577.夢と現実と兄からの言葉
『魔導具師ダリヤ』13巻、通常版・特装版(画:駒田ハチ先生)
『まどダリ』オリジナルグッズ(画:寺山電先生)
『魔導具師ダリヤ』オーディオブック8巻(ナレーター:梶山はる香様)
発売となりました。どうぞよろしくお願いします!
窓から差し込む光は、夏らしくまぶしい。
だが、別邸の客室は氷風扇のおかげで涼しかった。
こうして長袖のシャツを着ていても不快さはない。
快適なはずのその場で、ヴォルフはソファーに座り直す。
落ち着け、そう自分に言い聞かせながら。
緑の塔から帰宅後、シャワーを浴び、着替え、遅めの朝食を済ませた。
せっかく作ってもらった朝食は、味の半分もわからなかった。
その後、この客室で、兄グイードを待っている。
ノックの音に身構えたが、入ってきたのはドナだった。
「本邸からの連絡です。ソティリス先輩が知らせに行ったときには、グイード様はすでに王城へ向かわれた後だったそうです。こちらにいらっしゃるのは、少し遅くなるだろうと」
「わかった」
ヴォルフは短く言葉を返し、またもソファに座り直した。
まだ考える時間はあるようだ。
冷めかけた紅茶に口をつけつつ、昨夜から今朝のことを思い出す。
ダリヤと話し、試作をして時間が溶けるのはいつものこと。
ただ、睡眠効果が遅れてくるというのは考えもせず、硬い床で彼女と共に眠ってしまった。
本来なら別邸で行うべき作業だった。
完全に兄の命令を破った形である。叱責は避けられないだろう。
だが、ダリヤが責められることは避けたい。
兄へどう説明するべきか、そう悩んでいると、ドナに名を呼ばれた。
「ヴォルフ様、その――今朝は申し訳ありません。俺とセネレが、お二人の邪魔をしました」
「いや、そういったことはないから! 魔導具の効果で眠っていただけだよ」
最初の声がちょっと強くなってしまったが、本当に何もない。
目が醒めたときに見たのは、少し前にいる彼女の背中。
いい夢を見ていたので重なって混乱しかけたが、無事だとわかって安堵したのだ。
「でも、ヴォルフ様、ロセッティ会長を抱きしめてましたよね、しっかりと」
「え……?」
「ロセッティ会長は先に起きていらしたようですし、俺達が邪魔をしなければ――」
「えっ……?」
今朝、とてもいい夢を見た。
腕の中にダリヤがいて、とても優しい目で自分を見つめていた。
その夢を一分一秒でも引き延ばしたくて、腕を伸ばし、強く抱きしめた。
柔らかで、温かで、いい香りがして――そういえば、さらりとした髪の感触まで指が覚えている。
「あれって……」
夢ではなく現実だった、そう認識した瞬間、うれしさ三割、罪悪感と後悔が七割で押し寄せる。
どれほど寝ぼけていたのだ? 彼女に対して失礼すぎる!
