555.二度目のバルコニー
・彩綺いろは先生コミカライズ 『服飾師ルチアはあきらめない』第31話の配信が始まりました。
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「グレースライムといえば、不思議な分裂の仕方を――」
セラフィノと話に興じている途中、リンリンリンと、独特なベルの音が響いた。
何かの知らせだろうか、ダリヤがそう思ったとき、ガタン! と大きな音が響く。
「通すなっ!」
続いて聞こえてきたのは、おそらく廊下、隣室のドアを守る騎士の声だろう。
そこからは聞き取れぬ声と、何か重いものがぶつかり合うような音。
セラフィノはドアに顔を向けた後、自らの護衛騎士に視線を移した。
「ベガ、行きなさい。なるべく時間をもたせなさい」
「はっ!」
命じられたベガは、赤い目に厳しい光を宿し、隣室へ駆けていく。
どうしていいかわからずにいると、名を呼ばれた。
「ロセッティ、しばらくバルコニーの端にいてもらえますか? 巻き込まれるといけませんから」
襲撃だ、そう認識してしまうと、体が硬直した。
金属と金属のぶつかる音――おそらくは剣の打ち合いであろうものが、廊下のあたりから聞こえてくる。
王族だからか、それとも襲われることに慣れているのか、こんなときもセラフィノに緊張はない。
「思ったより音が響きますね。バルコニーまで付き添いましょう」
セラフィノはそう言うと、ダンスのエスコートをするようにダリヤに手を伸ばす。
なんとか立ち上がると、強めの力で手を引かれ、バルコニーへ出た。
見下ろす訓練場に、騎士達の姿はない。
おそらく皆、魔物討伐部隊の訓練場へ、空奏の魔剣を見に行ったのだろう。
それでも、ここから思いきり叫んだら階下には聞こえる、そう思って口を開く。
「あの、セラフィノ様、ここから助けを求めては?」
「いえ、ベガがこの部屋に通した時点で終了ですから」
己の護衛騎士に対する絶対的な信頼はわかった。
しかし、貴重な命を簡単にあきらめないでいただきたい。
「私は念のため戻ります。ロセッティはここで、目をつむって、耳も塞いでおく方がいいでしょう」
「ですが!」
騎士棟には騎士が多くいる。数がいれば侵入者も止められるはずだ。
それに頼らず、ベガ一人に任せるのは危うい。
襲撃なのに、何かがおかしい――そう思えたとき、セラフィノが初めてあせりを表情に出した。
「早すぎです、ベガ!」
その声を、ダリヤは彼の背で聞いた。
どろり、熱さを感じる魔力の波が、隣室から流れてくる。
隔てる壁もドアもおかまいなし、その波がまとわりつき、この身を引き倒そうとする。
セラフィノが背にかばってくれなければ、確実に床に倒れていた。
隣室から溺れるような悲鳴が複数聞こえ――何かを言い合っているようだが聞き取れない。
今のでベガは大丈夫だろうか、水場へ行ったモーラとカルミネは無事だろうか。
かといって、自分が行っても何もできないことぐらいはわかる。
魔力に酔ったのか、視界がくらくらする上に頭が痛い。
薄く吐き気もする。
混乱しかかる自分の左手首、涼やかな風を感じた。
魔導具である腕輪が落ち着かせてくれたらしい。
ダリヤは一度だけ拳をしっかり握る。
今、自分がすべきことは――
ここから逃げること、もしくは助けを呼ぶことだ。
「セラフィノ様、ここで助けを呼ぶために叫んでもよろしいですか?」
「やめておきましょう。逃げ場のないここにいると知られることになります。暗号で会話する方法でもあればいいのですが。それに、そう時間はかからないと思いますので――」
言葉の途中、隣室で剣を打ち合う音が再び響いた。
誰のものか、気合いの声は魔物の咆吼のよう。
次の瞬間、ドアがたわむほど強く、何かが当たる音が続いた。
背筋が冷え、体が震えるのを止められない。
ダリヤは咄嗟にすがったバルコニーの手すり、思わず周囲を見る。
左手遠く、王城内を巡回する馬車の後部。
遠ざかるそれは無理だと判断し、顔を動かし、黒い影に目を留める。
はるか先、魔物討伐部隊員が二人いる。
そのうちの一人、その黒髪は間違いようがなく――
「ヴォルフっ!」
