228.蟹刺しと蒸し蟹
川原に戻ると、二ヵ所に大きな焚き火が起こされ、防水布が広く敷かれていた。
晩秋の川風はそれなりに冷たいが、辺りは熱気に溢れている。
「こちらに蟹を入れてくださーい!」
金属棒を組み合わせた少しだけ高さのある場に、大鍋が置かれた。そこに処理済みの青蟹の甲羅を入れると、魔導師が水魔法で水をだばだばと足す。
続いて大きな蓋付きバケツがいくつも運ばれ、ざく切りの野菜と調味料らしきものが投入された。
なんとも豪快な料理風景だ。
この大鍋をどうやって焚き火にかけるのか、ダリヤが不思議に思っていると、二人の魔導師が横に立った。
「待ち時間も縮めたいですし、強火でいきますか」
「ええ、早めに仕上げましょう――炎壁!」
瞬間、鍋の下と横をぐるりと赤い炎が囲む。
思いがけぬ熱の強さに、思わず後ろに身が引けた。その足下、小石を踏み、少しばかりふらりとする。
「ダリヤ、大丈夫?」
「大丈夫です、ちょうど石を踏んだだけで……」
「先に説明しておけばよかったね。魔導師の魔力に余裕があるときは、大鍋を直に火で温めてもらうことがあるんだ。できる場所は限られるけど、あれが一番早いから」
確かに、効率と時間から言えば最速だろう。
しかし、王城魔導師の魔力の使い方としてはなかなか贅沢に思える。
「じゃあ、火魔法の使える魔導師さんは、遠征で大忙しですね」
そう言ったところ、ヴォルフの隣にいた魔導師と目が合った。
彼はダリヤに向かい、首を横に振る。
「いえ、魔物討伐部隊では、火魔法を使う場が限られるのです。森も草原も延焼する可能性がありますし、素材の確保ができなくなりますので」
「遠征先によって難しいことがあるのですね」
「はい。かといって、火魔法の使える砂漠の魔物は熱耐性が強いものが多いですし……使い勝手がいいと思えるのは、沼地の大蛙の討伐あたりでしょうか。攻撃力としては火魔法はかなり強いのですが」
少し残念そうに説明する魔導師に、なんとも難しさを感じる。
「ああ、そろそろ私も出番のようです」
大鍋の反対側、金属製の大きいバケツがずらりと並べられた。それを目にした魔導師は、軽い会釈をしてそちらへ向かって行った。
「ヴォルフ、あちらは何をするんですか?」
「ああ、氷を出してもらうんだ。蟹用と酒用」
氷の魔石を使わないのかと思ったが、今日は日帰りである。魔力の残りを心配することもないのだろう。
「氷礫」
先ほどの魔導師が低く詠唱すると、その手から手品のように氷が生み出される。
バケツにガラガラと氷の当たる音が響いた。
炎壁のように怖さはない、なんとも便利そうな魔法である。
「あれ、制御がとても難しいんだって。魔導師は魔力が強い人がほとんどだから。『大きめの氷は簡単に出せるけど、小さめの氷を均一に出すのは練習が必要だ』って、兄が言ってた」
「氷魔法は通常、発動までの時間が長い。だが、彼は即時だ。厳しい修練の賜物だろう」
ヴォルフとランドルフの説明に、実際はとても難しいことなのだと納得した。
魔物討伐部隊に同行する魔導師は、やはり魔法の制御が凄いらしい。
「魔力の出力調整は、どうやったらあのようにうまくなるものでしょうか?」
「魔法の系統にもよるが、回数をこなすこと、あとは良い師に付くことが大切だと思う」
マルチェラの問いに、ランドルフが説明してくれている。
土魔法が使えるマルチェラだが、訓練を始めたのはつい最近だ。レンガの成形をしようとして、相変わらず漬物石を量産している。
先日も、『出力を下げようとしたら大きい軽石ができた』と苦笑していた。
「各員、こちらから蟹を持っていってくださーい!」
川際で蟹を切り分けていた騎士達が、配り始めたようだ。
ダリヤ達の元には、ドリノがバケツ二杯分の蟹を持ってきてくれた。
「生で食える奴はこれ。こっちは隊長が蒸してくれた蟹。焼き蟹はこれから担当が回ってくる」
右のバケツには、氷水の中、ぶつ切りにされた生の蟹の身が入っている。
もう一方は、グラートが灰手で焼き、蒸した蟹である。
魔物図鑑には、『鎧蟹は火魔法では倒せない』とあったが、それは殻にある程度の熱遮断の特性があるためだろう。
魔剣で刺され中から焼かれたのでは、防ぎようがない。
「先に乾杯しよう。後は各自で『現地試食』だ」
「本日はあくまで『遠征訓練』です。泥酔した者には回復魔法をかけないことになっておりますので、節度を守るように!」
グラートとグリゼルダの声に、隊員達がわく。
