357.夜遊びの誘い
「今日はここまでにしておく方がいいかも……」
緑の塔の作業場、銀の魔封板を手に、ダリヤは小さくため息をついた。
商業ギルドからユーセフが神殿に運ばれていくのを見送った後、ダリヤは急ぎの業務だけを済ませた。
商業ギルド、ロセッティ商会の部屋でハルダード商会長が倒れた――その話はどうやっても広まる。
『周りへの説明は元商業ギルド員の自分がする方がスムーズなんで、会長は好奇心旺盛な者に捕まらないうちに帰ってください』、そうイヴァーノに勧められ、素直に帰宅した。
ユーセフが助かってよかった、そう思いつつ台所へ行ったものの、食欲が出ない。
気を張ったせいだろうと、シャワーを浴びて部屋着に着替えた。
そして、日課である魔封板の小さな穴に魔力を通す練習をして、指を赤くした。今もまだじんじんと痛い。
魔力の正確な制御には精神の安定が必要――魔法学で何度も習ったことだ。
わかってはいるし、気をつけてもいるのだが、今日は乱れてしまうらしい。
魔導ランタンが灯る作業机、向かいには誰もいない。
以前はそこに父がいて、自分に魔導具のことをいつでも詳しく教えてくれた。
飲みながらの作業をしている父を、ダリヤが心配して声をかけたこともあった。
そんなことをつい思い出してしまう。
ユーセフが助かってよかった、心からそう思う。
そして、なぜ父を助けられなかったのか、そうも思ってしまう。
父カルロが商業ギルドで倒れたあの日、自分も一緒にいたところで、医師は呼べても高位神官であるエラルドは呼べなかっただろう。
おそらく助けることはできなかった。
これよりもずっと悲しい思いを、自分は前世の父母にさせたのだろう。
会社で過労死した娘を助けられなかったと、きっと深く嘆かせた。
前世は世界すら違う。謝りたくても声すら届けられない。
どちらもどうにもできないとわかっている。
それなのに、心が堂々巡りをくり返し、無力感がじわじわとこの身を苛む。
今夜はなんだか、悪い夢を見そうな気がする。
のろのろと魔封板を片付けていると、棚にある銀の魔封箱が目に入った。
いくつかあるその中身は魔物討伐部隊からもらった素材――森大蛇の心臓や空蝙蝠の骨である。
魔封箱をまだ痛む指で撫でながら、ヴォルフのことを思い出す。
こんなふうに気持ちの塞ぐ日に、彼と約束があったらよかったのに、そんな甘えたことを思ってしまう。
ヴォルフは明日も鍛錬だ。
だから、今夜、彼が来るなどということは絶対になく――
そう思ったとき、ドアのベルの音が響いた。
「こんばんは、ダリヤ。いきなり来てごめん」
「ヴォルフ?」
あまりのタイミングのよさに、ドアを開けたまま、名前しか呼べなかった。
そして、はっとする。
この時間に突然にということは、もしやあれからユーセフに何かあったのではないか。
「あの、ユーセフ様に何かありましたか?!」
「いや、ハルダード会長は元気だって。神殿で暇だからって書類を読んで、ミトナ殿に取り上げられてたとか、イヴァーノが伝言で聞いたそうだよ」
昼間に命が危うかった方が、何をやっておられるのか。
しかし、その余裕があるならもう心配ないだろう。ダリヤは心から安堵した。
「ヴォルフはそれを知らせにきてくださったんですね」
「いや、その……星がきれいな夜だから、出かけない?」
ヴォルフの背後、曇り空に星は一つも見えない。
貴族の比喩にも思い出せるものがない。
一体どういう意味だろう、そう思って彼を見ると、がくりと肩を落とされた。
「ごめん、やっぱりだめだ。こう、気の利いた感じに外に連れ出せたらと思ったんだけど、俺はこういうのが下手で……」
なぜか悔しげに言うヴォルフに、首を傾げてしまう。
別に『食事に行こう』の一言で済むことではないか。
「イヴァーノが王城に来たんだ。今日のことで、君がお父さんのことを思い出しているかもしれないから、星がきれいな夜だとか、適当な理由をつけて連れ出して、眠くなるまで一緒にいてくれって」
「イヴァーノが……」
商業ギルドでは表情に出していないつもりだったが、有能な副会長には筒抜けだったらしい。
ちょっとだけ恥ずかしいが、その気遣いはうれしかった。
そして、ヴォルフがこうして来てくれたのもうれしい。
「来てくれてありがとうございます。確かに、ちょっとだけ思い出してました。でも、もう大丈夫です。ヴォルフは明日も鍛錬でしょう? 夜更かしをしては――」
「明日は休みをとってきた。それに、月も星も見えなくても、できることはある」
そう言った彼が、にやりと笑う。
「ダリヤ、夜遊びに行こう!」
「え? 夜遊び、ですか?」
「ああ。港近くだと遅くまでやってる店が何軒もある。いろんな国の人がいて、料理も混ざってて、うるさいくらいにぎやかだから、そこで脂っこいものと塩辛いものと甘いものを肴に、エールを思いっきり飲もう!」
楽しげな提案に、つられて笑ってしまった。
どうやらバッグには胃薬と二日酔いの薬を入れていかなければいけないようだ。
ダリヤも笑顔になって、ヴォルフに言葉を返す。
「それはとっても悪いことですね」
「ああ。さらに悪行を重ね、店を変えて違う種類の酒を追加しよう! 酔いが回ったら個室でとことん暴露大会をしよう!」
「悪いを通り越して怖いです!」
「大丈夫! 動けなくなってもきっと騎士の皆が運んでくれるから」
「騎士の皆様に迷惑この上ないですよね?!」
冗談なのはわかっているが、迷惑をかけること前提でどうするのだ?
