EP 5-5
朝。
波の音と小鳥の囀りが意識を覚醒させる。
パチリと目を開けた美咲。寝落ちた程の疲労が嘘のようにスッキリとした目覚めだ。
少々頭が重く感じるものの、身体を起こすと『ギシリ』とベッドが軋む。
その音とベッドの撓みに、隣で寝息を立てていた百合香も目を覚ました。
「あ、ごめんね、起こしちゃった?」
申し訳無さそうに言う美咲だが、その声は明るい。
「ううん、大丈夫だよ。おはよう美咲ちゃん。」
百合香もまだ眠い目を軽くこすりながら嬉しそうな声で返すと身体を起こした。
どちらからとも無く互いに向き合い座ると、互いの頬に顔を近付け『おはよう』の口付けを交わし、くすぐったそうにクスリと微笑み合う。
そんな様子を見ていたチェリーも小走りに駆け寄ってきたかと思うと、二人の頬をサリッサリッと舐めた。
「チェリーもおはよう。」
美咲がチェリーを膝の上に抱えあげ、二人で撫でながら挨拶をすると、その言葉に応えるように小さく『みゃ』と鳴いた。
寝起きからの幸せな空気に、百合香が自然とチェリーを撫でる美咲の手を取ろうとすると、外から『パンッパンッ』という乾いた音が聞こえてきた。
伸ばす手を止めて美咲と視線を合わせる百合香。
「あ、あれ?何の音だろうね?」
顔を赤くして視線を上に逸らし、慌てて話題にすると
「あの音って竹刀の音…だよね?」
と美咲も話題に乗る。
再び視線を合わせる二人。
「とりあえず着替えてくるね。」
そう言うと美咲はチェリーを胸に抱きかかえ、百合香に小さく手を振り部屋を出て行く。
手を振り返し、出て行く美咲を見送った百合香はベッドの上に座りつくして大きな溜息をつくのだった。
二人が着替えてリビングにやってくると、功刀を除いた面々が窓際に集まり外を見ている。
「おはようございます。」
美咲が挨拶をすると皆が振り返り挨拶を返した。
「何をしてるんですか?」
と言いながら二人も一同の横に位置取り窓の外を見ると、外では大樹と楓が竹刀を手に打ち合いをしていた。
「見ての通りさ。昨夜何か思う所があったのか、楓が何やらやる気を出してね。朝っぱらから大樹に稽古を頼んだんだ。」
櫻が答えると
「大樹さんも何だか嬉しそうに受けたわよね。」
と稲穂が付け加える。
「へぇ~…。」
と口から吐息とも声とも取れない音を漏らしながら美咲が楓の動きに見とれているのに気付いた百合香。頬をぷくりと膨らませると
《楓兄ぃのアホ。》
と拗ねたテレパシーを楓に飛ばす。
突然の理不尽な言葉に思わず意識が逸れると、そこに大樹の面が心地よい音と共に綺麗に入った。
「くぉ…。」
頭を押さえしゃがみ込む楓に
「だ、大丈夫かい、楓君?」
と慌てる大樹。リビングで見ていた一同も、特に原因となった百合香は一段と慌てた。
「え、えぇ、大丈夫です。ちょっと集中力が途切れてしまったみたいで。」
そう言って苦笑いを浮かべた。
「そうか。それじゃ今回はこれくらいで終わっておこう。」
大樹が言うと
「え?まだそこまで疲れてはいませんが…。」
と楓が驚く。
「集中力が切れたままでいくら身体を虐めても、大した成果は得られないさ。コンディションは出来るだけ万全を心がけなきゃね。」
大樹は竹刀で肩をトントンと叩きながら
「でも流石だね。昨日の今日でここまで動きが変わるとは。」
と楓を褒める。
昨夕の手合わせでは自身に降りかかる刃そのものに集中していたのに対し、今日の楓は常に相手の目を見ており、そのうえで意識は相手の全身の動きを捉えるように感覚を広げていた。
その結果、大樹は楓の動きの予測が出来ず、且つ、楓は攻撃の手を緩める事無く大樹の打ち込みに対して的確な受けを繰り出す事が出来るようになっていた。
「いえ、まだ攻めの姿勢に慣れていませんから、これからです。」
笑顔を浮かべ、謙遜しつつも向上心を隠さない楓に大樹も満足そうに微笑んだ。
緊張が解けた大樹の蟀谷から汗が一雫垂れる。
(いやぁ、視点を変えるだけでここまで動きが良くなるとは、やっぱり能力だけじゃなく才能があるんだな。…それにしても最後の隙は何だったんだろう?)
肩で汗を拭いながら、先を行く楓の背中を眺め小首を傾げる大樹であった。
楓と大樹がシャワーで軽く身体を洗っている間に幹雄が朝食を用意。
その食欲をそそる香りに誘われたかのように功刀も大あくびをしながらリビングに現れた。
楓と大樹も少しして姿を現すと、百合香は楓のシャツの裾を小さくツンツンと引っ張り
《さっきはゴメンなさい…。》
と申し訳無さそうに目を伏せ小さく口だけ動かし、テレパシーで謝る。
その態度に楓は何も言わず微笑み、百合香の頭に手を乗せると優しく撫でて応えるのだった。
「さ、皆さん、朝食の用意が出来ましたよ。」
幹雄がリビングの扉向こうから顔を覗かせた。功刀が待ってましたとばかりに部屋を出ると、それに続いて皆もリビングを後にする。
食堂に到着するとテーブルに並ぶのは炊きたてほかほかご飯に旬の野菜の炒め物と焼き魚だ。
皆が好みの味にするように醤油差しを回し、櫻から美咲へ手渡されようとした時。
「ほれ、美咲。」
「あ、ありがとうございます。」
そう言って伸ばした美咲の手にまるで吸い寄せられるように、櫻の手から醤油差しが離れた。
一瞬の驚きに思わず声を出しそうに口を開く櫻。
だがその距離はほんの数ミリ。何の変哲もない普通の光景であった為に誰が注視していた訳も無く、また美咲もその事に無自覚に見えた為に、櫻は自分の気のせいかと思い口に出す事はしなかった。
朝食を終えて食休みにリビングでチェリーと戯れながらトランプを楽しむ美咲と百合香。
「お前さん達、今日は海には行かんのか?」
櫻がその光景にフと思った事をそのまま口に出す。
「うん、流石に毎日だとちょっとね~。」
百合香がそう言うと、美咲も口には出さないが同意なのだろう、少々困ったように笑った。
(う~む、流石に一週間は長すぎたか…。)
腕を組んで首を傾げ、旅行プランの無計画さを痛感する。
「う~ん、そうだねぇ…今晩は旅館の件があるから、明日。」
唐突に何を言い出すのかと、その場に居た皆が櫻を見ると
「予定を一日早めて明日帰る事にしよう。明日の午前中は別荘の掃除をして、昼食を食べたら少し休んで出発だ。」
即断即決の櫻。
その言葉に大人達は『いつもの事』のように承諾するが、百合香は驚きの表情を浮かべる。
「えぇ~!?それじゃ今日泳いでおかなきゃもう海で遊ぶ暇無いじゃん!」
手に持ったトランプを大げさに床に落とすと美咲の手を取り
「美咲ちゃん、海行こ!」
とその手を引いてリビングを出て行く。
百合香の強引な行動に少々困り顔ではあるものの、その行動力が頼もしく感じ美咲の表情は柔らかい。
唐突に置いていかれ、少々不機嫌に尻尾をぶんぶんと振りトランプを撒き散らすチェリーを櫻が抱き上げると、床に散らばったトランプは幹雄が片付けた。
「いつの時代になっても子供は元気ですねぇ。」
大樹が窓越しに別荘を出て行く美咲と百合香を眺めながら言うと
「子供と言えば、功刀君と楓君は?」
と稲穂が鷹乃へ話を振る。
「功刀は部屋でゴロゴロしてるんじゃないかしら?ゲームも持ってきてるみたいだし。楓はさっき出て行ったのが見えたからどこかでトレーニングでもしてるんでしょうね。」
その鷹乃の言葉に
「まぁ、子供と一括りには出来ませんよね。年齢によって行動も変わるものですから。」
と剛が付け加えた。
「でも功刀も楓も出会った頃からあまり性格に変化は無いように思うがね?」
櫻がチェリーの前足を弄りながら呟くと
「…結局、大人だとか子供だとかではなく、個人の個性なんですね。」
と幹雄の結論に、皆が軽やかに笑い話題を締めた。
美咲と百合香が水着に着替え浜辺へ下りると、楓が砂浜で走り込みをしていた。
「あれ?楓兄ぃまたトレーニングしてるの?」
百合香が声をかける。
楓がその声に足を止めて二人に近付くと
