375.罠パイとチーズケーキ
「これ、差し入れというか、夕飯代わりにと思ったんだけど……」
二階に上がると、ヴォルフが黒い布包みを温熱座卓の天板に載せた。
包みを開くと、小さなパイ八つと、ベイクドチーズケーキが二つ出てきた。
それを確認したヴォルフが、がっくりと肩を落とす。
「ああ、さっき投げてしまったから……」
ダリヤが怪我をしたかと心配し、ドアを外す前に放り投げたのだろう。
小さなパイは一部がつぶれ、チーズケーキの一つは角がぽろりと落ちていた。
「いえ、ありがとうございます! とてもおいしそうです」
ヴォルフの差し入れでの夕食に、なんとバースデーケーキ付き。
冷蔵庫にあるハムとチーズを切り、野菜の酢漬けを出し、ヴォルフの差し入れをすべて皿に載せれば、完璧な誕生日のメニューのできあがりである。
ダリヤは内心うきうきと赤と白のワインを準備した。
コルクはいつものようにヴォルフが抜いてくれる。
「ロセッティ商会の繁栄と長寿を祈って乾杯!」
「明日からの健康と幸福に乾杯!」
もうなにもかもに乾杯している気がする。
それでも、苦み少なめの赤ワインは、作業後の渇いた喉を心地よく潤してくれた。
「これ、ドリノが教えてくれた『罠パイ』。最近、兵舎でも流行ってる」
「『罠パイ』……」
皿の上のそれはまん丸で、パイというより、ちょっと揚げパンっぽい外観だ。
しかし、名前が怪しい。
「中身が出ちゃってるけど、これがチーズと玉ネギ。他にもトマトと肉、野菜の炒めたのと肉とか魚とか、何種類かある。八個セットなんだけど、一個がちょっと辛くて、一個がすごく甘いらしい。ああ、辛い方は屋台のクレスペッレの辛口ソースぐらいだった」
八個の内、二個が『罠』。
ちょっと高確率ではないかと思ったが、食べられる範囲の味らしい。
「それなら大丈夫そうです。ヴォルフは辛いのに当たったんですか?」
「いや、カークが当たったから、半分分けてもらった」
皆で集まって食べるにはちょっと楽しそうだ。
そして、もう一つの罠がちょっと気になった。
「甘いのは誰に当たったんですか?」
「それが――ランドルフが何も言わずに完食したから、全員に聞くまで誰が当たったかわからなくて。中身はクッキーを砕いてカラメルであえたものらしいよ」
むしろそれはご褒美だったのではないだろうか? あと、それもちょっとだけ味が気になる。
「ランドルフはおいしかったって。ドリノが当たったときは半分で断念して、他の人に手伝ってもらったって言ってた」
かなり甘そうである。
そんな話をしつつも、最初の一個はつぶれて中身の見えるチーズと、トマトソースであえた野菜炒め入りをそれぞれ手にした。
罠パイは冷めてはいたが、チーズの塩気と炒め玉ネギの甘さ、それにさくりとしたパイ生地がよく合う。
少し口の水分が持っていかれたところにワインを飲むと、その芳香が際だった。
ヴォルフの方はトマトソースで味をつけた野菜炒め入り。
なかなかおいしいそうだ。
次にダリヤが手にしたのは鳥ひき肉の炒めと塩コショウ味、スタンダードな味だった。
何かわからぬまま、一口目に新鮮な驚きがあるのは楽しい。
「ああ、当たった! これ、甘いヤツだ……」
ヴォルフが一囓り目でそう言うと、もぐりもぐりと咀嚼の速度を落とす。
彼には甘すぎるのだろう。
「あの、食べてみたいので、半分頂けませんか?」
そう申し出ると、彼はパイを半分にして、ダリヤに渡してくれる。
その間をカラメルがとろりと糸を引いた。
恐る恐る口にすると、砕かれたクッキーは素朴な甘みがあり、そこにたっぷりとカラメルを絡めてあった。
確かにかなり甘いが、カラメルのほろ苦さがアクセントになり、ダリヤはおいしく食べ切れた。