護衛騎士の職務は自分達を守ってくださるものであって、酔っ払いの介抱ではない。
あと、その暴露大会は怖すぎる。何を喋り出すかわからないではないか。
笑いを越してふるふるしていると、ヴォルフがひどく優しい表情で自分を見ているのに気づく。
その黄金の目は、ダリヤの恐れを見透かしているようで――
「でも、そうしたらきっと、悪い夢なんかみないで眠れるよ」
ああ、そうだ。
自分達は二人とも、悪い夢を知っている。
助からなかった己を、助けられなかった者を、目覚めても闇に溶けぬ悪夢を知っている。
けれど、にぎやかな時間を共にすごせば、その夢を見ることはきっと減る。
今日ぐらいは――甘えてもいいだろうか。
「じゃあ、夜遊びに連れて行ってください。準備をしてくるので、作業場で少し待っていてくださいね」
「ああ……あ! ごめん、急がないでいいから!」
ドアを開けて招き入れると、ヴォルフが声を上ずらせた。
ダリヤはようやく我が身を振り返る。
着ているのは部屋着兼パジャマ、クリーム色のかなりゆるいシャツにズボン。よれよれのそれはとても着心地がいいのだが、人前に出ていい格好では絶対にない。
あと、顔も完全にすっぴんである。
「すぐに! 素早く! 着替えてきますので!」
「急がないで、ダリヤ。俺、スライムと遊んでるから……」
ヴォルフは視線を棚近くのブルースライムに固定している。その気遣いが痛い。
ふみぁー!と鳴きたいのを我慢し、ダリヤは全力で階段を駆け上る。
上りながら、彼に見せる予定のないパジャマの新調を、なぜか固く誓っていた。
「お前……大きくなった上に、艶々になってない?」
ヴォルフは四角いガラスケースの中、ふるりと揺れるブルースライムに問いかけてしまった。
それが聞こえたように、ブルースライムは自分の側のガラスに張り付く。
先日見たときよりもあきらかに体積が増え、表面には光が増したように見える。
ブルースライムの体内、ゆらゆらと動く白い切れ端が見えた。
本日、ダリヤが栄養液の餌に追加してくれたおやつ――大根の皮なのだが、消化途中で一部透けつつある。
ヴォルフの脳裏、それに重なったのは先程までのダリヤの姿。
おそらくは庶民向けの部屋着。露出が高かったわけではないのだ、何も慌てることはない。
しかし、冬なのに生地は薄く、開いた首回りは鎖骨が寒そうで、彼女が笑いに口を押さえたとき、その華奢な手首がよく見えて――
風邪をひかぬよう、安全性を考えても、毛布でぐるぐる巻きにするべきだ。
いや、それでは動けなくなるのだが。
「ダリヤに暖かい寝間着を贈ったら……いや、だめだろう!」
貴族が寝間着を贈るのは、家族か婚約者か恋人、あるいは大変に親密な間柄、もしくはそうなりたい相手のみ――
それを思い出したヴォルフは、ぶんぶんと首を横に振る。
苦悩する青年を肴に、ブルースライムは大根の皮をゆっくりと消化し続けていた。




