EP 5-4
海鳥の鳴く声や小鳥の囀りが聞こえる。
(あ、朝かぁ…。)
まだ眠い目を薄らと開けた美咲の視界に、そろそろ見慣れた天井が映る。
カーテンの隙間から差し込む陽の光だけが部屋の中を照らし、まだ薄暗く感じるものの時計を見てみれば既に時間は午前八時を回っていた。
既に癖になっているように、周囲にチェリーが居ないか確認しながら身体を起こすと、横で寝息を立てている百合香を見てふと思う。
(あれ?昨日はいつ寝たんだっけ…?)
唇に指を添えて首を傾げるが、布団に入った記憶が全く無い。と言うよりも昨夜の記憶が殆ど無い。
周囲を見回してみたが、そういえばチェリーの姿が無い。いつも一緒に寝ているのにどうしたのだろうと思いベッドを下りると
「…ん…。」
百合香の声が聞こえた。
振り向くと百合香がまだ半分寝ているようにぼんやりと目を開けて
「あ…美咲ちゃん…おはよう…。」
と頑張って声を出す。
そんな百合香の頑張りが何とも可愛らしく思い、クスっと笑う。
「うん、おはよう。ごめんね?起こしちゃって。」
そう言い、ベッドの上へ両膝をついて百合香に顔を近付け
「はい、おはようのチュ。」
と頬に挨拶の口付けをした。
その挨拶で百合香の眠気は完全に去り、勢いよく身を起こすと半ば興奮気味に美咲の両肩に手を添える。
美咲はそんな百合香に
「ん。」
と瞳を閉じ頬を差し出した。
夢のような状況に百合香は唾を飲み込み乾いた喉を鳴らす。
心音が高鳴る中、恐る恐る顔を近付けると、『ふにっ』と柔らかで瑞々しい感触が唇に触れる。その瞬間がとても長く感じられ、最早自分がどれだけの時間口付けをしているのか把握出来ない程であった。
「百合香ちゃん?ひょっとしてまた寝ちゃった?」
動かなくなった百合香を案じた美咲の声に我に返ると、ハッと顔を離す。
「う、うん、ごめんね。ちょっとボーっとしてた…あはは。」
そんな様子に美咲は再びクスっと笑い
「それじゃ着替えてリビングに行こ?皆の朝ご飯待たせちゃ悪いもんね。」
と言うと、再び一応の確認として部屋の中を見回し、チェリーが居ない事を不思議に思いながら部屋を出て行った。
取り残された百合香は、美咲が自ら進んで挨拶のキスをしてくれた事、される事を望んだ事が余りに嬉しく、暫しその感触の余韻に酔いしれていたのだった。
二人がリビングに顔を出すと、既にチェリーがテーブルの上で朝ご飯を食べている最中であった。
「あ、あれ?幹雄さん、すみません。私、チェリーの事、部屋の外に出しちゃってたみたいで…。」
美咲が慌てて申し訳無く謝ると
「いえいえ、この程度気にする事ではありませんよ。」
と優しく微笑み、美咲達に温めのカフェオレを差し出した。
「それにチェリーを部屋に入れさせなかったのは私達なのよ。美咲ちゃんが気に病む事じゃないわ。」
「そうそう。百合香と美咲ちゃん、疲れてたのかカクっと寝ちゃったものだから、そのままゆっくり寝させてあげようと思ってチェリーが邪魔しないようにってね。」
稲穂と鷹乃も口々にフォローを入れる。
事実、睡眠薬で眠ってたとはいえチェリーに起こされるような事になっては困ると思い隔離していたのだ。
「そうだったんですか…あれ?それじゃ私達をベッドに運んでくれたんですか?…ご迷惑をおかけして済みません!」
慌てて頭を下げる美咲。
相変わらず子供のする気遣いでは無いと、その場に居た大人達は呆れた笑いを浮かべるのだった。
そんなやり取りを見ていた百合香が
「それじゃお兄ちゃん達起こしてくるね。」
とリビングを出ようとすると
「あ、功刀は寝かせておいてあげて。」
と鷹乃に止められる。
「え?何で?」
当然の疑問を投げかける百合香。
「あの子、昨夜寝るのが遅くてね。多分今起こしても一日機嫌が悪くなっちゃうわ。」
「ふぅ~ん。」
特に何があったのかは気にならない百合香は鷹乃の言葉を受けて
「それじゃ楓兄ぃだけ呼んでくるね?」
と言うと返事も聞かずに出て行った。
「楓君も寝るのは遅かったのに、大丈夫なのかい?」
大樹が剛に耳打ちすると
「はは、楓は時計でも入ってるのかって言うくらいに生活リズムが決まってるからね。多少普段とズレが生じても直ぐに修正しちゃうんだ。」
自らの事のように誇らしげに語る剛を見て、
(ふ、しっかり父親してるねぇ。)
と櫻は安堵の息を漏らし微笑んだ。
「あれ?そういえば櫻さん、昨日の夜はお知り合いの所に泊まってくるって聞いてましたけど、随分早く帰って来たんですね。」
昨夜の記憶を手繰っていた美咲がその事を思い出し聞くと、設定を忘れていた櫻が動揺する。
「ん?あ、あぁ。ちょっと入り用な物があってね。朝イチで取りに来たんだ。またちょっと出てくるから今日もあたしと幹雄は出かけさせて貰うよ。」
「折角の旅行なのに忙しそうですね…私も何かお手伝い出来る事があったら言ってくださいね?」
余りに素直な美咲に、そのままで居て欲しいという想いと将来が心配な想いが重なり複雑な心境の櫻であった。
功刀を除いた全員が揃い朝食を済ませると、その後櫻と幹雄は昨夜の騒動の証拠として脅迫文、音声・映像のデータを持って外出。当然美咲と百合香には内緒だ。
不安要素を片付けた面々も、やっと羽を伸ばせるという事で一日目以来の休暇を満喫する事とした。
早速水着に着替えた美咲と百合香は玄関でビーチサンダルを履くと、ブロッサムを実体化させて扉を開けた。
数日ぶりに物質的に地面を踏みしめたブロッサムが楽しげに飛び出すと、美咲達もその姿を微笑ましく思いながら後に続く。
最早慣れた道を下り海水浴場へと到着すると、サンダルを適当に脱ぎ捨て波打ち際へ駆け寄り、はしゃぐブロッサムと共に海水の冷たさを堪能した。
そんな時間が暫し過ぎた頃、ブロッサムが少し沖の方に何かが波間を揺蕩っている事に気付く。
「?何があるの?ブロッサム。」
美咲もブロッサムが注意を向けた方向を向いて目を凝らしてみた。
すると、その揺蕩っているものの正体は、動物だ。力なく波に揺られているが、辛うじて身体を動かす仕草から息がある事が判る。
その様子に百合香が慌てる。
「た、大変!助けなきゃ!パパに来て貰おう!?」
確かに剛の念動力ならば簡単に助けられる。しかし今から来てもらうとなると、いくら見える建物からでも数分の時間はかかってしまうし、驚いて暴れて少ない体力を消耗してしまうかもしれない。
迷ってる時間が惜しい。美咲はブロッサムと見合うと、互いに小さく頷いた。
「行って!ブロッサム!」
手をかざし声を上げ命じると、ブロッサムの姿が成犬の大きさになり、瞬時に目的の動物の居る場所に姿を移した。
その動物を下から持ち上げ背中に乗せると、見事な犬かきで海岸まで泳ぎきる。
その背に乗っていたのは、狸の子供であった。
「わ、たぬき…?どうして海に?」
驚く百合香。
「多分餌を探してて海に落ちちゃったんじゃないかな?」
そう言いながら美咲はテキパキと子狸の身体を自らのタオルで拭いて水気を取ると、ぐっしょりと濡れたタオルを放り、
「ごめん、百合香ちゃんのタオルも貸して貰えるかな?」
と申し訳無さそうに言う。
「勿論。遠慮なんてしないでよ。」
言うが早いか取り出したタオルを美咲に手渡すと、それで子狸を巻き、更に美咲が抱きしめる。
百合香がその行動の意味を測りかねていると、その視線に気付いたのか
「この子、何処も怪我をしてないみたいだし、弱っているのは体温が下がってるからだと思うの。だからこうやって温めてあげようと思って。」
と言いながら、抱きしめつつタオルで優しく摩擦をし続ける。
そんな様子に百合香が
「ママ、呼ぶね。」
と提案をすると、美咲が
「あ、それならチェリーのご飯の猫缶を一つ持って来て欲しいかな。お願い、出来る?」
と首を傾げた。
そんな美咲の仕草に鼓動が跳ねた百合香がコクコクと首を縦に振りテレパシーを飛ばすと、五分程して鷹乃が到着した。
「お待たせ。…緊急だって言うから急いで来たけど、これはどういう状況?」
タオルに包まれ顔だけを出しプルプルと小刻みに震える子狸と、それを抱き抱える美咲。その横にはちょこんと座って大人しくしている、既に子犬の姿に戻っているブロッサムに、反対側には百合香が寄り添っている。
「ママ、実はね…。」
百合香が事の顛末を説明すると
「ママの能力でこの子を治せないかなぁ?」
と子狸を不安な目で見つめて言う。
そんな百合香の様子に鷹乃は
「ごめんね、私の能力では、傷は治せても体力を回復させる事は出来ないのよ。こればかりはその身体の持つ生命力に期待するしか無いわ…。」