「二人共もう食休みは終わり?」
と声を掛ける。
「はい。」
素直な美咲の声に続いて
「あのね、旅行、明日のお昼過ぎに帰る事になったの。それに午前中は掃除だって言うから、だから今日はいっぱい海で遊んでおこうと思って。」
と百合香が何故かまくし立てるように、それでも出来るだけ理解しやすいように説明を入れる。
「え?そうなの?」
少々驚く楓。
「それじゃ折角だから僕も少し泳いでおこうかな。」
呟く楓に
「それじゃ一緒に遊ぼ!」
と百合香が誘う。
「うん、そうだね。」
楓は笑顔で応えると
「それじゃ着替えてくるよ。二人共、海に入る前にはちゃんと柔軟をしてからじゃないと駄目だよ。」
そう言って別荘へ小走りに戻っていった。
美咲と百合香が軽く柔軟運動をしていると楓と共に功刀も姿を見せる。
「あれ?功刀兄ぃも来たんだ?」
百合香が少々驚いたように言うと
「うん、トイレの前で会ったから旅行の日程の話をしたんだ。そしたら功刀も泳ぎ納めをしておこうって事になってね。」
楓の説明に功刀は
「まったく大人ってのは人の都合を考えねぇよなぁ。」
と愚痴っぽく口を尖らる。その姿に三人は微笑を浮かべた。
四人で其々にやりたい事を挙げ、様々な遊びをする。
楓の案はチーム分けでの競泳。身体能力を考慮して美咲・楓組と百合香・功刀組に分かれて砂浜から適当な目印間の往復で勝負だ。
先に泳ぐのは美咲と百合香。拾って来た木の棒で砂浜に引いたスタートラインに位置取ると美咲の横に楓が寄り添い、
「遊びだから余り無理はしなくても大丈夫だからね。」
と優しく声をかける。
すると美咲の心臓が小さく跳ね、余計に緊張が高まってしまった。
そんな事は全く気付かない楓が後ろ向きに距離を離すと、
「それじゃ、よーい。」
とスタートの合図を始めた。
「スタート!」
楓の合図で海へ向かい走り出す二人。だが緊張から美咲がいきなり足をもつれさせよろける。
踏み止まり倒れる事は無かったものの、大きく出遅れてしまう美咲。
「おいおい、どんくさいな。これじゃ勝負になんねぇぞ?」
野次を飛ばす功刀。美咲は少し困ったように笑うと先を行く百合香に追いつこうと顔を上げて駆け出した。
だがそもそもの運動能力の差に加えスタートで出遅れた美咲は、結果として大きく差を開けられてしまう。
美咲が往復を終え楓と交代する頃には功刀が既に折り返し地点近くまで迫っていた。
「す、済みません…。」
息を乱しながら謝る美咲。だがそんな美咲の頭に手を軽く置いた楓は
「大丈夫だよ。」
と一言優しく声をかけると、鍛えられた身体を遺憾なく発揮した瞬発力でダッシュする。
泳げる深さまで到達すると教本のような綺麗なフォームで泳ぎだし、物凄い速度で功刀に迫る。
折り返しのタイミングでその様を見た功刀も全力で泳ぐのだが、瞬く間に楓が追い上げてくる。
泳ぐ事が困難な水深に到達し、立ち上がる功刀。泳ぎに全力を出し足取りが重く、波に足を取られ思うように走れない。
何とか前進しようと足掻くその時、功刀の横に影が差したかと思うとそこには楓の姿があった。
「うぇ!?」
功刀の思わず口から漏れた驚きの声に楓はニコリと微笑みを向け、一気に残りの力を振り絞ると走り出し、砂浜に引かれたゴールラインを割ったのだった。
それから僅かに遅れゴールに到達した功刀は、ガクリと膝を落とし両手を砂浜につけた。
「も~、功刀兄ぃだらしない!」
百合香に責められる功刀。
「仕方ねぇだろ!全力の兄貴に勝てるもんかよ!」
大声を上げて反論すると、その声に美咲がビクッと身体を震わせた。
それに気付いた楓が
「大丈夫、あれはいつものやり取りで喧嘩じゃないよ。」
美咲に優しく諭すと、
「さ、僕の案は終わったから、次は功刀が何をしたいか決める番だね。」
と言って口論する二人の間に入った。
「そうだな…。」
功刀が腕を組んで考えを巡らせる。
「よし、誰が一番長く潜ってられるか勝負だ!」
そう言って百合香と美咲を指差した。
「あれ?僕は?」
楓が自分を指差し功刀に尋ねると、
「兄貴が居ると勝負にならねぇし、誰かが見てないと結果が判らねぇだろ?だから兄貴は審判な。」
功刀は腰に手を当て役割を決めた。
それから各々が潜れる深さまで沖へ出ると、楓の合図で大きく息を吸って身体を沈めた。
開始から45秒で最初に頭を出したのは美咲だ。
ハァハァと波間で大きく呼吸をして周囲を見回すが、百合香も功刀も姿は無い。
そうしていると一分を過ぎた辺りで百合香が
「プアッ!」
と声を上げて姿を現した。
美咲が百合香の傍へ泳ぎ寄ると、その姿に気付いた百合香もまた美咲へ近付く。
「百合香ちゃん凄いね。私全然息続かなくて、すぐに顔を出しちゃった。」
素直に尊敬するように褒める美咲に、百合香の顔が緩んだ。
「えへへ。あたしもそんなに長く息止めてられなかったけどね。」
謙遜しながらも美咲に褒められ内心では飛び跳ねる程の喜びを噛み締めていた。
そんなやり取りをしていると、開始から二分が過ぎた頃に功刀が顔を出し、荒い息遣いのままに周囲を見回す。
美咲と百合香が仲良く並んで浮いているのを見た功刀は、勝利を確信して笑みを浮かべた。
「よーし、それじゃ一旦上がって。」
砂浜から楓が声をかけると、三人は揃って上陸する。
「まぁ言うまでも無いけど、一応結果発表をするね。」
楓は前置きをしたうえで
「一番長く潜っていたのは功刀。二番が百合香で、三番が美咲ちゃん。でも水中で息を止めているのは地上でのそれよりずっと辛いからね。皆頑張ったよ。」
そう言って合掌のように拍手を送った。
「どうだ!」
功刀が胸を張り自慢気に百合香と美咲に視線を向ける。
「そもそも年上の男子に勝てる訳無いじゃん!」
百合香がその挑発を受けて口答えをすると再びギャーギャーと口論を始めた。
その光景にオロオロし始める美咲。
しかしその二人の傍らに笑顔のまま寄り添うように立つ楓を見て、これが百合香達の日常なのだと理解すると、途端にその口論も微笑ましいものに見えてくるのだった。
「それじゃ次は百合香、何やりたいか決めろよ。」
功刀が『何をやっても勝ってやる』という態度で百合香に話を振る。
「それじゃ、え~っとね…。」
空を仰いでほんの僅かの時間考えを巡らせると、
「鬼ごっこ!」
と、天を指すように手を掲げ宣言する。
「鬼ごっこって、泳いで?」
美咲が聞き返す。
「うん、水中鬼ごっこ。まずここでジャンケンして鬼を決めて、鬼が二十数える間に逃げる人は先に海に入っておくの。」
砂浜を指差した後に海を差して手振り交じりの説明をする。
美咲がうんうんと頷き理解した所で、
「よし、それじゃ。」
功刀が拳を差し出すと、皆がそれに合わせて握り、
「ジャンケン…。」
振りかぶる。
「ポン!」
何と勝負は一回で決まった。
グーが一人にパーが三人。その握られた自身の拳を苦々しく見つめるのは功刀だ。
「はい、功刀兄ぃの鬼~!」
嬉しそうに宣言する百合香。
「それ逃げろ~!」
弾む声で逃走宣言をすると波に向かって走り出した。
それを合図に功刀がカウントを始めると楓も海へ向かい走り出し、それを追うように美咲も海へ向かう。
カウントを終えた功刀。三人がバラバラの位置に浮いているのを目視していざ海へ入るものの、標的は既に決まっていた。
それは当然のように運動能力の低い美咲である。その位置を確認すると、真っ直ぐに全力で泳ぎ始めた。
美咲もその意図に気付いたのか、頑張って泳ぎ逃げるものの、その抵抗はそう長くは続かない。瞬く間にその距離は縮み、功刀の手の届く距離まで詰められてしまった。
だが、直ぐに捕まるかと覚悟した美咲は何故か無事であった。
(ど、どこにタッチしたらいいんだ!?何か何処触っても悪い事するみたいな感じになっちまう…。)
いざ美咲を前にして功刀は戸惑っていたのだ。
何処に視線を向けても直視し続ける事が出来ず泳ぐ目。物凄く長い時間に感じる数十秒、思考を巡らせた功刀の出した結論は、ターゲットを百合香へ変更する事だった。
