476.クラーケンと赤い薔薇
被災された方々にお見舞い申し上げます。
一日も早い復興を心よりお祈り致します。
「フェルモさん、紅茶をどうぞ」
「ありがとう、ダリヤさん」
午後のお茶の時間、テーブルの向かいで眉間を揉む仕事仲間がいた。
ここは商業ギルド、ロセッティ商会の部屋。
ダリヤの隣には魔物討伐部隊から書類を届けにきたヴォルフ、その隣にはメーナ、斜め向かいにはイヴァーノが座っていた。
各自の前では湯気の立つティーカップが並んでいる。
「だいぶ忙しそうですね」
イヴァーノが砂糖壺を押し出すと、フェルモはうなずいて蓋を開ける。
いつもは一匙しか入れぬそれを三匙。疲れが少しばかり強そうだ。
「それなりにな。クラーケンテープが品薄の上に四倍値だとかで、金属蓋を瓶ぴったりに合わせる加工を大量に頼まれてる。普段なら忙しいと断るんだが、薬師ギルドから水薬の漏れ防止を願われたんだ、やるしかねえだろ」
「薬は命に関わりますもんね……」
フェルモの説明に対し、メーナが深くうなずいた。
残りの三人は少しばかり固まり、すぐに言葉が返せない。
「幸い、商業ギルドから魔導具師を派遣してもらえることになった。成形魔法で大体の形を作ってもらって、俺が細部を叩いてつめる。ひっくり返しても水薬の一滴もこぼれないぐらいの仕上がりにはできるだろ」
「むしろ、それ以上完璧にしてどうするんですか?」
イヴァーノが真顔で尋ねているが、フェルモであれば開け閉めのスムーズさや耐久性までも考えたいところだろう。
金属蓋の成形はダリヤもできる。速度はないが少しは力になれるかもしれない。
「フェルモさん、私も少しですがお手伝いを――」
「大丈夫だ、ダリヤさん。そこまで忙しくはねえよ。きちんと寝て、食べて、弟子達の仕事を見る余裕ぐらいはある。それに、ダリヤさんの方が準備でいっぱいいっぱいじゃないのか? 叙爵の式典、来月だろ」
「そう、なのですが……」
「会長、明日も礼儀作法の練習ですからね」
忘れていたかったがそうである。
ダリヤとしては、男爵の叙爵はしたのだから、もう王城での式典はいいではないか、そう思ってしまうのだが、型として必要であるらしい。
家族や一族の晴れ姿として考えても当然かもしれない。
「それに、俺ら小物職人よりガラス職人の方が忙しいらしい。大きいガラスの入れ物が足りないとかで、バルバラも弟子入りしてた工房に、二度手伝いに行ったよ」
「大きいガラスの入れ物……そうですか……」
九頭大蛇を解体した血肉などは、確か金属ではなくガラス容器に入れると聞いた。
ガラス職人の忙しさに思い当たる節がありまくりだが、ここで言うに言えない。
自分の斜め向かい、イヴァーノが紅茶のカップをかちゃりとソーサーに戻した。
「内々ですが、もうちょっとすると追加のクラーケンテープが入りますので。少しは楽になると思いますから」
「そりゃ助かるが、大きいクラーケンでも獲れたのか?」
「冒険者ギルド長と、上級冒険者の方々、元上級冒険者の方が、漁業関係者と傭兵ギルドと共同で、捕獲に行ったそうです」
「大船団じゃねえか」
「いくつかに分けたそうですよ。クラーケンそのものを見つけるのも大変だって言いますから」
だが、それだけ強力な大船団なら、きっとクラーケンも獲れるだろう。
そうであってほしい。
そして、水薬用のクラーケンテープが定価で行き渡ることを願いたい。
「元上級冒険者の方まで呼んだんですか? えっと、『緊急召集』でしたっけ?」
事の大きさに水色の目を丸くしたメーナが尋ねる。
「人命がかかっていないので『緊急召集』ではなく『特別依頼』呼びですね。それなりの金銭を出すので、できるだけ手伝ってほしいっていう形の。まあ、元上級冒険者であれば名前も名誉もありますから、受ける人が多いと思いますが」
そこまで聞いて思い出す。
オズヴァルドの第三夫人であるエルメリンダは、元上級冒険者だ。
今回の特別依頼を受けたかもしれない。