ダリヤは何も言わなかったが、これで嫌われたり避けられたりしたらどうすればいいのか。
ヴォルフは頭を抱えた。
「何と言って謝れば……いや、何かお詫びの品を……」
「いや、大丈夫だと思いますよ!」
ドナのなぐさめも耳に入らない。
ぐるぐるする思考の海に沈みかけたとき、ノックの音が響いた。
「おはよう、ヴォルフ」
軽やかな声と笑みで入ってきたのはグイードだ。
その背後にヨナスが続く。こちらは少しだけ眉間に皺が寄っていた。
兄は王城へ行っていて、遅れてくるのではなかったのか。
そう思いつつも、ヴォルフは即座に立ち上がった。
「今回の件は、遠征で気落ちしていた俺を励まそうとしてのことです。叱責はダリヤではなく、俺にお願いします」
「夜も明けぬうちから、緑の塔の庭にセネレがいた。あれは特徴的だし、お前が乗っているのを知っている者も多い。つまり、ダリヤ先生とお前が夜通し共にいたことは、すでに他に知られたと思っていい」
「はい……」
ダリヤは独身の貴族女性だ。
今回のことが人の口に上れば、彼女にとって醜聞になる。
自分の評判についてはすでに砕け散っているし、どうでもいいが、彼女に迷惑をかけるのは心苦しい。
「さて、『ヴォルフレード』」
いつもとは違う呼び方、固い声に、ヴォルフは背筋を正した。
「スカルファロット家当主として命じる。ダリヤ・ロセッティ殿の隣で、永きを歩む覚悟がないのなら、早々に距離を置きなさい。彼女は我が家の恩人、そして、私は彼女の貴族後見人だ。ロセッティ男爵の未来に対し、影さすことを許すつもりはない」
反論は一切ない。
ダリヤの隣、ずっと共に歩めたらどれほど幸せか。
だが、それを決めるのは彼女であり、自分に選択権はない。
それでも――願い乞うことはできるだろう。
ヴォルフが答えを返す前に、兄は言葉を続けた。
「とはいえ、今回は予想外の事故だったと聞いている。ダリヤ先生が来るまで、まだ時間はある。ここからは兄として尋ねるよ。お前は、これからどうしたい?」
グイードの表情と声が、同時にやわらぐ。
兄の前、胸の奥で迷い繰り返してきた言葉が、初めて音を得た。
「秋の叙爵の後、彼女に想いを告げたいと思っております。それで想いを返されなくても、彼女を守れる者であり続けたいです」
「――そうか」
兄は一度深くうなずくと、穏やかに笑んだ。
「これに関して口出しはしないよ。だが、何か相談したくなったらいつでも言いなさい」
「遠慮なく相談するといい。その道ではグイードが大成功した先輩だ」
グイードの言葉に、かぶせるようにヨナスが続けた。
「そのときはお願いします……」
言い終えて、すぐに思い出す。
尋ねてみたいことはすでにあった。
つい視線を迷わせると、兄にすぐ気づかれる。
「何かあるかな、ヴォルフ?」
「あの……兄上は、義姉上に、どのような言葉で求婚を?」
超難関の問いに対し、答えはあっさりと返ってきた。
「お見合いだったからね、求婚らしい言葉はなかったよ」
今、その形がとてもうらやましい。
自分もダリヤとお見合いだったなら、即座に了承を――
いや、悪評高きヴォルフでは、その席にすらつけなかっただろうが。
「ヴォルフ、求婚は別として、グイードは想いを伝えまくっていたぞ」
「え?」
「花で部屋を埋め尽くしたり、珍しい茶葉をダースで準備したり――」
「それは婚約後の話だよ。愛しい婚約者への贈り物も愛を囁くのも、当然のことじゃないか」
一切の迷いなく言う兄に、深い尊敬を覚える。
兄弟でありながら、この優雅さがどうして自分には受け継がれなかったのか。
兄エルードからも、求婚の言葉を聞いておくべきだったかもしれない、そう思う自分の向かい、グイードが再び自分の名を呼ぶ。
「ヴォルフ――今回については、一つだけ忠告しておくよ」
グイードの声が一段低くなる。
冷えた青の視線が、自分に向いた。
「いかなる理由があろうとも、グローリアが同じように夜を越えることがあったら、私は相手の半身を氷漬けにしている」
「……はい」
ダリヤの父カルロに、最大火力の火魔法を向けられても文句はない。
「さて、もうすぐダリヤ先生がいらっしゃるね」
グイードは何事もなかったように切り換える。
「せっかくだ、甘めの茶葉に替えよう。私も話さなければならないことがあるんだ」
話はまだ続くらしい。
彼女が来る前に、なんとかいつもの表情を戻しておかなければ――
窓に映った自分の顔は、試験前の少年のように見えた。




