422.国境の祝勝会(二)
ダリヤが弓騎士やヴォルフと拳を合わせたのがきっかけとなったのか、あちこちで隊員達が拳を合わせ始めた。
明るい笑い声と共に、ガツンガツンと音が響くほどのそれは、自分がやったら拳が割れそうだ。
給仕によって空いた皿が下げられ、部屋の壁際に銀色のワゴンが並ぶ。
その上には木のジョッキに入ったエールと、琥珀色の蒸留酒の瓶、グラスと水と炭酸水と氷。
酒宴は二次会になった感じである。
ヴォルフが隊長へ琥珀の酒を、テーブルの他の者へはエールを持ってきてくれた。
氷の入ったグラスを受け取ったグラートが、彼へ礼を言った後、言葉を続ける。
「ヴォルフ、魔物討伐部隊の者達に限ってないと思うが、こんな日だ。酔いすぎてロセッティに絡む者がいないとも限らない。今日は商会保証人のお前が隣にいろ」
「わかりました!」
「ロセッティ、安心して飲んでいいぞ」
「ありがとうございます」
魔物討伐部隊員は皆、礼儀正しい。
絡まれることは絶対にないと思うが、護衛騎士であるマルチェラが別のテーブルにいるので、気を使ってくれたのだろう。
マルチェラは、少し距離が空いたテーブルで新人騎士達――とはいっても、ベルニージ達ベテラン騎士なのだが、彼らと共に酒宴に参加している。
マルチェラは自分の護衛役なので、乾杯後は部屋の外で待つつもりだったらしい。
だが、ダリヤを守って国境まで来た、かつ、ベルニージの弟子でもあることから、隊長が招いた客という形で席に着いた。
マルチェラも騎士服を着ているので、ベルニージの隣に座っていても違和感がない。
少し緊張しつつも、ベルニージ達と歓談し、酒と食事を共にしているようだ。
「お酒に合うピリ辛エスカルゴは、いかがですか?」
給仕が肴に勧めてきたのは、かなり大きめのエスカルゴ――カタツムリを刻み、ニンニクとバター、そこへ王都のようにパセリではなく、赤い唐辛子をかけたものだ。
同じテーブルの皆が皿を受け取り、湯気の上がるそれを口にする。
ダリヤはエスカルゴ自体、あまり食べ慣れていないのだが、さきほどの九頭大蛇のおかげでこれもハードルは低い。
ニンニクの強めの香り、バターのちょうどいい塩加減、エスカルゴの濃厚な味。そこにピリリと辛い唐辛子。
カタツムリではあるのだが、少しだけ肉を思わせる味わいに、ゆっくり咀嚼を繰り返す。
その後に喉に流し込むエールとの組み合わせが、最高にいい。
グラートの好みでもあったらしい。向かいですでに追加の皿を受け取っていた。
「お前の好きな味だな、ジス――っと、いかんな。長くいる癖でつい、な」
不意に、ここにいない者を呼んだ彼が、指を口に当てて苦笑する。
ジスモンドは隊長代行として、王城の魔物討伐部隊員の指揮をとっている。
勝利と無事はとうに魔鳩か龍騎士によって届けられているだろうが、グラートの護衛騎士でもある彼は、とても心配していることだろう。
「グラート様、ジスモンド様からご連絡は?」
「『王城に帰るまでが遠征です。飲み過ぎないでください』、手紙にそうあったな」
エラルドの問いかけに、グラートの苦笑は続いたままだ。
いつも礼儀正しいジスモンドの声がそのまま聞こえたような気がして、ダリヤはつい笑んでしまう。横のヴォルフも同じだった。
と、入り口で歓声が上がった。
「クラーケンの串焼き、焼き立てです!」
大皿に山と盛られたそれは、タコのぶつ切りを串に刺したようにも見える。しかし、その味はイカに近い。
誰が言うでもなく、隊員達全員がクラーケン串を手にする。
ダリヤ達のテーブルにも、ヴォルフの後輩騎士であるカークが配りに来た。
「ありがとう、クラーケン!」
「ありがたや! 次も頼むぞ、クラーケン!」
「煮てよし、焼いてよし、巻いてよし、なんて最高な奴なんだ!」
「ここに感謝の祈りを――」
クラーケン焼きに祈りや賞賛を捧げた後、それぞれに囓りつく。
ダリヤはちょっとだけ複雑な思いを抱きつつも、同じように囓った。
「あ、お醤油……」
「王都とは違う味だね、これもおいしい」
茶色が強いと思ったら、なんと醤油味だった。
香りに気づかなかったのは、エスカルゴのニンニクのせいだろう。
イカに似た味と醤油、その豊かな味わいが口いっぱいに広がる。
ダリヤは懐かしさを含め、しみじみと噛みしめた。
「神官様、国境警備隊の方が――」
