218.服飾師の手
水晶の窓から差し込む陽光が、男の整った横顔を照らしている。
二人で囲むには広すぎるテーブルの上、色とりどりの料理を載せた皿が並ぶ。
ルチアは緊張をほぐす為、意味もなく椅子に座り直した。
今朝、フォルトから貴族街での昼食に誘われ、『テーブルマナーがわからないので』と一度は断った。
だが、『私とルチアだけにするからかまわない』と言われ、気の置けない店ならばと受けた。
昼食の時間より少し遅くやってきたのがここ、貴族街の高級レストラン、しかも最上階である。
艶やかな白と黒の石造りの建物、銀の扉、廊下に伸びる厚い朱のカーペット。何より、給仕をする店員の服ですら紺の絹だ。
ルチアからすれば完全に分不相応な店だった。
この為、フォルトはいろいろと気遣ってくれたのだろう。
テーブルに先にすべての料理をそろえさせ、給仕を下がらせた。いつもは近くにいる従者も、隣室へ控えさせている。
今日のフォルトは上等な黒絹の三つ揃いだった。いつも以上に服飾ギルド長らしい、格式のある美しい装いだ。
この昼食後、王城か高位貴族の元へ行く予定があるのかもしれない。
艶やかな金の髪は後ろに束ねられ、整った顔のラインがよく見える。
とても似合いだが、服を愛する服飾師のフォルトなら、どんな服も自分なりに着こなしそうな気もした。
ルチアの方は、以前、フォルトと共にデザイン画から起こしたワンピースを着てきた。
白からアクアブルーへグラデーションとなる、凝った色合いだ。細やかな縫いの白レースが、胸元から二の腕までを柔らかに包む。
それほど昔でもないのに、染色でうまくいかず、皆で試行錯誤した日々がなつかしく思い出された。
「ルチア、元気がないようですが?」
「いえ! こういうところは慣れていないので、ちょっと緊張しているだけです」
グラスに半分だけ注がれたのは、甘めの赤ワインだ。
彼の好みは香りのいい辛口なので、ルチアに合わせてくれたのだろう。
フォルトと共に食事をすることは、今まで何度もあった。
けれど、たいてい服飾魔導工房の者や、服飾ギルドの関係者も一緒だった。
布や服作りについて語らい、着こなしについて意見をかわす、そんな食事はとても楽しかった。
今日は二人だけ、しかも貴族向けの店である。いつものようににぎやかにというのは難しい。
それに、ルチアにも大体の想像はつく。
昨日、フォルトの妻が自分に告げた、第二夫人の話についての謝罪だろう。
自分とフォルトとの関係も勘違いされていた。
そういった関係では一切ないが、誤解を招く距離と失礼さがなかったとは言えない。
服飾魔導工房の設立から休みなく動き回り、工房で夜遅くまで仕事をし、家まで毎回馬車で送ってもらっていた。
従者も一緒にいたとはいえ、客観的に見れば勘違いされても仕方がないスケジュールだ。
もし、自分が逆の立場だったなら――そう考えれば、怒る気も失せた。
周囲からこそりと聞いたが、フォルトの妻であるミネルヴァは伯爵家の出身だ。
爵位だけではなく、家格と権力的に、フォルトの家よりかなり上だという。
ミネルヴァは貴族的考えで、仕事をうまく回している自分を手放したくない、そう単純に思ってくれているのだろう。
むしろその考えだけで言ってくれている方がましな気がする。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です、フォルト様。乾杯しましょう!」
心配げなフォルトに、笑顔で答えた。
そして、明日の幸運を祈って乾杯し、食事にむかう。
白い皿に芸術品のように積まれたチーズ、バラのように飾られた生ハム、すべて中身の違う一口パイ、やわらかな鴨の肉のソテーに、稀少な貝を使ったスープ。
どれもとてもおいしいが、ヴェールを一枚隔てたように、味がよくわからない。
「ルチア、口に合いませんか?」
