429.臆病者は悪夢を超える
『また、この夢か……』
グイードはベッドでまどろむ中、泥沼に引きずり込まれるような感覚を覚える。
弟達と楽しく語らった夜ぐらい、この夢を見たくはなかったが――
それでも抗いようはなく、色のない世界へ堕ちていった。
灰色の空の下、黒と白以外の色はない。
またこの夢かとすでにあきらめを覚える大人と、逃げられぬ怖さに震える少年、どちらもが自分だ。
領地へ行く道はまだ整っておらず、森や荒れ地を抜けなければいけない。
ガタガタと揺れる車輪の音は、今の馬車よりずっと大きかった。
領地へ行くのに、弟のヴォルフと同じ馬車ではない。当時の自分はそれを不思議に思わなかった。
馬車が分けられるのは幼少からのことだったからだ。
グイードはスカルファロット家の長兄で、母親は第一夫人。
それ故に守りの優先順位がつけられることを、深く意識したこともなかった。
低い岩山の手前、突然、ガタンと止まる馬車。
響く詠唱、飛び交う怒号、高く上がる剣戟の音。
窓を閉めた馬車の中でもはっきりとわかる、肉が焼ける匂いと濃い血臭。
「グイード!」
気がつけば、あの日と同じ、母の腕の中で震える少年の自分となっていた。
この夢を何百回と見続けて、硬直は悲しみの涙に、助けられぬ嘆きに、臆病者の自分への怒りに変わった。
けれど、ただの一度も、母のこの腕を振りほどけたことはない。
今日も同じく――そう思って見つめた腕は、自分のものよりずっと細かった。
「大丈夫です。護衛騎士が守ってくれます」
あの日、そう言った母は、グイードよりも震えていた。
己の不甲斐なさを棚に上げ、止めた母を恨んだ日がある。
自分とて多少は戦えたのだ。なぜ行かせてくれなかったのか、勝算はなくとも、兄として死ねればよかった――そう逆恨みすらしたことさえあった。
今ならばわかる。
母は細い腕で、小さい体で、子供の自分を守ってくれた、それこそ命がけで。
自分が弟達を愛するように、いや、それ以上に、息子の自分を愛し、守ろうとしてくれた。
同じ馬車にヴォルフがいたなら、きっと共に抱きしめられていた――そう思いたい。
「一の馬車前にそろえ!」
「絶対にグイード様をお守りしろっ!」
血を吐く叫びが聞こえる。
ヴォルフ達を守ってくれ。でなければ逃げてくれ。
私のためになど命を懸けてくれるなと、喉から声を出せぬままに願い乞う。
皆の屍の上に立って生き残るくらいなら、自ら消えたい、何度そう思ったかわからない。
それでもグイードは、あちらへ渡れなかった。
彼らが命を懸けて守ってくれたこの身を、スカルファロット家長子である『グイード・スカルファロット』を、消すことができなかった。
自分が一番卑怯な臆病者であることなど、とうに知っている。
だが、生き汚くもこちらにいる自分には、まだやれることが、いいや、やらなければいけないことがあるのだ。
「母上、私はもう、大丈夫です」
自分を抱きしめる腕にそっと触れ、グイードは笑顔で母を押し返す。
当時の若い母がじっと自分を見て、今の母となって微笑み――溶けるように消えた。
グイードは膝の震えを抑えて立ち上がると、馬車の扉を開ける。
飛び降りた先、顔のない影のような騎士達が見える。
どれもこれも自分よりはるかに背が高く、大きく、強そうで――
震えと恐怖を全力で捻じ伏せ、前へ進んだ。
あのときにはなかった氷蜘蛛短杖を右手に、紡げなかった詠唱をする。
「氷槍!」
空中に現れる白銀の槍は、黒い影を次々に打ち滅ぼしていく。
色のない世界に、影の流す赤が流れていく。
グイードはただ夢中で戦い――すべての黒い影は地に倒れ消えた。
「グイード様!」
自分を呼ぶ誰かの声。
不意の強風に目を閉じれば、頭上に澄んだ青空があった。
すべての色が戻った世界、目の前で片膝をつく騎士達、そして微笑む母付きのメイドがいる。
あの日、領地へ行く際、いつもの護衛騎士達の他、若い新人騎士が多くいた。
スカルファロット家に入ったばかりの新人騎士達は、初の領地同行、そして護衛演習に緊張を濃くしていた。
襲撃で新人達が混乱し、護衛騎士達は連携ができなかった――
後日、生き残った騎士からそう聞いた。
「皆、ありがとう。よく守ってくれた。アベルディ・グッドウィン、ヴィットリオ・ネイド――」
グイードは、目の前にいる者達の名を、順に呼んでいく。
この場で亡くなった騎士とメイドの名は、全員覚えている。
新人騎士含めて似顔絵を描かせ、その姿もすべて目に焼き付けた。