ダリヤは迷わず名を叫んだ。
この距離でも彼には届く、そう確信できた。
「ダリヤっ!」
彼はすぐ自分を見つけ、風のように駆けて来る。
距離はあっという間に縮まり、バルコニーの真下に近づいた。
隣室の剣戟の音は高いまま。
当然のように部屋に戻ろうとするセラフィノの腕を、ダリヤは思いきりつかんだ。
「ヴォルフ、今からセラフィノ様が飛び降りるから、何も言わずに受け止めて、お願い!」
「あ、ああ! わかった!」
「はっ? 飛び降りる?」
ヴォルフとセラフィノの声は、ほぼ同時だった。
急なことで申し訳ないが、緊急なので仕方がない。
「セラフィノ様、魔物討伐部隊は高所から落ちる隊員を受け止める訓練もあります。ヴォルフは身体強化があるのできちんと受け止めてくれます。ですからすぐ飛び降りてください」
「待ちなさい、ロセッティ。逃走経路としては、ありでしょうが――いえ、逃げるとしたら女性のあなたが先です」
「私はセラフィノ様の次に飛び降りますから!」
そう言うと、彼は浅く息を吐いた。
「確かに試しておく価値はありますが。ああ、この手すりはちょっと高めですね……」
この状況で躊躇しないでいただきたい。
いや、運動神経的に、手すりが高くて越えるのが難しいのかもしれない。
部屋からソファーを引きずってきたいところだが、高級品故に重すぎて無理だ。
ダリヤは咄嗟にバルコニーの床に肘と膝をついた。
「ロセッティ?!」
「台になります、早く!」
「しかしですね――」
「ベガさんの守りを無駄にしないでください!」
狼狽するセラフィノにそう叫ぶ。
彼は一瞬動きを止め、失礼、と低い声で応じた。
覚悟はしていても、背骨がきしむほどに重く、冷たい靴底を感じた。
重さが消えると、すぐバルコニーの隙間から下を見る。
黒いローブが鳥の翼のようにはためき、セラフィノが落ちる。
それをヴォルフが空中で抱きつくように受け止め、重い着地音を響かせた。
そこにやってきたのはエラルド――黒い騎士服のもう一人は彼だった。
もしセラフィノが怪我をしていても、すぐに治してもらえるだろう。
よかった、そう思ったとき、隣室の音がすべて止んだ。
自分も急いで飛び降りなければ、そうは思うが、立ち上がれない。
セラフィノの重さで怪我をしたわけではない。
純粋に、腰が抜けてしまった。
ドアノブがガチャリと回され、途中でガチンと止まった。
おそらく、衝突で歪んでいるのだろう。
隣室で、誰かがドアを開けようとしている。
ダリヤは歯の根が合わないまま、身を小さくする。
動けなくて、あせって、怖くて、死にたくなくて――
ぎりぎりの今、喉からこぼれる名は一つだけ。
「ヴォルフ……!」
建物の壁面をガツガツと硬いものが打つ音、ドアノブをバキバキと壊す音が重なる。
「ダリヤ! 大丈夫?!」
「ロセッティ会長――セラフィノ様は?!」
騎士棟の壁を駆け上がってきたヴォルフと、ドアを壊し開けたベガの声が、同時に響いた。
ヴォルフは自分の隣にくると、肩に手を添え、支えてくれる。
なんとか身を起こし、ベガを見た。
彼に怪我はなく、開け放たれた隣室に襲撃者の姿はない。
そこへ、メイドのモーラが銀のワゴンを押し、カルミネと共に入ってきた。
襲撃者は倒されたのか、それとも捕縛されたのか、とにかく皆、無事で終わったらしい。
「ダリヤ、本当に大丈夫? 何があったか聞いても……?」
ヴォルフが心配そうに声をかけてきた。
肩に置かれたままの手、冷えきった身にようやく、そのぬくもりを感じる。
「ヴ……ヴォルフ……」
驚きと安堵が一気に押し寄せ、ダリヤは両手で顔を覆うしかなかった。
・・・・・・・
「ロセッティは、襲撃訓練を知らない?」
魔導具制作部三課の一室、砂に汚れた服を替えた主の、第一声がそれだった。
ベガはつとめて平らな声で説明する。
「はい。モーラが確認しましたが、ご存知なかったそうです。王族の襲撃訓練を知らされるのは、同席する可能性のある子爵以上か、王城勤務者のみです。また、騎士棟のあの見学部屋は王族用のため、男爵が入ることはまずありません」
「――ああ、そうでした」