宿の者が横でささやくと、エラルドは続きを聞く前に立ち上がる。
「酔い醒ましに、ちょっと外の空気を吸ってきます」
「エラルド、一人では心配だ。カークを――いや、私が行こう」
「ご冗談を。カーク殿は次に備え、先輩方から九頭大蛇戦の教えを乞わねばなりませんし、グラート様はここで隊員をねぎらうのがお仕事です。私は国境警備隊の皆様が一緒なので大丈夫ですよ」
先程までの酔いを一切感じさせぬ、神官の笑みが返ってきた。
「では、皆様引き続き、よい宴を――」
「エラルド、戻ったら私と三次会だ」
「わかりました。うまい酒を残しておいてください」
答えたエラルドは、足早に部屋を出て行く。
その背がドアを過ぎるまで、グラートがじっと見つめていた。
それがなんとなく気にかかっていると、赤い視線が自分に移った。
「心配はいらんぞ、ロセッティ。エラルドは治療に呼ばれたのだろう」
エラルドが呼ばれたなら、よほどひどい怪我ではないか。
不安が増したとき、グリゼルダが低い声で説明してくれる。
「エラルド様は国境警備隊の皆様へ、『ハイポーションを使うような怪我であれば、必ず自分を呼ぶように』とおっしゃっていたのです。その方がお得だからと」
「お得……」
「その分で、国境警備隊の倉庫にクラーケンテープを積むよう、勧めていらっしゃいました」
「あいつは――九頭大蛇が大嫌いだろうからな」
独り言のようなグラートの声に、さきほど九頭大蛇を食べていたエラルドを思い返す。
あれは祝宴故の無謀な挑戦かと思ったが、彼なりの思い入れがあったのかもしれない。
そんなことを考えていると、新しい小皿をトレイに、給仕がやってきた。
「皆様、イサキの蒸し身はいかがですか? トマトソースと、東ノ国の醤油とワサビという辛めの香辛料のものがございます」
「イサキですか、いいですね。お願いします」
グリゼルダが給仕から白身魚の皿を受け取る。選んだのは赤いトマトソースだった。
グラートも同じである。
ダリヤは迷わず醤油とワサビを選んだ。横のヴォルフも同じだ。
「ダリヤ、ワサビは辛めだっていうけど、平気?」
「はい、食べてみたかったので……」
前世で食べたことがあり、気になるのだと言うに言えない。
イサキの蒸し身に少しだけワサビをのせ、醤油につけて食べる。
お刺身ではないが、それでも独特な辛さと身の味わいが口内に広がった。
不意に浮かび上がるのは前世の記憶。
小学校、中学校の入学式の日、父母と食卓を囲み、自分の成長を祝ってお刺身を食べて――
ダリヤはそっと目を閉じ、つんとくる辛さをエールで押し流した。
「大丈夫、ダリヤ? やっぱり辛すぎた?」
「大丈夫です。その――すっきりした辛さでおいしいです」
なんとかそう答えてから彼を見れば、醤油したたる白身魚の上、こんもりとワサビを盛っていた。
「ヴォルフ、それはちょっと辛すぎると、あ!」
ばくり、大きさ的に一口でいけるのが仇になった。
ふるりと震えた彼が、口を押さえて耐えている。
「ええと、鼻をつまんでください! 量がすぎると泣くほど辛いんです!」
「本当だ……泣けるほど、辛い……」
鼻をつまんだものの、ヴォルフはその目いっぱいに涙をためている。
グラート達も心配そうだが、こればかりはどうにもならない。
「酒を足しにきたのだが、ヴォルフ殿がダリヤ先生に叱られているところだったか――」
「叱っていません」
ジョッキを複数持ってきたベルニージに、言い訳するような形になってしまった。
「東ノ国のワサビという香辛料が、ちょっと辛かったようで……」
「誤解を招くような醜態を申し訳ありません……鼻に抜ける辛さで、目にきました……」
自分は説明を、ヴォルフは詫びを、神妙な顔で伝える。
ベルニージは空いている椅子に座ると、からからと笑った。
「辛い物好きなヴォルフ殿でも、泣けるほどの味か」
「ベルニージ様もよろしければ――この緑のワサビは、少なめをお勧めします」
成り行きでベルニージ、そしてグラートも試し、その辛さの種類に納得していた。
ベルニージはワサビが気に入ったらしい。後で分けてもらえないかと給仕に相談していた。
「ベルニージ様、ワサビがお気に召しましたか?」
「ああ、なかなかよいな。これで泣かずの我慢勝負ができそうだ」
めでたい祝勝会なのに、なぜ、ワサビで我慢勝負をしなければいけないのだ?