そう言って申し訳なさそうに息を吐いた。
そんな重い雰囲気の二人に対して美咲は
「大丈夫だよ、百合香ちゃん。鷹乃さん、猫缶持ってきて貰えましたか?」
と不安の無い表情で口を挟んだ。
「え?えぇ。はい、これ。」
ポケットに入れてあった猫缶を取り出すと美咲に手渡す。
「ありがとうございます。」
砂浜に座り膝の上に子狸を乗せると、落とさないようにバランスを取りながら猫缶を受け取り、そのまま『カパッ』という音を立てて蓋を開けた。
そして指で一掬いすると、子狸の顔の前へ差し出す。
子狸がそれをスンスンと嗅ぐと、視線を追わせるようにゆっくりと指を移動させ、美咲は自らの口にパクリと入れてしまったではないか。
「ちょっと、美咲ちゃん!?」
驚く百合香。
だがそんな百合香の反応に目で応えると、美咲は優しい微笑みを子狸に向け、再び指で一掬いすると今度はその口元へ指を運んだ。
再び匂いを嗅ぎ、警戒気味にも舌をチロリと出して猫缶に触れると、危険なものでは無いと判断したのだろう、そのまま舌で掬い取って一飲みしてしまった。
「うん、体温も戻って来たみたいだし、ご飯も食べれるみたい。」
美咲はそう言うと子狸を包んでいたタオルを解き、少しずつ缶の中身を手で取り与える。
「すご~い。ちょっと前まであんなに弱ってたのに…。」
百合香が驚く程にあっという間に一缶を空けてしまう食欲。
「それにしても、この子野生の狸でしょう?餌を与えてしまって大丈夫なのかしら?」
鷹乃が頬に手を当て心配気に呟くと
「それが、何だか最初からあまり人を怖がってない感じなんです。野生っぽいんですけど、ひょっとしたら人の居る場所に慣れてるのかもしれません。」
そう美咲が答えた。すると食事を終えて少し体力が回復したのか、子狸はまだ少々フラつく足取りで砂浜を歩き始める。
「あら…何処かに行っちゃうのかしら?」
「日中はおとなしくしてる動物ですし、多分お家に帰るんだと思うんですけど…。」
そんな会話をする美咲達をチラチラと振り向き窺いながらも歩を進める子狸。
「あ、あそこ…。」
百合香が指差す。その先には岩場の陰に隠れてこちらを窺う数個の影。
「きっと家族が探してたんだね。私達が居たから出て来辛かったのかも。」
そう言って美咲が眺めると、岩陰に見える姿は母親と思しき成獣が一匹と、兄弟であろう子供が二匹。
助けた子狸が美咲達から程よく離れた所でその親狸が岩陰から飛び出し、駆け寄った。子狸の匂いを嗅ぐと子の安全を確かめるように身体をすり寄せる。
そうして少しした後、親狸は美咲の方を少々見つめる。美咲がその視線に微笑みかけ、小さく手を振り『ばいばい』と声に出さず口だけを動かすと、親狸は意図が通じたのか子狸を連れて再び岩場の方向へ姿を消したのだった。
「…行っちゃったね…。」
百合香が少し残念そうに呟く。
「うん、でも野生の動物だから、それでいいんだよ。」
美咲はあっけらかんとした感じだ。
「美咲ちゃんは随分ドライなのねぇ。」
少々驚きを隠せない鷹乃の言葉。
だが美咲にとっては昔からの野生動物達との付き合い方であり常識であったため、イマイチ意味を理解出来ず、微笑みのままに首を傾げるのみであった。
「それよりもごめんね、百合香ちゃん。百合香ちゃんのタオル、沢山擦ったからあの子の抜け毛がいっぱい付いちゃって…。」
腕にかけていたタオルを広げると確かに子狸の抜け毛がそこかしこに付着している。だが百合香もそんな事を気にする質では無い。
「ううん、気にしないでよ。あの子を助けるのに役に立ったんだからさ。」
そう言った矢先に『へっくちっ』とクシャミが出た。
いくら夏の日差しがあるとは言え、濡れた水着をまとったままで海風を浴びていたせいで少々身体の芯が冷えたのだろう。
「あなた達、今日はもうあがっちゃいなさい。タオルは新しいの出して来るから、その間に身体に付いた砂を流しちゃってて。」
鷹乃がそう言い残して足早に別荘へ駆けて行く。
残された二人は互いに顔を見合わせると、もう少し遊びたかったという表情にクスリと笑い合い、タオルを拾うと砂浜を後にした。
その後ろ姿を岩陰から見送る狸達の姿があった。
一方、櫻と幹雄は地元警察へ昨夜の事の顛末を伝え終え、一仕事終えた開放感を噛み締めながらのんびりと別荘へ歩いていた。
「所長が手を回してくださったお陰で随分とスムーズに終わりましたねぇ。」
櫻の歩幅に合わせてゆっくりと歩きながら幹雄が言う。
「そうだねぇ。流石に色々と説明に苦しい部分があったのに、よく納得させてくれたもんだよ。感謝感謝。」
櫻が冗談のように両手をパンパンと合わせ適当な方角に拝むと周囲の町並みを見回した。
「それにしても…この寂れっぷりがあの連中のせいもあったとは。」
閑散とした駅前商店街。いや、既に『元』商店街としか言い様の無い程のシャッター通り。そこを横切る大通り沿いも、路地へ入った飲み屋街も、全ては過去のものと言った程に寂れている。
元々田舎町であり、それ程外からの客があった訳でも無く、更にはバイパスが通り人通りが減っていた所へダメ押しにあの無法者達が台頭し始めたという事だった。
元々地元で手の付けられない程の悪ガキだった西田は、歳を重ねても性格そのままに身体だけが大きくなったような男で、暴力で周囲の人間を従わせながらも自らには危険が及ばぬよう身を潜めていたという。
更には必ず従わせた相手の弱みを握り、逆らえないように縛り付けていたようだ。
周辺の住人も脅され、好き勝手に電気を盗まれたりしつつも目を瞑るしか無かった。
せめてもの抵抗にと、地元住民はこれ以上被害者を出さない為に地元への観光客誘致を一切止め、滅びるままになろうと半ば自暴自棄になっていたのだというのだ。
田舎故に年寄りばかりが多く、現代的な文明の利器を活かした外部へのSOSが発信出来なかったのも運の悪い事であった。
「ここまで寂れてしまいますと、これから盛り返すのは難しいでしょうね。」
「だが足かせだった連中が居なくなったんだ。せめて残りの余生くらいは羽根を伸ばして生きて欲しいね。恐らく頭を張ってたあの男は十年単位で出てこられないだろうし、な。」
櫻の読心術によって、西田が持っていた被害者の弱みを握る為の諸々の隠し場所が判明すると、それらは西田の最大の武器から一転して最高の物証となった。
その数は驚く事に大小合わせると数百点にも上り、被害者の中には櫻の予想通り身を滅ぼした者まで居た事が既に判明していた。
櫻は苦々しい表情を浮かべ
「あの程度では生温かったか…意識のある内にもっと地獄を味わわせてやるべきだったよ、まったく…。」
と大きな溜息をつくと
「ま、済んだ事はもういい!今日は温泉に浸かってさっぱりと気分をリセットだ!」
顔を上げ、高らかに腕を突き上げると、大きな声で自分に言い聞かせた。
大きな欠伸をしながらのそりと起きてきた功刀を交えて、美咲達が昼食の素麺を啜っていると、櫻と幹雄が帰って来た。
「あ、櫻さん、幹雄さん、お帰りなさい。」
気付いた美咲が箸を止めて声をかける。
「お、昼は素麺か。いいねぇ、日差しの中を歩いてきたから、こういうサッパリしたモンが嬉しいね。」
櫻が腰に手を当てニシシと笑うと
「あぁ、櫻さんごめんなさい。今茹でますね。」
と稲穂が慌てて席を立とうとした。そんな様子に幹雄が
「いえいえ、大丈夫ですよ。稲穂さんもゆっくりと食べていてください。」
と手を小さく前に出して制止する。
そしてワイシャツの腕まくりをすると調理場へ向かい、ものの数分で二人前の素麺を用意して来た。
「幹雄さんてお料理もテキパキ出来て凄いですね。」
美咲が感心して言うと、
「はは、私も若い頃は料理なんて全然出来なかったんですよ。」
と幹雄が返す。
「え?そうだったんですか?」
驚く美咲。
「まぁあたしの教育の賜物ってヤツだね。」
自慢気に櫻が口を挟むと
「櫻さんがろくな料理を作れないので私が上達するしか無かったんですよ…。」
と呆れ気味に呟く幹雄だった。
「こういうのは慣れだから、普段からやっていれば自然と手際良くなるものよ。」
「そうそう、美咲ちゃんも普段お料理してるんだから、その内もっと上手くなるわよ。」
稲穂と鷹乃がそう言うと、美咲も将来に希望を持てたのか笑顔が浮かぶ。
そんな話を素麺をすすりながら聞いていた功刀。
可愛らしいエプロンを身に纏い、自分に料理を作っている美咲の姿を想像して慌てて頭を振り妄想を払おうとする。
