355.右腕と右腕
ヨナスは手洗い場で身なりを整えた後、待合室へ向かう。
入り口に控えていたベルニージの護衛騎士が、奥にある個室に案内してくれた。
狭い個室には、二人の明るい声が響いている。
ベルニージの持つ木のコップには果物ジュース、ミトナの手には半分になったシュークリームがあった。
テーブルには大きな菓子箱と、食べ終えた菓子の紙敷が積み重なっている。
どうやら、菓子が夕食代わりになっていたらしい。
自分の顔を見ると、ミトナは残りのシュークリームをばくりと一口で平らげた。
「お待たせ致しました。お話は終わりましたので、ミトナ様はお戻りに――」
「いかん、忘れておった! 魔物討伐部隊の馬車の件をエラルドに確かめるよう、隊長に命じられておったのだ。ちと、行ってくる。ヨナス、少々ここで待っていてくれ」
「わかりました、ベルニージ様」
ユーセフを商業ギルドから神殿へ運ぶのに、エラルドが魔物討伐部隊の馬車を借りたという。
制作したのはスカルファロット武具工房。
エラルドは何度か遠征に参加しているが、あの馬車をいたく気に入っていると聞く。
さきほどもハルダード商会に馬車の内装をねだっていたくらいだ。
神殿でもあの内装の馬車が増えるかもしれない。
「ミトナ、ヨナスに用があっただろう?」
「いえ――はい、ございます」
テーブルの上、菓子の紙を片付けていた青年が、一拍迷って答えた。
「大事な主ある守り手同士、話をするのもよかろうて」
ベルニージはそのまま部屋を出て行く。
世慣れた老人の言葉に、ヨナスはただ従うしかなかった。
「ヨナス様、失礼ながらお時間を頂きたく――」
「『どうぞお話しください』」
二人、机をはさんで向き合って座る。
ヨナスがイシュラナ語で言うと、ミトナはその黒い目を細めた。
「皆様、私の仕事をお取りになりますね」
イシュラナ語で一段柔らかになった声と表情に、ミトナが自分より年下であることを思い出す。
こんなことさえ、今日まで見ようともしなかった。
「これまでのことをお詫び申し上げます、ヨナス様」
頭を下げる姿が、先程のユーセフと重なった。
今日はどうにも謝罪を受ける日らしい。
「私は――あなたがうらやましかったのです。遠く離れていながら、ユーセフ様を父、ナジャー様を母、ファジュル様を祖父とするあなたへ、醜く嫉妬しておりました。不甲斐なくもそれを抑えきれず、ここまで失礼を重ねました。本当に申し訳ありませんでした」
言葉にされて納得する。
自分への対応は、ハルダード一族視点のミトナからすればおかしくはない。腹立ちもなかった。
「このような私ですが、もし、あなたがイシュラナにいらして頂けるなら、この命を賭してお仕えし――」
「もうおやめください、ミトナ殿。ユーセフ様との話は、すべて終わりました」
目の前の青年が口を閉じる。
意味は正しく通じたか、それでも母のことまでも話すつもりはなく、返される声を待った。
「ヨナス様、余計なこととは存じておりますが、知っていて頂きたいことがあります」
「ご遠慮なくどうぞ」
本日これ以上驚くことなどないだろう。頭のどこかでそう思いつつ答える。
「イシュラナは血よりも絆を重んじ、一族の子を一族で慈しみ、我が子と同じく育てます。オルディネ王国とは違うのかもしれません。でも、ファジュル様があの赤い剣を打たれたのも、ヨナス様を孫と思ってのことです」
「……それぞれ、家族の受け取り方というのは違うものですね」
「グッドウィン子爵も、家を出るあなた様を心配なさっておいででした。どうしてもいい養子先を見つけたいと。ユーセフ様も応援しておりました」
兄である今のグッドウィン子爵、彼が金貨を積んでまでヨナスの養子先を探していたとは聞いている。
その金貨がユーセフからだとして、ハルダード商会とのつながりがほしいからだろうぐらいに考えていた。
