433.着替えと宿の廊下
ダリヤは四階の部屋に入ると、騎士服から急いで貸し服――といっても、帰りの着替えなども考えて購入したものだが、そちらの服に着替えた。
少し黄みがあるベージュのワンピースに、淡い水色の長袖シャツ、その袖を二度ほどまくる。
このワンピースは背中がちょっと開いているのでシャツは脱げなさそうだ。
ちなみに、貸し服の業者が来たとき、服を選ぶのを手伝ってくれたのはヴォルフである。
「ダリヤ、よく似合ってる」
「ありがとうございます……」
廊下で待っていたヴォルフにそう褒められた。
貴族故のリップサービスだとわかってはいるが、ちょっと気恥ずかしい。
そのまま共に二階へ戻ると、コーヒーブラウンの襟なしシャツに着替えたランドルフと、騎士服のままのドリノがいた。
「あれ、ドリノ? 着替えは?」
「この袋、中身がヴォルフのだった」
「あ! 袋が逆になってたのか……」
どうやら、貸し服を入れた袋が逆になっていたらしい。
袋は大きな巾着状で、紐の先に小さな木札がつけられているが、どれも同じ麻色である。いかにも間違えそうだ。
ヴォルフの服の袋はドリノと別の部屋にあるとのことで、確認しに行くこととなった。
「二人とも着替えてくるといい。ここで待っている」
ランドルフの言葉に、すぐ着替えてくると答えた二人は、早足で廊下を過ぎていった。
残ったダリヤは、二階の窓から少し距離を取って外を見る。
魔物討伐部隊員達がパレードに向かってしばらく、宿の前からはすでに人波がひいていた。
隊員の姿を見ることで満足したのか、それともパレードを追いかけて見に行ったのかはわからない。
いまだ宿をきらきらした目で見つめる者や、一礼をして花を置いていく者もいたが、それほど多くはなかった。
「皆様、移動なさったようですね」
「そのようだ。それと――ヴォルフの見立てた装いも、可憐で、よくお似合いだ」
会話のつなぎ、ランドルフからも貴族褒めがきた。
ダリヤは褒め返しをしようとし、彼の装いを改めて見る。
V開きの襟なしシャツはコーヒーブラウン、そこに砂色のゆったりとしたズボンを合わせている。
ルチアが駆けてきそうなほどに似合うのだが、いつもとは違うそのラフな雰囲気をどう褒めていいのか、言葉に迷う。
「ありがとうございます。ランドルフ様も、その装いが――新鮮でお似合いです」
一拍空いてしまったのがよくなかったのだろうか。
ランドルフは笑むことなく、少しだけ赤茶の目を細める。
「『ダリヤ殿』、あなたは男爵と成られた。今後、私に『様』は要らない」
「え?」
「ダリヤ殿は己の力で男爵位を得た。自分は伯爵家に生まれはしたが無爵だ。『様』を付ける必要はない」
突然の言葉に驚いた。
だが、確かに自分は男爵となったので、呼び方が変わるのかもしれない。
しかし、ランドルフに対してはどうすればいいのか。わからないことは素直に聞く方がいいだろう。
「では、何とお呼びすれば?」
「呼び捨てでもかまわないと言いたいところだが、自分も身の安全は惜しいので、ドリノと同じく『さん』付けをお願いしてもよいだろうか?」
「はい、かまいません。あの、できましたら私も、『殿』はやめて頂ければと……」
何故ここで身の安全が出てくるのかがわからない。
貴族のマナー的なものかもしれない。
ただ、男爵となってもランドルフ達との関係が変わるわけではない。
むしろ『殿』付けで呼ばれるほうが構えてしまいそうだ。
「自分がここからも『ダリヤ嬢』と呼べば、友人と判断される場合もある。隊の者と同じく、『ダリヤ先生』と呼ぶ方がいいだろうか」
「いえ、ヴォルフには呼び捨てのままで、ドリノさんにも『さん』付けで呼んでもらっていますし、ここからも変わらずにお願いできればと」
「そうか――考えてみれば、皆、友のようだな」
「そうであれば、うれしいです」
こう答えると、ランドルフがその顔を綻ばせる。
ダリヤも自然、笑顔となった。
だが、互いに笑み交わす時間は短かった。
「ランドルフっ!」
階段を上がってきた騎士服の男性が、駆けるようにやってきた。
同時に、ランドルフの気配と表情が硬質なものに変わる。
騎士団で地位のある者か、苦手な相手なのか――そう思ったとき、騎士はランドルフを思いきり抱擁した。
「ランドルフ! 無事でよかった!」
「――兄上」
どうやら、騎士はランドルフの兄らしい。
言われてみれば、面立ちや体格の良さが似ていた。
ただ、ランドルフの赤銅色の髪に対し、兄の方が一段、赤みが強い。
「話は聞いた。よく戦い抜いた……お前はグッドウィン家の誇りだ!」
「――ありがとうございます」
涙声の兄に対し、ランドルフは平坦な声を返す。
抱きつかれたまま、腕を回し返すことはない。
ふと、エルードがヴォルフやグイードと会ったときのことを思い出す。
けれど、家族はそれぞれだ。
ランドルフの硬い表情は、久しぶりに兄と会った緊張かもしれない。
「……ご無事で、よかった……」
小さなささやきを耳が拾った。
