580.商会員とスカーフ
「そういったことでしたか……」
商業ギルド、ロセッティ商会の部屋で、イヴァーノが悟りきった表情をしている。
ダリヤは向かいの椅子に浅く座ったまま、言葉を続けた。
「商会に迷惑がかかったら、申し訳ありません」
魔導具の実験でヴォルフと夜明かし、当日はグイードに詫び、その翌日には王城。
イヴァーノには手紙で大筋を知らせていたが、詳細を自白、いや、説明しての今である。
なお、ヴォルフは今日、王城へ行っている。
ドリノ達と一緒に、グリゼルダから男爵の礼儀作法を一日みっちり学ぶためだ。
「会長、商会に悪影響はないので大丈夫です。今も、ヴォルフ様、いえ、スカルファロット家が守りの屋根をかけてくれているようなものですから、そう変わらないと思いますよ」
拍子抜けするほどあっさり言われたが、その紺藍の目は自分を見たままだ。
「イヴァーノ、何かあれば遠慮なく言ってください、本当に」
「では遠慮なく。カルロさんがいたら、お二人そろってしっかり叱られていたと思います」
「本当に反省しています……」
反論は一欠片もない。
ダリヤが神妙にうなずくと、イヴァーノは優しく笑った。
それにふと、父カルロを思い出してしまう。
そんなダリヤの前、彼は再び口を開いた。
「もしカルロさんも塔にいたら、実験に参加して、三人で床に熟睡していたかもしれませんね」
「――えっと、それは……ないかと……」
あちらに渡った父には申し訳ないが、言い切れない。
父であれば、もっと慎重に実験を行ったはず――いや、板は二枚になっていそうだし、効果は一度は試すべし、と言っていそうな気もかなりする。
自分とヴォルフと父が寝入る作業場の床――
混沌たる光景が脳裏に浮かんだとき、ノックの音がした。
「おはようございます! 会長、副会長」
いつものように明るい声でやってきたのは、商会員のメーナである。
荷運びのしやすいシャツにズボンという服装だが、本日はちょっとお洒落に、白に青のストライプのスカーフを首に巻いていた。
「おはようございます、メーナ」
「――メーナ、何かありました?」
イヴァーノが挨拶もなく問いかけた。
意味がわからなかったダリヤは彼を見、それからメーナを見つめる。
そうして、ようやく気づいた。
シャツの襟がちょっと裂け、二番目のボタンがない。
「たいしたことはありません。ちょっと引っかけてしまっただけで……」
「メーナ、首のそれ、とってください」
言い訳を無視するように、イヴァーノが言う。
メーナは一瞬ためらった後、首に巻いたスカーフをするりと外した。
「え……?」
首筋にくっきり残る三本の赤い筋。
おそらく爪の痕だろう。まだ薄く血が滲んでいた。
自由恋愛派のメーナである。
もしや、修羅場だったのではないだろうか?
そんな心配をするダリヤの前、イヴァーノが低い声で言った。
「メーナ、馬車の備え付けのポーションで治してきなさい」
「いえ、たいしたことはないので。ポーションなんてもったいないですよ」
「爪痕を喉につけたままで仕事をされると、商会に要らぬ噂が立つかもしれませんから」
「わかりました。ポーションの代金は、給与から引いてください」
メーナが素直に頭を下げる。
商会に要らぬ噂を立てそうな筆頭のダリヤは、落ち着かぬまま、彼へ声をかけた。
「メーナ、相手と話し合いが必要なら、時間休みをとってもかまいません」
「会長、ええと……」
修羅場の相手と話し合いを勧めるのは、デリカシーがないだろうか?