「ッチ。」
舌打ちをし、目の前で方向を変え遠ざかって行く功刀をポカンと眺める美咲。
「もー!何でこっち来るのー!?」
「うるせぇ!さっさと観念して捕まれ!」
遠くからそんな声が聞こえる中、何故自分が見逃されたのか考える美咲であったが、その結論は出ないままであった。
結局それから数分の内に百合香が捕まり、鬼ごっこは終了となった。
「さ、それじゃ最後に美咲ちゃん、何やるか決めて!」
砂浜へ戻り百合香が問う。さっきまで全力で泳ぎまわっていたとは思えない程元気に目を爛々と輝かせている。
しかし美咲は、
「私は…特に何も思いつかなくて。皆がしたい事があれば、それでいいよ?」
そう言って申し訳無さそうに微笑んだ。
すると功刀が
「お前なぁ、何でそう他人の顔色窺ってばっかなんだよ。見てりゃいっつも百合香に引っ張り回されてるだけで、自分で何かしたいと思わねぇのか?」
と少々不機嫌に声を上げた。
「え…あの…。」
突然の功刀の怒ったような口調に身を縮める美咲。
「ちょっと、何いきなりムキになってんの!?やめてよ、美咲ちゃん怖がってんじゃん!」
百合香が庇うように声を上げる。
それを発端に百合香と功刀の口論が始まった。
「美咲ちゃんはケンキョでオシトヤカなの!功刀兄ぃみたいにガサツじゃないんだから!」
「誰ががさつだ!大体コイツみたいなのは謙虚じゃなく主体性が無いっつーんだよ!自分じゃ何も決められねぇんじゃねぇか!」
「なによ!美咲ちゃんの事ロクに知らないクセに!」
『いつもの』口論ではない、自分のせいで喧嘩になっている。美咲がどう止めたら良いのかオロオロしていると、
「二人共、そこまでにして。当人を無視して口論したって決着は無いよ。」
と、楓の一言でピタリと二人の言葉が止んだ。
おとなしくなった二人を見て『フッ』と息を漏らした楓が美咲に向き直ると
「美咲ちゃん、ごめんね?でも功刀の言う事も一理あるんだって事は解って欲しいな。」
そう言って美咲の頭を撫でる。
そのあまりに自然な接触に功刀は何となく敗北感に似たショックを受けていた。
「美咲ちゃんは確かに何も思いつかなかったかもしれないけど、そこで他人に任せるんじゃなく、自分で考えてみる事を続けて欲しいな。」
優しく諭すようなその声が美咲に染み入る。その言葉は自身に対する信頼のように感じられた。
「はい…。」
その期待に応えようと頑張って自分のやりたい事を絞り出そうとする美咲。
そうして出した答えは
「あ、あの、私、プカプカしたいです。」
であった。
「「プカプカ?」」
三人の声が揃う。
「それってどんな遊び?」
百合香が質問をすると
「遊びっていうか、ただ海に浮かんでプカプカしてたいなって…ゴメンね。やっぱり駄目だよね。」
今ひとつ自分の意見を推す事が出来ない美咲。
だが
「いや、いいんじゃないかな?さっきまで全力で泳いだんだ、あとはのんびり身体を浮かべているのも悪く無いと思うよ。」
楓が後押しするように言うと、百合香も
「うん、あたしもそれでいいと思う。のんびりしよう!」
と声を上げ、ここぞとばかりに美咲に抱き付いた。
「あの、遊びじゃなくてごめんなさい。」
美咲は一歩前へ出ると、申し訳なさそうに功刀に声を掛ける。
「べ、別に、ガキじゃあるまいし無理に遊びたい訳じゃねぇ。お前がやりたい事をやる番なんだから、気にする必要なんか無ぇよ。」
美咲のしおらしい態度に功刀はどぎまぎするが
「まぁ、さっきはちょっと言い過ぎた。悪かったな。」
と顔を赤らめつつも素直に謝ったのだった。
功刀と楓は其々に身体を浮かせ波に揺られる中、美咲と百合香はブロッサムを実体化させると更に成犬化させ、其々左右から頭を乗せると仰向けに海面に揺蕩う。
「百合香ちゃん。私、功刀さんに嫌われてるのかな…?」
美咲が空を見たままポツリと呟いた。
「ん~?そんな事は無いと思うけど…美咲ちゃん、他者の想いが少し解るんじゃなかったっけ?」
百合香も視線を空から動かさずに答える。
「うん。自分に向けられた感情は何となく解るんだけど、功刀さんは何だか私にイライラしてる感じがして…。」
「あ~…。」
美咲が感じた感情に百合香は何となしに思い当たるものがあった。
「それは多分ねぇ、美咲ちゃんにじゃなく…。」
言おうとして百合香は言葉を止めた。
(功刀兄ぃひょっとして美咲ちゃんの事狙ってる…?)
脳裏を過ぎった予想に、美咲を巡るライバルが現れたのではという危機感が百合香を襲う。
だが根が素直な百合香。
「うん、まぁ、功刀兄ぃは元々あんな性格だからさ。別に美咲ちゃんを嫌いな訳じゃないよ。気にしなくて大丈夫!」
功刀の印象を悪くする等という姑息な手は使わず、そのまま思った感情を口にして美咲の不安を払拭した。
美咲もその言葉を素直に受け止めると、百合香へ顔を向け、
「うん、ありがとう。」
と微笑んだ。
超至近距離での不意打ちの笑顔に百合香の鼓動が高まり体温が急上昇する。
美咲の瞳に視線が吸い寄せられ身体が硬直する。
その時、
「おーい、皆~、お昼よ~。」
砂浜の方から声が聞こえた。
その声に美咲が視線を外すと百合香の金縛りも解け、慌てて視線を美咲に同調させた。
その声の主は鷹乃だ。傍らには稲穂も居り、一緒に手を振っている。
「もうそんな時間なんだね。」
そう言って美咲が身体を裏返すと、
「百合香ちゃん、ブロッサムに掴まって。」
と言いながら自らもブロッサムの身体に手を添える。
言われるままに百合香も美咲に倣いブロッサムに軽く掴まると、ブロッサムはそのままスイーと移動を始めた。
不思議な事にブロッサムは犬かきをしている様子も無い。そもそも浮かんでいる時から水面に出ている部分に違和感がある程の浮力を持っていた。
「え?これってどうやって進んでるの?」
百合香が今更ながらに違和感に気付くと
「うん、なんかね、昨日の念動力がまだ残ってるみたいで、折角だから使ってみたの。」
事も無げに言う美咲。
「え!?」
驚く百合香。それも当然で、今まで能力のコピーと言えば櫻の専売特許であったうえに、そのコピーも一晩寝れば消えてしまうのだ。弱いとは言え能力が残ったままの美咲は余りに特殊だった。
「そ、それじゃぁ櫻ちゃんの読心術も残ってるの…?」
恐る恐る聞くと
「うん、そうみたい。」
あっけらかんとした答えが返って来た。
先程美咲に抱いていた感情が今までよりもハッキリと美咲に読み取られていた事に百合香の顔が赤みを増す。
だが当の美咲は
「どうしたの?」
と百合香の葛藤には全く気付く様子も無い素振り。
それも当然で、美咲にはまだ『好き』の感情の中にある『好意』と『愛』の判別までは出来ないのだ。それ故に今までよりハッキリと『好き』を感じては居たが、受け取り方は今までと何ら変わらなかったのである。
「そ、それより!」
慌てて話題を変えようとする百合香。
「美咲ちゃんの念動力じゃ、美咲ちゃんが片手で持てるくらいの物しか動かせないんじゃなかったっけ?」
言われて美咲もはたと気付いた。
「あ…そういえば…。」
唇に指を添えて考える。
「う~ん、でも、ブロッサムの重さって感じた事が無いんだよね。」
「え?そうなの!?」
「うん、いつも頭の上に居るのは感じてるけど、重いと思った事は無いなぁ。大人にしても全然重さを感じないし、そういえば不思議だよね。」
「へぇ~…あたしは普通に重さを感じるのに…やっぱり美咲ちゃんと繋がってるっていうのが何か関係してるのかな?」
「多分そうなのかな?」
深く考えない美咲。
ブロッサムは美咲にとって身体の一部のような存在になっており、それが『当たり前にあるもの』として美咲の意識に存在するようになっている為に違和感を感じなくなっていたのだ。
(つまり、ブロッサムに抱き付くのは美咲ちゃんに抱き付くのと同じ事なのでは…!?)