そこへ更に追い打ちをかけたのが櫻の一言だ。
「今晩は皆で温泉に入りに行こうと思う。」
『温泉』
その単語を聞いた功刀は、脳内にあった美咲のイメージがそのまま水着姿から判明しているボディーラインへと変化。
体温が上がり顔を赤くし、視線だけを美咲に向けると、それに気付いた美咲と目が合った。
功刀が慌てて視線を逸らすと、美咲は小さく首を傾げるだけで特に追求する事も無く
「温泉ですか?」
と櫻に聞き返した。
「あぁ、この町には温泉旅館があってね、そこは日帰り入浴も出来るし食事も取れる。夕飯はそっちで頂こうと思ってね。」
素麺を啜りながら説明をする。
「温泉の効能は美肌効果がある…らしいぞ?」
その言葉を聞いた途端に、稲穂と鷹乃の眼光が鋭く光る。
「それはそれは…では早速向かいましょうか?」
稲穂がスっと立ち上がると
「おいおい、まだ昼食を取ったばかりだろうに。それに予約を入れてあるから今から行っても食事の用意は出来とらんぞ…。」
と呆れ顔の櫻。
そんなやりとりの中で美咲が口を開く。
「あの、チェリーは連れていけませんよね…?」
食堂の隅でカリカリと音を立てながら餌を食べているチェリーを見て心配そうだ。
「まぁ流石に一緒に連れては行けんなぁ。」
櫻はそう言いながら素麺を食べ終え椅子から下りると、チェリーの傍へ歩み寄り
「だがそう遠い場所でもない。温泉に浸かって食事を頂いて、移動も含めたって精々二~三時間程度だ。その間は留守番をして貰おう。」
と言って申し訳無さそうにチェリーに微笑みかけると優しく頭を撫でた。
そんな櫻の言いたい事が分かるのか、チェリーは『にゃ』と小さく返事を返す。
その様子に美咲も、
「…そうですね、チェリーは賢い子ですから、大人しく待っててくれますよね。」
と納得し、首を縦に振るのだった。
昼食を終え美咲と百合香がリビングでカードゲームを楽しんでいると、
「あれ?お前ら今日は海行かないのか?」
と功刀が声をかけてきた。
「うん、今日は午前中の内に遊んで来たから、ね。」
百合香が美咲と相槌を打ちながら返事を返すと、
「そ、そっか。」
少々不満そうな顔の功刀。
するとそこに楓が
「それじゃ良かったらちょっと僕の手伝いをしてくれない?」
と姿を現し三人に声をかけた。
「お手伝い…ですか?」
美咲が首をかしげる。
「うん、こっちに来てから練習をサボってしまっていたからね。」
と言うと手に持っていた竹刀を美咲達に見せた。
「あ~、そういえば楓兄ぃ全然練習してなかったね。」
百合香が納得行ったように声にすると
「うん、ちょっと身体が鈍ってしまったと思ってね。水泳なら全身運動になるだろうからと油断したのが悪かったかなぁ?」
そう言って楓は困り顔で頭を掻いた。
「はい、私に出来る事だったら何でもしますけど…。」
(何でも!?)
美咲の言葉に功刀がギョっとする。
「うん、ありがとう美咲ちゃん。」
笑顔で礼を言う楓に美咲は何となく照れくさく俯いた。
「百合香と功刀は?」
二人に向き、爽やかに問い掛ける。
「あたしも別に用事がある訳じゃないし、いいよ~。」
「お、俺もいいぜ?」
楓がその言葉に微笑み頷くと
「それじゃ、外に行こうか。」
と皆を先導するように歩き出した。
別荘玄関から少し離れた場所。楓は林の傍に三人を引き連れて来ると、
「それじゃ済まないけど、百合香と美咲ちゃんは林の中から松ぼっくりを、功刀は適当な小石を集めてきてくれないかな。」
そう言って自らは膝に手を付き、ウォーミングアップの屈伸運動を始めた。
頼まれた物を探しに林の中へ入った美咲と百合香。
「松ぼっくりなんて何に使うのかなぁ?」
唇に人差し指を添えつつ疑問を呟き、顔をきょろきょろとさせ目的の物を探す。
「ん~、あたしは何となく分かるけど、それは後のお楽しみだね。」
百合香は何となく楽しそうだ。
「あ、あった!」
足元にあった松ぼっくりを拾い、美咲に見せようと振り向いたその時、美咲の肩に蠢く八本足の影が見え『ヒッ!』と思わず息を飲んでしまった。
「?どうしたの?」
美咲が不思議そうに尋ねると
「あ、か、肩に…蜘蛛が…。」
恐る恐る指す指が震える。
「え?」
美咲が顔を少しだけ動かし視線で肩を確認すると、確かに小さな蜘蛛がそこには居た。
だがその姿を確認すると、美咲はそっと手を添えてその蜘蛛を誘導し、手の甲から傍の木へと渡すと何事も無かったかのように見送った。
「ありがとう、気付かなかったら潰しちゃってたかも。」
と百合香に礼を言う美咲だったが
「え?そっち?」
と百合香は驚くばかりだ。
「そっち?って?」
美咲が首を傾げ聞き返す。
「え、だって、蜘蛛だよ?怖くないの?」
余りに平常心な美咲に当てられて百合香の声も冷静になっていく。
「うん、今の蜘蛛は毒も無いし怖い事なんて無いよ。」
そう言って蜘蛛が上っていった木を見上げた。
「美咲ちゃん、そういうの分かるんだ…。」
百合香が感心すると
「昔よくこういう所で野生の動物達と遊んでたから、身近な所での危険な生き物とかは少し勉強したの。だから蛇とかも少しは判るよ。」
「へ、蛇!?」
美咲の言葉に再び平静が崩れた。
「うん、でも蛇はちょっと、テレパシーでもなかなか想いを伝えるのが難しかったなぁ。絡みつかれて大変だった事があるの。」
首から肩、そして脇へと指でラインを辿って説明する。
「いくら離れてって言っても聞いてくれなくてね、仕方なくそのまま帰ったら皆に驚かれちゃったなぁ。大人の人達が慌てて手を伸ばしたら、ビックリして逃げて行っちゃったんだよね。」
美咲は笑い話のように微笑んで言う。
「へ…へぇ…。」
そんな様子に百合香は引きつった顔で相槌を打つしか無かった。
美咲はワンピースのスカートを、百合香はTシャツの裾を使って松ぼっくりを持ち、楓が柔軟体操をしている場所へ戻って来た。
すると丁度功刀も手頃な石を集め終え、両手に抱えて林の中から抜け出て来た。
「あ、功刀兄ぃも丁度出てきた。」
その百合香の声に美咲も身体を向けると、スカートをたくし上げた姿が正面から功刀の瞳に映る。
功刀は動揺し、抱えていた小石が腕の中から零れ落ちると、その両足にボコボコと当たった。
「…~~!!!」
声にならない声を喉から搾り出し顔を紅潮させて蹲る。
それはそうだろう。小石とは言え掌に一つ握れる程の大きさ、それを両手で抱える程の量を、それもサンダル履きであった足の甲や指先に食らってはたまったものではない。
「だ、大丈夫ですか!?」
美咲も慌てて声をかけるも、両手が塞がっていてどうする事も出来ず慌てる事しか出来ない。
それに対して百合香は呆れ顔で眺めるばかりだ。
「功刀、大丈夫?母さんに治して貰って来なよ。」
楓に言われると大人しく頷き、足をひょこひょこと引きずりながら別荘の中へ戻っていった。
「あ、二人も持って来た物は下に置いておいていいよ。」
功刀を見送った楓が振り返り美咲と百合香に声をかける。
二人は言われるがままに足元に集めてきた松ぼっくりをバラバラと落とすと、裾をパンパンと手で払った。
髪が靡く程度には風が吹いているものの、夏の日差しによって地面が熱を帯び、アスファルトからジリジリと暑さがせり上がってくる。
美咲と百合香が林の中へ避難して涼んでいると、治療を終えた功刀がやっと戻って来た。
「おかえり。」
竹刀を腰に当て身体を捻り、柔軟を行っていた楓が言うと、
「おう。」
と素っ気なく、だが決しておざなりではない声で返す。
その様子に大丈夫と判断した楓が、美咲と百合香を手招きし
「それじゃ、ようやくだけど始めようか。」
と声をかけた。
「それで、何をすればいいんですか?」
美咲が疑問を口にすると
「まずはその辺に立ってくれないかな?」
と、先程松ぼっくりを置いた辺りを竹刀で指し、楓自信は距離を取り始める。
言われるままにその位置へと着く美咲。
「それじゃ、そこから僕に向かってそれを投げてくれるかな。」
振り向き竹刀を構えた楓のその言葉に
「えっ?」
と間の抜けた声を上げてしまった。
そして自身の両脇を見ると、百合香と功刀は何をやるのかを承知していたように、松ぼっくりと小石を手に持ちポンポンと弄んでいた。
言われるままに足元の松ぼっくりを数個拾い上げた美咲が心配そうにその手の中のそれを見つめると、
「大丈夫だよ。こんなの当たったって痛く無いし、心配無いって!」
明るく言う百合香。
「そうそう、気にせず投げればいいんだ。兄貴はお前のへなちょこ球になんて当たらねぇから心配すんな。」