だが、兄に本当に心配されているとは思えず――視線をずらしたとき、ミトナの声が続いた。
「グッドウィン子爵も、ヨナス様をイシュラナに帰そうとなさって、そうできなかったことを悔いておられるのだと思います」
「……イシュラナに、帰す……」
兄が自分に辛く当たったしばらく後、ユーセフが母を迎えに来た。
自分は二人についてはいかなかった。
その日から兄を避け、その後はスカルファロット家に住み、家には最小限しか戻らなかった。
兄に王城で声をかけられても家のために仕方なくだろうと、慇懃無礼に終わらせてきた。
だが、本当に自分が気に入らぬのであれば、理由をつけてとうに家から離籍させていたはずで――不意に思い出した。
ヨナスが初めて馬に相乗りしたのは、兄だった。
幼い自分を笑って抱きかかえ、ゆっくり馬を走らせてくれた。
母を奴隷だと言い、自分を兄と呼ぶなと言ったあの日よりずっと前は――そんなことが確かにあった。
幼く弱かった自分は、そんな思い出にすべて封をした。
まさか、自分に辛く当たれば母と一緒にイシュラナに行くとでも思ったのか。執着が一つ減り、楽になるとでも考えたのか。
まったく、誰もかれも俺に話が足りぬ、言葉が足りぬ。
子供とて、理解できなくてもわかろうとはするものを――
そこで、不意にどこぞの兄を思い出し、頭痛がした。
確かめてみなければわからないが、兄というのは不器用な者が多いのかもしれない。
「ユーセフより命じられております。ハルダード商会のオルディネ王都支店は、いつでもヨナス様をお待ちしております。お望みの品があればいつでもご準備致します」
「ありがとうございます。お気持ちだけお受けします」
「ユーセフの財は、オルディネ高位貴族にもひけはとりませぬ。どうぞご遠慮なく――」
「その財は『ハルダード家の子』が継ぐべきものです。私が手にするものではありません」
イシュラナでの地位も、商会の莫大な富も要らぬ。
自分が生きると決めたのは、ここ、オルディネだ。
「ミトナ殿、どうぞお間違えなきよう、我が父はバルディス・グッドウィン。ユーセフ・ハルダード様ではありません」
ミトナははっとしたように黒の目を開き、深く頭を下げた。
「大変失礼しました、ヨナス様。あなたの背負うものを考えず、続けて失礼を申し上げました」
「いえ、ユーセフ様からのお言葉であるのは理解しております。主に忠実なのは、『右腕』としては当然かと」
「『右腕』?」
「ユーセフ様が、あなたのことをそうおっしゃっていました」
通常、頼りになる者のことは『左腕』という方が多い。
『右腕』というのはそれ以上に近く、頼りにする存在だという意味になる。
主にそう言われるのは、忠実な部下にしてみれば誉れだ。
「ユーセフ様が……」
喜びが滲む黒い目が、静かに閉じられた。
大切な思い出を振り返るように、ミトナはゆっくり話し出す。
「不思議なものですね――ロセッティ会長もおっしゃっていました。ヨナス様は、グイード様の、『右腕』だと。だから、イシュラナに行かれることはないだろうと」
「……そうですか」
知らず口元が弧を描く。
会って季節を一巡もせぬ女に、なんともいい評価をもらったものだ。
「ダリヤ・ロセッティ様は本当に素晴らしい方ですね。危うくこの両目を赤く染めかけました」
にっこりと言うミトナに、母の手紙を思い出す。
イシュラナに棲む黒く巨大な蟻型の魔物、『砂漠の黒い悪魔』と言われる巨大蟻。
その成虫の雄は、群れの『女王』と認めた雌に対し、目を赤くして求愛を示す。
巨大蟻の女王は、目を赤くした雄からふさわしい相手を選び――
つい見返す目が細くなった。
「あの方を『女王』と呼びたいほどに、ですか?」
「そうかもしれませんね。その未来は砂漠の砂の一粒もありませんが」
億が一にもあったら困る。
