389.ブルースライムとスカルファロット家
ひたすらにひたすらに己の手を見つめることしばらく――
ダリヤにはまったくわからないが、この手にはブラックスライムの魔力の残滓があるらしい。
ほんのわずかとはいえ、ブラックスライムの魔力である。
できるならきっぱりお別れしたいのだが、魔力の付与に影響があるかもと言われてはどうしようもない。
ダリヤは軽く息をつくと、塔の作業場、棚の前でかがんだ。
目の前の大きめの水槽、そこにいるのはふるりと揺れるブルースライムだ。
本日もご飯の栄養液をしっかり吸収し、艶々と表面を光らせていた。
「『ミズマリ』、私の手にブラックスライムの魔力が残ってるって、わかる?」
ミズマリ――それはダリヤがこのブルースライムにつけた名前である。
水でできた鞠、そんなイメージから名付けた。
呼ばれたことがわかったのか、ミズマリはダリヤの方へ寄ってきた。
しかも差し出した右手のすぐ前だ。
これももしや、ブラックスライムの魔力のせいだろうか? そんな考えが浮かび、ダリヤは水槽に両手をつけた後、右手は右へ左手は左へとゆっくり遠ざけた。
もしかしたら、どちらの手にブラックスライムの魔力が強めに残っているかわかるかもしれない。
水槽の真ん中、ミズマリはどちらに行っていいかわからないというようにぷるぷると大きく震え出す。
波打つようなその様に、困らせているか、それとも怖がらせているのかもと心配になってしまった。
「ええと、ミズマリ、捕まえたりしないから」
とりあえず、手を水槽から離し、追加のおやつでもあげよう――そう思ったとき、目の前のスライムがコロンコロンと転がった。
「え……?」
ダリヤは水槽に手をつけたままで固まる。
艶やかな青はちょうど半分ずつに分かれ、右手と左手の前、ガラス越しにくっついていた。
「……分裂したの……ええと、おめでとう……?」
動けぬままにそう言うと、二匹のブルースライムはふるふると応えるように揺れる。
いや、この分裂はただの偶然である。
自分が左右に引き裂いたわけでも願ったわけでも命じたわけでもない、絶対に。
「あ、名前……どうしようかしら……ミズマリ一号、二号でいい?」
二つの薄青がぴたりと動きを止めたとき、ドアベルが鳴った。
ダリヤは慌てて玄関へ向かう。
「こんにちは、ダリヤ。迎えに――何かあった?」
ドアを開けてすぐ、ヴォルフに心配されてしまった。
「いえ――今、うちのブルースライムが分裂しまして、ちょっと驚いていただけです」
「あの青が? 悪さしてない?」
ヴォルフは心配症である。
しかし、過去、服を溶かされ、火傷しかかったこともあるのできちんと否定しておくことにする。
「大丈夫です。水槽の中でおとなしくしています。あの通り……?」
壁際の水槽を振り返れば、二匹は前世の鏡餅のように上下に重なり、高さを出していた。
いまだに一匹のときの感覚なのかもしれない。
しかし、見ようによっては蓋を開けるために協力体制を敷いているようでもある。
「ちょっと蓋を確認してもいいだろうか? 万が一、逃げるといけないから」
ヴォルフが水槽へ胡乱な目を向けているので、素直にお願いした。
「この蓋って、簡単には開かないんだっけ?」
「ええ。上に留め具がありますから」
水槽の上蓋には、何カ所か金属の留め具がある。内側からは外せない・溶かせないので問題ないだろう。
それを確認したらしいヴォルフは、二匹のブルースライムにいい笑顔を向ける。
「まさか、蓋を開けて脱走しようとしてないよね?」
それでもまだ蓋が気になるのだろう。ヴォルフはしばらく水槽に顔を近づけていた。
