472.鈴蘭と豚汁
「いらっしゃい、ヴォルフ」
ダリヤは少しだけ上ずった声で、塔のドアをくぐる彼に挨拶をする。
友達向けの口調にするのがまだ慣れず、ちょっと緊張してしまう。
その緊張はヴォルフにも伝染したのかもしれない。ちょっとだけ表情が硬い。
「こんにちは、ダリヤ。昨日は来られなくてすまない。これ、よかったら、受け取って……」
入ってすぐ差し出されたのは赤いリボンを巻かれた鈴蘭のブーケだ。
花は珍しい淡い黄色である。光によっては金色にも見えそうだ。
「ありがとうございます、とてもきれいです!」
受け取りながら敬語になってしまい、浅く咳をする。
オルディネ王国では、五月になると、親しい友人や憧れの人、恋人などへ鈴蘭を贈る習慣がある。
学生時代、イルマとルチアからもらったことはあった。
昨年は婚約破棄もあり、誰からももらうことも贈ることもなかったが。
「二階のテーブルに飾るわね」
「――えっと、こっちは?」
ヴォルフが目を向けたのは一階の作業机。
上には鉢植えの鈴蘭が二つ並んでいる。一つは白、もう一つは薄いピンク色だ。
「さっき、ユリシュアとラウルが届けに来てくれたの。白い方がユリシュアで、ラウルの方が薄いピンクの鉢を持って」
「二人で?」
「ええ、二人とも高等学院の魔導具科だから。仲がいいんだと思うわ」
後輩魔導具師達からの思わぬ贈り物に、ダリヤは驚きつつも喜んだ。
そこにヴォルフから鈴蘭のブーケをもらえた。
これで笑顔にならないわけがない。
「今度、ラウルに『声渡り』の魔導具の制作を教えるのだけれど、ユリシュアも一緒にすることになったの。だから、その挨拶かも。お返しは今後の時間でって言われたから」
「ラウルエーレ君は、オズヴァルドから教わらないんだろうか?」
「『声渡り』の魔導具は、うちの父の開発品だから。オズヴァルド先生から頼まれたの」
『声渡り』は父カルロの開発した魔導具だ。
ダリヤも試作したり手伝ったりしたので、それなりにわかる魔導具だ。
そんなことを説明しつつ、ヴォルフと共に二階に上がる。
その途中、手に持つブーケから、さわやかな花の香りが漂った。
「私もヴォルフに鈴蘭を買っておけばよかったわ」
「俺のことは気にしないで。その、来年は――薔薇の花がいいだろうか?」
香りの弱いダリアの花よりも、いい香りのする花が好き。
ヴォルフはそんな自分の話を覚えていてくれたようだ。
薔薇はもちろん甘くいい香りだが、この鈴蘭のさわやかさも好きだ。
何より、薔薇は温室栽培で冬も出回るが、鈴蘭は今の時期だけなのだ。
「鈴蘭の方がいいわ。季節限定だから」
「鈴蘭の方が、いい……」
ヴォルフは来年のことを考えているのか、低く復唱する。
ダリヤは次の年の鈴蘭をそっと祈りつつ、歩みを進めた。
「すごくいい匂いがする……」
居間に入ると、ヴォルフがぼそりとつぶやく。
うふふと笑み崩れたくなるのを耐え、ダリヤは花瓶の準備を、ヴォルフにはテーブルセッティングを頼んだ。
鈴蘭のブーケを花瓶に飾り、すでにできていた料理を盛りつける。
湯気の向こう、金の目が丸くなった。
「パエリヤと味噌味のスープだろうか?」
「ええ。パエリヤは青豆と小さい干しエビ、スープは豚肉と野菜を、味噌で味つけしてみたの」
前世、母の得意料理の一つ、青豆と干しエビの炊き込みご飯に具沢山の豚汁。
その横には、サラダの小鉢と甘口の東酒。
ヴォルフには見慣れない、そして自分には遠い昔に食べたメニューである。
豪華でもなければ、品数が多いわけでもない。
それでも、今日はこのメニューにしたかった。
ただ、遠い記憶にある、家族そろって笑顔だった食事をなぞっただけだが。
「今日は、ヴォルフが乾杯をお願い」
錫の盃をそろえてそう言うと、彼がこくりとうなずいた。
「わかった。ええと、お互いの尽きぬ幸運を祈って……それと、この一年ありがとう、これからもよろしく、乾杯」