「イヴァーノ、エルメリンダ様もでしょうか? オズヴァルド先生から伺っていますか?」
「ええ。エルメリンダ様も冒険者ギルドから特別依頼が出たそうですが、オズヴァルド様が握りつぶ……いえ、エルメリンダ様の最近の体調が心配なので、代わりにゾーラ商会として快速帆船を出したそうです」
「わぁ……」
「快速帆船! お金って、あるところにはあるんですね!」
自分が気の抜けた声を出す横、メーナが素直に感動していた。
しかし、オズヴァルドの気持ちもわかる。
元上級冒険者とはいえ、妻をクラーケン捕獲に行かせたくはないのだろう。
「そういや、ロセッティ商会のクラーケンテープは足りるのか? 結構使うだろ」
「うちは使う予定の二年分をハルダード商会から回してもらいましたので。あ、会長、もし大量に使いたいときは前もって教えてください」
「わかりました」
今のところ制作魔導具以外で大量に使う予定はない。
むしろ王城の三課あたりが、実験で大量に使いそうである。
「エリルキアやイシュラナでもクラーケン討伐を始めたとか。大人気ですね」
「でも、それでクラーケンが絶滅したら笑えないよね」
ヴォルフの冗談に、誰も笑わなかった。
いや、もう冗談ではないだろう。
クラーケンは生活魔導具でも大事な素材部位が多い。
次の九頭大蛇戦を考えても必須なのに、絶滅されたら困る。
「養殖です、養殖しましょう! 安定供給のために!」
「あの大きさをですか? 無理がありませんか、会長?」
「うん、それしかない気がする……アウグストにお願いしてみるよ」
最早、どこへどう願っていいかわからない。
とりあえず、冒険者ギルドのアウグストのいる方向を拝みたい。
そんなことを考えつつ視線をずらすと、隣の金の目が自分を見ていた。
「ダリヤはスライムの次は、クラーケンの宿敵になったわけだね……」
「九頭大蛇の怨敵が何を言ってるんですか……」
囁きを交わす頭の中、小さなクラーケンが泳ぎ逃げて行った。
この年を境に、オルディネ、エリルキア、イシュラナの近海から大型の魔物が減少していく。
クラーケンに関しては、近い海域から順に目撃数を減らしていった。
代わりに食用魚の漁獲量は大きく上がり、漁業関係者が忙しくなることになる。
三国の海路は五割増しで安全になったと言われ、しばし後には新方式の船も加わり、海の交易は一気に盛んになっていく。
なお、冒険者ギルドと王城関係者が全力で養殖研究に取り組むのは、まもなくのことである。
「邪魔したな。紅茶、ご馳走さん」
「いえ、また寄って下さい、フェルモさん」
顔出しを終えたフェルモが、商会部屋のドアをくぐる。
彼が出て行く廊下、スカルファロット家のドナが見えた。
ドナは会釈した後、視線をヴォルフに向ける。
ヴォルフはそのまま歩み寄り、二つ折りの手紙を受け取った。
「わかった。ルチアさんに先触れを――いや、これからすぐ行くよ」
低めの声だったが、ダリヤにははっきりと聞こえた。
戻ってきたヴォルフは、どこかうれしげだった。
「ちょっと用事ができたから、また!」
ヴォルフは今日、魔物討伐部隊の追加注文を置きに来てくれただけ。
別にここからの約束もしていないのだ。
ルチアのところへ行くからといって、思うところなどない。
「はい、また――」
声を整えて返すと、ヴォルフは上着をくしゃりと持ち、足早に部屋を出て行く。
なんとなくその背を見送りたくなくて、ダリヤは視線をずらした。
「……あの、会長」
ドアが閉まると、数秒で呼びかけられた。
メーナがじっと自分を見ている。
判断のつきづらい表情に何かと尋ねようとしたとき、彼は右手でお腹を押さえた。
「すみません、小腹が空いたので菓子を買ってきていいでしょうか? 昼食が足りなかったみたいで、お腹が鳴きそうで……」
偶然か、気を使ってくれたのかはわからない。
けれど、メーナの提案にのることにする。