『せっかく二匹になったのに、ゼロにならないようにね……』、そのつぶやきは、ダリヤの聞こえぬ大きさである。
二匹のブルースライムは鏡餅状態をやめ、それぞれ水槽の床に並ぶ。
今度はどこまで平たくなれるかに挑戦し始めたようだ。
ダリヤはおやつ代わりのクラーケンの干物を二つ、水槽にそっと入れた。
・・・・・・・
出かけるまで少々時間がかかってしまったが、二人そろって緑の塔を出る。
乗り込むのはスカルファロット家の紋章入りの馬車だ。
何度も乗せてもらっているが、まだ少し緊張する。
一昨日、スカルファロット家の別邸にて、ヴォルフと二人、グイードとヨナスによる丁寧な質問攻めにあった。
王城でザナルディ大公に声をかけられた以上、二人に拒否権はない。
三課に招かれたのも、不測の事態でブラックスライムの薄い魔付きとわかったのも仕方がない。
しかし、黒風の魔剣については別である。
遠征前、ヴォルフはヨナスに剣を見てもらい、隊での使用許可を得た。
そうして使用したわけだが、ヨナスは見た目と切れ味は確認できても、耐久性はわからなかった。
結果、ヴォルフは遠征で大活躍、王城魔導具制作部が剣にミルフィーユ付与を始めるという、雪玉が雪だるまになるようなことになってしまった。
ヴォルフと共に謝ると、逆にヨナスから気づけなかったことを詫びられた。
そうして、今後、魔剣を作った場合は別邸で一定期間以上試すこと、それまで王城には持ち込まぬことを決めた。
幸い、グイードと魔導具制作部長のウロスとは交流があるため、ダリヤの名が出そうになったときは、スカルファロット武具工房の名に置き換えてくれるそうだ。
つくづく、グイードの顔の広さと心遣いに感謝した。
そして、深夜にスカルファロット家の別邸から緑の塔へ帰ったわけだが――
本日、ダリヤは再びスカルファロット家に、しかも、別邸ではなく本邸へ向かっている。
グイードの妻からの、『気軽なランチのお誘い』のためである。
準礼装の青みの強い紺のドレスは、王城で遠征用コンロのプレゼンをしたときに着ていたもの、侯爵家に伺うにしても失礼にはあたらない。
髪はきっちりまとめてある、靴もよく磨いた、化粧はそれなりに――口紅の色が濃くないか、とれていないかが気になってきた。
「ダリヤ、そんなに緊張しなくても大丈夫だから。同席するのは兄上とヨナス先生だし、義姉上は普段は怖い人じゃないし」
「……『普段は怖い人ではない』ということは、怖いこともあるという意味に聞こえるんですが?」
緊張を消せぬまま、ついヴォルフへ尋ねてしまう。
彼は金の目をそっとそらした。
「少し前、兄上とヨナス先生が別邸で鍛錬をして、屋敷の窓を割ったって話をしたよね」
「ええ、ヨナス先生が大剣で、グイード様がお家の杖をお使いになったと」
「うん。あれより前もご近所さんに見えるぐらいの火柱が上がったことがあって――義姉上が、有事と間違われたら困るから、訓練のときは先に周知しないといけないとか、夜は近隣の安眠妨害になる可能性があるとか、自分が聞かされていないのはなぜかとか、広さ的に本邸の方がいいとか、見学したいとか、そういったことを、こう、淡々と、淡々と……」
叱られて耳を伏せた犬のようになった彼に、思いきり察した。
そして、はっと気づく。
「グイード様とヨナス先生の前の鍛錬って、もしや、魔剣闇夜斬りと氷蜘蛛短杖をお使いに?」
「それは窓を割ったりしてないから大丈夫だよ」
「全然、大丈夫じゃないです……」
お目にかかる前から自分の好感度がマイナスなのが確定した。
ワイバーンの高級胃薬を飲んできたのに胃が重い。
ついお腹に手を当てたところで、スカルファロット家の白い塀が見えてきた。