名を呼ばれた者は笑顔となり、一人一人風に溶けてゆく。
すべての者を見送ると、グイードはようやく息ができた気がした。
「グイード兄様、助けてもらってありがとうございます!」
向かいの馬車から飛び出してきた黒髪の幼子は、あの日のヴォルフだ。
自分の元へ駆けて来た弟が、ためらいなく両手を伸ばす。
「ヴォルフ、無事で良かった……!」
グイードはヴォルフを抱き上げ、そのぬくもりを確かめた。
腕の中の弟は、金の目を輝かせ、太陽のようにまぶしく笑う。
「やっぱりグイード兄様は強いですね! すごく格好良かったです!」
「――ありがとう、ヴォルフ」
「俺も兄様達みたいに氷魔法が使いたかったなぁ」
「――ヴォルフにはとてもいい剣の腕があるよ。ファビオと共に、きっと立派で強い、騎士になる」
「頑張ります! グイード兄様とエルード兄様は、きっとすごい魔導師になるのですね!」
それに答えぬうち、向かいの馬車の扉が、再び開く。
下りて来たのは黒髪の女性騎士――ヴォルフの母、ヴァネッサだ。
「強くなりましたね、グイード」
母の表情で、ヴァネッサが自分に笑った。
腕の中では、ヴォルフが無邪気に笑っていた。
これこそがあの日、自分が死ぬほど見たかった光景だった。
「さあ、お行きなさい、グイード。次の鍛錬が待っています」
「はい――『ヴィー母様』、あの日、助けて頂き、ありがとうございました……!」
命懸けで自分と母を守ってくれたヴァネッサへ、ようやく声を出して告げられた。
もう少しだけ、このままで――
そう思うのに、微笑むヴァネッサもまた、風に溶けていく。
『グイード――』
その声は、溶け消えていく彼女のものか、それとも他の誰かか。
いつの間にか、腕の中のヴォルフはいなくなっていた。
白い道のはるか先、三人の弟達が見える。
紺色の騎士服を着たファビオ。
その後ろに国境警備隊員姿のエルード。
続いて、魔物討伐部隊の赤い鎧のヴォルフ。
駆けていく騎士達の背中が遠ざかっていく。
グイードは、同じ道に踏み出すことはできない。
自分の前にあるのは、黒い茨ひしめく細い道。
幾重にも分かれ、正しい道行きはわからず、傷なしに進むことはできない。
それでも、この道へ踏み出すことにためらいはない。
『グイード!』
呼ばれて見上げた空は、果てしなく高く、どこまでも深い青。
吸い込まれそうだと思ったとき、パキパキとガラスがヒビを入れるように、視界が割れていく。
『グイード! グイード!』
繰り返しこの名を呼ぶ、聞き慣れた声が耳に痛い。
ああ、わかっている。
これは自分勝手で、とても都合のよい夢。
あの日のことは変えられない。
それでも自分は、この夢を絶対に忘れない。
グイード・スカルファロットとして、こうありたかった、こうあるべきだった――
この名につながる道は、もう二度と間違えない。
「起きろ、グイードっ!」
自分をひどく揺さぶる腕がある。その勢いのよさに起きる前に酔いそうだ。
もうちょっとこう、優しく起こしてはくれないものか。
ようやく目を開けると、予想通りヨナスがいた。
「グイード! 魔力が揺らいでいる、こんなところで魔法を使うな! 部屋の修理代がかかる!」
身も蓋もない言い方で、それでいて心底心配した表情で、友が言った。
自分はそれに応えるべく、寝台から上半身を無理に起こす。
眠気に涙がこぼれかけ、手の甲で目元を強く拭った。
「グイード、また悪い夢を見たのか?」
「いいや――」
あの悪夢はもう見ない、なぜかそう確信できた。
代わりにあるのは、譲れない己の夢だけだ。
スカルファロット家当主となっても、自分は恐怖に震えの止まらぬ臆病者だ。
勇敢な怖いもの知らずになど、死ぬまでなれない。
けれど、怖さを知っているなら、対する備えはできるはずだ。
守れずに嘆き泣くより、どんなに無様でも守れるようになりたい。
自分は、一人きりではないのだ。
もっと、力をつけよう。
もっともっと、この腕を長く伸ばそう。
スカルファロット一族も、連なる者達も、誰一人、絶望に失わせぬように。
それがスカルファロット侯爵と成った己の夢。
そのためなら、この身も心も凍らせよう。
「このままでいろ、グイード。寝酒を持ってくる」
「大丈夫だよ、ヨナス。私はもう、悪夢を見ない」
これに関し、自分への信頼はないらしい。
錆色の目がさらに心配を濃くした。
そんな友に対し、グイードは心から微笑む。
「とてもいい夢を見たんだ――死ぬまで忘れないほどのね」