469.魔物討伐部隊威圧訓練
「一、二、三――!」
ヴォルフが数えて三秒目、ヨナス側からふわりと魔力の波が広がった。
冷えを感じる威圧が、薄く訓練場全体に放たれる。
そのままの十秒。
これぐらいならば乗り切れるか、そう安堵する表情がいくつかあった。
肩の力を抜きかけた騎士もいた。
だが、それを待っていたかのよう、魔物討伐部隊相談役の錆色の右目、その瞳孔が縦に裂ける。
威圧が一段濃くなった。
「うっ!」
そのまま両膝をつき、片手で顔を覆った者がいた。
第一騎士団の若い騎士だ。
「ぐっ!」
呆気なく崩れ落ち、四肢を地につけた者がいた。
こちらも同じく、謝罪に来た若い騎士だった。
しかし、それらを一切意に介さず、ヨナスの威圧は続く。
「二十、二十一、二十二……」
数えながら、ヴォルフは魔物討伐部隊員達を見渡す。
今のところ、誰一人膝をつく者はいない。
一番前で威圧を受ける隊長と副隊長にいたっては、そよ風でも受けているようだ。
「四十! 四十一、四十二……」
四十の声を出すと同時、威圧が一段上がった。
この岩のような厚い威圧は、ベルニージだろう。
上から叩きつけるようなそれに、よろめいた隊員がいた。
昨年入った新人隊員が膝をつきかけ、応!と自分を鼓舞して持ち直す。
ふらついた隣の者を支え、笑顔を浮かべた隊員もいた。
このまま乗り切るぞ、そんな思いが透ける騎士達に、ヴォルフは同情を覚える。
ベルニージはともかく、ヨナスの威圧は自分が受けたことのある半分に満たない。
いいや、今日はその先さえあるかもしれないのだ。
「六十、六十一……」
隊列の中、無言で耐えるドリノを見た。
震えもなければ冷や汗もかいていない。
その隣のランドルフは、ヨナスをにらむようにして、しっかり前を見ていた。
二人ともまだ余裕がありそうだ。
だが、さらに濃く重くなっていく威圧に、顔色を変える者が出始める。
冷や汗をだらだらとかく者、肩をわずかに震わせるもの、足の震えをこらえるよう前後に開く者、奥歯を噛みしめ、唸りをあげる者――
それでも、それぞれが精一杯に立ち向かっていた。
自分のすぐ前では、エラルドが袖を口に当てて耐えている。
小さく『鎮静、鎮静』とつぶやきが繰り返されているが、彼には有事でもやることなのでありだろう。
頭が締めつけられるような感覚の中、ヴォルフは数を間違えぬよう、ただ懸命に規則正しく声をつなぐ。
「八十七、八十八……」
残り時間はあと少し、もしかするとヨナスは王城では本気を出さないのかもしれない。
数字を声にしながら彼を見ると、その口元がゆるりと綻んだ。
両脇に下ろしていた腕が持ち上がる。
肘を曲げ、手の平を上に向けた態勢は、珍しくはあるがおかしくはない。
目を閉じ、その指が握られると、威圧がすうっと弱まり――
不意に額に刃物を当てられたような感覚に、ヴォルフは全力で身体強化をまとう。
ヨナスが、赤い口内がわかるほどに大きく笑う。
再び開かれた右目が、赤き炎色に輝いた。
「九十っ……!」
必死に出した己の声は、溺れる者のそれだった。
一枚の薄布に貯められていた大量の水が、布を裂き破って落ちてきたよう。
身を流し去るようなヨナスの威圧、上から叩きつけるベルニージの威圧。
溺れまいと必死に水面に顔を出したところ、岩で叩かれ、水中に戻されるような感覚だ。
その組み合わせは見事としか言い様がなく――
血が繋がっておらずとも祖父と孫、呼吸はぴったりらしい。
髪の根元が逆立つ感覚と共に、きーんと強い耳鳴りが始まる。
背中を一気に這い上がってくる冷えが身体を震わせるのを、奥歯を強く噛みしめて耐えた。
それでも、ためを作っていた膝はそのまま蝋で固められたよう、足も鎖につながれたかのように重くなる。
何より、ヨナスをよく知っているはずの自分ですら、今、彼が怖い。
魔付きは、またの名を『呪い持ち』。
魔物の魔核を食らう、あるいは魔核を割ってその魔力を体内に取り込んだとされるものだ。
ヨナスは、炎龍の魔付き。
その魔力は強く、その威圧もまた、人より魔物のそれに近い。