功刀がそう言うと、百合香の鋭い視線が突き刺さるのを感じて楓の方へ視線を逸らした。
「美咲ちゃん、こういう事だよ。」
と言うと百合香は大きく振りかぶり手にした松ぼっくりを楓に向かって投げつける。
とは言え、女の子の投げるものだ。それ程直線的では無く、ゆるりと弧を描いて飛んでいく。
それを楓は微動だにせず見据えると、構えた竹刀で軽やかに打ち落とした。
美咲の小さく開いた口から『はぁ~』と驚きと感心の吐息が漏れる。
「さ、どんどん投げて。」
楓に催促され、何をするのかも把握した美咲が百合香を真似て松ぼっくりを投げ始めると、両脇の二人もタイミングをずらし投げ始めた。
これを楓は最小限の動きで撃ち落とし、時に躱しながらジリジリと距離を詰め始めた。
同時に飛んでくる物体は精々三個。それらを瞬時に打ち落とす物と避ける物に判別し、最適な動きを繰り出す。
避ける、落とす、両方で優先すべきは功刀の投げる石だ。威力も速度も松ぼっくりの比では無い。だが敢えて投げる本人には集中せず、飛来物のみに意識を向ける。
こうする事で動体視力と判断力を鍛え、尚且つ剣道の足捌きの上達も促そうという訳だ。
とは言え、楓は別に達人でも何でも無い普通の高校生だ。部内では一段飛び抜けた技量を持つものの、まだまだ未熟。
徐々に飛来物の到達速度が早くなってくると、流石に避けきれずに身体にポコポコと当たる物が出てきた。
それでも最低限、功刀の投げる小石のクリーンヒットだけは避けるべく集中力を高める。
だがその気迫に、美咲が気圧され自然と投げるフォームが弱々しくなると、それまでと違う速度の松ぼっくりが飛んできた事によってペースを変えられた楓は瞼の上にそれを食らい思わずその目を閉じ、意識を逸らしてしまった。
そして次の瞬間、功刀の投げた小石が右肩に強く当たり、手に持っていた竹刀を落としてしまう。
三人の投げる手が止まる。
「あ…!だ、大丈夫ですか!?」
思わず駆け寄る美咲。それに続き百合香と功刀も駆け寄る。
「兄貴、大丈夫か!?」
功刀の申し訳なさそうな声に
「大丈夫だよ。気にしないで。ちょっと油断してしまったんだ。」
と竹刀を拾いながら優しく応えるが、心の中では自らの未熟を痛感していた。
そもそもこの練習をしようとした切っ掛けは昨夜の不審者達であった。
二対三、それも幹雄が居る状況で何も問題の無い相手ではあったが、超能力を使わず体術で打ち負かす事が前提であった。その為、部活動レベルとは言え武道を嗜む楓は戦力として重要な位置に居た。
だが、幹雄が一人を抑えている間に功刀と二人がかりで向かったもう一方の相手を無力化させる事が出来ず、結果として取り逃してしまう。
もっと的確に相手の要所に打ち込む事が出来ていれば…。生真面目な楓は自らの不甲斐なさが悔しかったのだ。
思い出し、拳を握る。すると竹刀を握っていた掌が汗にまみれている事に気付き、額からも雫が垂れると地面に落ちた。
ふと気付くとアスファルトから陽炎が立ち上っている。
流石に夏の日差しの中でこれ以上続けるのは良く無いと判断。
「それじゃ切りが良いし、ここまでにしておこうか。皆、付き合ってくれて助かったよ。」
そう言って自身の後方へ飛んでいった小石と松ぼっくりを拾い集め始めた。
「あ…。」
美咲もそれに倣い、残り少ない足元の松ぼっくりを拾い上げると、林の中へ戻す。
百合香と功刀も互いに顔を見合わせると、美咲に続いて片付けを始めた。
そうして拾い集めた物を林の中へ戻し、別荘内に戻ると時計は既に午後三時を指していた。
「随分長い事やってたねぇ。」
櫻がリビングのソファーにくつろぎながら、部屋に入って来た四人に声をかける。
「はい、美咲ちゃんが手伝ってくれたので、いつもより難易度が上がってやり甲斐があったのが楽しくてつい。」
楓が笑顔で答えた。
「夢中になれる事があるのは良い事ですが、熱中症には気をつけてくださいね。」
そう言って幹雄が四人分の麦茶を持ってきてくれた。
「流石幹雄さん、気が利くなぁ。」
功刀が我先にとコップを受け取ると、ゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み干す。
「ありがとうございます。幹雄さん。」
礼を言い、美咲は両手でコップを二つ受け取り、百合香へ手渡した。
「あ、ありがとう、美咲ちゃん。」
その姿を見て百合香が
「功刀兄ぃ、行儀悪い…。」
と冷たい目で功刀を見ると
「う…。あ、アリガトウゴザイマス。」
と恥ずかしそうに声を絞り出した。
「はは。あ、どうもありがとうございます。」
そんな様子を笑いながら楓もコップを受け取ると、半分程を一気に喉に流し込み、『ふぅ』とやっと一息付けたとばかりに肩の力を抜いた。
「それにしても、窓越しに見ていたが普段からあんな練習をしてるのかい?」
大樹が楓に声をかける。
「いつも、という訳では無いですけどね。ちょっと集中力を高めたい時に二人の暇が合えば手伝って貰っていたんです。」
そう言い、百合香と功刀を見た。
「今日は更に美咲ちゃんも居てくれましたからね。」
と美咲に目配せをすると、美咲は何となく照れくさく俯いてしまった。
「いやぁ、多分我流だと思うけど、高校生であれだけの事が出来るってのは凄いね。」
感心する大樹。
「そうだ、大樹、お前さん後で楓と一本勝負してみたらどうだい?」
突然櫻が提案する。
「「え?」」
大樹と楓が声を揃えて驚いた。
「いや、櫻さん…突然そんな事言われても竹刀は流石に二本も持ってきて無いでしょう。ねぇ?」
楓に同意を求めると
「え、えぇ。僕は自分の分しか。」
素直に頷いてみせた。
「大丈夫。竹刀ならここの物置にあった筈だ。なぁ?幹雄。」
「えぇ、確かありましたね。」
そう言われ
「何でそんなモン置いてあるんだよ…。」
と突っ込まずには居られない功刀だった。
「大体、何で大樹さんなんだよ?」
功刀が疑問を呈すると、
「前にも言っただろう?大樹君は護身術を身につけてるって。確か柔道、剣道、合気道…だっけ?」
と剛が口を挟んだ。
「確かにそうですけど、もう練習しなくなって随分経ちますからね。楓君の相手が務まるかどうか…。」
大樹は頭を掻き苦笑いをする。
「なに、きっとまだ身体は錆び付いてませんよ。」
昨夜の動きを思い出し、剛がウィンクして見せると、
「はぁ。それじゃぁ…楓君さえ良ければ少々お手合せしてみようか?」
と提案する。
「はい、こちらこそ是非お願いします。」
快活な声で楓が返すと、その若さに当てられた大樹も内から気力が湧いてくるように感じ笑顔を浮かべるのだった。
午後五時を回り、別荘の影が日陰を作る。
その中に大樹と楓が竹刀を携え向かい合っていた。
それ程張り詰めた空気は無いものの、手を抜く事を失礼と承知している大樹と、真剣に向き合う楓。互いに礼を交わす。
「えーっと、いくら町との間に林があるとは言え、大声を出すのは迷惑になるから…楓君にはやり辛いかもしれないけど我慢してくださいね?」
そう言って大樹が前に進むと、楓もそれを受けて距離を詰めた。
「はい、元々足場の状態も違いますからね。剣道というよりは実践的な打ち合いという感じで良いと思います。」
と返し、剣先を合わせ腰を落とした。
その姿を皆が見守る中、櫻が代表として一歩前へ出ると
「始め!」
と開始の合図を発する。
すると真っ先に打ち込むかと思われた両者は一旦歩を下げ、互いの出方を窺うようにしながら体勢を整える。
大樹は楓の行動、性格から性質を読み、なるべく自ら攻める事を控える作戦に出た。そしてそれは的確な判断であった。
楓はそもそもとして『受け』の質である。相手が打ち込んできた処を捌いて打つ。それが今まで培ってきた自身に合う戦術であった。
だがそれ故に、昨晩は不審者を捕り逃す事となった。
今目の前に居る大樹はどう動くのか?逃げに徹するつもりか、隙を窺い一気に飛び込んで来るのか、そんな考えが楓の頭の中に巡る。
そんな思考を揺さぶるように、大樹は左右への揺さぶりをかけながら距離を一定に保ちつつ、剣先をゆらゆらと上下させる。
(大樹さんは恐らく真剣に向き合ってくれている筈…なら、逃げまわるような不誠実な事はしないだろう。)
楓が意を決して距離を詰めると、大樹は引かずに迎え撃つ姿勢を見せる。
その意を汲むと、楓は大きく踏み出し鋭い小手を打ち込む。
しかし大樹はそれを躱さず小さく引いて剣で受け流すと、体勢の崩れた楓の面を狙い振り下ろした。