騎士の後ろ、距離を開けて、赤髪の女性が口元を押さえている。
ランドルフには妹がいると聞いたことがあった。きっと心配で共に来たのだろう。
三人の再会を邪魔せぬよう、ダリヤはそっと壁際に遠ざかる。
「明後日には王都に戻ると聞いた。少しだけでも家に帰ってこないか? 皆、お前と会いたがっている」
ようやく腕を離した兄が、ランドルフに笑いかける。
けれど、彼が同意することはなかった。
「申し訳ありませんが、この街を案内したい友がおります。次の機会とさせてください」
振り返ったランドルフが、助けを求めるような表情で自分を見た。
理由はわからない。だが、この場を切り抜けたいであろうことだけは理解できる。
ダリヤはランドルフの隣へ歩み寄った。
「こちらは、魔物討伐部隊の相談役であるロセッティ男爵です」
「ダリヤ・ロセッティと申します。この度の九頭大蛇戦では、グッドウィン伯爵に大変お世話になりました」
「名乗りをありがとうございます、ロセッティ男爵。ダルドレフ・グッドウィンと申します。九頭大蛇戦でのご助力に心より感謝申し上げます。それと、弟がお世話になっているようで――」
「いえ、私の方がお世話になっております」
鉄板の挨拶を返すと、ランドルフが自分を見つめているのに気がついた。
視線が合うと、彼は整えきった笑みを浮かべる。
「ダリヤ嬢には本当にお世話になっています。先日、王都の菓子店でご一緒したアップルパイは、とてもおいしかった……」
自分とルチア、そしてランドルフで菓子店に行ったのは昨年のことだ。
隣国では男性が甘い物を好むのは、男らしくないと言われることがあるという。
もしかすると、この国境の街でもそういったことがあるのか、それとも王都では好物の甘い物も食べられ、元気にやっているという意味合いなのか。
おそらくは兄妹を気遣っているであろう言葉に、ダリヤはうまく合わせることができない。
貴族の薄い笑みで流すのが精一杯だ。
「……そうか。よかった」
「兄上、申し訳ありませんが、これから予定がありますので」
「ああ、すまない。私もこれから国境警備隊の方と打ち合わせだ。家にはいつでも帰ってきてくれ。皆、お前を心から待っている」
ダルドレフが、弟の肩を二度叩いた。
その後ろの妹は、無言のまま深く一礼する。
彼女の名乗りがなく、挨拶ができないままでいいのかと思ったが、声が発せられることも、ダルドレフが促すこともなかった。
貴族女性はあからさまに感情を表に出すべきではない――そんな教えもある。
もしかすると、ダリヤがいるから泣くのを堪えているのかもしれない。
「ランドルフ、良き日々を」
「皆様へ、ご壮健であるようお伝えください」
挨拶を交わした後、ダルドレフ達は廊下を過ぎていく。
その姿が見えなくなると、隣のランドルフが少し長く息を吐いた。
「すまない、ダリヤ嬢。あなたに挨拶をさせてしまった」
「いえ、ランドルフ様にはお世話になって――すみません、ランドルフ『さん』。この呼び方、慣れるまで時間がかかりそうです……」
眉をよせて言うと、彼がくつくつと笑い出す。
そこへ着替えたヴォルフ達が戻ってきた。
ヴォルフは黒い襟なしのシャツにモスグリーンのズボン。ドリノは生成りの襟なしシャツに青のズボンだ。
二人とも庶民らしい服装なのだが、鍛えた身体がよくわかる。
こちらもルチアが飛んできそうに似合っていた。
皆が揃ったところで、宿の裏口に向けて歩き出す。
「俺らは毎日会ってるんだから、家に帰って菓子と蜂蜜食い放題でもいいんだぜ」
ランドルフが兄と廊下で会ったことを告げると、ドリノがそう言った。
だが、赤銅の髪の主は、首を横に振る。
「我が家は甘物が好きな者より、酒が好きな者が多い。あと、家の騎士含め、大海蛇も多い」
「あー、家に大海蛇がごろごろか。それ、かなり飲まされそうだな……」
酒の喩えでの大海蛇は、ダリヤの前世で言うウワバミの上、枠とでもいえばいいだろうか。まず酔わない者のことだ。
魔法のせいなのか、体質的なものかわからないが、今世ではアルコールにとても強い者が多い。
「自分は家で酒を飲まされるより、皆で屋台を巡り、甘物につぶれたい」
「ランドルフ、甘物で人はつぶれないから。お腹がぱんぱんになるだけだから」
家の酒宴より屋台の甘物が勝ったらしい。
それでも、家族は帰ってきてほしかっただろうが――
思い出すのは、言葉なく口元を押さえていた、赤髪の女性だ。
「妹さんは残念そうでしたね」
「ランドルフの妹も来てたんだ。あれ、前にエリルキアに嫁いだって言ってなかったっけ?」
問われた彼は、歩みを少しだけゆるめて答える。
「かの人は、兄の妻だ」
「すみません、私が勘違いをしてしまって……」
ランドルフと面立ちは違うが、どこか雰囲気が似ている気がして、妹だと思い込んでしまった。
「何も問題はない。さて――まず、蜂蜜飴の屋台を探さねば」
「ここまできても蜂蜜かよ!」
笑い声と共に、四人は裏口の扉をくぐった。