161.本屋へ向かう馬車
本屋に向かう馬車の中、ダリヤは膝の上にそっと水色のハンカチを広げた。
「こんなに鱗を頂いてしまったんですが、本当によかったんでしょうか……?」
ハンカチの上には、艶やかな赤い鱗が六枚ある。
大きさは多少違うが、それでも龍の鱗らしい独特な流線型で、四、五センチぐらい。
触った感じは、魚などの鱗というより、磨かれた黒曜石や陶器のようだった。鱗自体はひんやりとしていて、とても硬質だ。それでいて、立ち上る魔力は細く温かい。
赤から薄赤のグラデーションになった鱗の根元、ヨナスの血がまだ乾ききっていなかった。
「ヨナス先生が自分でダリヤにくれたんだから、いいと思う」
「でも、きちんとお礼はしなきゃいけないと思います。剥がすのも、鱗のなくなったところも、とても痛そうでしたし……」
ヴォルフの言葉もわかるのだが、どうにも気がかりだ。
ヨナスは痛覚が鈍いと言っていたし、まったく痛そうな顔もしていなかったが、血は流れていた。
しかも一枚だけならともかく、連続でぶちぶちと六枚もむしった。あの鈍く湿った音を思い出すと、不安になってくる。
腕の真ん中、鱗のなくなった部分がぽっかりと空き、血のわき上がるのがとても痛そうだった。
ヨナスがやせ我慢をしているのではないかと、本気で疑いたくなるほどには心配だ。
「お礼か……小型魔導コンロと干物は贈るつもりだけど、他に何か欲しいものはないか、先生に聞いておくよ」
「お願いします。こちらで準備できるものでしたら、お礼としてお贈りしたいので」
たとえ魔付きのヨナスのものだとしても、この鱗自体は素材である。値段を確認して、相応のお礼をしなければいけない。
怪我の分も考えればそれよりも多くと思うが、この鱗の値段がまるでわからない。
「ヴォルフ、この鱗を鑑定や製作の為に、人に見せてもいいですか? オズヴァルドさんなら、たぶんわかると思いますので……」
「かまわない。一応、兄とヨナス先生の名前は伏せてもらえれば」
「わかりました。あ、私、ご挨拶をちゃんとしていなくて……ヨナス先生のフルネームを伺ってませんでした」
お礼をする前に聞くべきだった。
慌てていた為に、ヴォルフとグイードが呼んでいた名前しかわからない。うっかり礼状もきちんと書けないところだった。
「ヨナス・グッドウィン。ランドルフとは遠戚だって。ただ、ヨナス先生は子爵家の出だから、ランドルフの方は知らないだろうって言ってた」
「グッドウィンというお名前は、貴族で多いって聞きましたが、一緒なんですね」
「グッドウィンは、初代の王に三兄弟で仕えたという話だからね。そのせいもあると思う」
初めて知った。グッドウィン家は、建国以来、長く続いている家系らしい。
「ダリヤ、これで腕輪の素材は揃ったね」
「いえ、まだ森大蛇の心臓は見つかっていないので……」
ヴォルフの確認に説明をしようとすると、いい笑顔で答えられた。
「それはもうある。森大蛇の心臓は冒険者ギルドに運んで、加工してもらってる。たぶん、来週あたりにはできると思う」
「まさかヴォルフ、獲ってきたんですか? 森大蛇って、危ないじゃないですか!」
「いや、俺が一人で獲ってきたわけじゃないよ。隊で棘草魔の駆除に行ったときに出てきたんで、皆で、ついでに」
散歩に行ったついでに野草をむしってきたように言わないでほしい。納得できない。
「私の記憶違いでなければ、森大蛇は稀少素材で、遭遇確率も少なくて、とても強い魔物ですよね?」
「ああ。でも、魔物討伐部隊ではたまに遭遇する。今期遭ったのは二回目だったし、俺達もそれなりに強い」