そう思うと自然とブロッサムにしがみつく力が強くなる百合香であった。
陸へ上がりシャワーで砂や海水を洗い流すと私服に着替えた美咲と百合香が仲良く食堂へ入る。
するとそこにはシーフードスパゲティにパエリア、ムニエル等の魚介類をふんだんに使った料理が並んでいた。
「うわぁ、何だこりゃ。すげぇ豪勢じゃん。幹雄さん張り切ったなぁ。」
後から来た功刀と楓もその光景に目を見張る。
「えぇ、急遽明日帰る事になりましたので、足の早い食材から使い切ってしまおうと思いましてね。」
幹雄が取り分ける為の食器を配膳しながら説明すると
「流石に作業量が多くなるから私達も手伝ったわよ。」
と稲穂と鷹乃が得意気に付け足す。
その言葉に美咲が『しまった』という顔をすると、百合香がすかさずその両肩に手をかけ席へ誘導し、
「さぁさぁ、美味しいものはあったかい内に食べなきゃね!」
わざとらしく口にして百合香も美咲の正面の席へ着き、
《済んだ事を気にしてたらご飯が美味しくないよ。》
と美咲にテレパシーを送りウィンクして見せた。
その百合香の気遣いに美咲も頷いて応え、微笑みを浮かべた。
皆が席へ着き、思い思いに食べたい物を取り分けると食事を始める。
百合香の隣り、美咲の斜向かいに座っていた稲穂が美咲を見て
「あら?美咲ちゃん今日は日焼け止め塗らなかったの?」
と聞くと、思い出したように
「え?あ、そうですね。今日は急いで海に入っちゃったので忘れてました。」
そう言って洋服の肩口をずらし、薄らと出来た日焼け跡を目視する。
その光景に百合香の逆隣りに位置していた功刀が思わず小さく咽た。
「もう…若い内はいいけど、そういうのは後からジワジワ来るんだから今の内から気をつけておいた方がいいわよ?」
稲穂がそう言うと
「あたしが子供の頃はそんな事気にする大人なんて居らんかったぞ。」
櫻に突っ込まれ、
「この中で一番幼い櫻さんに言われても違和感しかありませんね。」
と稲穂が返すと食堂に小さな笑いが溢れた。
「そういえばさぁ。」
百合香が海の話題から思い出し、美咲に残った能力のコピーの話を始めた。
その話を聞き驚きの表情で美咲を見る一同。しかしその中で櫻だけは『やはり』と言う表情を見せていた。
「美咲、お前さんその能力が残っている事にいつ気がついたんだい?」
櫻の問いに美咲は唇に指を添えると、天井を見上げ記憶を掘り起こす。
「えっと、海に行くからって着替えてる時に、水着を取ろうと手を伸ばしたら水着の方が先に動いて、それで気付きました。」
そう言って手を伸ばす仕草をしながら説明をする。
(ふむ、となるとやはり今朝のアレは無意識か?海では自発的に使ったようだが制御出来ているのか怪しいな…。)
朝食時の醤油のやり取りを思い出しながら複雑な表情を浮かべる櫻。
「凄いね美咲ちゃん。能力のコピーなんて櫻さん以外に出来る人が居るとは思わなかったよ。まさかこの場にそんな特殊な才能の持ち主が二人も揃うなんて驚きだ。」
大樹が興味深そうに美咲を褒めると、美咲も悪い気はしないのだろう、くすぐったそうに微笑む。
そんな美咲の笑顔を見ると、櫻の表情も緩む。
(まぁこの件は帰ってから考えるとするか…。)
小さく鼻で笑い
「まぁコピーした能力がいつまで持続するかまだ不明だからね。それを確かめる事も含めて色々やってみるといいさ。」
と美咲に助言をし、食事を再開した。
この発言には櫻なりに意図した事があり、一つはそのもの、いつまで能力が残留しているかのチェック。そしてもう一つは美咲に能力の使用をそれとなく意識させる事で、無意識での暴発を抑制する狙いがあった。
昼食を終えると食休みを挟み、再び海へ向かう子供達。
砂浜へ到着すると、海へ入ろうとする美咲と百合香を功刀が呼び止める。
「なぁお前、能力のコピー出来るんだよな?」
その言葉に素直に頷き答える美咲。
「何?突然。さっきそう言ったじゃん。」
百合香が出足をくじかれた不満を含んだ言葉を投げかけると
「いや、折角俺達が居るんだから、コピーしてみないか?」
功刀は微妙に照れながら提案をする。
「え?功刀兄ぃがそれ言うの?」
驚く百合香。
美咲はその百合香の態度に首を傾げる。
「あのね、功刀兄ぃは能力を使いたがらないの。だから自分から能力の事を言い出すなんて凄く珍しいんだよ。」
そう言われれば功刀の能力が何なのかを知らないなと、美咲は功刀を見つめる。
するとその視線に功刀が顔を赤くして目を逸らした。
「まぁほら、櫻…さん…も『色々やってみろ』って言ってただろ?だからよ…。」
何やら態度が怪しい功刀に不信感を持つ百合香。だが早く海に入り美咲と遊びたい百合香は美咲の手を取ると少し頬を膨らませ『んっ』と功刀に手を差し出した。
一瞬頭に『?』が浮かぶ功刀。だが直後に察すると
「あ?コピーって櫻さんみたいにやるんじゃないのか!?」
と驚きの声を上げた。
その態度で功刀の企みに気付く百合香。
《何?功刀兄ぃひょっとして美咲ちゃんとおでこくっつけたかったとか?》
美咲に嫉妬を悟られるのも、功刀を意識されるのも避けたい百合香はテレパシーを使い功刀に突っ込む。
「っちっげーよ!バーカ!」
顔を真っ赤にして捨て台詞を吐くと、功刀はバシャバシャと海へ駆けて行ってしまった。
「功刀、ちゃんと柔軟をしてからじゃないと危ないよ。」
楓が声を掛けると一瞬だけ動きを止めた功刀だが、そのまま海中へ潜ってしまった。
企みを阻止し、してやったりといった表情の百合香と、そのやりとりを訳も解らず眺めていた美咲。その手を繋いだままの二人を見て楓が提案する。
「じゃぁ折角だから僕の能力でコピーを試してみようか?」
その言葉に二人が振り返る。
「え?いいんですか?」
美咲が少々驚いたように言うと
「うん。功刀も言ってたけど、櫻さんが色々やってみろと言ってたんだ、何か意図があるかもしれないしね。」
と笑顔で答えた。
美咲が楓に少なからず好意を抱いている事を薄々感じて居る百合香であったが、その眩しい、裏の無い笑顔に心の中で小さな溜息を漏らしながら手を差し出した。
波が足先にかかる程度の海辺に三人並んで手を繋いで座ると、
「それじゃいくよ?」
楓が合図を口にし、百合香が頷く。
次の瞬間、美咲の意識が視界とは別にふわりと空を舞う感覚を得る。
まるで起きたままで夢を見ているような不思議な感覚。楓が千里眼で見ている景色が脳に直接広がりを見せ、現実なのか脳の中に広がる妄想の世界なのかの区別すら怪しい程だ。
美咲がその初めての体験に口をぽかんと開けて酔いしれていると、
「それで、これでもうコピー出来たのかな?」
不意に楓に声をかけられ慌てて口を閉じる。
「ううん、何かね、大体十分くらい続けないと駄目みたいだよ。」
百合香が代わりに答えてくれたので、それに合わせてうんうんと首を縦に振る。
「意外と時間がかかるんだね。」
「す、済みません…。」
「いや、謝る事は無いよ。僕が言い出した事だし、別に苦な訳じゃないからね。」
「はい…でも、あの…あ、ありがとうございます。」
そんなやり取りに時間が過ぎる。
その間にも意識は空を巡り町の全景を眺め、町の様子や自分達の位置、旅館や狸達が住んでいる森林の場所などを知る事が出来た。