セラフィノは珍しくローブを羽織らず、上着を肩に載せたまま、ソファーに身を預けた。
「私に一方的に連れてこられ、抜き打ち訓練に巻き込まれるとは、なんとも運の悪い……飛び下りるよう勧められたときは、理解が追いつきませんでしたが」
「セラフィノ様がお部屋にいらっしゃらなかったので、何事かと思いました」
襲撃訓練は、ベガにとっては定期試験のようなものだ。
襲ってくる騎士を威圧と魔法で止め、それでも動ける者とは打ち合う。
真剣でやるため怪我人を出したこともあるが、叱責されたことはない。
三度のベルがない場合は、加減もないが。
「なるべく時間をもたせなさい、そう言ったはずですが?」
「申し訳ありません。廊下の者が予想外に弱く」
王族がいる部屋を守る騎士が二名、あっさりと襲撃者役のうち、三名を扉から通した。
ベガはそこで迷わず全員に向け、威圧と魔法を放った。
それでも向かってきたのは第三騎士団の年嵩の騎士だけ。
そこからは楽しく訓練できたが――
少しばかり思い出していると、名を呼ばれた。
いや、正確には、主も思い出していたらしい。
「ようやく辻褄が合いました。ロセッティは打ち合いの音が苦手なのだと思っていましたが、本物の襲撃だと思って緊張していたのですね」
その通りだろう。
そもそもダリヤは魔物討伐部隊員として、九頭大蛇戦にも参加した猛者だ。
剣の音ごときで動じるとは思えない。
「ベガの威圧を避けさせようとしたのですが、間に合わなかったのです。飛び降りるよう言われ、迷っていたら、『ベガさんの守りを無駄にしないでください』、と言われました」
「はっ?」
「てっきり、本気で訓練をするよう、叱られたのだと思ったのですが……」
彼女は隣室でベガが命懸けで戦っていると思い、それを無駄にするなとセラフィノの背中を押したらしい。
まるで騎士のような――
いや、彼女は魔物討伐部隊員だ、背に守る者がある戦いをよく知っている。
そういう意味では、彼女も騎士かもしれない。
何より、それは作った言葉ではない。
ベガの強い威圧と混乱魔法を同時に当てられた者の多く――高い魔力を持たぬ者、威圧に弱い者は、魔力酔いの上、本音をこぼすからだ。
先程の襲撃訓練でも、転がった若い騎士は母のいる家に帰りたいと泣き叫んでいたし、その隣の騎士は襲撃役となったクジ運の悪さから発展し、己の長年の運のなさを愚痴っていた。
床に倒れた者は全員運ばれていったので、その先は自分の知るところではないが。
「ロセッティは女性ですが、非常時には男爵の義務を通すのですね」
「男爵の義務、ですか?」
主の予想外の受け止め方に、つい聞き返してしまった。
「私を先に逃がそうとしたのは、オルディネ大公を守らねばという、男爵の義務感でしょう。叙爵すると貴族としての自覚が強まると言われていますし……」
我が主は、常に先々を見ようとする。
有能さは道化で隠し、様々な者を把握し、己の手札は誰にも見せない。
まるで先が見えているように予想し、動くことも多々ある。
だが、自身に関することは見誤る。
「失礼ながら――あの御方は、ただセラフィノ様をお守りになったのではないかと思います」
「ロセッティにどんな利が? 本物の襲撃であの状況なら、残ったロセッティが一番危険でしょう? 爵位からは逃げたがっていますし、一族の者は他にいないのですから褒賞の行く先もない」
そうではないのだ。
伝えても風に手を伸ばしただけのよう、それでも、ベガは繰り返す。
「利に関係なく――ただ、あなたをお守りしようとしたのだと思います」
「利に関係なく……」
主は珍しくはっきりと眉を寄せ、それきり何も言わず――
長い沈黙の後、にっこりと笑った。
「いえ、利はありますね。今後の私の覚えが良くなりました」
時間をかけてつなげられた会話に、ベガも笑ってしまう。
立ち上がった彼が、自ら上着を着直した。
「さて、命を救われた大公です。天秤がつり合うよう、代価を用意しましょう」
セラフィノのいい笑顔は続いている。
これは重いものになりそうだ。
ベガはそう思いながら、あせる赤髪の魔導具師の表情がはっきりと想像でき――なんとも同情の思いがわき上がる。
だが、止めるつもりは一切なかった。