ヴォルフもワインを飲みつつ完食していた。
「これ、辛い……罠は二つとも俺が当たったね」
「ヴォルフ、こっちは白身魚と香草のチーズ味なので、分けます?」
話しながら食事を進めると、罠パイの辛口もヴォルフが当たってしまった。
結局、そちらも半分にした。
罠パイの辛口は、豚の細切れと野菜の炒めに辛子がよく利いており、油断すると鼻に抜ける。
おかげでワインがとても進んだ。
ダリヤは罠パイ三つでちょうどよかったが、本日は誕生日、そして甘い物は別腹とばかり、ベイクドチーズケーキにフォークを進める。
ベイクドチーズケーキは、お店、作り手によってかなり味が違う。
本日のベイクドチーズケーキは甘さ控えめで、チーズの風味がよかった。
口の中でほろりと崩れていくそれをゆっくり咀嚼した後、赤ワインを堪能する。
誕生日ケーキという考えはない今世だが、ダリヤはしみじみと幸せに味わった。
食べ終えて一息つくと、ヴォルフが空のグラスをそっと手から離した。
「ダリヤ、その、じつはちょっとお願いがあって――」
「なんでしょうか?」
硬い声で切り出したヴォルフに、思わず正座をする。
彼は一拍置いて、静かに話し出した。
「この前、俺が義姉上から、本邸で夕食をという手紙をもらったって話をしたよね?」
「ええ、覚えてます」
『今度、本邸で夕食を、別邸の使用方法についてお話ししながら』、そう、ヴォルフが子犬のような目で言っていたことを覚えている。
とうとう呼ばれる日取りが決まったのだろう。かわいそうだがそっと応援するぐらいしかできず――そう思う自分に、彼が続ける。
「それをいつにするか話したら、兄が義姉上に『グイード様が貴族後見人なのに、ロセッティ会長にはお会いしたことがありませんわ』、って言われたって……」
「すみません! イヴァーノと一緒に早急にご挨拶に伺います!」
ヴォルフではなく自分の非礼ではないか!
グイードに貴族後見人になってもらっている以上、その妻にも挨拶するのが礼儀だったろう。
挨拶はいらないという言葉を鵜呑みにしてしまったが、せめて手紙と贈り物はするべきだったか。
イヴァーノにすぐ相談しなくては――そう思ったとき、ヴォルフが声を低くした。
「いや、イヴァーノはすでに会ってる。というか、今日、本邸でランチを一緒にしたと、ヨナス先生が」
「今日、ですか?」
自分は昨日、商業ギルドでイヴァーノと打ち合わせをした。
本日はスカルファロット家へ納品に行くと言っていたが、ランチの話は聞いていない。
もしかすると急なお誘いかもしれず――副会長の胃は無事だろうか?
「それで、ダリヤもランチの方が気軽じゃないかと」
「はい……?」
それはスカルファロット家で、ヴォルフの義姉、グイードの妻と自分が昼食を一緒に食べるというように聞こえるのだが――聞き間違いであってほしい。
「ランチに家に来てもらえないだろうか?」
「あの、スカルファロット家の本邸ですよね? 私が行っては失礼になるかと、その、庶民ですし、礼儀作法も身についていませんし……」
「俺とヨナス先生も一緒だし、本当に堅苦しくないようにしようと思って。あと、そのときに別邸の使用方法を兄とヨナス先生と共に、全力でごまか……いや、説明しようと!」
途中で本音がだだ漏れたが、たぶん無理な気がする。
貴族の家の取り回しというのは、当主に近しい女性達が多いと聞いている。
そう考えれば、別邸でのことは筒抜けだろう。
しかし、多少は弁明してもらわないと、魔剣闇夜斬り、氷蜘蛛短杖の制作に関わったダリヤもまずいかもしれない。
保身に走っているのは承知だが、自分に言えることは何もない。
当日に風邪をひいて寝込むことは許されないだろうか?