「私もそうなので、商会員分、まとめてしっかりお願いします、メーナ」
「やった! じゃあ、戻るときに新しい紅茶のお湯ももらってきます!」
彼へ銀貨を渡すと、明るい声で部屋を出て行く。
商会部屋はイヴァーノとダリヤの二人だけとなった。
本日、マルチェラは双子の健康確認に付き添っていて休みである。
イヴァーノは紅茶を横にずらすと、一通の手紙をテーブルに載せた。
大きめで厚いその閉じ口、ワイバーンの黒い封蝋が見える。
「ハルダード商会から連絡がありまして。ユーセフ様も商会の皆様もお元気だそうです。大竜巻での被害はそれなりにあったようですが、予想より軽く、復興は予想より早く進んでいるそうです」
「よかったです。でも、まだイシュラナは復興途中ですよね? うちから追加で何かお送りした方がいいでしょうか?」
イシュラナは国土は広いが砂漠の多い国だと聞く。
移動一つとっても大変だろう。
復興は時間がかかるものだ。少しでも応援できるならしておきたい。
「それは先にお断りがありました。今後は購入としてお願いしたいと。大竜巻の後、イシュラナの大砂漠で金鉱脈が発見され――結構な大きさみたいです」
イヴァーノは確認するように手紙に目を向ける。
「見つけたのがユーセフ様のご子息で、即日、皇帝に献上なさったそうです。今後、国が開発してハルダード一族と利益割合をという話があったみたいですが、『私どもは商売で稼ぎますので結構です』とお答えしたと」
「素晴らしいですね!」
なんと志高く立派なことだろう、感動した。
「その金鉱脈の金を今回の大竜巻の復興に回すそうで。各国から食料と物資を買い付けるので、うちにもきちんと支払って仕入れたいと。それでもちょっと応援を入れておきましょうか、縁もありますし」
「ぜひ、そうしてください」
ダリヤがふりかぶってうなずくと、イヴァーノは便箋の何枚目かに紺の目を移す。
「皇帝は金鉱脈を『竜巻見舞』として受け取り、ハルダード一族は、皇族の『連なりの一族』になり――こちらでいう公爵級になったそうです。『三度の辞退も許されなかった』って書いてありますね……」
イヴァーノが指差した部分は、字が一段小さい気がする。
ハルダード家がとても辞退したかったらしいところに、親近感がわいてしまった。
いきなりの爵位は心臓に悪い。
「近いうちに、ミトナさんがユーセフ様の代理で王都にいらっしゃるので、うちの商会にも回りたいそうです。会長、そのときにお祝いをお渡ししましょうか?」
「そうしましょう。それと、ミトナさん向けに、甘いお菓子も買っておきたいです」
菓子を食べる幸せそうなミトナを思い出し、ダリヤはつい笑んでしまう。
主が皇帝の連なりの一族になることを、彼も喜んでいるに違いない。
菓子は持ち帰り含めて多めの方がいいだろう。
「ああ、歯磨き粉もつけた方がいいかもしれません。ミトナさん、ケーキはホールを食べきるそうですから」
「え、ホールで?」
ミトナが来るときには沢山の甘いもの、そして多種類の歯磨き粉を準備しておこう――
ダリヤは副会長とそう語り合った。
・・・・・・・
「風が出てきたのね……」
窓からの風に魔導書のページがめくれかけ、ダリヤは指で押さえる。
塔の一階、今後の開発予定を立てているが、考えがまとまらない。
窓の外は夕暮れが近い色合いだ。
今頃、ヴォルフはルチアと一緒だろうか――
ダリヤは不意に浮かんだそれを振り切るように立ち上がり、窓を閉めに向かう。
と、窓の外から馬のいななきが響いた。
目を向ければ、門を開け、塔に向かってくるヴォルフが見えた。
ダリヤは慌ててドアへ向かう。
「ヴォルフ?!」
「あ、ダリヤ!」
目を丸くするヴォルフと、玄関前で向き合う形になってしまった。
彼は片手に赤い薔薇の花籠、もう一方に大きな布製の、スーツバッグかドレスバッグらしきものを持ち、そのまま固まっている。
「ヴォルフ、何かあった?」
「いや、その――これを君に贈ろうと思って」