「――幸いを、そしてこれからもよろしく、乾杯」
一拍遅れてしまったのは、ヴォルフも忘れてはいないとわかったからだ。
森で出会った日から一年。
出来事の密度が濃すぎて、振り返ると遠い目になってしまうが――
まちがいなく一年、ヴォルフと飲んで食べて話して笑ってきた。
口に含んだ酒は、一瞬の薄辛さの後、あまやかな味わいを広げる。
喉を通すと、ゆるりと心地よい熱を伝えてきた。
それにほっとしつつ、料理に箸をつける。
青豆と干しエビの炊き込みご飯は、パエリアに近い仕上がりだ。
米は店や市場で探したが、細長くさらさらした感じのものだけだった。
そのため、蜂蜜を加えて糖度を上げたり、バターを少しだけ加えたりと試行錯誤した。
艶々としたお米に明るい緑の豆、干しエビの薄緋の彩りがかわいい。
味の方は洋風炊き込みご飯と言うべきか、バターの風味と少し入れた醤油がいい味わいを重ねていた。
向かいのヴォルフも咀嚼回数を多くしているので、それなりに気に入ってもらえたようだ。
次に手にするのは豚汁、入れてあるのはスープ皿ではなく、深鉢。
豚肉と共に、大根と人参、ゴボウ、小イモを切って煮、味噌で味をつけただけ。それをたっぷりと盛りつけた。
豚肉は脂が多めかと気になったが、ちょうどよかったようだ。
ただ、少し人参が固いかもしれない。
ちょっとだけ心配になってヴォルフを見る。
「ふぅ……」
彼は箸を右手に、うっとりとした表情で手元の豚汁を見つめていた。
せつなげな吐息は豚汁で温まったせいだろう。
けして、ドキリとなどするものか。
ダリヤがおかしな気合いを入れていると、彼は金の目をこちらに向けてきた。
「ダリヤってすごいよね。パエリヤもおいしいけど、この味噌味の豚のスープが、くらっとくるくらいおいしい……」
ダリヤ作の豚汁は、王都一の美青年をくらっとさせるらしい。
本体の方ではそれは無理だが、豚汁が罠にできそうだ。
いや、そうではなく――最初の東酒の回りが早すぎる。
ダリヤは台所へ行ってコップの水を一気飲みし、ヴォルフ用の二杯目の豚汁を山と盛ってきた。
ひたすらに青豆と干しエビの炊き込みご飯と豚汁を食べた後、一息つく。
そこからは辛口の東酒に切り換え、話をすることにした。
肴はヴォルフが気に入ってしまった炊き込みご飯のおこげ、そしてチーズである。
「昨日、約束していたのにごめん」
「いえ、鍛錬が大変そうだったので、その、いろいろと……」
昨日、魔物討伐部隊で新人隊員の顔合わせがあった。
その後に威圧訓練をするというので、ダリヤは全力で帰路についた。
以前、ちょっとだけ威圧を受けたことはある。
それでも怖かったのだ。
魔物討伐部隊員が訓練するそれなどとても無理だ、そう考えたが正解だったらしい。
帰り道、馬場から出てすぐ、背後の馬達が一斉にいなないた。
乗っていた馬車の八本脚馬は一気に速度を上げ、王城を後にした。
「うん、威圧をかけたのがヨナス先生とベルニージ様だったから。正直、大変だった」
「そんなに……?」
「威圧が強くて膝をついた隊員もいたし。馬にも影響があったらしい。三課の魔羊が怖がって、ランドルフがなだめに行ったし」
冷静なヨナスと温厚なベルニージという印象が強いが、彼らは力のある騎士だ。
二人がかりということもあり、かなり怖い訓練になったのかもしれない。
「それに、鍛錬の後に隊長達が模範訓練を始めたんだ。それを隊員の多くが見たし、他からの見学者も走ってくるくらいだった」
「グラート隊長、そんなに凄い戦いを?」
「『英雄大決戦』、一歩手前って感じ」
いきなり童話に近づかないでもらいたい。
いや、グラート隊長は魔剣、灰手の使い手である。
ある意味、主人公的存在かもしれない。
ダリヤがそう思ったとき、ヴォルフが説明を続ける。
