556.靴跡と大公の御礼
『まどダリ』寺山電先生 第42話更新となりました。
どうぞよろしくお願いします!
「もう少しお休みになった方が――」
「いえ! もう大丈夫です」
自分を気遣うモーラに対し、ダリヤは懸命に答え、貴族の二分の笑みを作る。
できているかはまったく自信がない。
本音を言えば、まるで大丈夫ではないのだ、精神が。
先程のことは訓練だったと聞いて安心し、涙が止まったところで青ざめた。
セラフィノは気さくに接してくれるが、その地位は王族、公爵四家で最高位の大公。
高所から飛び降りさせていい相手では絶対にない。
思い返せば、ダリヤは無駄に騒いだ上、無理に勧めて飛び降りさせた形である。
あの場でセラフィノの指示に素直に従い、バルコニーの隅でカタツムリにでもダンゴムシにでもなっていればよかったのに――
壁にめりこんで埋まり、上から壁紙を貼って隠れたい思いだ。
あの後、立てぬ自分を、ヴォルフが抱き上げ、モーラが同じ階の休憩室へ案内してくれた。
奥の部屋、寝椅子で彼女に治癒魔法をかけてもらい、背の痛みはすぐに消えた。
化粧の崩れた顔を洗い、氷の魔石で冷やしたタオルを顔に当て、しばらく休ませてもらった。
そして、ようやく寝椅子から起き上がったダリヤを、モーラが心配してくれているのが今である。
「失礼ながら、髪とお化粧を直させていただいても?」
「お願いします……」
確かに王城内を乱れ髪とすっぴんで歩くわけにはいかない。
彼女に髪を梳られながら、ダリヤはそっと目を伏せた。
王族に対する襲撃訓練は年に数回、独特なベルが三度鳴らされるのが訓練の合図。
それは子爵以上、また、王城で襲撃訓練区域に勤める者は知らされているという。
ダリヤは男爵で知らず、魔物討伐部隊相談役ではあるが王城勤務ではなく顧問扱い、そして、魔物討伐部隊棟は訓練区域ではない。
男爵が立ち入ることの少ない騎士棟の最上階、そこへセラフィノに招かれ、運悪く訓練に当たった。
だからといって、自分が彼にしたことが消えるわけではない。
謝罪は早い方がいい、そう思って覚悟を決める。
「モーラさん、セラフィノ様へ謝罪したいので、お時間をいただけるようお伝え願えませんか?」
「準備が整いましたら三課へ案内するよう、指示がまいりました。ですが、ロセッティ会長に非はありませんので、お気になさらないでください」
気にしないでいられればどんなにいいか。
いっそ、今後、王族と関わらないという罰にでもならないだろうか。
そんな愚かなことを考えているうちに、化粧が終わった。
いつもより少しだけ艶やかな唇の紅が、血色の悪い顔を隠してくれる気がする。
モーラに礼を言い、ダリヤは隣室へと移動した。
「ダリヤ、ちょうどよかった。持って来たよ」
そこにいたのは、黒いローブを持ったヴォルフだ。
今、身に着けている上着の背には、セラフィノの靴跡が薄く残っている。
モーラに着替えのドレスを用意すると言われたが、魔物討伐部隊相談役のローブがあるからと固辞した。
ヴォルフが魔物討伐部隊棟に取りに行ってくれたので、ここからはこれを羽織ることにする。
「モーラさん、ここまでお世話になり、ありがとうございました」
「こちらこそ、セラフィノ様を助けていただきましたこと、心より御礼申し上げます」
手間をかけた礼を述べたら、逆に言われる形となった。
その気遣いにかえって申し訳なくなる。
「いえ、訓練と知らなかったとはいえ、セラフィノ様を危険な目に遭わせてしまい、なんとお詫びしていいか……」
言いながら、王族暗殺未遂、不敬な事故に当たらないかと、怖い考えが頭をよぎる。
この恐れは、まぶしき方をクラーケンテープ巻きにして以来だ。
二度も知りたくはなかった。
頭がぐるぐるしかかった自分へ、モーラが言う。
「むしろお褒めいただけるかと。ロセッティ会長は身を挺してセラフィノ様を助けたのですから」