自分の黒髪の生徒がどうなるかわからない。
「あれほどに素晴らしい方なのです。ヨナス様、早めに髪隠しのヴェールを渡された方がよろしいのでは?」
どうやらこの勘違いはまだ続いているらしい。
婚礼のヴェールを贈る件については、ぜひうちの生徒に勧めてほしい。
しかし、この男がユーセフに近いことからも、ここらできっちり正しておいた方がよさそうだ。
「ロセッティ会長の『砂漠の水袋』は私ではありません。それにふさわしい方が別にいらっしゃいます」
『砂漠の水袋』は、いなくては生きていけぬほど想う相手――イシュラナの喩えだ。
「そうだったのですか……ヨナス様、お辛い道を歩まれておられたのですね……」
いきなり同情のこもった目にならないでもらいたい。本当に違う。
「それでも、ヨナス様でしたら叶わぬ道ではないかと! ロセッティ会長はあれほどヨナス様を褒めておられたのですから……」
進むつもりのない道なので、その励ましもやめてもらいたい。
だが、ここまでくると最早いろいろ通り越して笑え――くつくつと喉奥が鳴きそうになって困る。
「本当に、違いますよ、ミトナ殿。元から互いに通じる道になく……はっきり言いますが、好みが違います」
「あれほど素晴らしい方なのにですか?!」
お前は一体何をどうしたいのだ? そう言いたくなるようなミトナに、濃い酒の匂いを感じた。
飲んでいたのはジュースで、酒ではなかったはずだ。そう思いつつ菓子箱に目をむければ、漆黒の四角いケーキが見えた。
これはとても甘いが、強めの酒がたっぷり入っていて――口説くときにいいのだと、グイードに冗談めかして話されたことがある。
彼が運んで行く先は妻だったが。
ベルニージは何故これをミトナに食べさせていたのか、それとも強い甘さ故なのか。
少ない魔付き仲間であることを思い出し、ぼかして尋ねる。
「ミトナ殿は甘い物が好きとお伺いしましたが、これを夕食に?」
「はい、とてもおいしいです。ヨナス様もいかがですか? 昔は甘い物を好まれていたと伺いましたが」
教えたのは母だろう。確かに子供の頃はそうだった。
「私は魔付きになってからはあまり甘い物が得意ではなく――ミトナ殿は魔付きになってから甘い物を好まれるようになったのですか?」
「どうでしょう? 私は物心ついたときには魔付きでしたから」
「子供の頃から魔付き、ということですか?」
驚きでつい聞き返してしまった。
はい、と答えた唇は笑みを形どったが、黒い目からぬくみは消える。
「私はオルディネ王国人に魔付きとして作られ、イシュラナへ売られた者です」
ヨナスも話だけは知っている。
以前、幼い子供を集め、様々な魔物の魔核を食べさせ、人工的な魔付きを作ろうとした犯罪組織があった。
魔力が強い者は他国で奴隷として高く売れるからだ。
子供を育てていたのが南の島であったこと、オルディネ国内ではなく、国外で子供を売っていたことで発覚に時間がかかった。
いいや、関わっていたのはこの国の貴族の一部だ。隠す力もそれなりにあっただろう。
輸送中の船がクラーケンに襲われなければ、いまだわかっていなかったかもしれない。
「巨大蟻の魔核を食べた記憶はありませんが、食べさせたとは聞きました。肌も髪も目も、元の色とは違うそうです。その色など知りませんが」
「それで、ハルダード商会に?」
「いえ、売られる前に売人に捨てられました。砂漠で巨大蟻の襲撃を受けた際、私が原因ではないかと角駱駝の引く荷車から投げ捨てられ――巨大蟻は私の横を通り過ぎ、売人達を襲いましたが」
楽しげに笑った口元、犬歯が少しばかり伸びる。
冷えた魔力の揺れを感じたが、ヨナスは構えることをしなかった。
「私は砂漠であらゆる屍を喰らって生き延び、魔物となりかかっていたところを、ユーセフ様に拾われました。ユーセフ様は名も知らぬ魔付きの子にポーションを与え、金貨を積んで助けてくださいました。私を捨ておけば、もっと早く、ナジャー様とヨナス様を迎えに行けたかもしれないのに……」