「いえ、おいしいです。慣れないお店なので、少し緊張していただけです」
「次はもっと肩の力が抜ける店を選びましょうか」
食後の紅茶は、フォルトが手ずからいれてくれた。
デザートのマロンタルトはルチアの好物だ。夏に話したことのあるそれを、彼は覚えてくれていたらしい。
「昨日は、妻がたいへん失礼しました」
ルチアがデザートを食べ終えるのを待っていたフォルトが、ようやく切り出した。
「まさかミネルヴァが、直接あなたの所へ行くとは思わず……」
「いえ、夜までのお仕事も多かったので、ご心配なさったんだと思います。あ! 私よりもダリヤの方が……ええと、ダリヤはあっちこっちにその、応援する人が多いので……」
この初夏から、友ダリヤは笑顔で魔導具を開発し、快進撃を続けている。
それはルチアにも、とてもうれしいことだ。
ありがたいことに、彼女のおかげで自分もよい役目をもらい、こうして楽しく仕事をすることができている。
反面、友の負担は少なくない。
王都一と呼ばれる美青年のヴォルフとの付き合いで、女性の嫉妬と陰口は山。
魔導具師、商会長としての大活躍で、関係者の興味とやっかみも山。
王城への出入り、魔物討伐部隊の相談役魔導具師となったことで、期待と羨望も山。
対して、ダリヤの自己評価は谷である。
魔物討伐部隊の相談役魔導具師になった時、スカルファロット家のグイードが貴族後見人となった時、侯爵ジルドがロセッティ商会の保証人となった時――どれも胃痛を起こしていた。
それでも、友人や仲間の為になら迷いなく猛進するのだから、予測がつかない。
そんなダリヤだが、いや、そんな彼女だからこそ、自分を含めて応援する者は多くいる。
「ダリヤ嬢の方にも、イヴァーノ経由でお詫びの手紙をお送りしたところです」
「……大変でしたね」
無意識なのだろう、胃に左手を伸ばしかけたフォルトに、心から同情した。
せめて自分の件については、さっさと忘れることにしよう。
「私は気にしないので、フォルト様、しっかり誤解は解いてくださいね」
「それについては――私が妻に話したのです」
「え?」
「私がルチアと会って、まだ半年ほどです。少々早いかと思ったのですが、妻にあなたのことを話しました。まさかギルドに来て、あなたに話をされるとは思いませんでしたが」
フォルトの目がまっすぐ自分に向く。
中央の紺、そして明るい青から暗い青に変わる目が、少しだけ揺らいで見えた。
「最初に会ったとき、とてもかわいらしいお嬢さんだと思いました。プリンセスラインの素敵なワンピースで、後であなたのオリジナルデザインで、自ら縫ったと聞いて驚きました」
「フォルト様は灰銀のスーツと、白いシャツがお似合いでした。魔糸の模様織込で」
「私は服しか覚えて頂けてないようですね」
二人そろって笑う。
会ってわずか数ヶ月だが、お互いの笑い声はとうに耳に馴染んでいた。
「ルチアと一緒に仕事をしていて、腕のいい服飾師だとわかりました。そして、センスもよく、ひらめきもあることに感心しました。夜中まで一緒に仕事をしても、次の日にまたあなたと仕事をするのが楽しみでした」
「フォルト様……?」
「気がついたら、一緒に仕事をするだけではなく、ずっと共に歩みたいと、そう思うようになりました」
立ち上がり、ゆっくりと傍らに歩んできたフォルトが、膝をつき、自分に掌を差し出した。
「ルチア、私の妻となって頂けませんか? あなたを守らせてほしいのです。私が砂に還る、その日まで」
剣ではなく、ハサミと針を持つのが似合うフォルトの手。
爵位の違い、立場の違い、男女の違いはあったけれど、同じ仕事をする服飾師同士、服に関する思い入れも喜びも苦労も分かち合ってきた。
幾度となくエスコートされたことのあるルチアは、彼の手の温かさを知っている。
その左手首には、金の輪に淡い水色の石が光っていた。