんて特殊な能力を使うとは言え、結局は人間相手しかなかったからね。」
「これも美咲ちゃんが居てくれたからこそ出来た事よね。」
褒められると少しくすぐったい感じがするが、悪い気はしない美咲は少し顔を赤らめながら微笑む。
「それにしても、態々海岸までお礼を言いに来ただけじゃなく、あそこまで礼儀正しいのは人間でもなかなか出来ないんじゃないですか。」
「あぁ、それなんだがね。どうもこのテの事例で身に付く『人間的感性』ってのは、同調した人間の性質に似通るらしいんだ。」
「それってつまり、美咲ちゃんに似たって事よね。」
「成程。それなら納得ですね。」
大人達が楽しげに話す様を美咲がきょろきょろと見ていると、
「お前さんは良い子だって事だよ。」
そう言って櫻がその頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「さ、それじゃそろそろ出発しますよ。皆さんちゃんとシートベルトは締めましたね?」
大樹の声に皆が返事を返すと、エンジン音の高なりと共に車が動き出す。
美咲は離れていく別荘を振り返り、この旅行の日々を思い返す。
そんな美咲の様子に
「美咲、この旅行は楽しめたかい?」
櫻が尋ねると
「はい。凄く。」
と笑顔と共に元気な返事が返った。
その素直な声に櫻の表情も明るく、
(それならこれからは毎年の定例行事にしても良いかもしれんな。一週間は長すぎると判った事だし、三日くらいが妥当かね?)
そんな事を考えるのだった。
行きと同じように道中に休憩を挟みながら一行が桜荘の前まで辿り着くと、既に夕方になっていた。
桜荘と韮山家の面々はその場で軽く挨拶をして別れる。
「ふ~。やっと帰って来たという感じですが、思い返すとあっという間にも感じますねぇ。」
「大樹さん、運転お疲れ様。」
肩に手を置き首をぐりぐりと回す大樹と、それを労う稲穂。
そんな様子を見て
「大樹は当然として、皆も長時間の移動で疲れただろう。今日は出前でも取って夕飯を済ませてしまおう。」
と櫻。
すると当然のように幹雄が電話を取り出し、
「あ、もしもし。お世話になっております桜荘です。特上寿司五人前出前をお願い出来ますでしょうか。はい、はい。お願い致します。」
素早く注文を済ませる。
「さて、出前が届くまでに皆自分の荷物を片付けてしまおうか。」
櫻の一声で車に積まれていた荷物を皆が運び出し、各々の部屋へ入っていった。
美咲も自分の部屋の鍵を開けて中へ入ると、ほんの数日ぶりの自分の部屋が違って見える。初めてこの部屋へ来た時のような新鮮な、それでいて帰って来たという懐かしさ。
僅かの間玄関で立ち尽くしていると、手に持っていたバッグが暴れる。
「あ、ごめんね。今出してあげるから。」
少し慌て気味にリビングまで上がると、優しくバッグを下ろしてファスナーを開ける。
すると余程窮屈だったのだろう。チェリーが勢い良く飛び出し、ぐぐっと伸びをしたかと思うと部屋の中を軽快な足取りで歩き回る。
その様子に『いつも』を取り戻した美咲は、やっとふわふわしていた気分から日常へと戻る事が出来た。
それ程多くも無い荷物をバッグから取り出し、道具類はいつもの場所へ、そして洗濯物は洗濯機の中へ。
「チェリー、事務所の方に行くよ。」
チェリーに声をかける。するとチェリーはトトト…と美咲に駆け寄り、その肩に飛び乗って来た。
美咲が事務所に入ると、そこに居たのは幹雄と大樹だけ。
辺りを見回すと
「櫻さんと稲穂さんは荷物が多かったですからね。片付けに時間がかかるのでしょう。」
美咲の考えを察した幹雄が答える。
その言葉の通り、暫し待つと荷物の量と比例するように稲穂、櫻の順に裏口から登場。
それにタイミングを合わせたかのように出前が到着すると、皆でテーブルを囲んでの晩餐となった。
チェリーにもネタのワサビの付いていない部分を少し御裾分け。
「さて明日からはいつも通りに『何でも屋桜荘』の営業に戻る訳だが。」
櫻が話し始めると皆の視線もそちらを向く。
「美咲、お前さんはまだ夏休みが続くんだ。自分の事を優先して友達と遊びに行ってもいいんだから、その時は遠慮せずに言うんだぞ?」
その言葉を受けて
「はい。ありがとうございます。」
明るい声のはっきりした返事。
「でも、特に予定は無いですから、私もいつも通りに働きますね。」
そう言うと寿司を口に運び、幸せそうな表情を浮かべるのだった。
夕食が終わり、美咲は一足先に自室へ戻る。
「お寿司、おいしかったね。」
チェリーに声をかけると『みゃ』と返事をする。