「ねぇ、そろそろいいんじゃない?」
二人の間に挟まれ何となく居心地が悪かった百合香がポツリと漏らすと
「うん、時間を計ってなかったのは失敗だったけど、もう十分な時間は経っただろうね。」
そう言い、楓が能力を解く。
気が付くと視界は正面の海を見据えるのみ。いつの間にか千里眼の光景ばかりが意識を占め、自分が砂浜に座っている事を忘れていた。
突然夢から覚めたような不思議な感覚にボーっとしていると、百合香が正面から顔をぐいっと近付け、
「美咲ちゃん、大丈夫?」
心配そうに覗き込む。
それ程呆けた顔をしていただろうかと慌てて
「うん、大丈夫だよ。ありがとう百合香ちゃん。」
と微笑むと、百合香もその笑顔に安堵して微笑み返した。
そんな二人の姿を微笑ましく眺める楓。
「それで、どうかな?能力はコピー出来た?」
少し遠慮気味に声をかけると、美咲と百合香が一度楓を見て再び互いに顔を見合わせると小さく頷く。
美咲が意識を集中し、千里眼の感覚を思い出す。
固唾を飲んで見守る百合香と楓。海面に顔を出し様子を窺っていた功刀もその様子を見守っていた。
しかし…。
首を傾げる美咲。
「あれ…?ひょっとしてコピー出来なかった…?」
百合香がどことなく安心したような声で聞く。
実は百合香、『楓の能力が美咲の中に残る』というニュアンスに何となく嫉妬心を隠しきれず、失敗する事も望む所であった。
しかし美咲から返って来た言葉は
「ううん、多分コピーは出来たんだけど、見せてもらったみたいに離れないの。」
いまいち言っている事の要領を得ない物言いであったが、要約すると視界が少し上がっただけでそれ以上意識が離れないという事らしい。
「何だか背伸びしたくらい?」
そう言いながら立ち上がり、爪先をピンと伸ばし精一杯の背伸びをして見せる。
その話を聞き楓が少々考える。
「百合香、ちょっと美咲ちゃんの能力を僕に伝えてみてくれないかな?」
「え?うん、わかった。」
直ぐに美咲の手を取り楓に伝えると、楓に伝わるのは確かによく知った千里眼の感覚だ。
「うん、確かに美咲ちゃんは千里眼を使っていると思う。でも意識が美咲ちゃんから離れないのは何故かな?」
腕を組み首を傾げて考えを巡らせる。だが結局は未知の世界の未知がまた増えただけで結論など出ない。
「うん、今これ以上考えても仕方無いかな。」
楓は特に深刻さも無く軽く言う。そもそもが実験という名目であり、現状美咲に何か害があるという事も無い事から結果、これ以上の思索はあまり意味が無いとし、実験は終了となった。
その後は夕日が横から照らし付けるようになるまで海で戯れ、遊び疲れクタクタになって別荘へと戻る頃には実験の事などすっかり忘れ去ってしまっていた。
美咲達が別荘へ戻ると、櫻が出迎える。
「お、お帰り。随分遊んだね。もう少ししたら旅館に行くから、何か準備があるなら済ませておきな。」
「はい、すぐ済ませて来ます。」
「そこまで急がんでもいいぞ?」
「チェリーにご飯をあげてお留守番を頼んでくるだけですから、そんなに掛かりません。」
靴を脱ぎ、きちんと揃えながら受け答えをすると、小走りに自室へ向かう。
リビングに居たチェリーも解るのか、自然と美咲の後を追って部屋へ入ると机の上に飛び乗り、準備万端とばかりに大人しく座り小さく『にゃ』と声を掛けた。
チェリーの目の前に置かれた餌入れ皿にザラザラと食事が入れられると、待ちきれないとばかりに皿の中へ顔を入れる。
その様子を横目に見ながら美咲が猫缶を取り出すと、チェリーが尻尾を立て目を爛々とさせて顔を上げた。
「ごめんね、これはチェリーにあげる分じゃないの。」
少し申し訳なさそうに言うと、途端あからさまに尻尾を下げてガッカリする。
「ふふ、ごめんね?お詫びにおやつを出しておいてあげるから、一度に全部食べないで待ってる間少しずつ食べててね?」
そう言っておやつを取り出すと、別の皿へ出し水の横へ添える。
チェリーは餌を食べながらもその尻尾は嬉しそうに立ち、耳はピコピコと小さく揺れていた。
「それじゃ出かけてくるね。今日は明かりもつけておくから、いい子でお留守番しててね。」
猫缶を数個手にし、部屋を出る美咲。チェリーはその様子を見送ると再び餌を食べ始め、カリカリと小気味良い音を部屋の中に響かせていた。
「お待たせしました。」
美咲が玄関を小走りに駆け出ると、既に皆は車の傍に集まり乗り込もうとしている所であった。
「や、予約の時間にはまだ余裕があるし、そんなに慌てる事は無いよ。」
運転席から顔を出し大樹がフォローすると、
「まぁ早く行けばその分温泉を堪能出来る時間が多くなるというメリットもあるしな。急ぐのが悪い訳でもない。」
と櫻が嬉しそうに言う。
「ささ、乗って乗って。」
稲穂が手招きすると、美咲も頷いて後部座席へ乗り込んだ。
全員が乗り込んだ事を確認し、準備完了と各車の状況を美咲と百合香が伝え合う。
「よし、それじゃぁ出発しようか。」
大樹がシフトに手をかけると、間も無くエンジンの音が高まり車が動き出した。
車窓から流れる景色を眺めながら、昼間に見た千里眼の光景を思い出す。
(不思議…今こうして見ている場所を、全然別の所から見てたんだなぁ。)
そんな事を考えながら、いつの間にか眼下に見える夕焼けに染まる町並みに視線を奪われていると
「ほれ美咲、着いたぞ?」
櫻の声で我に返る。
「なんじゃボーっとして?遊び疲れて眠くなったか?」
「す、すみません…。」
「いや、謝る事は無い。子供は遊ぶのも仕事の内さ。」
微妙に恥ずかしく、顔を赤らめ車を下りた。
今日は少しばかり他の客も居るようで、駐車場に僅かに車が止まっている。
中には真っ赤なスポーツカーまで。
多様な客層の様子を横目に見ながら入り口へぞろぞろと歩みを進めると、昨日と同じように仲居達が出迎えてくれた。
「連日のご来館、誠に有難うございます。」
女将が大げさな程の感謝を現すと、逆に悪い気になってしまう。
「いえいえ、こちらこそお世話になる身です。宜しくお願いします。」
幹雄が代表として女将と言葉を交わすと、残りの面子は仲居に案内をされ、少ない手荷物を空き部屋へ置き早速温泉へと向かった。
途中、一行は老夫婦と思しき二人組とすれ違う。
恐らくは駐車場に止まっていた何れかの車の所有者であり、この旅館の宿泊客であろう。
温泉に浸かり揃いの浴衣姿で部屋に戻るのであろうその二人の姿を見て、この旅館の本来あるべき姿を思い浮かべる櫻。
この日に来た客が町の安全回復の知らせを受け訪れた訳では無い事は重々承知しているが、それでもこれからこのような客が増え、以前の賑わいを取り戻してくれるのならば、自らの独善で行った事にも意義があったかもしれないと小さな笑みを浮かべた。
「それではお食事は八時にご用意させて頂きます。ごゆっくりお寛ぎください。」
仲居が頭を下げ去って行くと、一行は上がる時間を決め各々脱衣所へ入って行く。
だが、女湯の脱衣所、その脱衣籠の棚の中を見て先客が居る事を察する。
「櫻さん、どうしましょう?一般の方が居ては、今の段階で野生動物の姿を見られるのはマズイのでは…?」
稲穂が困ったように言うと、櫻も少々考えを巡らせる。
しかしその籠の中に、照明の光を反射し輝く物がある事に気付くと、それに目を凝らす。