魔物討伐部隊にとっては、森大蛇は怖いものではないらしい。それなりに遭う機会もあるようだ。
魔物図鑑にある森大蛇の記述を思い出すと、かなりずれを感じるが。
「隊の皆さんが強いのは、ヴォルフを見てればわかりますが……森大蛇って、どんな感じなんですか?」
「脂多めの鶏味に近い。意外に柔らかくておいしかった」
「え?」
「ダリヤのくれたタレでおいしく頂きました」
「はい……?」
待ってほしい、自分が話しているのは魔物の森大蛇についてだ。
森で駆け回っている兎や鹿の話ではない。
「あの、森大蛇って、隊で普通に食べるんですか? とても小さい個体だったとかですか?」
「俺は森大蛇を食べたのは初めてだった。今回会ったのはそれほど大きくはない。鎌首を上げたときが三メートルあるかないかぐらいだから、若めの個体だね」
引き続き、待ってほしい。鎌首を上げて三メートルないとして、全長何メートルなのだ。倒すのも解体も恐ろしすぎる。
「甘ダレをつけて、遠征用コンロで焼いたんだけど、脂がいい感じに落ちて、おいしかった。皆、喜んでいたよ」
ヴォルフは笑顔で言うが、一抹の不安がダリヤを襲った。
もしや、ロセッティ商会の遠征用コンロのせいではないだろうか。
「ヴォルフ、もしかして、遠征用コンロを購入して、その費用で食事代が足りないとか、食料を減らしているといったことはありませんか? そうでしたら、隠さずに教えてください」
「いや、違うよ。そっちの心配は本当にない。ちゃんと予算も食料もあるよ。今回は、森大蛇の肉が疲労回復にいいって話になって、食べることにしたんだ」
「森大蛇のお肉って、疲労回復に効くんですか?」
「ああ。王都まで戻るとき、いつもより楽だった」
森大蛇というと、つい牙や皮などの素材イメージがあったが、肉もなかなか有用らしい。
「話を戻しますが、森大蛇の心臓って、隊にお支払いすればいいでしょうか?」
「隊長が魔物討伐部隊の相談役に献上するんだからいらないって。開発に回してもらえればいいそうだよ」
「いえ、献上って、私がそうそう頂いていいものではないと……」
「相談役だから、隊からすればもう身内か先生扱いだから。もらいづらいなら、ダリヤは、差し入れたタレ代だと思ってもらっておけばいいよ」
「いや、森大蛇の心臓がタレ代って、どんなぼったくりですか?」
悪徳商法この上ない。
そもそも甘ダレは遠征用コンロの追加納品時に、お試しとして作ったものだ。
遠征用コンロを試すときに肉にでもつけてもらえればと贈ったのだが、そのまま遠征に持っていったらしい。
「じゃあ、今度もう一樽の甘ダレで、『タレ払い』でいいんじゃないかな。あのタレ、すごく好評だったから」
「『タレ払い』……わかりました、考えておきます……」
後で冒険者ギルドに販売価格を問い合わせよう。
森大蛇の心臓は確かに欲しい。
もらえるなら本当にありがたいが、代わりに同価格分のタレを提供するべきだろう。
おそらくは甘ダレだけでは少ないだろうから、塩ダレとバジルソースをつけるべきか。プラスして、ハーブソルトやミックススパイスでも贈るべきだろうか。
しかし、その場合、量が量なので、どこで調合するべきか――悩みが尽きない。
最早、魔導具師の仕事ではなく、スパイスショップや料理人の仕事に近い。
いや、ここはより遠征に便利な魔導具を考えるべきだろうか。
ぐるぐると考えていると、ヴォルフが尋ねてきた。
「森大蛇の干物があるけど、ダリヤはいる?」
「干物、ですか?」
「ああ。残った森大蛇を、隊長が中心になって干物にしたんだ」
ここのところ、ヴォルフはたいへんに干物が気に入っていた。