「ふふ、チェリーはお刺身なんて食べるチャンスなかなか無いもんね。ごめんね?いつもはペットフードばっかりで。」
申し訳無いと頭を撫でる。
「さ、それじゃお風呂入っちゃお。今日はチェリーも一緒にね。」
その言葉にチェリーの尻尾がブワッと脹らみ、身を強ばらせた。
チェリーの入浴は月に二、三度程のペースだが、未だに身構えてしまうのだ。
しかしチェリーは美咲の行為が自身へ危害を加える物では無いと理解している。シャワーやドライヤーの音は苦手だが覚悟を決め、美咲の為すがままに浴室へと連れて行かれるのだった。
脱衣所で気を紛らわせる為に美咲が脱いだ衣類にじゃれつくチェリー。その様子から気持ちを察するように優しく抱き上げるとその衣類を洗濯機に入れ、スイッチを入れる。
「いい子だからちょっとだけ我慢しててね~。」
弱めのシャワーを出すと洗面器に温めのお湯を張り、チェリーをその中へ立たせる。
そして手でお湯を掬いながらその身体へそっとかけ、お湯に慣らせてからシャワーを当てる。
シャワーの触れ始めこそビクリとするものの、その後は美咲の手に身を委ねて洗われるがままだ。
「はい、終わり。私が洗い終わるまでそこで待っててね。」
洗面器ごと湯船の縁角に乗せて美咲が身体を洗い始めると、チェリーは洗面器の中に座りこんでその様子を眺める。
シャワーで流される泡に爛々と目を輝かせていると、
「おまたせ。」
と美咲が立ち上がり、浴槽へ入った。
そしてチェリーを抱き上げて、立てた膝の上に乗せると前足を肩に置かせる。
「ふふ、こうやって二人だけでお風呂に入るの、何だか久しぶりな感じ。」
旅行中を振り返り、皆で一緒に入浴した光景を思い出すと、
「そういえば、もし百合香ちゃんがお泊りに来たら、このお風呂で一緒に入れるのかなぁ…?」
と、別荘や旅館の浴槽と比較すれば当然狭いそれを見てチェリーに訊ねた。
チェリーが『にゃ』と短く鳴くと、
「そうだね。二人くらいなら…チェリーを入れて三人でも大丈夫だよね。」
そう言って微笑んだ。
浴室から脱衣所へ出ると、まずチェリーの身体を拭き、次いで美咲の身体を拭く。
洗面台の鏡に映る自分の身体を見て
「う~ん、水着の跡、結構判っちゃうね。」
と日焼け跡をなぞるように触れる。
そんなに目立つ程には焼けていないものの、やはり色の対比で日焼けした事は明白だ。
(ま、いっか。)
それ程深刻な問題でもないうえに、なってしまった事はどうしようもないと割り切ると、下着すら身に着けず湯上りの火照った身体を冷ましながらチェリーにドライヤーを当て始めた。
その音に尻尾を膨らませるも、ジっと耐えるチェリーに
「えらいえらい。後でおやつあげるから、もうちょっと我慢してね。」
と微笑みかけた。
チェリーの身体を乾かし終えると美咲も自身の髪を乾かし、パジャマに着替える。
洗濯機にチラリと視線を向けると
(干すのは明日でいいかな?)
と妥協してチェリーを抱え、脱衣所を後にした。
冷蔵庫からジュースを取り出しコップに注ぐと自室へ持ち込み、買い置きしてあったクッキーを出して準備万端。
チェリーにも猫用おやつを出して一緒に湯上りのリラックスタイム。
自分の部屋。自分だけのプライベート空間。感慨深げに部屋の中を見回し、帰って来たという実感を改めて噛み締める。
「旅行は楽しかったけど、やっぱりお家が落ち着くね。」
チェリーに話しかけると、『にゃ』と返事が返ってくる。
チェリーも同じ気持ちだったらしい。美咲はそれが何となく嬉しく笑みが零れた。
おやつを食べ終えると、夏休みに入ってからまったく手付かずだった宿題を少し進め、時計を見ると何ともう夜中の十一時。
(もうこんな時間…そろそろ寝なきゃ。)
チェリーに目を向けると既にベッドで丸くなっていた。
そっと机から離れ洗面所へ向かい、歯磨きを済ませる。
各所の火の元の始末と消灯を確認してベッドへ入ると、流石にチェリーがもそりと起き上がったが、美咲が頭を枕に乗せるとその横に寄り添うように再び丸まる。
「おやすみ。」
優しく声をかけ撫でると、そっと目を閉じ、あっという間に眠りに落ちたのだった。
その晩、美咲は夢を見た。
夢の中にモリカミさんが現れ、温かな光を渡される。
それは美咲の胸の中へ消えていったかと思うと、全身が温かさに包まれとても気持ちの良い感覚を覚えた。
それが何かは解らなかったが、美咲の寝顔はとても幸せそうであった。
こうして、桜荘に来てから初めての旅行は無事終了した。目が覚めればまた日常の始まりである。それでもこの旅行での経験は美咲に何かを残した大事な思い出になり、永遠に記憶に残るのだろう。きっと。