ダリヤは遠い目をしつつ、ずる休みを考える学生の思考に陥っていく。
「ダリヤ、あの、兄からは気軽な顔合わせと思ってくれと……」
「……わかりました」
グイードの言葉をそのままはとれない。
奥様へ挨拶に行かなかった手前もある。多少でも準備を考えておかなければ、そう思う。
「あの、ヴォルフのお義姉様――グイード様の奥様は、どのような方ですか?」
「上品な貴族女性って感じかな。正直、俺は今まであまり交流がなくて――使ったのは見たことがないけど、氷の魔力が強いって。その、少しだけ目が弱いけど」
「目が弱い?」
「焦点を合わせるまで、ちょっとだけ時間がかかるんだって。だから眼鏡でも補正できなくて――でも、動くのに支障はないし、本も読めるし、相手の顔もわかるから」
それはちょっと不便そうだ。
だが、焦点を合わせる時間を短くする――そんな魔法や魔導具は、残念ながら聞いたことがない。
深くは聞くまい、話を切り換えようとし、視線をずらす。
すると、棚の上、ヴォルフがプレゼントしてくれたペンダントの箱が目に入った。
イヤリングにペンダント、本日の差し入れを含め、何かと心を配ってくれるヴォルフ。
彼の誕生日、何かお返しはできないだろうか、そう思って尋ねる。
「ええと、ヴォルフの誕生日も近いですよね?」
「ああ、来月の九日」
「毎年、お祝いをしたりします?」
「いや、あんまりない。隊だと今年で何歳!、って感じで新年の祝いとまとめてやる感じだから。先輩方は三十五ぐらいで年齢が止まるけど」
自称年齢の停止に笑ってしまったが、オルディネは年齢のサバ読みに関して寛容である。
そもそも自己紹介状――履歴書のようなものだが、それには生年月日も年齢の記載も不要だ。
代わりに必要なのは保証人の名である。
「今、何かほしいものはありませんか? あ、妖精結晶の眼鏡はもう少しだけ待ってくださいね。眼鏡のフレームを職人さんにお願いしているので」
今、ヴォルフが持っている眼鏡は室内作業用のフレームだ。
万が一ぶつかっても割れぬよう、同じサイズで丈夫なフレームを注文している。
ちょっと材質にこだわったので、時間がかかるそうだ。
「ありがとう。でも、何も不自由してないから……考えても魔剣しか思い浮かばない……」
金色の目が遠くなり、切望がにじむ。
行き着くところは魔剣である。
「あの、魔剣ではないのですが、とりあえずというかつなぎというか、普段の剣を少しだけ丈夫にしたものはどうですか?」
「普段のって、魔物討伐部隊の?」
「はい。魔物討伐部隊で使っているのと同じ剣を、武具工房から頂いたんです」
持ち手に衝撃吸収材を付ける参考にと、実際にヴォルフが使っている剣と同じ種類のものをもらった。
「剣に耐久性を上げる魔法の付与はしてもらっているんですが、一角獣の角を使って、魔法を上掛けして、もうちょっとだけ丈夫な剣にしてみようかと。私の魔力では、頑張っても一割もいきませんが……」
言いながら、もの悲しくなってきた。
付与素材として、わざわざ一角獣の角を使ってもこれである。
耐久性アップの意味がないかもしれない――そう思いつつヴォルフを見れば、黄金の目は大変きらきらと輝いていた。
「いや、それは魔剣だよ! ダリヤが丈夫にしてくれる、俺の魔剣!」
「待ってください! 特別な魔法も何にもありませんから。ちょっとだけ丈夫になるだけです!」
そこまで期待しないで頂きたい。
計算上、せいぜい五パーセントから九パーセントなのだ。
しかし、そういった説明をしても、ヴォルフの満面の笑みは一切崩れることがなかった。
久しぶりの魔剣制作に心が躍っているのかもしれない。
もっとも、それはダリヤも同じなのだが――
「ついに魔物斬り放題の魔剣ができるかもしれない……!」
「違いますからね! 本当に、ちょっぴり丈夫になるだけですから!」
こうして、二人そろって仕事場へ向かうこととなった。