咄嗟に楓も踏み止まり、姿勢を下げつつ剣を躱すと、そのバネを利用して地面を蹴り後ろへ飛び退く。
だが一撃を凌いだ安堵の溜息を出す暇も無く、大樹の剣が軌道を変えて楓の手元へ迫って来た。
合わせて剣を立て右へ打ち払うとそのままに胴を狙う。しかし体勢が整わないままには勢いを込める事が出来ない。
大樹がステップでその剣を躱すと再び互いに距離を取り、体勢を整える事となってしまった。
普段は小さな動きで成果を狙う楓にとって、自らが攻める動きは思うよりも体力を消耗する。たった数手の一連の動きで体温が上がっていた。
対する大樹は開始時から表情を変えるような事も無く平然としている。
(恐らく大樹さんは攻めて来ない。僕が攻めを苦手にしている事に気付いている?だけどこのままじゃ決着が付かない…。)
楓が大樹の剣先を見据えて思考を巡らせる。だが結局出た結論は攻めるしかないという事だった。
幾度も打ち込んでは躱され、流され、逆に窮地に陥る。何とか耐え凌ぐも再びスタートに戻される。
楓の息が上がる。肩で呼吸をする程に息が乱れていた。汗がこめかみを伝う。
その時、今まで待ちに徹していた大樹が勝機とばかりに一気に距離を詰めた。
驚きと同時にチャンスを得た楓は、最後の気力を振り絞り冷静にその動きを見極め受け流す事に集中した。
だがそれすらも大樹には見通されていた。楓の受け流しに合わせ剣を沿わせ回すと、逆に楓の剣がいなされ、その隙を突き小手面の二段を鮮やかに決めた。
打ち抜き、残心し振り向く。
「一本!それまで!」
櫻の声が響くと、楓は打ち込まれた事実にハっと顔を上げ、手首と頭部に残る竹刀の衝撃を認識した。
互いに初期位置へ立ち直り、礼を交わす。
すると突然に大樹はだらりと肩を落とし、
「っはぁぁ~…疲れたぁ~…。」
とだらしない声を出すではないか。
先程までまったく表情を変えず、それどころか汗すら流さず集中力を維持していた人物とは思えない程だ。
「楓君、打たれた所は痛くないかい?加減をする余裕が無かったので打ち身とかになってないと良いんだけど…。」
「いえ、大丈夫です。お手合せありがとうございました。」
どちらともなく手を差し出し握手をすると、微笑みが溢れた。
「いやいや、なかなか良い勝負だった。」
櫻が褒め称える声と同時に幹雄がタオルを二人に差し出すと、小さく礼をして受け取り汗を拭う。
「どうだい?楓。何か得る物があったら重畳。そうでなくとも良い練習になったんじゃないかい?」
その櫻の問いに
「今はまだはっきりとは分かりませんが、後で振り返って何が得られたかを考えてみようと思います。」
と笑顔で答える楓。その言葉に満足したのか、櫻はそれ以上何も問いかけず頷くだけであった。
「さて、面白いもんも見れたし、そろそろ良い時間だねぇ。」
携帯電話の時計を見て櫻が軽い声を上げる。
時刻は午後五時半過ぎ。あれだけの攻防があったにも拘らず、時間はそれ程経っていなかった。
「それじゃ、ちゃちゃっと準備をして温泉に浸かりに行こうじゃないか。」
その櫻の言葉で稲穂と鷹乃のテンションが上がる。
「あ、それじゃぁ、チェリーにお留守番しててって言って来ますね。」
と美咲が駆け出す。その後を皆もぞろぞろと付いて別荘の中へ入っていった。
リビングで寛いでいたチェリーを抱き抱え、自分の部屋へと連れて行くと水を新しくして餌入れに少量のオヤツを入れておく。
「いい子でお留守番しててね?」
チェリーの頭から尻尾までをひと撫でし、着替え等を準備すると小さなバッグに入れ、ひらひらと手を振って部屋を出た。
玄関前へ戻ると皆も既に準備を終えて美咲待ちの状態。
「すみません、遅くなっちゃって…。」
皆を待たせてしまった事に罪悪感を感じ、肩をすくめて俯き、思わず謝罪の言葉が口をついて出る。
「別にそんなに待ってないし、謝る必要は無いわよ。」
稲穂がフォローすると
「そうそう、謝るべき時に謝れないよりは余程良いけど、必要以上に謝るのもそれはそれで相手に対して失礼な時もあるからね。」
と大樹も付け加える。
「要するに、あたしらにそんな遠慮するなって事だよ。」
櫻が締めの言葉とばかりに言うと
「櫻さんは美咲ちゃんを見習って、もう少し謙虚になってくださいね。」
と幹雄に突っ込まれ、周囲から笑いが起きた。
そんな様子に美咲も顔が綻び、
「はい。」
と一言、笑顔で答えた。
移動には車を使用する。
徒歩でも三十分程度で到着出来る距離ではあるが、何も無理に疲れを溜める必要も無い。
「食事の予約は七時を指定しておいたんでね。今から行って温泉にゆっくり浸かれば丁度いい時間さ。」
そう言って車に乗り込む櫻。それを合図に皆も続々と乗り込む。
運転手である大樹と剛は既に温泉旅館の場所を把握しているので、移動はとてもスムーズだ。何の問題も無く到着した。
駐車場へ車を止め、皆が旅館の入り口を潜ると仲居が出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました。」
深々と礼をされると、美咲達も誰からともなく礼で返した。
早速温泉へ案内される一行。
露天風呂の入り口へ到着すると、『男』『女』と書かれた暖簾の前で
「ごゆっくりどうぞ。」
と再びの礼をもって仲居が去って行く。
暖簾を潜り脱衣所へ足を踏み入れると、
「泊まる訳でもないのにあんなにしてもらって良いんですか?」
と稲穂が櫻へ呟いた。
「う~ん、どうもなぁ。観光客が来ないものだから暇を持て余してるらしいんだ。」
櫻が服を脱ぎながら言うと
「よく今まで潰れませんでしたね。」
と鷹乃は感心した。
一糸まとわぬ姿で女性陣が脱衣所を抜けると、大きく円形に天然石で囲われた掛け流しの露天風呂が姿を現した。
男湯とは竹垣で仕切られ、敷地の境には低めの生垣が配された作りだ。
小高い山の上にある為に町の夜景を眺める事が出来るようになっていた。
「わぁ~、おっきい~。」
百合香が思った事をそのまま口に出すと
「ほんとだね。別荘のお風呂も大きかったけど、こっちはもっと凄い。」
と美咲も頷く。
「それにしても…私達の他には誰も入ってませんね。」
稲穂が温泉の隅々まで見回してポツリ。
「まぁ、さっきも言った通り、ろくに客が来てないみたいだね。ここはちょっとした思い出もある場所だから潰れて欲しくは無いもんだが…。」
(原因の一つは取り除いたものの、この旅館…いや、この町がこれからどうすれば立ち直れるか…どうにかしたいものだがねぇ。)
櫻が膝を付き、かけ湯をしながらも心ここに在らずと言った感じのままに身体を軽く洗う。
そんな様子に鷹乃が
「櫻さん、まだ何か問題を抱えてるんじゃないでしょうね?」
と耳打ちした。
「いや、問題という訳では無いんだがね…まぁあたしの個人的な我儘を通すにはどうすればいいかってね。」
その言葉に鷹乃はいまいち要領を得ないという風に首を傾げるだけであった。
皆が温泉に浸かり、夏の夜風と星空を堪能していると、美咲が何者かの視線に気付く。どうやら生垣の方からのようだ。
悪いものでは無いと感じたものの、流石に状況が状況だ。気になってしまう。
そんな美咲の様子に気付いた稲穂。
「美咲ちゃん、どうかしたの?」
と問い掛けると、
「いえ、誰かが見てるんですけど、どうしようかと思って…。」
と素直に答えた。
その言葉を聞いた瞬間にその場に居た全員が身構える。
「え!?覗き!?」
百合香の声に其々に身体を手で隠し、正体不明の相手との睨み合いになるかと思われたが、
「あ、多分人じゃないです。」
美咲のその一言に皆がポカンとした顔になった。
「ん?人じゃないって、それじゃぁ動物って事かい?」
櫻がそう言うと、
「はい。でも襲おうっていう感じでも怯えてるっていう感じでも無くて、ただ私を見てるだけなんです。」
美咲は唇に指を当て、『どうしてなんだろう?』という風に小さく首を傾げる。
「それならお前さんが呼びかけてみればいいじゃないか。」
さもそうするのが当然とばかりに櫻が言う。
「いいんですか?」
そうする事が許されるとは思っていなかった美咲は少々驚きながら
「それじゃちょっと呼んでみます。あ、姿を見せた時に驚いたり大きな声を出したりしないでくださいね。」
そう言って生垣へ向かい口を動かした。
声は出さない。ただ美咲が言いたい事をイメージとして相手に送り届ける時に、自然と口が動くのだ。
そうした後にガサガサと生垣が揺れ、その根元の間を縫って出てきたのは…狸だ。
「あ…。」
百合香が大きな声を出しそうになって慌てて自分の口を両手で塞ぐ。