そしてすぐ革袋のワインが配られ、そのまま乾杯となった。
『乾杯』――そう口々に言い合って革袋をぶつけ、防水布に座ってワインを飲む。
しかし、慣れぬダリヤには、革袋から飲むのが難しい。開いた口部分から吸っても出てこない、傾けるとだばりと多く出てむせそうになる。
柑橘系の風味のある、なかなかおいしそうな白ワインなのだが、味わうのが難しい。
マルチェラやヨナスはどうだろうと横を見れば、吸引力が違うらしい。袋を傾けることなく片手で飲めていた。
なんとか袋を折り、へこませつつワインを飲んでいると、目の前に蟹の身の載った皿が来た。
「ダリヤ、これが『蟹刺し』」
ヴォルフが倒した青い蟹である。
こぶしほどの太さの蟹足、その身が白菊の花を咲かせたかのように広がっている。
前世の蟹刺しより、かなりボリュームがあり、かつ、華やかだ。
「獲りたてだから生で食べられる。毒はないし、酸の袋と腺は取り除いてある。一応、こっちの薬を先に飲んで。もし、目視でわからない虫がいても、多少食べ過ぎても平気だから」
ヴォルフに渡されたのは、赤紫色の粉薬だった。なぜこの色にしたと尋ねたい毒々しさだ。
「皆さんは飲まないんですか?」
「俺達は遠征前に専用の水薬を飲んでる。この薬とか化膿止めとかが混ざっている。ただ……これよりもまずい」
ヴォルフの眉間に皺が寄った。どちらもまずい区分なのは一緒らしい。
しかし、もしものときの寄生虫対策、食べ過ぎに効くとのことなので、素直に飲んだ。
なお、味に関しては、せめて丸薬にしてほしい苦さだった。
口をすすぐようにワインを飲んだ後、改めて蟹刺しの皿を持つ。
塩をぱらりとふった身をフォークで崩し、ばくりと口にした。
「……甘いですね」
つい、驚きで声が出た。
蟹なのに甘さがあって、みっちりとした食感だ。味は蟹だが、少し甘エビに似ている気もする。
大きさ故か、ちょっとだけ繊維感があるが口に残る程ではない。よく噛めばなくなる程度だ。食べ甲斐があるとも言えるだろう。
「これは……普通の鎧蟹とは違うね。身がしっかりしていて、確かに甘い」
ヴォルフも黄金の目を丸くしている。
「味はいいが、生は……やはり食感が得意ではないな」
ランドルフはダメだったらしい。手が止まった。
その皿をさっと取り、蒸し蟹の皿と交換したドリノは、塩を追加して食べている。
隣に座るマルチェラを見れば、どこか困惑した表情で咀嚼していた。
この蟹刺しは得手不得手が分かれるらしい。
オルディネでは、刺身を食べる習慣が少ないからかもしれない。
そこでふと気が付き、斜め向かいに視線を向ける。
ヨナスの皿はすでにカラで、最後の一口をちょうど飲み込むところだった。
「ヨナス先生、蟹刺しはどうですか?」
「……おいしい、です」
区切るような声だったが、本音なのだろう。その錆色の右目、縦の瞳孔が一瞬見えた。
ヴォルフも気が付いたらしい。皿に蟹刺しをたっぷり盛ると、ヨナスに渡す。
彼は素直に礼を言って受け取っていた。
「ロセッティ会長、こちらをどうぞ」
次に手元にきたのは蒸し蟹だ。外側の殻、そして薄皮が赤く、内側が白い。まだほんのり温かく、薄い湯気が立ち上っている。
グラートが魔剣で焼いて蒸した鎧蟹である。
フォークで細かくしようとすると、ヴォルフに止められた。
「ダリヤ、これはあまりほぐさないで、がぶっといった方がいい。旨みのある汁が逃げる」
「わかりました」
アドバイスを受け、少々行儀が悪いが、その通りにする。周囲も同じような食べ方だ。
「おいしい……」
蒸してあるのに汁気は逃げていない。海の蟹のように塩気は強くない。代わりに、ぱらりと多めにかけた岩塩が合う。
こちらは鎧蟹らしい味だが、新鮮なせいか、より風味が濃く感じられた。
口いっぱいに蒸し蟹の身だけ、なんという贅沢だろうか。
前世のように、酢醤油で食べるのもいいかもしれない――そう考えながらワインを口にし、柑橘系の風味の白であることにとても納得した。
「隊長はやっぱ腕がいいなぁ」
「まったくだ。この蒸し具合はなかなか出せん」
「本当にすごいですね……」
グラートに、魔剣の灰手に、いろいろと思うことはあるが、口に出さずに蟹を頬ばる。
実においしい。
周りを見渡しても、黙々と蒸し蟹を食べている者の方が多い。
殻から外す作業はそれほどないというのに、口数が減るのはやはり蟹だからだろうか。
「蒸し蟹の追加をもらってくるよ」