そうは思ったが、老騎士の整った笑みに聞くのがためらわれた。
「ランドルフ、俺達とのことを楽しかったとか、過去形にしない! 命大事! もっともっと楽しいことはこれからきっとある!」
近くのテーブルで、赤い顔のドリノが声高く話すのが聞こえてきた。
「悪かった。反省する……」
彼に腕をとられているランドルフが、クッキーを右手に深くうなずいている。
その巨体は、いつもより小さく見えた。
「ランドルフ様、どうかなさったんですか?」
「その……戦闘中、土魔法で自分ごと、九頭大蛇の首を固めようとしたんだ。それをベルニージ様が蹴り落として止めた」
「え……」
それは自爆ではないか。ランドルフがベルニージに止めてもらえて本当によかった。
「ベルニージ様も、レオンツィオ様もです! さっさとあちらに渡ろうとせず、こっちでまだまだ働いてください!」
ドリノの呼びかけが他二人にも増えた。
どうやら、ぎりぎりのことをしようとしていた騎士は他にもいたらしい。
「応とも!」
「尽力致します」
ベルニージはこちらで、レオンツィオは別のテーブルでドリノに答える。
死線をくぐり抜けての今なのに、皆、声も表情も明るい。
自分の向かい、グラートがグラスの琥珀を干した。
「戦いとわかってはいるが、無理を通すのもほどほどにしてほしいところだな……」
「それはグラート隊長もです。ご自身も突撃なさった上、魔物寄せの最後の瓶をお持ちになったでしょう、もしもがあればその身に使うつもりで。グラート隊長は魔物討伐部隊の要、もしもがあってはなりません」
語気強く言ったグリゼルダの肩を、グラートがぽんと叩く。
「それならば心配ない。お前がいるではないか」
「私では力不足です。騎士としての強さも足らず、貴族としてのつながりも持っておりません」
「問題ない。推薦書はもう陛下に出してあるし、グリゼルダが隊長となっても、我がバルトローネ家は今と同じ支援をする。私の遺言状にも書いてあるし、妻と弟、息子と甥とも契約を交わしている。いつ交代となっても大丈夫だ、『次期隊長』」
グラートのいい笑顔に、グリゼルダがぴたりと固まった。
すでに次期隊長が決定していたことへの驚きもあるだろう。
それに、グラートとグリゼルダの一族は派閥違いだと聞いている。
派閥を超えて支援するというのは相当なことで――グラートの自分への信頼に、感動しているのだろう。
「グラート隊長、私は今、初めてお伺いしたのですが?」
「ああ、言っていなかったからな。私に何かあったときに伝えるようにと。息子とジスとジルドには伝えていたぞ」
「そうですか――そのご判断と時期と内容につきまして、詳しくお伺いしたく」
身を傾けた副隊長が、隊長の上腕を両手でつかむ。
見ただけできつさのわかるそれに、グラートが眉を寄せた。
「待て、グリゼルダ。ここはめでたい祝勝の場だ。また今度、日を改めて――」
「お話を伺った後に解放致します」
とてもにこやかな副隊長の後ろ、冷たい水が渦を巻く幻覚に、ダリヤはそっと目を伏せる。
ここはいい話になるところではないのだろうか?