「これは…。」
それはあからさまに人の目に触れさせる為に置かれたかのようなアクセサリー。そして櫻はそれに見覚えがあった。
「なんだい、そういう事かい。」
櫻はそう呟くと、
「大丈夫。コッチ側だ。」
そう言って身にまとっていた衣服をポイポイと脱衣籠に放り込み、一糸まとわぬ姿でズカズカと浴場へ入っていった。
そんな様子を見送った後、残された四人は顔を見合わせるとそそくさと衣服を脱ぎ後に続いた。
浴場へ出た櫻が湯気の向こうに人影を見る。
「お~、やっぱりお前さんかい。」
そう声をかけると、その人影が振り向いた。
「どうも、お久しぶりです。櫻さん。」
「あら、誰かと思えば…。」
櫻の後に続いた稲穂が少々驚いたように言うと、その影から顔をひょこっと覗かせた美咲が
「え?沙羅さん!?」
と驚きの声を上げた。
「どうも皆さん、お久しぶりです。」
湯船の中から立ち上がり頭を下げる沙羅。
「本当にお久しぶりです…最後にお会いしたのはいつでしたか。」
鷹乃も頭を下げ挨拶を交わすと
「ねぇねぇ。誰?」
と百合香がその手を軽く引いて訪ねた。
その問いに、以前会った時の事を踏まえて美咲が説明をすると、
「へぇ~、霊能者…。はじめまして。あたし百合香です。」
元気な挨拶。
その様を見ただけで皆の関係性を把握した沙羅は微笑み、
「はい、はじめまして。そしてこれからは宜しくね。」
と優しく挨拶を返した。
「それで?お前さんがまさか偶然にここであたし達と遭遇した訳じゃないだろう?」
沙羅の隣りに入り肩まで湯に浸かると櫻が早速本題を聞き出す。
「はい。今日この日に、この場で、この地にとって重要な存在が誕生する…そのような気が感じられました。私は、そのお手伝いをする役割なのだと。」
吶々とそう語る沙羅。
「また抽象的な事で。」
皆が困惑する中で櫻だけはいつもの事のようにケロリと言い放つ。
「沙羅は霊感が働くと自分でも理由が解らない事に突き動かされるように行動する事があるんだよ。」
皆に説明するように櫻が語る。
「あたしと沙羅が初めて遭ったのも、何でもそういう感に導かれたらしく、この宿で出会う事になったんだ。」
昔を懐かしむように瞳を閉じて言う。
「はい、この土地は霊的な事柄が顕著に現れる場所なのです。それこそ、良い事も、悪い事も。」
生垣越しに町を見下ろし
「先日までこの町に悪い気が蠢いていたので、当てられるのを避けて近付けずにおりました。」
その言葉に美咲達には知られたく無いと顔を強ばらせる櫻達大人組。
そんな様子に事情を知っているようにクスリと笑うと
「ですが、その気も無くなり、こうして皆様の元へ参る事が出来ました。」
と皆へ向き直る。
するとそこへ見計らったかのようなタイミングで昨日の狸が姿を現した。
「あ、狸さん。」
美咲が声をかけると、『クゥー』と小さく鳴き返事をした。
「うん、ちょっと待っててね。」
そう言うと美咲は温泉の縁に置いておいた猫缶を取り出し、蓋を開けると躊躇いなく自らの掌にあけた。
「ちょっと、美咲ちゃん!?」
驚く百合香達を尻目に、その手を狸に差し出す。狸は少しだけ匂いを嗅いだかと思うとすぐに食べ始めた。
ものの一分程で食べ終え、美咲の掌までペロペロと舐めると、美咲はくすぐったそうに笑う。
「狸さん、昨日の約束って、覚えててくれたかな?」
狸の目を見て想いを伝える。
昨日よりも狸からの想いが判り易い。やはり櫻の能力が影響しているようだ。しかしそれでも櫻の能力を借りないと昨日のように会話までは至らない…そう思っていると、
「美咲ちゃん。その狸とブロッサムを重ねてみてくれないかしら?」
沙羅が突然の提案をする。
「え?あ、はい。」
一瞬理解が追い付かず、間の抜けた返事をしてしまったものの、言われるままにブロッサムを幽体のまま狸に重ねる。狸はブロッサムの姿が見えているようだが、何の抵抗もなくそれを受け入れたように見えた。
「私がこの土地の気を使い、その狸とブロッサムの魂を同調させます。ブロッサムの魂は美咲ちゃんの魂も同様。その状態であれば、会話よりも遥かに深い意思の疎通が可能な筈です。さぁ、出来る限りの言葉を魂に乗せて伝えてください。」
そう言われた瞬間、まさに狸の全てを感じるかのような感覚を覚える美咲。
頭では無く全身で理解した沙羅の言葉に頷き、伝えるべき事を伝える。
皆が固唾を飲んで見守る。
時間にして僅か数十秒。しかしとても長く感じられる空気の中、美咲が小さく『ふぅ』と息を吐いたかと思うと、肩の力を抜き、にこりとした笑顔で振り返った。
「伝えたい事、伝えられる事は、多分全部言えたと思います。」
自信を持って言うその言葉に皆、安堵のため息を漏らした。
「さて、それでは次に私の役目を果たしましょう。」
そう言うと沙羅が狸の前へ歩み寄る。その沙羅を見つめる狸の瞳には、何がしかの覚悟が宿っているようにすら見える。
そしてその前で手を組み、何やら呪文のようなものを唱えたかと思うと…特に狸に変化があるようには見えなかった。
「…何をしたんですか?」
恐る恐る美咲が尋ねる。
「この狸に、この土地の動物を束ねる神になって頂きました。」
「神?…神様?」
「はい。美咲ちゃんの魂と同調した事で人間の魂と触れる経験を経て、この狸は魂の成長をしました。そこにこの土地特有の霊力を繋いで神格化を致しました。」
淡々と説明をする沙羅。
「いや、神格化って…そんな簡単にやっていいものじゃないだろう…?」
さしもの櫻も呆気に取られる。
「勿論、私如きが神を生み出す等出来る筈もありません。しかし、その切っ掛けとなる霊気の流れを繋ぐ事は出来ます。」
温泉の縁へ座り、狸の傍らへ寄り添う。
「元々、狐狸は霊力が高く、化ける事もあるとされています。私が土地の霊気と繋いだ事で、これから先この狸は徐々に霊的な成長を遂げていく事でしょう。そしていずれは…。」
言葉は紡がずともその先は皆が理解した。
「それじゃ、この狸を祀る社も建てなきゃならんのか。」
櫻が呆れて言うと、
「いえ、流石にそれは、今の世の中では難しいでしょう。私も神事に明るくはありませんが、この狸が、そしてこの地の野生動物達が不当に害されない限りは、人間と共存していける。それで充分だと思います。」
その言葉を聞いて美咲が沙羅とは逆隣に狸に寄り添い座ると
「狸さんもそれでいいの?」
と声を掛けた。
すると、狸がまるで人間のように首を縦に振り返事を返す。
その素振りに驚愕と感心の一同。
「これで、この狸を頭とした狸達が、皆さんの計画に強力してくれる事でしょう。人間がその約束を破らぬ限りは…。」
沙羅が怪しく微笑むと、
「まだ人間は信じられる存在であると思いたいねぇ。」
と櫻も微笑み返すのだった。
一先ず狸との契約が成った事で次は旅館の従業員達との顔合わせとなるのだが、それは夕食の後という事で狸には暫く近くで遊んでいてもらう事とした。
「沙羅、お前さんも一緒にどうだい?」
櫻が手をクイっと口元に運び夕食に誘うものの、
「いえ、私は今晩こちらに到着しました折りに精進料理を頼んでおりますので、折角のお誘いですが申し訳ございません。」
そう言い、先に温泉を出るのだった。