極端なたとえだが、グラートやグリゼルダの威圧には、まだ人のぬくみがある。
だが、ヨナスの威圧にはそれがない。
魔物は人の言葉で意思疎通などできない。
許しを乞うて地面にひれ伏したところで、気まぐれにその脚で踏み潰される未来しかない。
そんな本能的恐怖。
まるで捕食者を前にした哀れな生き餌。
威圧に耐えられなければ、その恐怖にはまり、堕ちる。
「うわぁぁ!」
無手なのに飛び込もうとした第一騎士団員を、副団長が片手で止めた。
ばたばたと暴れる騎士の首の後ろに手刀を当てて気絶させると、そっと地面に横たえる。
副団長は姿勢を戻すと、また威圧を真正面から受けていた。
その隣では、泣きながら逃げ這いずる若い騎士を、付き添いの者が押さえている。
訓練で最初に膝をついた者だが、この場を立ち去ることはできなかったのだ。
だが、付き添いの者もすぐ両膝をつき、口に手を当てた。
恐怖の表情は見せずとも、喉奥からせりあがる胃液は止めようがない。
「ぐはっ!」
泡を吹き、ひっくり返った騎士がいた。
ここまで耐えていた隊員達の一部も、苦悶の声を上げて倒れ、あるいは膝をつく。
後輩であるカークも、その両目からぼたぼたと涙をこぼし、噛みしめる口元から血をにじませていた。
声を早めたい思いにかられながらも、ただ必死に数を重ねる。
「百!」
己の声と同時、威圧は霧のように四散した。
ヴォルフはようやく肩の力を抜く。
晴れ渡る青空の下、訓練場は惨憺たる有様だった。
倒れている者、うずくまる者、腰が抜けている者、吐いている者――
一部、諸事情で丸まって動けなくなっている者もいた。
意識のない者はエラルドが確認に出向いているので、まず大丈夫だろう。
「うおっしゃ! 乗り切ったー!」
荒い息が聞こえる惨状を無視し、一際明るい声が響いた。
最後まで膝をつかなかったドリノが、戦に勝ったかのように笑顔で跳ねる。
その横、ランドルフが無言で大きく伸びをした。
汗びっしょりではあるが、彼もずっとぶれずに立っていた。
「なかなか辛かった」
「さすが、ヨナス先生とベルニージ様だ。骨身にしみた」
赤鎧の先輩二人も肩を回しつつ、普段の口調である。
九頭大蛇戦の参加者は、威圧の耐性が増したのか、そのほとんどが耐えきった。
もっとも参加者でも全員がそうではない。
「最後の最後で、膝をつくなんて……!」
「最後の十秒で目眩とは……!」
カークと弓騎士が膝をついたまま、悔しげに地面を拳で叩く。
むしろここまでよく耐えたと褒めたいところだが、それは騎士に対し失礼だろう。
そして、何事にも上には上がいる、そう認識せずにはいられない者達がいた。
「なかなかよかったぞ、ヨナス先生。ワイバーンより強めの威圧かもしれんな」
「ありがとうございました、ヨナス先生。ぜひ今後とも威圧訓練をお願いしたいものです」
「些少でもお力になれましたなら光栄です」
威圧をかけていたヨナスを前に、隊長と副隊長が楽しげに話している。
ヨナスの横、ベルニージが続いて口を開いた。
「ううむ、ヨナスにはまだ伸びしろがありそうじゃが……おお、ランツァ副団長殿! うちの孫の威圧はどうでしたかな?」
笑顔の副団長が、彼らへ歩み寄って答える。
「じつによい威圧で、新鮮でした。ベルニージ様の威圧も素晴らしく。第一騎士団内の掛け合いでは、このように身に響くことは少ないので、ぜひまたお願いしたいものです。どうでしょう、今度は交換で威圧訓練などは?」
彼らの会話にふるりと身を震わせた者、怖いものを見る目を向けた者、遠い目になった者――
ヴォルフが次の威圧訓練の想像を振り払っていると、ドリノが重ねたバケツを持ってやってきた。
「ヴォルフ、ランドルフ、『汗流し』に行くぞー」
「ああ」
近くにいた水魔法持ちの先輩に、大きなバケツを満たしてもらう。
向かった先は第一騎士団のそろう場だ。
まだ立てない者は四人。そのうちの若い三人は身を丸くし、顔すらも見えない。
立つに立てないのだろう。
威圧訓練では気を失う者もいれば、失禁する者もいる。
本物の魔物を前にしてもよくあること。