右手で差し出されたのは赤い薔薇の花籠。
あふれんばかりの花からとてもよい香りがしていた。
まだヴォルフからもらった薄黄の鈴蘭は咲いているのだが、どうしたのか。
「それと、これも――って、両方は持てないよね」
「え、ええ。中に入って」
一階の作業台の上を片付けると、そこに布製の大きなバッグを置いてもらう。
上を少し開けただけで、中身がわかった。
ドリノの結婚式のときに服飾ギルドから借りた、水色のワンピースだ。
ルチアに買い取りの依頼を出しており、『裏にダリヤの名を刺繍するから、ちょっと時間をちょうだい』と言われていた。
今日、彼女に会ったヴォルフが持って来てくれたのだろう。
「運んで来てくれてありがとう、ヴォルフ。ルチアには明日にでも支払いに行くわね」
「いや、支払いはもう済んでる。ルチアさんにお願いして、名前を入れてもらったのは俺だから」
「え?」
「俺から君へ贈らせてほしい。一緒に出かけるときにでも着てもらえればうれしい。そのときは、俺はこの前の上下を着るから」
早口で言い切ったヴォルフに、状況をようやく咀嚼する。
ルチアの所へはこの洋服の支払いに行った、そして自分に贈られた。
赤い薔薇の花籠、二人揃いの衣装。
一歩間違うと大誤解を生みそうな組み合わせであることを、ヴォルフはわかっているのか。
しかし、尋ねるに尋ねられず、お礼を告げるのが精一杯。
「……あ、ありがとうございます」
ヴォルフは満足げにうなずいただけ。
やはり尋ねずによかった。
「ベルニージ様が功績を譲ってくださったおかげで、俺も秋に男爵になることが正式に決まった。赤鎧の皆と一緒に。ダリヤより半年遅れるけど、一緒の年になれそうでよかったよ」
「おめでとうございます、ヴォルフ!!」
自分ではなく、ヴォルフのお祝いではないか!
もう少しだけ前に教えてくれれば、本日、花籠とワインと夕食と菓子と、希望の品をそろえたというのに――そう思いながら、今度はダリヤが早口になる。
「ヴォルフは何か欲しい物はない? 服なら私からルチアに依頼するし、アクセサリーならガブリエラに相談できるし、それとも、やっぱり魔剣?」
勢い込んで尋ねたが、彼は首を横に振った。
その金の目に光を揺らし、ヴォルフは笑む。
「俺の一番欲しいものは――俺がもっと頑張らないと届かないんだ」
男爵が決まったのに、どうしてそんなにせつなく笑うのか。
騎士として、すでにとても強いのに、それでも先を望むのか。
まだ己の力が足りないと、母にかなわないと、そう思うのか。
ダリヤは尋ねたい言葉をすり替え、彼に問いかける。
「ヴォルフ、今夜は何かある?」
「これから王城で、男爵向けの貴族の礼儀作法講座を、ドリノ達と一緒に受けるんだ。赤鎧全員だから、グリゼルダ副隊長が講師をしてくれるって」
男爵になるには必須の勉強である。
侯爵家のヴォルフでも、男爵としての立ち居振る舞いは違うのかもしれない。
そしてダリヤも、まだ学びの最中だ。
彼が自分の前、背筋を正した。
見上げたその顔は、とても真剣で――金の目に強い光が宿る。
「半年後、男爵としてふさわしいよう、君の隣に立てるよう、頑張ろうと思う」
「――私も、男爵にはまだ足りないので、頑張るわ」
言葉を重ねるようにそう言うと、ヴォルフは表情をほどいて笑んだ。
そうして、王城へ向かうため、馬車へ戻っていく。
ダリヤは門の内側、馬車が見えなくなるまで見送った。
部屋に戻れば、テーブルの上、水色のワンピースと赤い薔薇の花籠が並ぶ。
ヴォルフが男爵となることを心から祝いたい。
けれど、自分に贈れるものは限られている。
赤い薔薇に重なるのは、九頭大蛇戦の後のヴォルフ、血と泥にまみれ、鎧すらも失って――あんなふうに傷ついてほしくはない。
だから、ここからはヴォルフの望みではなく、自分の望み。
強い魔剣を作ろう。
強く折れぬ、ヴォルフだけの魔剣を。
赤い花籠を抱きしめ、ダリヤはそう誓った。