「身を挺してではありません。私は皆で逃げたかっただけなので……」
「皆で逃げる、ですか?」
モーラに目を丸くされた。
助けたというとかっこいいが、実際はそろって逃げたかったという方が正しい。
「はい。セラフィノ様と、部屋にいればベガさんと、モーラさんと、カルミネ様と」
「ベガと、私も、でしょうか?」
「ええ。順番に飛び降りても、ヴォルフが全部受け止めてくれたでしょうから」
「俺に対する信頼が重い……腕ももっと鍛えることにするよ」
わざと真顔で言うヴォルフに、モーラと共に笑ってしまう。
話し終えると、ローブを羽織り、三課へ向かうことにした。
ドアを開け止めたモーラが、今までになくやわらかに笑む。
「どうぞ、『ダリヤ先生』、スカルファロット様」
いつの間にか、彼女の呼びかけが変わっていた。
・・・・・・・
騎士棟の裏、すでに用意されていた馬車で、魔導具制作部の三課へ移動する。
苔むした塔に入り、進んだのは地下一階の奥。
よく招かれる小さめの客室ではなく、貴賓向けの応接室だった。
調度は黒に紺色の重厚なものだ。
窓のない壁に、魔導ランタンが輝いている。
ソファーで呼吸を整えていると、セラフィノとベガが入ってきた。
「ロセッティ、体は大丈夫ですか?」
「問題ございません。この度は私が不勉強でご迷惑を――」
一秒でも早く謝罪したい、その思いで立ち上がり、頭を下げる。
隣のヴォルフもまた、共に立ち上がって同じようにしてくれた。
だが、セラフィノは自分達の謝罪の言葉を、革手袋の右手で制した。
「あなたに一切の非はありません。あの部屋にあなたを招いたのは私です。巻き込んだことに関してお詫びを。それとあらためて――」
彼はダリヤ達に向かい、浅い角度ではあるが頭を下げる。
「真摯なる守りに御礼を」
「いえ! 訓練の邪魔をしただけですので、どうかお忘れください」
むしろ自分が忘れたい、心から。
王族に頭を下げられるのは、胃ではなく心臓に悪い。
それを実感しつつの声は、どうしても上ずった。
「そういうわけにはいきません。あなたを踏み台にして助かった形ですから、お礼をしないのは王族として不名誉にあたります。私が王に叱られますよ」
頭を戻したセラフィノが、いつもの顔、いつもの声で言う。
王族の名誉問題と言われると言い返せない。
「立ち話もなんですから、座りましょう」
そう言われ、ソファーに浅く座り直す。
セラフィノの斜め後ろにはいつものようにベガが立ち、反対側にモーラが控えた。
「本来なら王族を守ったと大々的に褒めるところですが、相手が私では、かえって迷惑になるでしょう。内々で馬か馬具と言いたいところですが、辿られるとそちらも面倒です。それに、ロセッティは腕輪も装飾品も間に合っているでしょうから――まあ、あって困らないものからいきましょうか」
モーラが黒い革袋をローテーブルに載せた。
チャリリと金属の擦れ合う音に、金貨だろうと思う。
「ロセッティが今日の仕事をできなかった分、私が踏みつけた服代、あとは怪我の見舞いです。礼の言葉は不要ですよ」
「お、お気遣いを、恐縮です……」
革袋はそれほど重くなさそうだ、ダリヤはそれに安堵する。
しかし、セラフィノは再び口を開いた。
「次に――」
次があるのですか、そう突っ込みたくなるのをなんとか耐えた。
ベガがダリヤの横へ来て片膝をつく。
捧げるように差し出されたのは、純白の封筒だ。
「子爵への推薦状です。ロセッティ家は男爵三代、あなたの功績もありますから、取る気になればいつでも取れるでしょうが、最短になります。あなたがなりたいとき、いつでもお使いなさい。親族の功績譲りに使ってもかまいません。今は必要なくとも、婚姻、あるいは仕事で子爵位があった方が便利なときもあります。私が生きているかぎり有効です。不要であれば魔導書の栞にでもなさい」
「……光栄です……」
笑顔のベガから受け取りつつ、ダリヤはなんとか声を返す。