「あら?この子ってひょっとして、昼間の?」
鷹乃も驚きを抑えて声を出す。
「ん?何だい?この狸は知ってるヤツなのかい。」
「え、えぇ、多分…。」
櫻の問いに鷹乃は自信無さ気に返すと、
「はい、あの時のお母さん狸ですね。」
美咲が稲穂の顔を見て確信を持って頷いた。
「でもどうしてここに?遊びたい訳でも無いみたいですし…。」
呼びかけた事に応えて姿を現したのだ。何か考えがあっての事ではないかと思うものの、美咲は相手からの意思は漠然としか感じられない。
そんな美咲の困惑した様子に櫻がポンと手を叩く。
「百合香、ちょっと手を貸せ。」
そう言って百合香の手を握ると
「ほれ、美咲も。」
と催促した。
その櫻の行動の意図を理解した百合香が美咲の手を握る。
「今からあたしがこの狸の心を読むよ。それを百合香を通して美咲に伝える。」
言うが早いか櫻が読心術を試みた。櫻の脳では理解出来ない抽象的なイメージが入り込んでくるが、それを気にせず百合香を通して美咲へ送る。
美咲はイメージを動物に伝える事でコミュニケーションを取れる…動物に通じる言語を持って居ると言ってもいい。という事は、逆に動物からのイメージも美咲フィルターで理解出来る可能性があるという事だ。
イメージを受け取り、送り、また受け取り、美咲は狸との対話で言いたい事がある程度分かった。
「えっと、この子は子狸を助けてもらった事のお礼をしたかったみたいなんです。でもここは人間の土地だから入る事が怖くて外から見ていたみたいです。」
生垣の向こう側を指差して美咲が説明をする。
「それと…。」
少々口篭って
「お母さんもキャットフードが食べたいみたいで…。」
と困った顔で笑った。
「成程な…だが生憎キャットフードは持ってきておらんだろう?それに有ったとしてもここで餌付けするような事は…。」
言いかけて櫻は言葉を詰まらせた。
「ふむ、稲穂、今の時間は?」
突然話を振られて戸惑いながらも
「え?えぇと、午後六時…もうすぐ五十分ですね。」
と答えた。
「もう直ぐ夕食の時間だね。」
顎に手を当てて少し考えると
「よし、美咲、取り敢えず今はこの狸には外に行って貰っておいてくれんか。この件はまた後で話そうと言っておいてくれ。」
そう言って勢いよく立ち上がり、湯から上がると
「お~い、幹雄。ちょっと話があるからお前達も上がれ。」
と男湯に向かい声をかけたのだった。
時は少々遡る。
大樹達は男湯の暖簾を潜り、脱衣所で衣類を脱いでいた。
楓が服を脱ぎ、脱衣籠に衣服を入れる時に、右肩を気にしている風な素振りを見せた。
「兄貴、もしかして石ぶつけた肩、痛むのか?」
功刀が心配そうな声で聞く。
「いや、そういう訳じゃないんだ。ただ反省っていうかね。」
楓はどう表現して良いか悩むような顔をする。
「楓は真面目なのが美点だけど、それも度を越すと悪癖になるよ?もっと気持ちを軽く持ってごらん。」
剛がそう言うと楓は
「善処します。」
と困ったように笑うのだった。
露天風呂へ出ると、日中暖められた空気がそよ風に乗って裸の肌に心地よい。
幹雄を筆頭にかけ湯をして身体を洗い、温泉に浸かると皆から自然と溜息が出る。
そんな中で、一人離れた縁に寄りかかっていた楓に大樹が近付く。
楓の横に並ぶようにして寛ぐと、
「や、さっきは良い運動になったよ。ありがとう。」
と声をかけた。
「こちらも良い勉強になりました。僕は待つ戦法を得意としているので、同じく受け身で来られると時間を気にして焦ってしまうという事が分かりました。」
楓はそう言うものの、気持ちがすっきりしないようだ。そんな楓の横顔を見た大樹は、
「楓君。キミはわざと視野を狭めて試合をしていないかい?」
と指摘した。
その言葉に楓はピクリと身体を反応させると
「どうしてそう思うんですか?」
と質問で返した。
「昼間の、美咲ちゃん達に松ぼっくりを投げさせた練習…あれは相手の手元を見ていればもっと簡単に対応出来ると思うんだけど、それを敢えてやっていないように見えたんだ。」
大樹が手を小さくスナップさせて説明をする。
「それと、僕との勝負の時も、僕の手首の動きや足の運びに注意すればもっと早く回避が出来たんじゃない?」
楓の横顔を見るが、表情は至って平静だ。
「…僕が思うに、楓君、キミは私生活で千里眼を使う事を良い事と思ってないんじゃないかな?だから必要以上に周囲へ意識を広げる事を戒めている。」
楓の反応は無いものの、大樹は話を続ける。
「僕の仮説だけど、楓君の千里眼は意識の方向性のコントロールだ。レンズで光が収束したり拡散したりするように、一点に集中すれば遠くを見る事が出来る所謂千里眼になる。」
両手の親指と人差し指を繋げて輪を作り覗き込むようにして前後させる。
「逆に自身の周囲へ拡散させて千里眼を使えば、目で追うよりも多くの状況を『感じ取る』事が出来るんじゃないかい?でも敢えてそれをしない。」
その言葉を聞いた楓がやっと大樹の顔を見て言葉を発した。
「だって、それは他の人には無い能力なんです。僕だけがそれを使って、それで勝負に勝ったってアンフェアじゃないですか。」
その表情は色々な感情が入り混じったものだった。
「だからと言って、何もわざと視野を狭めるような生き方をする事も無いだろうに。それにね…。」
『ん~』という風に空を仰いで言葉を選ぶ。
「敢えて言わせて貰えば、その能力は才能なんだ。残酷な言い方をするけれど、才能の無い人は才能の有る人、特に努力している人には勝てない。だからと言って、才能の無い人に申し訳無いからと手を抜いて、それは誠実なのかい?」
両手で湯を掬い、顔を洗うとそのまま言葉を続ける。
「更に言えば、達人と呼ばれる域の人達なら、超能力を持っていなくとも周囲の流れを感じて立ち回る事だって可能だ。楓君の持つ千里眼も、使う資質が違うだけで行き着く処は同じだというだけだと思うけどね。」
大樹の言葉に楓は言葉も無く大人しく耳を傾けていた。
「僕はね、皆が持って居る超能力というのは、得るべくして得た能力なんじゃないかと思っているんだよ。」
「…え?」
「超能力を得たからそうなったのか、そういう生き方が超能力を得る切っ掛けになったのか、それは解らない。けれど、皆を見て思わないかい?その為人が能力を表しているようじゃないか。」
温泉の反対側で寛いでいる幹雄達を見、そして竹垣の向こうに居るであろう女性陣の方を向き、言葉を続ける。
「無論、能力に目覚める切っ掛けは色々だ。だけれど、楓君が千里眼という能力に目覚めたのは、そういう運命に巡りあった結果なんだろうと思う。」
「運命…。」
「ある人によれば、運命っていうのは『その人に起きた結果的事実』らしいけどね。」
「はぁ…。」
「だから、その能力は、生きて来た中で得た実力なんだよ。それを拒絶していては前進は無い…と、僕は思うな。」
温泉の熱と大樹の熱弁で楓の頭がボーっとし、頑なな意思が緩んだのか、大樹の言葉が素直に耳に入る。
「まぁ何が言いたいかって言うとね、自分のありのままを受け入れてみれば、物事ってのは案外シンプルなものなんだって事さ。キミはもっと自分に素直になった方が強くなれるよ。」
そう言って立ち上がると
「楓君、顔が赤いけど大丈夫?のぼせてない?」
と声をかけ、腕を掴んで引き上げると温泉の縁に座らせた。
スゥっと優しい夜風が吹き抜け、火照った身体を冷まして行く。
楓が瞳を閉じ、夏の夜の空気を堪能していると、
『お~い、幹雄。ちょっと話があるからお前達も上がれ。』
と女湯から櫻の声が聞こえた。
楓は目を丸くして大樹と顔を見合わせると、小さく笑い湯から出た。
男女の脱衣所入り口で合流すると、女性陣は皆浴衣姿だった。
その姿に驚いた男性陣の反応を察し、
「夕飯の後にまた入るつもりだからね。」
と櫻が説明を入れる。
「さて…。」
そう言うと櫻は幹雄を手招きし、耳打ちする。幹雄はその言葉に一つずつ頷くと、
「分かりました。」
と言ってすっくと立ち上がった。
客が居ないという事で旅館側もサービスのつもりなのか、小さめではあるが宴会場のような和室が充てがわれ、お膳が丁寧に五客二列並べられていた。
食堂のような場所で定食でも食べるのかと思っていた一同。
「おぉ~。」
と誰とも無く声を漏らすと、櫻を上座に自然と男女別に別れ年齢順に座る。
年齢が同じ美咲と百合香はと言うと、遠慮がちな美咲が自然と下座になる。すると対面に座る功刀は正面に見える美咲の、浴衣の合わせ目から見える胸元に目のやり場に困り、視線をあちこちに泳がせるのだった。