内でおろおろしていると、イヴァーノも彼へ声をかける。
「頬を引っぱたかないで、襟を持ち上げる『彼女』は少ないかと思いますが。誰にやられました?」
「すみません。その、運送ギルドで先輩だった方に、馬場でちょっと絡まれまして……」
「理由は、商会ですか?」
「ロセッティ商会に入りたいから口を利いてくれと言われ、断ったら気を悪くされたようです。襟をつかまれただけで殴られてはいませんから」
恋愛絡みではなく、仕事絡みであった。
前の職場の先輩とはいえ、うちの商会員に対してなんということをしてくれるのか。
「その相手に抗議しましょう。二度とメーナに乱暴なことをしないように」
「そうですね、商会から抗議文を出しましょう。馬場なら見ていた人もいるかもしれません。後で証人も探します。じゃ、相手の名前を教えてください、メーナ」
二人で言うと、メーナがぶんぶんと首を横に振った。
「いえ、そういったことはなしで! 先輩は子供さんが多いので大変なんだと思います。きっちり断りましたから」
「口利きを願ってくるのはわかります。でも、メーナに暴力をふるうのは駄目です」
「会長、これぐらいは怪我に入りませんよ。襟を持つときに爪が当たっただけで、運送ギルドの頃なら笑って流す範囲です」
「今のメーナはロセッティ商会員です。メーナに何かあれば、私とイヴァーノが動くのは当たり前じゃないですか」
そう言うと、メーナが口をきつく引き結んだ。
きっと、うっとうしい上司だと思われただろう。
しかし、商会員の身も守れないなら、会長という立場にいるべきではない。
「その、ありがとうございます……」
気づかぬうちに拳を握っていると、何故か、メーナに深く頭を下げられた。
長めの礼の後、彼はまっすぐに立ち、自分とイヴァーノへ水色の目を向ける。
「でも、今回は先輩のことを見逃してください」
「メーナ」
「俺は先輩の気持ちもわかるんです。自分より出来の悪い後輩が、いきなりおいしい思いをするようになったら、うらやましくなるのは当然じゃないですか。俺はマルチェラさんに引っ付いてこちらに入らせてもらって、いい部屋に引っ越して、おいしいものを食べて、女の子達と楽しく遊んでるわけですから。それに、生活がしんどいときっていうのは、どうしても気持ちに余裕がなくなるものです。だから、今回だけは、見逃してください」
懸命な声を、途中で止める気にはなれなかった。
そして、その言い分も全部とは言えないが、わかってしまう。
ダリヤは努めて表情と声を整えた。
「メーナがそう言うのなら……でも、本当に今回だけですから。もし、次があったら抗議します」
「私は会長の判断に従います。ただ、考え違いをしているようですが、メーナは商会員としてとても有能ですから、それに合った対価を得ているだけです。あと、もし次があっても隠さないでください。余計にややこしいことになりますから」
「はい、約束します。それと――すみませんが、今回のことはマルチェラさんには内緒にしてもらえないでしょうか?」
とても言いづらそうな彼に納得する。
メーナの兄貴分であり、元運送ギルド員の彼が知ったら、どうするかの想像はつく。
「とても怒って、名前を聞かれるでしょうね……」
「メーナが言わなくても、なんとしても相手を確かめ、そのまま運送ギルドへ行くでしょうね」
「お二人で怖い話をしないでください! マルチェラさんは俺に過保護なんです!」
青くなったメーナも、はっきり想像できているのだろう。
マルチェラは情に厚くまっすぐだ。
弟分の理不尽な怪我を、黙って流すとは思えない。
正直に言えば、ダリヤもまたメーナが絡まれないかと心配だ。
ここは口うるさいと思われようとも、釘を刺しておくことにする。
「メーナ、ここからは安全第一にしてください。二度目があればもちろんですし、他で何かあっても、すぐ相談してください」
「ありがとうございます、会長。でも、そんなふうに言われると、家族に心配されているみたいで、ちょっと照れますね」
「商会員は第二の家族とも言いますから」
「でも、それは商売の建前じゃないですか」
「いいえ、建前じゃないです。それに、私はもう家族がいないので、商会員を心配し、口うるさくなることにしました」
こじつけに近いが、きっぱりと言い切った。
メーナはちょっとだけ視線を揺らした後、悪戯っぽく尋ねる。
「だと――会長は、『ダリヤお姉様』というわけですか?」
ふと思い出したのは、顔も知らぬ弟のこと。
ランベルティ伯爵家の彼よりも、目の前のメーナの方がずっと近い。
慌ててばかりの頼りない上司で申し訳ないが、できることはしっかりしよう。
「そこは、『ダリヤ姉さん』にしておいてください」
イヴァーノが無言でにっこりと笑い、メーナは肩を震わせた後、耐えきれずに吹き出した。
「あはは! 『ダリヤ姉さん』、いいですね! 本当に、会長のような人が家族だったらよかったのに――」
メーナは笑い続け――笑いすぎたらしい。
水色の目からこぼれかかる涙を、指でこすり落としていた。
申し訳ありません。来週は私用(家族の引越準備)でお休みさせていただきます。
一週空けて更新予定ですので、どうぞよろしくお願いします。