「それなりに長い付き合いだが、相変わらずマイペースだねぇ。」
姿を消した脱衣所の方を見て呟き、
「まぁそろそろいい時間だ。あたし達も上がるとしようか。」
皆に向き直りそう言うと、一同も頷いて一斉に立ち上がり温泉を波立たせた。
浴衣に着替え廊下に出た所で男性陣と合流。事の顛末を説明していると仲居が現れ昨日と同じ小宴会場へと案内をされる。
昨日と同じ席順で功刀の目の前に浴衣姿の美咲が座る。その隙間からちらりと見える日焼け跡のついた胸元に、功刀の視線は泳ぎっぱなしだ。
美咲はそんな事は露知らず、運ばれてくる料理に目を輝かせる。使われる食材は昨日と大体同じでありながら、その料理のバリエーションは工夫を凝らしており、一人暮らしの美咲としては知識の増加に一役買っていた。
方や百合香はといえば、その食材や調理法など全く意に介さず
「美味しそ~。」
と独り言を呟きながら皿が並んでいくのを見守っていた。
一通りの配膳が終わると、皆で手を合わせ
「「いただきます。」」
の声と共に思い思いの食材に箸を付ける。
その中で幹雄が女将を呼ぶと狸に関する事柄を要点だけ報告し、食後に従業員を集めてもらう事となった。
そんな打ち合わせの最中、女将の死角で幹雄の膳に添えられた冷酒をこっそりと飲む櫻の姿があったが、他の者は見ぬ振りをしておいた。
食後。他の宿泊客への対応の合間を縫って従業員を集めてもらうと、温泉の女湯へと全員を集合させた。
この件は女将しかまだ知らぬ事であり、従業員達の中には櫻達を訝しげな目で見る者も居たが、そんな事は意にも介さず幹雄が一歩出て話始めた。
「えー、女将さんには予めお話をさせて頂いておりますので、詳細は省かせて頂きますが。」
前置きをして話を続ける。
自分達の素性、町の現状、そして狸達野生動物との距離、それらを当たり障り無く上手く説明をする幹雄。
その見た目に似合わず人あたりの良さそうな温和な雰囲気と話術で従業員達も自然と理解と納得をする。
そして最後のダメ押しとばかりに、狸を呼ぶ為に美咲に頷くと、美咲も頷き返し、近くで暇を潰していた狸にテレパシーを届ける。
ほんの数秒の後、生垣がガサガサと揺れたかと思うと一匹の狸が姿を現し、その姿を見た従業員の中には身構える者も居た。
「えー、この狸、少々普通の狸より賢く、この辺り一帯の狸の長のような位置に居る方です。」
幹雄が掌で指し紹介をする。
するとその狸が従業員達に向かってまるでお辞儀をするかのように頭を下げた。
女将を筆頭に従業員一同がザワつくが、幹雄はそのまま話を進める。
「先程もお話致しましたように、この狸達の食事と安全な遊び場を提供頂き、その代わりにこの旅館の名物となって頂く…そういう提案を狸側にも持ちかけております。」
美咲と目を合わせ頷く狸。
「ですので、旅館従業員の皆様にはお客様と狸との距離を適切にし、隣人として接して頂ければ、それ以上は望みません。」
色々と突っ込みたい事があるのだろう、従業員達からざわめきが立つ。
しかしそこを黙らせたのは女将だった。
「解りました。一先ずこの件はお客様を信じてみます。」
一同の視線が女将に集まる。
「確かに不安が無いと言えば嘘になりますが、お客様の堂々とした言葉、そしてこの狸の様子も、信じて良いのでは無いかと思えます。」
その言葉に安堵の息を漏らす美咲。
「では少々話を詰める事になると思いますので、私とこちらの櫻さんは今晩こちらに宿泊したいと思うのですが、飛び込みはOKでしょうか?」
幹雄のその言葉に女将が慌てて受け付け担当に目を向けると、受け付け担当も『うんうん』と首を縦に振り答えた。
「そういう訳です。稲穂さん、鷹乃さん、明日の朝食はお願い出来ますでしょうか?」
「はい、任せてください。」
そんな話をしている中で、狸が前足で美咲をツンツンと突き何かを言いたげに見つめた。
「どうしたの?」
美咲が声をかけるが、流石に言葉では答えは返ってこない。
ふと振り返り従業員達の様子を見る。
すると従業員達はぞろぞろと仕事へ戻り、女将が幹雄と話をしている様子。これならばと櫻にテレパシーを飛ばし呼んだ。
「どうしたんだい?」
「狸さんが何か言いたいみたいなんですけど、感じ取れなくて…。」
「あぁ、そういう事か。百合香、手伝ってくれ。」
櫻の声に百合香が頷くと、最早何をするかは解ると美咲と櫻の手を取った。
そうして再び狸との会話を始める。
だがその会話自体はあっという間に終わってしまった。
「で、狸は何を言いたかったんだい?」
櫻が問い掛けると
「なんだか、名前が欲しいみたいです。」
「なんと…動物に名前なんて概念があるとは思わなかったが、これが神格化とやらの影響という事なのか?」
「難しい事は解らないですけど、確かに狸さんじゃ呼び方に困りますよね。」
「確かにな。曲がり形にも狸達の長、更にはこれから神になっていこうという者に対して名も持たぬというのは些か格好が付かんね。」
腕を組んで狸を見つめる。
「折角だ。美咲、お前さんが名前を付けてやったらどうだい。」
顔を上げた櫻が美咲を見据えて言う。
「え?私がですか?」
「そもそもこの狸との出会いはお前さんが切っ掛けじゃないか。お前さんが子狸を助けて、食べ物をあげて、それが切っ掛けでこの狸がここへ現れてなんやかんやで神格化の切っ掛けまで与えられたんだ。名前を付けるなんてアフターサービスくらいに思えばいいさ。」
そう言われ今までの経緯を思い出す。
「私でいいの…かな?」
美咲が狸を見つめると、狸も頷く。
最早この狸が人の言葉に対して返事をしている事は疑いようも無く、それならばと意を決して名前を考え始める美咲。
しかしそれ程学がある訳でも無い十歳。気の利いた名前はなかなか思いつかない。
そんな時、少し強めの風がぶわりと吹くと、旅館の後ろ、山側に広がる森の木々がザワザワと音を立てた。
(森…。)
「狸さんはあの森の中に住んでるんだっけ?」
普通に狸に話しかける美咲。すると狸も当然のように首を縦に振って返事を返した。
「じゃぁ…『森神様』とか、どうかな?」
「流石にそれはそのまま過ぎない?」
「それに旅館の従業員達に『様』付けで呼ばせるのはどうかと思うぞ?ただの動物だと思っておるし、何の実益も無いままに神だなどと言ったら此方の頭を疑われかねん。」
百合香と櫻に突っ込まれる。
「だが、名は体を表すと言うし、その名の通りの存在になってくれる事を祈るという意味でも名前は悪くないと思うね。」
そう言って櫻は少し考えると、
「そうだ。こう…カタカナで『モリカミ』としたらどうだろう?そして敬称は親しみ易く『さん』にすれば、失礼も無いし従業員達も隣人に接するように気さくに声をかけられるんじゃないかい?」
指で空に文字を書いて見せる。
「何でカタカナ?」
百合香が美咲の背に覆い被さるように抱き付きながら櫻に問い掛けると
「森の神としての『森神』にもう一つ、守り神として『守神』という意味を持たせたダブル・ミーニングだ。それに漢字にしなければ『神』を意識させる事も少なかろう?」
再び文字を空に書きながら説明をする。
「なるほど~。」
百合香が感心すると、
「それ、いいですね。」
と美咲も納得の様子。
「狸さん、この名前でどうかな?」