今、ちょっと、恐れ鎮めが欲しい。
「うむ、伝達をまめにしなかったグラートが悪いな」
ベルニージはそうつぶやくと、音もなく立ち上がる。
ヴォルフに目で合図され、ダリヤも立ち上がり、そっとテーブルから離れた。
そのまま移ったのは、マルチェラ達のテーブルだ。
エールのジョッキを持つマルチェラが、レオンツィオ達と話している。
「ベルニージ様、お早いお戻りで」
「次期隊長について込み入った話になったのでな、邪魔せぬよう戻ってきた」
物は言い様である。
皆でテーブルを囲むと、話はそのまま続いた。
「まあ、次期隊長はグリゼルダ副隊長が適任じゃろうて。副隊長の経験、騎士として強く、品格もあり、書類仕事に各所の連携も取れ――非の打ち所がない」
「何より、グリゼルダは魔物に好かれますからな。これ以上の好条件はないでしょう」
「魔物に好かれる……」
毒蛙と戦い、森大蛇に吞まれかけ、牙鹿に踏まれたというグリゼルダだが、それは好かれていると解釈していいものか。
「爬虫類型の魔物には哀れなことになりそうですなぁ」
「そのときは素材の商品価値を考え、次期副隊長あたりが止めるべきでしょう」
ゴッフレードに答えたレオンツィオの碧い視線が動き――ヴォルフに向いた。
「ヴォルフ殿は、実力も人望も高い。いずれ隊を率いる役持ちになることをお考えになりませんか?」
「いいえ、まったく。俺よりふさわしい先輩が多くいらっしゃいますから」
自分の隣、黒髪の青年は一切の躊躇無く答えた。
「俺は前線向きなので、体力が落ちたら引退し、次の仕事を探そうと思います」
「なるほど。ヴォルフ殿であれば引く手あまた――ちょうどいい先もありそうですな」
うなずいたレオンツィオが、今度はその碧を自分に移す。
ヴォルフが魔物討伐部隊を引退したら、ロセッティ商会に入ってもらう。これまでも冗談めいて、あるいは食事の席で話したことのあるそれ。
ロセッティ商会の保証人をしてもらい、すでに営業部長のような彼。
彼が自ら魔物討伐部隊を辞めたなら、安全な王都で共に仕事をし、ずっと笑い合える日々を――
その願いを口にしても、いいだろうか。
祝勝会の酒は通りがよく、酔いもほどよく回っている。
ダリヤは精一杯の笑顔で、ヴォルフに言った。
「その日が来たら、うちに来て、ずっといてもらえるよう、全力でお願いしに行きますね」
「……っ!」
ごとん、彼のジョッキの底がテーブルを強く叩き、横倒しになった。
入っていた酒がヴォルフの両膝に流れ落ちたので、慌ててハンカチを取り出す。
「使ってください!」
「あ、ああ、ありがとう!」
慌てたヴォルフがハンカチを受け取ろうとし、自分の手ごとつかみ――すぐに離した。
「すまないっ! 慌ててしまって!」
「いえっ! シミになると大変ですから!」
強い指の力に驚いたが、それどころではない。
騎士服で凱旋するのだ、ズボンにシミができては困る。
ダリヤは内ポケットの二枚目のハンカチを探し始めた。
「なるほど。ダリヤ先生は、スカルファロット侯に願いに行くことをお考え中でしたか……」
「それはどうかわからんが、想いのにじむ言葉じゃったな……」
「くっ、若いというのはいいですなぁ……」
ごにょごにょとささやきを交わし合う老騎士達を横に、マルチェラは浅く息を吐く。
ダリヤが言った『うち』はロセッティ商会だが、ヴォルフがまっ先に思い浮かべたのは、きっと緑の塔。
もういっそ、そこを帰る家にすればいいと思うのだが、貴族の面倒さを学習中の自分にも、そう簡単にいかぬことはわかる。
ダリヤがヴォルフを婿にするには、スカルファロット家の新当主であるグイードの許しがいるわけで――二人ともスカルファロット家に置いて守りたいと願う兄は、難色を示すかもしれない。
そして何より、この二人の進みは先ほど食べたエスカルゴより遅そうで――
いいや、案外、時間が解決してくれるかもしれない。
頬を染めたダリヤは二枚目のハンカチで青年の膝先を拭き、その慌てぶりを加速させていた。