全員が席に着いたタイミングを見計らい、仲居達が次々と地元で採れる新鮮な魚介類や山菜を使った料理を運んでくる。既に置かれた小鍋には固形燃料に火を入れて廻る。
一通りの料理が運ばれ、お膳の上が埋め尽くされると、仲居達が部屋を去った後に女将が姿を現し両手を突いて頭を下げ、挨拶を述べた。
確かに食事としては値段の高いプランを予約したものの、宿泊する訳でもない客にこれだけの礼を尽くすのは、矢張り客数の減少による経営の苦しさからなのだろうと、櫻の表情に困惑の色が見えた。
そこで櫻が幹雄に目配せの合図を送ると、それを受けて幹雄が頷き、女将に声をかけた。
「女将さん、実は私、海辺に別荘を持っている者なのですがね。」
そう切り出すと、女将も直ぐにその建物に思い当たったようで小さな驚きの表情で顔を上げた。
「恥ずかしながら随分久しぶりに此方に遊びに来たところ、町の様子も随分変わってしまっていて驚いたんですよ。」
続く言葉に女将の表情が曇る。それはそうだろう、町がならず者のせいで寂れたなどと、土地の恥だ。なかなか言える訳は無い。
「それでまぁ、私としてもこの旅館、延いてはこの土地自体に思い入れも少々ありまして、ちょっっっとだけお節介を焼かせていただきましてね、一番の問題かと思われる事柄を取り除かせていただいたんですよ。」
その言葉に女将が『えっ?』という表情を浮かべた。
そういえば昨夜町の方が騒がしかった…と、女将が考えを巡らせると、
「なので、後はこの町の回復を私としても応援したいと、そういう想いがありまして。」
女将は『はぁ…』と呆気に取られ話を聞くばかりだ。
美咲と百合香はいまいち話が飲み込めない。
「ところで、先程温泉に入っていた時に狸が現れましてね。」
突然話の方向性が変わった事で女将が再び驚く。
「そ、それは申し訳ありませんでした。」
深々と頭を下げ謝罪の言葉を述べる。
「いえいえ、私達は動物に抵抗はありませんから、お気になさらず。」
と手を上げ女将を宥めた。
「それで…もし宜しければ『狸が遊びに来る旅館』としてこれを旅館の売り、ついでに町興しの材料に出来ないかと思いまして、どうでしょう?」
あまりの突拍子のない言葉に女将が声を失いぽかんと口を開ける。
だが気を取り直した女将が言う。
「確かにこの町の山の方には狸がよく居ますが、旅館で飼う訳にもいきませんし…。」
それは当然の事だ。だが幹雄はこう提案する。
「なにも飼う必要はありません。狸もそれは望んでいないでしょうしね。ただ、遊びに来て貰えば良いのです。」
その後に幹雄が述べた案はこうだ。
温泉から見える場所に狸が遊びに来るスペースを用意し、人間と狸の間に適切な距離を保ち、互いに干渉出来ないようにする。旅館側も遊びに来る狸に適切な食事を用意しておくだけで直接触れ合ったりはしない。
「確かにそういう事でしたら出来なくも無いとは思いますが…野生動物がそう思惑通りに来てくれるか分かりませんし…。」
女将が困惑する。それはそうだろう。だが幹雄はこう言った。
「そこはお任せください。私としてもただ口を出すだけの無責任で終わるつもりはございません。」
胸を叩くような仕草をして見せる。
そこからは幹雄の交渉によって話がとんとん拍子に進み、結果当面の餌代を幹雄から出資される事となり話が纏まった。当然資金の本当の出処は櫻である。
その内に食事は終わり、女性陣はこぞって再びの温泉へ。男性陣は各々思い思いの休憩に入った。
「さて、美咲の出番だね。」
脱衣所で浴衣を脱ぎながら櫻が言う。
既に全裸になって髪を上げていた美咲がその言葉に振り向き、小さく首を傾げた。
「さっきの話を聞いてただろう?お前さんに狸と交渉をして欲しいんだ。毎晩大体決まった時間に遊びに来て欲しいと、そうすれば適切な量の食事を用意するとね。」
そう言われて美咲も理解する。これは餌が欲しいと態々人前に来た狸の要望を満たしつつ旅館にも利益があるようにする櫻の考えだったのだと。
「解りました。伝えてみます。」
グっと胸の前に腕を構え気合の入ったポーズを見せた。
そして皆で再び温泉へ入ると、じゃぼじゃぼと言う音に反応したのか、それとも美咲の匂いを憶えていたのか、再び狸が顔を覗かせた。
「あ。」
美咲と狸の目が合う。
丁度良いとばかりに美咲はそのまま狸に想いを伝える。すると狸も何か言いたいのか、美咲に近付いてきた。
流石に何が言いたいのかを理解するには櫻と百合香の協力が要る。その事を察した二人は直ぐに手を取り美咲に頷いて見せた。
そうして、傍から見れば不思議な、少女三人と狸の見つめ合いがほんの数分の間続くと、狸は何かに納得したように小さく鳴き、ゆっくり振り返るとサっと姿を消したのだった。
「…話は上手く纏まったのかい?」
櫻が不安そうに美咲に問い掛けると
「はい、明日また同じような時間にキャットフードを持ってきてあげるって約束しました。それで信じて貰って、その時に旅館の人達も紹介する事にしました。」
そう言う美咲の表情は明るい。どうやら本当に話が出来たようだ。
美咲自信、昔から動物に想いを伝えるだけではなく意思の疎通が出来たらともどかしく思っていた事もあり、二人の協力があったとは言えそれが出来た事に充足感があった。
そうして当面の目的を果たした女性陣一同は、十五分程度湯に浸かり、美肌効果を名残惜しむ稲穂と鷹乃を引いて温泉を出たのであった。
今度は私服に着替えた女性陣が休憩室でくつろぐ男性陣に合流し、事の経過を幹雄に伝えると、幹雄がその事について女将へ伝える。
「はぁ…本当に狸と交渉をされたのですか…?」
余りに突拍子のない事を言われては当然不信感を募らせるものだ。例え金払いの良い客であっても疑いの目を向けてしまうのは仕方がない。
幹雄もそんな視線を向けられ少々困った表情を浮かべながらも
「えぇ、そういう事ですので、明日また此方にお邪魔させて頂こうと思いまして、つきましては明日の夕食も此方でいただきたく、また予約をしても宜しいでしょうか?」
と言うと、女将の表情が明るくなった。
言うだけ言って逃げるのなら兎も角、また客として来てくれると言うのだから有り難い話であると同時に信用してみる価値もあると言うものだ。
「はい、勿論でございます。有難うございます。」
深々と頭を下げる女将。
取り敢えずの話は通ったという事で幹雄は胸を撫で下ろした。
女将を筆頭に従業員達に見送られ旅館を後にし、別荘へ戻ると既に夜の九時も過ぎていた。
思いの外遅くなってしまい、駆け足で自室に向かう美咲。
ドアを開けると、常夜灯だけが光源の暗い部屋の中で、ベッドの上で丸くなったまま拗ねた眼差しを美咲に向けるチェリーの姿があった。
「遅くなっちゃってごめんね?」
美咲が『おいで』と両手を伸ばすと、チェリーはのそりと起き上がり、少しふてくされたようにゆっくりと歩く。
美咲に甘えたい、けれども素直に飛びつけない、そんな思いが美咲に伝わって来た。
そこで美咲は違和感を覚える。
(あれ?何だかチェリーの言いたい事が今までよりも解る…。)
今までは漠然とした色のような感情を感じ取れるだけだったものが、もっと具体的に感覚で理解出来るようになっていたのだ。
そしてそれは直ぐに少し前の感覚に思い当たる。旅館で狸と意思の疎通を図った時のものだ。
あの時程鮮明では無いものの、櫻を通して相手の考えを感じたあの感覚。それにモヤがかかったような感じ。
突然の能力の変化に困惑していると、意を決したチェリーが美咲の胸元に飛び込んで来た。
その衝撃でハッと我に返り、慌てて腕を閉じてチェリーを受け止める。既に身体は大人と大差ないサイズになったものの、まだまだ精神は子猫のチェリー。抱かれてしまえばその温もりに一気に甘えモードだ。
『グルグル』と喉を鳴らしながら美咲の顔を見上げるチェリーを優しく撫でながら、美咲は部屋を出るとリビングに足を運んだ。
リビングには櫻と幹雄だけがくつろいでいた。他の者は既に自室に戻り思い思いに身体を休めているのだろう。
早速美咲は今の出来事を櫻に相談する。
「ふむ…?」
櫻は口元に手を当て考えを巡らせた。
(そういえばブロッサムを拾って来た時に、百合香に能力(?)が伝播した事があったが…あの時は大樹が脳の使用箇所が云々と言っておったが、ひょっとして原因は美咲の能力にあるのか…?だが実際ブロッサムが見えるようになっているのは百合香だけだし、それは大樹の仮説通りという事か?)