自分は絶対にもう、貴族の二分の笑みができていないと思う。
「あとは、少しはあなた方に喜ばれるものをと真面目に考えました」
待ってほしい、これ以上のものがあるのか、聞く前に遠慮したい、そう思う自分に、大公が自慢げに言う。
「親孝行な息子が、親が責を返すのを手伝ってくれるそうです」
「え?」
「エラルドによる治癒魔法を許します。息子に無理のない範囲で、魔物討伐部隊としての職務と重ならないようにという条件はつけますが。ロセッティでも、ヴォルフ君でも、親戚でも、親友でもかまいません。一応、完全治癒三回程としていますが、息子はあなた方に借りがあるそうですので、必要になったら、そちらでいい感じに話し合ってください」
「――ありがとうございます」
一拍迷ったが、ダリヤは素直に受けた。
冷たくなった父を思い出せば、断る選択肢は消える。
もし、ヴォルフが頭詰まりや心臓止まりで倒れても、いや、イルマやルチア、商会員達やその家族に何かあったときも、助けられるかもしれない。
自分だけが特別扱いとなるのは申し訳ない気持ちもある。
だが、いざというときの助けはやはり欲しい。
「あと、これはおまけです」
セラフィノがいつも着ているローブを開く。
その下、黒の上着の襟は、艶のない金糸で茨のような刺繍が細かくなされている。
その襟を無造作に引っ張ると、内側の小さなピンバッジを外した。
黒手袋の指先でそれをつかむと、テーブルの向こうから差し出してくる。
ダリヤはそれを落とさぬよう、手のひらで受け取った。
ころんと転がったピンバッジは細めの金の環――
よく見れば、龍が蛇の尾を食み、蛇が龍の尾を食んでいる、前世のウロボロスを思わせるような意匠である。
貴族の紋章一覧で見た覚えはない。
あと、襟の内側のピンバッジに、貴族的意味合いはあっただろうか。
記憶にないダリヤは、ついヴォルフを見る。
彼もわからないらしい。
不思議そうな表情で見つめ返された。
自分達の疑問を見透かしたらしいセラフィノが、説明を続ける。
「王城内で私が身元を保証する紹介状のようなものです。身体検査や馬車の確認が面倒なときは、警備の者にそれを見せなさい。馬から下りることなく、魔物討伐部隊にも、この三課にも入れます。急ぎの際は時間短縮になりますよ」
なかなか便利なものだった。
しかし、使うととても目立つような気がかなりする。
「本来は、王棟に出入りする教師などへ渡すのです。私は『ザナルディ』の名もあるので、残念ながらそちらへの許可はありませんが」
むしろ王棟に行くのは一生避けたいです! 内で叫びつつ、なんとか礼を述べる。
ピンバッジをハンカチに慎重に包んでいると、グレーのレンズの下、水色の目が自分を見つめているのに気づいた。
「あの、セラフィノ様、何か……?」
あとはないですよね、願いに近い思いをこめ、恐る恐る尋ねる。
彼の視線は、ダリヤからヴォルフへと移った。
「守られた私が言うことではありませんが、ロセッティはとても勇敢で、とても危うい。ヴォルフ君、あなたがしっかり守ってください」
「はい」
ヴォルフが自分の保護者扱いされている。
それに異を唱えかけたとき、話題が移った。
「ところでヴォルフ君、壁を駆け上る動きはすごかったですね。息子が見惚れておりました。あれは魔物討伐部隊の皆さんができるものですか?」
「ある程度はできる者が多いかと――大型の魔物に上ることもありますので」
「そういえば、九頭大蛇戦のときも上っている隊員がいましたね。魔物によって、靴が滑ったりはしませんか?」
話はそのまま魔物や戦闘靴へと移っていく。
ダリヤも魔導具と素材の話をふられ、加わることになった。
三人での話は盛り上がり、笑い声がこぼれ――
その後ろ、モーラが香りのいいコーヒーを淹れ始める。
ダリヤの前には、王城の中央棟のチーズケーキが生クリーム増しで置かれていた。