520.東酒チーズフォンデュと雑談
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・公式4コマ『まどダリ』第24話更新となりました。
どうぞよろしくお願いします。
「ダリヤ、チーズが溶けたよ」
緑の塔の居間、ヴォルフが鍋をかき混ぜながら声をかけてきた。
ダリヤは刻んだパンを積んだ大皿を手に、そちらへ向かう。
「こっちもこれで全部。足りなかったら追加で切るわ」
部屋には、すでにお腹のすく香りが漂っている。
本日のランチメニューはチーズフォンデュ。
ただし、チーズを溶かしたのはワインではなく東酒である。
塔では定番メニューの一つだ。
浸す具材は鶏むね肉の酒蒸しにソーセージ、じゃがいもやニンジンなどの茹で野菜、そして刻みアーモンド入りバゲットだ。
チーズフォンデュにはアーモンド入りのパンも合う、そうルチアが教えてくれたので、試すことにした。
二人でテーブルをはさんで座ると、いつものようにグラスを持つ。
ただし、乾杯の言葉はちょっとだけ違う。
「ええと、お披露目、お世話になりました、乾杯」
「お披露目、お疲れ様、乾杯!」
カツンと打ち合ったぐい呑みの音に、ようやく日常が帰ってきた気がした。
喉に通すのは甘口の東酒、ジルドからの祝いの品である。
昨年の今頃は、王城で微風布の説明をしていたくらいか。
その後に必死で遠征用コンロプレゼンをしたことが、遠い昔のようだ。
舌の上、まろやかな東酒が過ぎる。
口内に残る香りまでも甘やかなそれを味わっていると、ヴォルフが口を開いた。
「このチーズフォンデュと鶏の酒蒸し、すごく合う……」
鶏に向ける金の目の方が、とろりと溶けそうだ。
よほど気に入ったらしい。
「クセがないのにおいしさが濃いのは、名産地の鶏とか?」
「近くのお店で売っている通常価格の鶏よ」
男爵になってから、特売品がちょっと買いづらくなった。
いや、そうではなく、一番新鮮なものをカットしてもらったのだ。
「小さな穴が空いてる……下処理にすごく時間をかけたとか?」
「ううん、適当にフォークを刺しただけ。あとは塩をまぶして、東酒をかけて蒸したの」
弱火なので時間は必要だが、手間はかからない。
そう説明すると、ヴォルフは再び鶏をチーズの海に沈めて引き上げた。
柔らかな一切れに対し、咀嚼回数がやけに多い。
「ダリヤはきっと、おいしさの付与ができるんだね」
真顔で言い切った彼に笑い、ぐい呑みに酒を足す。
そして、鶏の酒蒸しの皿を彼の方へこっそり近づけておいた。
そこからは、ダリヤもアーモンド入りバゲットをチーズに浸して味わう。
次はクルミパンもありかもしれない、そう思うほどのおいしさだった。
「ダリヤは明日、何か予定はある?」
「商業ギルドに、書き換えた仕様書を持っていくつもり」
魔導具、温熱座卓・温熱卓のユニットの魔導回路を短縮した。
より小さくできるので、その仕様書を提出する予定だ。
そう説明すると、ヴォルフがうなずいた。
「それなら迎えに来るよ。俺はドミニクさんへ会いに行く予定だから」
「何かあったの?」
ドミニクはダリヤも世話になっている公証人である。
彼への相談といえば、商業関係の契約確認や、各種の証明書がまっ先に浮かぶ。
けれど、続く声がまったく違った内容を告げる。
「ドミニクさんに商法の本を紹介してもらったんだ。初級がとれたから、中級の本を教えてもらおうと思って」
「商法?」
「ああ。隊を辞めてロセッティ商会に入るとき、商法と経理の一通りは知っておく方がいいって、イヴァーノが」
まるで来月の予定を語るかのようなヴォルフに、目が丸くなった。
ちょっと待ってほしい。
商法の試験は、初級といえども簡単ではなかったはずだ。
専門用語を含め、覚えることが山ほどあると聞いている。
「前から商法の勉強を?」
「九頭大蛇戦の少し後かな」
「そんなに短期間に?」
「初級は丸暗記で済むから簡単だよ。経理の方は読めるようになっただけで、まだ複数年計算とか全然できないし」
そんなに簡単に丸暗記できたら苦労はしない。
あと、さらっと毎年の税率も絡む複数年計算を持ち出さないでほしい。
その処理は、経理をある程度知っているダリヤでも難しい。
とはいえ、ヴォルフが商会に入ってくれたら戦力間違いなしである。
遠征のときの心配もなく、いつでも話ができるのだ。
もういっそ、今すぐと願えないものか。
できるかぎり高めの給与に、素材全部ダリヤもちでの魔剣開発、それに塔での食事をつけるというのはどうだろう?