続いてひっく、としゃっくりの音が響く。
「ですから、私にとってユーセフ様は大恩の人、この命をお返しするとも悔いのない主です」
「……そうでしたか」
ミトナがユーセフを崇拝するような態度に、納得がいった。
「本日、ありがたくも大恩の人が二人となりましたが――先はわからないものですね」
「……ええ、そうですね」
吐息をつくように言われた大恩の二人目とは、ダリヤのことだろう。
自分も、ヴォルフも、グイードも、ユーセフまでも、あの赤髪の魔導具師に影響を受けた。
それは動かぬと思えた水面に赤い花びらを散らすよう――などと表現できれば優雅だが、そんな些細なものでは絶対ない。
正しく想像しようとし、泉に笑顔で魔導具を投げ込んでくる彼女を思い浮かべてしまった。
妙にしっくりくるが、失礼すぎる。
「私も、次があるかどうかはわかりませんね」
長い衣の裾と茜色の帯をゆらし、男が立ち上がる。そして両手を己の胸に当てた。
「ヨナス・グッドウィン様、あなたへ神の慈愛が降り注ぎますよう、イシュラナ、ハルダード一族の一員として心よりお祈り申し上げます」
この祈りの動作を、別れた日、母が自分にしていた。
だが、ヨナスがイシュラナの民のように祈ることはない。
「私は同じ祈りをお返しできませんが、ファジュル・ハルダード様よりの剣、『闇を切り裂く者』を、死すまで手にしておりましょう」
従者服を着ようと、姓が変わろうと、工房長と相談役の役を持っても、自分の一番は騎士だ。
今度こそ、自分にもそう言い切れる。
気がつけば、ミトナがまぶしげなものを見るような目で見ていた。
「ヨナス様、願えますならば、いつか、ナジャー様とお会いになってください。イシュラナはオルディネほどに人の命は長くありません。ご立派になったお姿を、せめて一目――」
「私は十のとき、母の手を振り払って別れました。それが私の選んだことです」
母に会いたくないといえば嘘になる。
だが、武具を扱う子爵当主が離縁し、母国に返した元妻。
今は国を越えて商いを広げる富豪の商会長の妻。
そして、王城騎士団に武具を納めるスカルファロット家武具部門の長の母。
そんな彼女がオルディネに来れば、糸を引きたがる貴族と商人は山といる。
その身とて危ういかもしれない。
いいや、何より心が危うくなるかもしれぬ。
心の病は薬も効きづらいという。
オルディネ王国、この王都で一度心と体を壊した母が、また同じことになったらどうするのだ。
だからこそ、ユーセフが母をこの国に連れてくることはないだろう。
ならばヨナスがイシュラナへ行くか? 今、その選択はない。
スカルファロット家の爵位が上がること、グイードへの代替わりで周りは大きく動いている。
誰が味方で、誰が敵かなどわからぬ。
自分達には、それを見抜く目も足りなければ、腕の長さもまだ足りぬ。
グイードの側を、スカルファロット家を離れることは絶対にできない。
答えはとうに出ている。
それぞれ、生きる場所が、進む未来が違う。
母は母で、イシュラナで幸せになればいい。ヨナスのことを振り返る必要はない。
自分ももう、振り返らなくていいのだ。
「ミトナ殿、お願いがございます」
「はい、なんなりとお申し付けください、ヨナス様」
ミトナが胸に左手を当て、ヨナスの言葉を待つ。それはユーセフにしている動作と同じだ。
「母へ伝えてください。ヨナスは、祖国オルディネで元気に――よき友、よき主、よき仲間に恵まれ、とても幸せに暮らしております。母上も祖国イシュラナで幸せであってください、と」
「……わかりました。必ず、お伝え申し上げます」
ミトナが微笑んでうなずく。
それなのに、何故か泣いているように見えた。