バケツの中身を確認したヴォルフが、蟹の受け取りに向かって行った。
その背を見送って視線を戻すと、ひどく無表情なヨナスがいた。
彼は蒸し蟹を二度噛んだだけで、白ワインで喉に流し込んでいた。
ダリヤは慌てて蟹刺しを皿に盛って近づく。
「ヨナス先生、こちらをどうぞ!」
「ありがとうございます……」
ちょっとだけ困惑した顔のヨナスから、まだ蒸し蟹の残る皿を取り上げ、蟹刺しの皿を渡す。
「今まで、蟹は召し上がっていらっしゃいました?」
「味覚が変わってからは、あまり食べたことがありませんでした」
味覚が変わってから、というのは、炎龍の魔付きになってからということだろう。
「蟹刺しは初めてですが、おいしいですね」
「ヨナス先生は、火を入れた食べ物はあまりおいしくないのでしょうか?」
「そうですね。火を入れた肉は焦げが強くわかります。炒めたものは食感が綿や布に似ていることが多いですね。蒸し蟹も好物でしたが、食感がどうも慣れません」
「野菜もやはり食感が合わないのでしょうか?」
「それもありますが、青臭さが強かったり、酸味をきつく感じることが……食事中にこのようなお話をして申し訳ありません」
ため息に似た声を途中で折った彼に納得する。
生肉かレアが味覚的に合うというヨナスだ。合わないものを無理に食べるのは辛いだろう。
そしてふと思い出す。
この蟹刺しをおいしく食べられるなら、刺身の類いもいけるのではないだろうか。
「ヨナス先生、『刺身』は召し上がったことがありますか?」
「『刺身』というと、東ノ国の、頭をつけた生の魚のことですね」
「え?」
「子供の頃に一度見まして。魚の頭がまだ生きていて、なかなかに衝撃的でした……以来、試したことはありません」
錆色の目が遠くを見るようにゆらいだ。
どうやらヨナスが最初に見たのは、魚の活き造りらしい。
子供の頃では、さぞショックが大きかったことだろう。
「あの! 刺身は魚の頭がついていない方が多いです。よろしければお試しになってみてください。蟹刺しと同じでヨナス先生もおいしく食べられるかもしれません。その、ちょっとお高いかもしれませんが……」
東ノ国の料理を出す店は、この国ではちょっとお高い。
まして、刺身は鮮度を重要視する。貴族街の東ノ国専門の店で出されるそうだが、それなりに値段は張るだろう。
「わかりました。そこはグイード様に全力でねだってみます」
しれっと言ったヨナスに、思わず吹き出してしまった。
ちょうどこちらに歩いてきた魔導師が、バケツに氷を足しながら尋ねてくる。
「そういえば、失礼ですがロセッティ会長は、ヨナス様のことを何故『先生』と?」
「ええと……」
「ロセッティ会長は武具に関しては一切ご存じありませんでしたので、ご説明したところ『先生』と呼んで頂けることになりました。大変光栄なことだと思っております」
息を吐くように話を作ったヨナスに、ダリヤが少しだけ縮こまる。
ヴォルフが『ヨナス先生』と呼んでいたので、自分もその呼び方になり、そのまま定着したとは言いづらい。
先生付けとはいえ名前呼びだ。もしや、ヨナスには失礼なことではなかったか、遅すぎる心配がわき上がる。
「なるほど、それで『ヨナス先生』ですか」
「はい。私からすれば、魔物討伐部隊の相談役であり、優れた魔導具師のロセッティ会長に尊敬の意を表し、『ダリヤ先生』とお呼びしたいところなのですが」
「『ダリヤ先生』……ああ、そうですね!」
魔導師は笑顔で大きくうなずく。
ダリヤは二人の会話に背中がかゆくなり始めた。
その後、他から氷を頼まれた魔導師は、会釈をして遠ざかっていった。
「私が『ヨナス先生』とお呼びするのは、失礼だったでしょうか?」
「いえ、問題ございません。むしろ私のような者がロセッティ会長に『先生』と呼ばれるのは、大変名誉なことです」
さらりと答えるヨナスに、いたたまれないものを感じる。
「あの、ヨナス先生、私も名前呼びでかまいませんので……」
「大変光栄です。やはりここは『ダリヤ先生』と? それとも、美しい淑女に対しては、やはり『ダリヤ嬢』とお呼びする方がよろしいでしょうか?」
ヨナスの貴族的リップサービスは見事としか言いようがない。いつも落ち着いて、動じないのもうらやましい。
ダリヤは余裕ありげに蟹を食す彼を見つめ、真面目に言ってしまった。
「ヨナス先生は、本当に嘘がお上手ですね。むしろそちらを教わりたいです」
この後、蟹にむせるヨナスという、じつに珍しいものが見られた。