他に希望があるのなら、それに全力で添い――
「……酔ったかも」
眉間に指を当て、思わずつぶやいてしまう。
秋には男爵となる魔物討伐部隊の騎士に対し、一日も早く辞めてくれと願うのはあまりに失礼だ。
そんな自分の向かい、彼はぐい呑みをテーブルに戻した。
「ダリヤ、お披露目の疲れはまだある?」
「――少し。でもすぐ戻るから大丈夫」
ちょっとだけ、答えるのが遅れた。
顔色がよく見えるよう頬紅をはたいてみたのだが、ヴォルフに効果はなかったらしい。
「無理はしないでほしい。領地へ行くのは少し後ろにずらしてもかまわないし……あ、銀蛍は出たって。いや、君に無理をさせたくないのが一番で――」
心配を重ねている彼に申し訳なくなった。
元々ダリヤは庶民、お披露目で場違いさを感じてもおかしくはない。
これから男爵らしくなるよう頑張ればいいだけだ、そう言い聞かせ、ダリヤは精一杯笑む。
「本当に大丈夫。せっかくだから銀蛍も見たいもの」
銀蛍は虫型の魔物である。
その羽を粉にしたものは、王都の衛兵が持つ夜警用魔導ランタンや、鏡を一段明るく見せるのに使われている。
一般的な素材だが、実物の銀蛍はまだ一度も見たことがない。
今回、スカルファロット家の領内にある生息地ごと見られるのは、貴重な機会だ。
それに、古い魔導具や川沿いの大型魔導具の見学も提案されている。
これほどよい学びの機会はないだろう。
「それで――案内は、俺と、父上と、途中交代でグイード兄上になってもいいかな? もちろん、向こうでメイドは付けるけれど」
「もちろん、なるべくお仕事の邪魔にならないようにするから」
「いや、本来なら同じ女性で『ジュナ様』、いや、ジュスティーナ様が案内する方がいいそうなんだけど……」
声を濁した彼に察した。
ヴォルフを見ると声が出なくなることもあるという第一夫人だ。
一緒に行動するのは無理だろう。
けれど、ジュスティーナではなく、ジュナと愛称で呼べるようになったということは、少しは関係が改善したのか、そう思っていると、声が続いた。
「俺の顔を見てジュナ様が襲撃を思い出すなら、妖精結晶の眼鏡をかけたらどうかと思って。食事のときにかけたら、ちゃんと向き合って話ができたんだ。それで、父とも――」
そこから、父であるレナートも同じく、ヴォルフの目を見ると感情が乱れてしまうこと、話し合いができたことを聞いた。
ヴォルフは父とも、第一夫人とも和解したといえるだろう。
「当たり前に話せて、一緒に食事ができて――俺はやっと、帰った気がした。ダリヤのおかげだよ」
迷った後に家に帰った子供のよう、無邪気な笑みが自分に向く。
「私は眼鏡を作っただけで――でも、ヴォルフが帰れて、よかったわ」
彼が家族の元へ本当に帰れた、スカルファロット家で安らげる、それを心から喜びたい。
わずかにさみしいと思ってしまうのは、自分が一人暮らしだからだろう。
あちこちで勧められたように、塔で番犬を飼うのもありかもしれない。
それにしても、ヴォルフとジュスティーナが問題なく話せるようになっても、領地の案内が難しいということは――浮かんだ心配を、ダリヤはそっと尋ねる。
「ジュスティーナ様へご挨拶できなかったから、失礼だった? それとも、その、お加減がよくないとか……」
「いや、ダリヤのせいじゃないんだ。むしろ俺のせいで、朝も兄上達が言い合いに――」
顔にくっきりと浮かんだ苦悩に、思わず聞き返す。
「ヴォルフのせいって、何があったの?」
「ジュナ様はディアーナさんと共に国境へ行くと、国境大森林の魔物で心を鍛えてくると言って、父が止めている……」
「は……?」
話のつながりがまるで見えない。
ヴォルフは魔物ではない。
あと、なぜ魔物で心を鍛える必要があるのだ?
「ジュナ様が俺を見ても怖がって震えぬよう、『恐れ鎮め』を飲みたがっていたんだけど、あれ、胃の弱い人には向いていないって、ドナが。だから、ディアーナさんと話して決めたらしい。一緒のときは俺が妖精結晶の眼鏡を着けるって言ったんだけど、外しても平気にしたいって。だから魔物で心を鍛えてくると……」
その方向性はどうなのか。
ショック療法としてはありえるのかもしれないが、安全が気になる。
「国境大森林近くで、魔物を見学できる場所があるの?」
「いや、ディアーナさんとエルード兄上が魔物を倒すのを見学して、耐性をつけると」
「それって、本当に耐性はつくの?」
「ジュナ様が頑張りたいというのを父が止めてた。でも、どうしても行くなら父も同行すると」
「心配なのはわかるけど、やっぱりその前にお止めした方が……」
「エルード兄上はさくさく倒すのを見せるから、すぐ耐性がつくだろうと。それをグイード兄上が逆効果ではないか、何かあったらどうするんだって言い合いに……俺が原因だし、どっちがいいのかわからなくて……」
耳を伏せた犬を思わせるヴォルフに同情する。
しかし、ダリヤも正しい回答がわからない。
誰に相談すればいいものか、思い出した名は一つだけだ。
「ええと、そういうときは、ヨナス先生に!」
間違いのないスカルファロット家相談役を勧めたが、ヴォルフは首を横に振る。
「『久しぶりの兄弟喧嘩は、ご家族で解決してくださいね』って、笑われた……」
「ああ……」
錆色の目をした騎士の笑顔が、はっきりと想像できた。