しかし、まさか隊長のグラートも干物に傾倒していたとは知らなかった。
もしかすると、魔物討伐部隊内にも、干物ブームが巻き起こっているのかもしれない。
「森大蛇の干物って、おいしいんですか?」
「普通かな。干さない方が俺好みだった。でも、皆は干物を焼いて食べるとか、粉にして飲むとかいろいろ試してる。家で香辛料を入れたスープにするっていう人もいたよ。干物の方が疲労回復効果はあるみたいだ」
「そうなんですか。じゃあ、塔でも焼くか、スープにしてみます?」
「いや、俺には出さないでほしい……その、あまり体に合わなかったらしくて」
ヴォルフは少しだけ唇を噛む。
試して鼻血を出したのは、なんとしても内緒にしておきたい。
遠征から戻った夜、お試しということで、兵舎の食堂で希望者が干物を焼いて食べた。
食堂で一緒に食べた先輩方のほとんどは平気で、酒を飲んで夜通し盛り上がっていた。
鼻血を出したのはヴォルフやランドルフなど、隊員数人だ。単純に食べ過ぎだと思われる。
適量を知っていたらしいドリノは、涼しい顔で焼く前に半分懐に入れていた。
なお、『流血の大惨事』と評されたカークともう一人の若い隊員は、毛布を敷いた床に横向きで寝かされていた。ちょっとかわいそうだった。
「謝るのが遅くなったけれど、今日は兄が失礼なことを言って、すまなかった」
「いえ、ヴォルフが心配だったのだと思います。気にしてませんから」
「他に何か気に障ることは言われなかった?」
「大丈夫ですよ、ヴォルフ」
グイードがダリヤに痛い質問を投げてきたのは、会話の最初のうちだけだ。
その後はすぐ謝罪も受けたし、ヴォルフについて心配しているのがわかったので、納得できた。
「俺は、今後、関係を絶つ気も、距離をとる気もないから」
不意の低い声に、息を呑む。
視線を上げれば、黄金の目がひどくまっすぐ自分を見つめていた。
うれしいと強く思った瞬間、グイードの声がよみがえる。
『あなたがヴォルフの弱点となることがあるかもしれない』――それは、おそらくは本当で。
目の前の男は、友人の自分をかばう為であれば、さきほど威圧を出したときのように、ためらいなく戦おうとするだろう。
そうしなくてもいいくらいに自分が強くありたいが、現実はなかなかに厳しい。
それでも、情けなくあがいてでも、同じく絆を切りたくはない、ただ隣にありたい。そう思う。
「……ありがとうございます。私も、そうありたいと、思います」
伝えたいことは言葉にできず、声がうまくつなげない。
それでもなんとか、笑顔で答えた。
「あと、俺がまた感情的になって、『威圧』を出してしまって、申し訳なかった……」
「いえ、ヴォルフが私の為に怒ってくれたのはわかりますから。ただ、できるだけやめてほしいです。あれ、すごくあせります……」
自分の為に怒ってくれたのはありがたいが、いきなり威圧を出すのはやめてほしい。
あれは動けなくなる上に、本当に肝が冷える。
しかも、前回の威圧より、今日の方がひどかった。
あのときの冷えと怖さを思い出し、少しばかりふるふるとしていると、ヴォルフがそっと目線をずらした。
「……ダリヤ、あの、本屋に行く前に、服屋に行か」
「ヴォルフ! 私はこのまま可及的速やかに迅速に素早く本屋に向かいたいです。あとこの話もう一回出したら、今後ずっと『スカルファロット様』って呼びます」
ヴォルフの台詞の上にかぶせ、ダリヤは早口で言いきった。
次にこの話題を掘り返されたら、上から砂をかけて埋めよう、ヴォルフごと。
「……本当に、すまない……」
うなだれた青年は、しばらく顔を上げなかった。