頭の中で仮説を立てるものの、結局はハッキリしない。そもそも超能力というものについてが未知の部分が多すぎるのだ。
「よし、考えても解らんから物は試しだね。」
顔を上げた櫻が太ももをパンと叩くと幹雄を手招きした。
「あたしの仮説だが、美咲は他の能力者の能力を覚えられるのかもしれない。」
その言葉に
「櫻さんの能力みたいにですか?」
と唇に指を添えて首を傾げる美咲。その横ではチェリーと見えないブロッサムがじゃれあっている。
「うん、あたしは読心術という、そもそも相手を読み取る能力があるから、直接コピー出来るんだと思うんだがね。美咲は読み取る能力は無い、だから今までその特性に気付かなかったんじゃないかってね。」
そう言いながらも
(ん?そういえば読み取る能力に近いものは既に備わっている訳で…ひょっとして美咲の能力は単純なテレパシーでは無いのか…?)
再び考えを巡らせる櫻。
そんな表情の変化に美咲が
「どうかしたんですか?」
と声をかけると、
「ん?あぁ、ちょっと考え事をね。」
と手を振って誤魔化した。
(まぁ余り仮説ばかり立てた所で余計な混乱を与えるだけだからね。)
そう自分にいい聞かせると、
「それじゃ取り敢えずの実験をしてみたいから、百合香を呼んでくれるかい?」
そう美咲に告げると、
「はい。」
とシンプルにして素直な返事。
テレパシーを使い百合香を呼ぶと、全力でリビングに駆け込んで来た。
「お待たせ、美咲ちゃん!」
その言葉に乗せて、今まではっきりとはしなかった、それでいて薄々は感じていた、百合香から発せられる『好き』の想いが美咲に届く。
だが美咲にはまだそれが『好意』なのか『愛』なのかまでは判別が付かない。それでも、自分をこれ程好いてくれているという事実だけはハッキリと認識出来た事に喜びを隠せず、百合香に微笑んだ。
美咲の微笑みに目を奪われ身体が固まる百合香。
そんな空気を呆れて見ていた櫻が
「おい、早速本題に入りたいんじゃが?」
と声をかけると、百合香の金縛りが解けた。
「え?あ、うん?それで何をするの?」
慌てて櫻に問いかけつつ、ちゃっかり美咲の隣りに座る。
「あ~、うん。ちょっと実験をしてみたくてな?幹雄、やってみてくれ。」
櫻の言葉に頷くと幹雄が百合香の隣りに座り、手を取る。
百合香も自分が呼ばれ、このポジションに居る事から流れは分かったので自然と美咲の手を取ると能力の中継を始めるが、
「美咲ちゃんの能力と幹雄さんの能力の組み合わせって何の意味があるの?」
と当然の疑問を投げかけた。
「正直この能力の組み合わせだけ見れば何も意味は無いかもしれんがね。まぁ実験だから深く考えずに、ちょっとの間繋いでおいてくれんか。」
そう櫻に頼まれては最早何も言えない。
「それじゃ幹雄は適当にその辺の物でも持ち上げてみてくれんか。そうだねぇ…温泉でかかった時間から考えると十分程度も使ってみれば十分かね。」
「十分ですか…何も目的が無い十分は結構長く感じますよねぇ。」
困ったように言う幹雄だが、その表情は特に困った様子も無い。
部屋の中にある物を適当に選び持ち上げてはくるくると回したり曲芸飛行のように飛ばして見せると、美咲と百合香も楽しげに目を輝かせ、あっという間に時間は過ぎた。
「さて。」
そう言って櫻はテーブルの上に小さなサイコロを用意すると、
「美咲、お前さんはさっきの幹雄の能力を百合香を伝って感じたと思う。その感覚を思い出してちょっとコレを動かせるか試してみよう。」
と指差した。
「は、はい。」
自分を試されるような緊張感に美咲の声が強ばる。
何の説明も受けていないままに実験に付き合わされた百合香も、そんな美咲の様子に緊張を和らげようと手を握ると、その想いが届いたのか肩の力が抜けたように見えた。
リラックスし、感覚を思い出しながらサイコロに意識を集中させる。
するとテーブルの上のそれがカタカタと動いた。
能力で目標の物体を掴んだ感覚を覚えた美咲は、そのまま意識で持ち上げると、思った通りにサイコロが宙に浮き上がる。
「おぉ!」
櫻が思わず声を上げると、
「え!?これ美咲ちゃんがやってるの!?」
と百合香も釣られて声を上げた。
幹雄もこれには驚き言葉無く美咲が持ち上げたサイコロを眺めるだけだ。
「いや、まさかこれ程素直に仮説が現実になるとは…。」
驚きつつ美咲に目をやると、当の美咲自身も自分で持ち上げたサイコロを不思議そうに眺めながらクルクルと操作している。
「さて次の実験は、どの程度まで持ち上がるかだね。」
櫻のその言葉に美咲が視線を移すと、意識が切れたサイコロはコトンと床に落ちてしまった。
「あっ…。」
思わず声が出る。
「まぁ小物で良かったですよ。美咲ちゃん、初めての経験ですから仕方無いですけど、対象への意識が途切れると場合によっては大変な事になりますからね、ちゃんと安全を確認してから意識を切る事を覚えておいてください。」
幹雄が優しく助言すると、美咲も『はい』と小さく返事をして頷いた。
「それじゃ、次はコレだね。」
と櫻が指差したのは、今まで櫻が座っていたソファーだ。
「いきなりサイズ変わりすぎじゃない?」
百合香がツッコミを入れる。
「なに、駄目だったら徐々に小さい物を試せば良いだけだし、何も問題はなかろう。」
その言葉を受けて美咲が先程と同じように意識を向ける。
だがソファーは僅かに角度を変えた程度で結局持ち上がる処か移動させる事も出来なかった。
それから徐々に対象のサイズを下げて行き、結果として判明したのは『美咲が片手で持ち上げられる程度』の重さの物しか持ち上げられないという事だった。
「ふ~む。予想はしていたが、コピー出来るとは言え、その能力の劣化は著しいようだねぇ。」
櫻が実験に使った様々な私物を片付けながら言うと、
「いや、それでも凄い事ですよ。条件こそ厳しいですが能力をコピー出来るなんて、櫻さん以外で始めてですからね。」
と幹雄が小さく拍手をしながら美咲を褒めると、美咲は照れ臭げに肩を縮めた。
するとフッと一瞬意識が遠のき、隣りに居た百合香の肩にもたれかかってしまう。
突然の密着に心臓が跳ね上がる百合香であったが、
「え?美咲ちゃん、大丈夫?」
美咲の異変に即座に気付くと手を回し両肩を支えた。
「うん、ちょっと疲れちゃったみたい。」
美咲はそう言うと直ぐに身を起こし、肩に乗せられた百合香の手に手を添えると微笑んで見せた。
「そう言えば今日は朝から超能力沢山使ってるもんね。」
その百合香の言葉に櫻が
「む、そうか…それに更に慣れない能力の実験をさせてしまったからな…済まなかった。今日はもうゆっくり休んでくれていいぞ。」
申し訳無いという表情を浮かべて百合香に頷くと、それを受けて百合香の表情が明るくなり、そのまま美咲を連れて部屋へ戻っていった。
「百合香ちゃんは美咲ちゃんの事が大好きですねぇ。」
幹雄が、出て行く後ろ姿を微笑ましく見送るとポツリと呟く。
「まぁ『大好き』だな。」
と櫻もオウム返しのように口にして笑った。
お揃いのパジャマに着替え歯磨きを済ませると、最早当たり前のように百合香の部屋へ二人と一匹が揃う。
ベッドに横たわり、チェリーをあやしつつたわいない話に花を咲かせていたが、いつしか美咲から静かな寝息が聞こえていた。
「美咲ちゃん…?」
小さく声をかけるが、全く反応は無い。
窓の外から聞こえる波の音すら気にならない程に美咲の寝顔と、その愛らしい口から聞こえる寝息に百合香の全神経が集中する。
『こくり』と唾を飲み込むと、百合香はゆっくりとその唇に顔を近付けた。
ここ数日で一気に距離感の縮まった美咲と百合香。その変化に気持ちが暴走しかける。
だが美咲の、安心しきった平和そうな寝顔を見ると、冷静さを取り戻し思い止まった。
(こんな、寝てる隙に…なんて、ズルいよね。)
自分の気持ちに素直で居たい。けれども卑怯な事はしたくない。そんな気持ちが衝動を踏み止まらせたのだ。
美咲の下敷きになっていた掛け布団を何とか引っ張り出し、美咲の体勢を仰向けにして頭を持ち上げ枕を差し込む。
それだけの事をしてもまったく起きる気配の無い美咲の前髪をサラリと撫でる。
その寝顔を優しく微笑み眺めると、
「おやすみなさい。」
と小さく呟き、百合香もその隣りに横たわり、布団を掛けると瞳を閉じる。
美咲の寝息が眠気を誘い、いつしか百合香も深い眠りに落ちていった。
その夜、理性で抑えた百合香の願望が夢の中で繰り広げられ、とても幸せな寝顔であった事はチェリーしか知らない。