魔物討伐部隊では誰もそれを笑うことなどない。
けれど、第一騎士団の高い矜持がある若者には、ちょっと辛かったかもしれない。
「汗をかいた方には、汗流しをします。こうすると――さっぱりしますので!」
ドリノは頭から水をかぶって見せた。
その様子に、ぎょっとしたように一人の若い騎士が顔を上げる。
涙の跡が残る彼に、ドリノは水を滴らせつつ言った。
「騎士服の背中、汗で張り付いているかと。ざばっといっていいですか?」
「……お願いします」
小さい声で答えた彼に向かい、ドリノは勢いよくバケツの水をかけた。
一杯で足りぬと判断したのか、続けてランドルフにもかけさせる。
カラになったバケツには、第一騎士団副団長が水を足してくれた。
「汗を流してもよろしいでしょうか?」
「……ありがとう、ございます」
顔を上げられぬままに礼を言う若い騎士に、ヴォルフも水をかける。
バケツ一杯では匂いが残ることがあるので、さらにランドルフが注ぎかけた。
「そちらの方も、汗を流していいですか?」
「……不甲斐なさすぎて、死にたい……」
若い騎士は両手で顔を押さえたまま、絶望のつぶやきをこぼしている。
最初に膝をつき、その後に泣きながら這い逃げようとした者だった。
ドリノはその真横にしゃがみこむ。
「失礼ながら――気にすることはないです。最初はみんな似たようなものなので。ちなみに俺は三回です」
そのささやきに、若い騎士が顔を上げた。
ドリノはすかさずバケツの水をかけ、ランドルフに二杯目を頼む。
立ち上がった若い騎士は深々と頭を下げ、自分達へ礼を述べてきた。
その表情は、とてもすっきりとしていた。
「他に汗流しの希望者はいませんかー?」
「ドリノ、一杯頼む! 汗で騎士服が絞れる程だ」
「先輩、お願いします! 頭が汗でかゆいので!」
そこからしばらく、ドリノを先頭に、三人で汗流しに回った。
希望者にかけ終わると、バケツを片付けるために訓練場を横切る。
「それにしても、威圧をかけられると――やはり落ち着かなくなるな」
右手を握りしめては開きをくり返し、グラートが言った。
隊長でも少しは怖さがあったのか、ちょっとだけうれしくなったとき、笑みを浮かべたベルニージがやってきた。
その手には、二本の模造剣が握られていた。
「グラート隊長、威圧の後は血が騒ぐもの。この新人隊員と一戦お願い申す」
「望むところだ」
グラートの横にいたジスモンドが、浅く息をついて離れる。
それと入れ違いに、模造剣を二本かついだレオンツィオが勢いよく駆けて来た。
まっすぐ向かった先はヨナスだ。
彼が模造剣を受け取ると、レオンツィオは子供のように笑った。
そこへ、グリゼルダが叔父である第一騎士団副団長と共に模造槍を担いで続く。
彼らには威圧の疲労は一切ないらしい。
むしろ訓練の後押しになったようだ。
あと、そろっていい笑顔なのに、なぜか寒気がする。
「汗をかいた者は浴場へ! 着替えの者は建物内へ! 模範試合の見学者は端によけるように!」
アルフィオが強い声で叫ぶ。
今すぐ彼らから距離を取れとも聞こえるその声に、隊員と騎士達が足早に移動する。
隊員達は訓練場の端、見学に残る者が多かった。
続いて、魔物討伐部隊棟の窓ががらがらと開き始める。
見学者はここからさらに増えそうだ。
「では、参りますぞ、隊長殿!」
「待ちかねておりましたとも、『元副隊長』殿!」
魔物討伐部隊の新人隊員と隊長が、獰猛な笑みで向き合う。
「ヨナス殿には、ぜひ一度お相手願いたいと焦がれておりました」
「情熱的なお申し出をありがとうございます。こちらも熱が上がりそうです」
同じく新人隊員と相談役が、楽しげに軽口を交わしている。
「グリゼルダ、遠慮はいらん。老いてもまだお前には負けん」
「叔父上こそ、加減は結構です。それと、私も少々育ちましたので」
副団長と副隊長が穏やかな声で――眼光鋭く告げ合った。
訓練場を三分割し、強き騎士達がぶつかり合う。
悔しさと憧れ、畏怖と敬意、それらを内に抱く者達は、彼らをまぶしげに見続けていた。