「ダリヤ先生、ようこそ、スカルファロット家へ。ヴォルフ様――」
馬場に迎えに来てくれたヨナスが、言いかけて口に指を当てる。
「長年のクセが出ますね。改めて――お帰り、ヴォルフ」
「ただいま戻りました、ヨナス先生!」
まるで家族のように挨拶をし合う二人が微笑ましい。
しかし、ヨナスは王城では見なくなった従者服姿だった。
今は護衛騎士のはずだが、兼任でまだこちらを着ているのだろうか? そう思ったとき、ヴォルフが口を開いた。
「ヨナス先生、なぜそちらの服をお召しなのですか?」
「部屋着代わりだ。傷みもなくもったいないので、叙爵まで着ようと思っている」
侯爵の養子になっても、ヨナスは堅実であった。
あと、もったいない精神にちょっと共感してしまう。
「ダリヤ先生、武具工房の方で、黒風の魔剣を一本、お作り頂けませんか? ヴォルフのものほど重ね掛けしなくていいので、スカルファロット武具工房の鍛冶師と魔導具師に、ミルフィーユ付与を見学させて頂きたいのです。もちろん叙爵が済んでからで構いません」
「はい、わかりました」
そうした話をしつつ、案内されるままに歩みを進めた。
向かう先は灰白の壁に青い屋根の大きな屋敷は三階建て。新しい建物ではないようだが、外壁にはシミ一つ見えない。
馬場から玄関への道は、継ぎ目の見えぬ灰白の道である。
前世のコンクリートにも似たそれは、おそらく高度な土魔法で作られたものだろう。
左右は鮮やかな緑の芝生なので、その色合いが際だって見えた。
黒に銀細工の飾られた二枚開きの玄関を通ると、ダリヤは思わず足を止める。
広い玄関ホールでは、従僕とメイドが十二人、左右二列で立っていた。
「お帰りなさいませ、ヴォルフレード様」
「ようこそおいでくださいました、ロセッティ様」
見事に連なる声に、ダリヤは挨拶を返さない。
貴族のマナー本も、行儀作法の先生からも、従僕やメイドからの挨拶には答えない、他家であれば優雅な表情で少し口角を上げる、そう教わっている。
しかし、緊張は最高潮で、表情筋が仕事をしているかどうかわからない。
広すぎる玄関ホール、見上げる天井にはまばゆい魔導シャンデリア、足元は艶やかな白に銀線入りの大理石、壁に飾られた美しい画の数々、笑顔で並ぶ従僕とメイド――
どれもあまりに貴族の屋敷らしく、自分がとても場違いに思えてくる。
侯爵であるジルドの屋敷でお披露目をしてもらったときは、ここまでの感覚はなかったのに、今、どうしてかがわからない。
斜め前を進んでいたヴォルフが、隣に歩み寄ってきた。
金の目が少しだけ揺れた後、彼は自分に向けて型通りの挨拶を述べる。
「ダリヤ嬢、ようこそ、スカルファロット家へ」
ヴォルフは自分の緊張をほどこうとしてくれているのだろう。
けれど、その装いは艶やかなシルクシャツに紺色のスーツ、傷一つない黒革の靴。
いつも塔に来る彼との違いばかりが目についてしまう。
ヴォルフは間もなく高位貴族で、自分は男爵になっても庶民に近い。
当たり前のことを、ここではっきり意識することになるとは――ダリヤはその考えを振り払い、なんとか笑顔を作る。
友人としてここに招かれたのだ、彼に恥をかかせたくはない。
背筋を正し、礼を述べようとしたとき、ヴォルフが再び口を開いた。
「ダリヤ、ここが俺の生まれ育った家。君を呼ぶことができて、うれしく思う」
それはささやきではなく、はっきりとした声。
少し少年めいたヴォルフの笑顔は、心からのもの。
だからダリヤは作り笑顔ではなく、本当に笑い返すことができた。
「ありがとうございます、ヴォルフ。私もうれしいです」