そう言って、その名前をテレパシーで正確に伝える。
すると、狸の表情に明らかに喜びと思われる変化が見られた。動物の、しかも滅多に観察される事の無い狸の表情が読み取れる程だ。美咲にもハッキリと喜びの想いが伝わってきた。
「よかった…気に入ってくれたみたい。」
美咲が安堵の息を漏らすと、その言葉を確認した櫻が幹雄の元へ向かい、ちょいちょいと突く。姿勢を落とした幹雄に耳打ちをすると、その事を伝えた。
幹雄は頷き、女将に切り出す。
「えー、今決まった事なのですが…。」
そう言って狸の名前を教え、その名が狸に認識されている事を証明する為に呼びかけると明らかな反応を示して見せた。これに女将は驚きながらも、これ程賢い狸ならば大きなトラブルはそう起こらないのではないかと思えるのだった。
それから少々の間、モリカミさんを筆頭とする狸達がどの程度の頻度で旅館に現れるか、どの程度の用意をしておけば良いのか等の話し合いが、美咲達を通じ幹雄を窓口として行われ、大方の方針が決まる。
「さて、モリカミさんを交えた話はこれで大体決まりましたし、そろそろこの場は解散という事で大丈夫でしょう。」
幹雄がそう言うと、
「それじゃ、あたしと幹雄は残るから、皆は別荘に帰りな。」
と櫻に促され、男性陣を先に追い出すと女性陣は脱衣所で浴衣から私服へ着替えを済ませて旅館を出る。
駐車場へ向かう途中、美咲を追いかけて駆けてくる影。
「あ、モリカミさん。」
その影…モリカミさんから向けられた念に気付いた美咲が振り向くと、皆も足を止めた。
「どうしたの?」
しゃがみ、視線をモリカミさんに近付ける美咲。
モリカミさんは鼻先を突き出すと、何かを言いたげにスンスンと鼻を鳴らした。
「う~ん、流石に櫻さんが居ないと何を言ってるのか解らないんじゃ…。」
様子を見ていた大樹が呟く。しかし、
「ふふ、わざわざお礼を言いに来てくれたの?ありがとう。」
美咲はモリカミさんの言葉が解るかのように声をかけた。
「え?美咲ちゃん、言ってる事が解るの?」
稲穂が驚きの声をあげる。
「はい、何となくですけど。お礼と、見送りに来てくれたみたいです。」
そう言いながらモリカミさんの頭を優しく撫でた。
「どういう事…?ひょっとして、美咲ちゃんのコピー能力って感覚共有した時間が長い程強くなっていくのかしら?」
頬に手を当て考えるが、答えは出ない。
「それじゃモリカミさん、もう行くね?」
スックと立ち上がりモリカミさんへ小さく手を振ると、美咲は皆の元へ向かう。その姿にモリカミさんも片前足を上げると、左右に振って見送った。
「凄いねぇ。もう完璧に人の言ってる事を理解してるんじゃないかと思えるよ。」
帰りの車内で大樹が感心する。
「そうですね。私も殆どテレパシーを使って無かったのに言葉が通じてるみたいでした。」
にこにこと嬉しそうに美咲が言うと
「え?使ってなかったの?それなのにあんなに仲良くなれるんだ…凄い!」
美咲の腕にしがみつくように寄り添う百合香が驚く。
櫻と幹雄が旅館に泊まるという事で広く空いた後部座席に美咲一人では淋しいだろうとは百合香の談。
「本当に凄いわよね。あれだけの知能があるなら、きっと動物達のリーダーとして人間との橋渡しも出来るわね。」
「そうだね。ひょっとしたらさっき美咲ちゃんがモリカミさんの言っている事を理解していたのも、美咲ちゃんの能力というよりモリカミさんに何かテレパシー的な力が備わったのかもしれない。もしそうなら旅館の人達とも意思の疎通が出来るかもしれないね。」
そんな希望を見い出せる想像話をしながら車は別荘へと帰り着いたのだった。
別荘の玄関をくぐると、時間は既に午後十時目前。思いの外モリカミさんの件で時間をかけてしまっていた。
美咲と百合香は昼間の遊びの疲れが今更になって身体にのしかかって来たのか、それともやるべき事を終えて無意識に張っていた気が抜けたのか、一気に眠気が襲って来た。
大きく欠伸をする二人を見て稲穂が
「二人共、もう遅いから寝ちゃいなさい?」
と声をかけると
「はい…。」
「は~い…。」
と、声も弱々しく返事をして就寝の準備の為に各々の部屋へ姿を消す。
美咲が自室の扉を開けると、その足音に気付き扉の前で待っていたチェリーが飛び付いて来た。
「きゃ。」
少々驚きながらも難なくキャッチすると胸元に抱き抱え
「もう、危ないよ。」
そう言いながらも甘えるチェリーを愛おしく撫でる。
「着替えるからちょっと待っててね。」
チェリーをベッドへ下ろすと服を脱いでパジャマへ着替える。脱いだ服の中を潜って遊んでいたチェリーを肩に乗せると、服はきちんと畳んでバッグの中へ。
洗面所へ向かう途中で百合香と一緒になり、歯磨きを済ませると二人と一匹は百合香の部屋へ入って行く。
流石にすぐに寝るつもりなので二人共布団の中へ入り天井を見るが
「あ~あ、美咲ちゃんと一緒に寝るのも今日で終わりかぁ…。」
百合香が名残惜しそうに呟く。
「うん、そうだね…。ほんの数日だったけど、私…百合香ちゃんと一緒に寝るのが当たり前みたいに感じるようになっちゃってたから、何だか淋しいな。」
美咲が何気なく本音を漏らす。そして一つの考えを思いついた。
「あ。」
考えを言葉にしようとする。しかし、
(でも…私の我儘で迷惑かけちゃダメだよね…。それにもし断られたら何だか気不味くなっちゃいそう…。)
そんな考えが頭の中をぐるぐると巡る。
その時、隣りから『ふんすふんす』と荒い息を感じ顔を横に向けると、百合香が爛々とした瞳で美咲を見つめているではないか。
「ど、どうしたの?」
少々驚きながら問い掛けると、
「美咲ちゃんが『淋しい』って言ってくれたのが嬉しくて!」
と笑顔で答えてくれた。
その言葉からは嘘など微塵も感じられない。その想いが美咲に勇気をくれた。
「あ、あのね…。もし百合香ちゃんが嫌じゃなかったら…たまに私の部屋にお泊りとか、どうかな?」
意を決して先程の考えを言葉にする。すると、
「え!?いいの!?」
そう言って身体を横向きにして全身で美咲に近寄る。
「う、うん。もちろん次の日がお休みの日とかだけだけど…。」
美咲が言い終わるより早く
「行く行く!絶対行く!約束だよ!」
と興奮気味に美咲に覆いかぶさり抱き着いた。
(百合香ちゃんも私と同じ気持ちだったのかな…。)
安堵の気持ちを抱きながら、百合香の背にそっと手を回し抱き返す。
「あ、でも百合香ちゃんのご両親が許してくれるかな?」
素朴な疑問を呟くと
「パパとママは絶対に説得してみせるから!安心して!」
抱き付く力を強めて耳元で断言して見せる百合香。
その声の大きさに美咲の頭の横で眠りかけていたチェリーが起き上がり、百合香の頭を不機嫌そうに小突く。
「あたっ。」
「こらチェリー、おいたはダメだよ?」
「あはは、夜なのにちょっと声大きかったかな?」
「うん、そうだね。もう寝よう?」
「うん…そうだね。お休みなさい。」
美咲が緩める腕に名残惜しさを感じながら、百合香もその身を放すと美咲の隣りに仰向けになり瞳を閉じた。
窓の外から潮騒だけが子守唄のように響く中、二人のどちらからともなく指を絡め手を握ると、その温もりに誘われるように深い眠りへと落ちていったのだった。