「隊長とベルニージ様が戦って、模造剣を数本折って、切っ先が飛んで窓が割れた。折れないように灰手と真剣で戦おうとして、ジスモンド様にすごく怒られてた……」
「どれだけ本気だったの……」
模造剣でも訓練には耐えるはずなのだが、どれだけ力を入れていたのか。
あと、ジスモンドに胃薬を届けるよう、イヴァーノに願おうと思う。
しかし、話はそれで終わらなかった。
「ヨナス先生とレオン殿は激しく打ち合いすぎて、鎧を着けろと言われて。そうしたら、そろって顔に傷を作って、エラルド様が治してた」
「本当に、エラルド様がいてくれてよかったわ……」
鍛錬を通り越して戦闘になっているのではないかとも思えるが、魔物との戦いに備えてのことかもしれない。
ヨナスは魔物討伐部隊相談役だが、強い騎士でもある。
隊員に交じって鍛錬をしてもおかしくない。
「あと、グリゼルダ副隊長と第一騎士団の副団長が打ち合って、水魔法で流された観客が一部いて。いや、グリゼルダ副隊長が魔法を許可したので、ちゃんとした訓練ではあるんだけど……」
ふるり、ヴォルフが身を震わせる。
それほどにグリゼルダ達の戦いが怖かったのか、そう思ったとき、彼はぽつりと言った。
「最終的にジルド様に怒られた」
「は?」
最終兵器ジルド。
言葉にすると何故か違和感がないが、意味がわからない。
「魔物討伐部隊の鍛錬の重要性は理解しているが、建物修繕費と環境整備費を考えるようにって。万が一、オーバーしたら、遠征用コンロの導入を一時停止にし、黒パンと干し肉に戻す、五本指靴下と微風布のアンダーも新規分全部延期にするって」
「えっ?!」
なぜ、ダリヤの開発魔導具関連に飛び火させるのだ?
大体、鍛錬に熱中しているときに、それで、はい、そうですかとなるわけがない。
「ひどすぎるよね! でも、即座に、皆で完璧に片付けるぞって、隊の心が一つになったよ」
「……そうなの……」
返す言葉がみつからない。
錫の盃、酒に虚ろな自分の面が映っている。
ダリヤは魔物討伐部隊の相談役だが、これについては、自分が常識ある誰かに相談したい。
「その後、訓練場の地面や花壇を直したり、掃除をしたりした。あと、医務室に行った隊員を確認したり、皆で浴場に行ったり……」
ヴォルフがそこで言葉を濁す。
強い威圧を受けた場合、膝をついたり倒れたりで泥がつくこともあれば、お手洗いが近くなることもあるだろう。
けして尋ねないことにする。
ダリヤは自分のことも含め、話題を変えることにした。
「ヴォルフ、その前までは遠征だったのよね。どうだった?」
「今回は、蛇を捕りに行ったんだ」
「蛇?」
「冒険者ギルドからの派遣冒険者と一緒に、緑の蛇を捕まえてきた。森大蛇の子供がいないかどうかの確認で、小さいのばかりだけど」
今回は討伐ではなく捕獲だったらしい。
ダリヤにしてみれば蛇でも怖いのだが、ヴォルフはいい笑顔だ。
以前、森大蛇が小さいうちにわかれば、養殖にも研究にも便利だという話があった。
飼っている魔羊が逃げたときに、ランドルフが捕まえた関係で、魔力測定は三課がすると聞いている。
「じゃあ、三課で魔力測定をするのね」
「ああ。俺は見た目では全然わからなかったし、ドリノは捕まえた蛇に『お前、森大蛇?』って聞いてたけど、シャアシャア鳴かれるだけだったし」
「むしろそこで、はいって答えられる方が怖くない?」
「確かに。あ、でもランドルフが蛇と見つめ合ってて、一匹だけ、これじゃないかっていうのはいたんだって。それも合わせて測定してもらうそうだよ」
魔物の魔力測定は、測定器にくっつけて一定時間動きを止めさせる必要がある。
緑の蛇の数は、二十匹か三十匹かわからないが、一匹ずつの測定は大変そうだ。
「三課の担当の方が大変そうね」
「ああ、三課の廊下に箱詰めで二百匹ぐらいいるから。全部計るのは、時間がかかると思う」
「に、二百……」
しばらく三課には絶対に行くまい――ダリヤは内で固く誓った。




