156.友の兄とお茶会を
ヴォルフの屋敷、商会の住所を置かせてもらっているそこは、オズヴァルドの屋敷と同じくらい豪華だった。
純白の壁に青い屋根の三階建ての屋敷。庭の緑の芝生は秋とは思えぬ青さで、庭には白を基調とした淡い色の花が咲き誇っていた。
これでスカルファロット家では別邸だというのだから、本邸はどれだけなのか。
気後れを深呼吸で流し、ダリヤは馬車から案内役の従者に従って進んだ。
今日ここに自分を招いたのは、ヴォルフの兄である、グイードだ。
スカルファロット家の長男であり、次期侯爵でもある。
本来であれば、イヴァーノが従者として一緒に来るはずだったのだが、出かける寸前に王城の事務関係で呼ばれた。
終わったらすぐこちらに来るとのことだが、相手が相手だけに急がせるわけにもいかない。
幸い、ヴォルフは休みとのことで、同席してもらえるとのことだった。
一人では開けられぬと思える、厚い両開きの玄関ドア、そして、陽光輝く吹き抜けの玄関ホール。飾りはそれほどないのだが、どれも艶やかで品がある、貴族らしい屋敷に思えた。
ダリヤは廊下の青い絨毯を踏みしめつつ進んでいたが、ふと視線を感じて、足を止める。
美しい貴婦人の肖像画が、日差しのあたらぬ壁に飾られていた。
黒檀のごとき長い髪、雪のような白い肌、淡く赤い唇。深く黒い目はわずかに細められ、こちらに優しく笑んでいる。
ヴォルフの母だ――直感がそう告げた。
絵だからこその美しさではない。おそらく本人はこれより美しかったのだろう、なぜかそう確信できた。
「そちらの絵は、第三夫人のヴァネッサ・スカルファロット様です。ヴォルフレード様が子供の頃、病でお亡くなりになりました」
「……そうでしたか。教えて頂き、ありがとうございます」
案内役の従者の説明にうなずき、ダリヤは再び歩み始めた。
病で亡くなったというヴォルフの母。
実際は家督関係での襲撃による戦死だが、そこは対外的には病死とされているのだろう。
ヴォルフがどんな思いでこの絵の前を通っているのか、少しだけ足が重くなった。
「ようこそ、ロセッティ殿」
通された応接室では、青みのある銀髪の男が待っていた。
ヴォルフとはあまり似ていない。どちらかと言えば騎士より文官の雰囲気の持ち主だ。
顔立ちは整っているが、どこか硬質で人形めいて見えた。
「ヴォルフの兄の、グイード・スカルファロットだ。いつも弟がお世話になっている」
「ロセッティ商会のダリヤ・ロセッティと申します。こちらこそお世話になっております」
挨拶を返しながら、つい空いている椅子に目がいく。
時間としては頃合いのはずだが、ヴォルフはまだ来ていなかった。
「ヴォルフなら遅れてくる。申し訳ないが、手紙の時間を一時間ほどずらした。あなたと二人で話がしたいと思ってね。ああ、もちろん、二人と言っても部屋には従者を同席させている。よろしいだろうか?」
「……はい、かまいません」
考えを見透かされた上に、少しばかり早口で告げられた。
言われて初めて、壁際に黒の従者服の男がいるのに気がついた。
背が高い、錆色の髪の男だ。視線は下げているが、目も濃いめの錆色だった。少し褐色を帯びた肌は、砂漠の国を連想させる。
本来は従者に挨拶をする必要はないのだが、つい軽く会釈をしてしまった。すると、相手も同じように会釈を返してきた。
ダリヤは内心あせりつつも、顔をなんとか営業向けに固める。
勧められた黒革のソファーに腰をおろし、グイードの言葉を待った。
「まずは心からお礼を。ワイバーンに連れ去られたヴォルフを助けて頂き、感謝する。その後の妖精結晶の眼鏡や、魔物討伐部隊への開発品についても聞き及んでいる。ヴォルフはロセッティ殿の元へ頻繁に通い、なにかと世話になっているそうだね」
「いえ、こちらの方がお世話になっております」
「そうか……」
その青の目は、一度窓の外にそらされ、それから再び自分に戻る。
底の見えない深い青が、奇妙に揺れた気がした。
「ロセッティ殿、失礼だが、一つ尋ねたい。もし、ヴォルフと別れてくれと願うならば、いくら必要だね?」
「え?」
いきなりの問いに、返す言葉が浮かばない。
言葉の意味を尋ねようとしたとき、グイードが再び話し出した。
「言い方が悪かったね。これから言うことを最後まで聞いてほしい。あなたがこれまでヴォルフにしてくれたことに関しては、本当に感謝している」
静かだがどこか冷えた声が、ダリヤの耳朶を打つ。
「だが、ロセッティ殿はすでに、ヴォルフにとても近い位置にいる人間だ。この先、あなたがヴォルフの弱点となることがあるかもしれない。そうなったとき、こちらで別れてほしいと願うなら、対価を積むのが当然だ。金貨二百でも、三百でも、望む数字を聞いておきたい」
「……必要ありません。ヴォルフ様が友人として関係を絶ちたいと思われたなら、そこまでですし、ご迷惑になるようでしたら、距離をおかせて頂きます」
いつも、頭のどこかで覚悟していた。
ヴォルフが自分の隣からいなくなる日。
身分の差、仕事や任務の都合、そして、ヴォルフの恋愛や結婚。
彼が距離をおくとしても、そのときに庇護なく、一人で立っていられるようにしようと思ってきた。そこに金銭などいるはずがない。
「ヴォルフが距離をおくのなら、商会の保証人の書き換えとして、より高位の貴族を紹介する約束をしておくが?」
「不要です」
今でこそ魔物討伐部隊御用達・相談役の肩書きはあるが、それまでは、商業ギルド長とヴォルフの名で守られていた商会だ。
ヴォルフを商売に利用している、そう受け取られても当然だ。
それでも、ヴォルフの兄からの提案は、正直、痛い。
「ロセッティ殿は、ヴォルフと別れるにあたって、何ひとつ求めないと?」
「……スカルファロット様は、友人に関係を絶ちたいと言われたなら、何かをお求めになりますか?」
あまりに不可解そうに言われ、つい本音がこぼれた。
「……確かに、何も求めない」
まるで仮面が落ちたように、グイードの表情がゆるんだ。
「ロセッティ殿、試してすまなかった。心より謝罪する」
グイードは椅子から立ち上がり、一度頭を下げた。
ダリヤも急いで立ち上がり、その場で深く頭を下げ返す。
「いえ、こちらこそ失礼な言をお許しください」
「かまわない。楽にしてほしい。ここからは本音で話させてもらうよ。心配だったんだ。ロセッティ商会長にとって、うちのヴォルフがどのような存在かが見えなくてね」
「すみません、その、おっしゃる意味が……」
「ヴォルフにとってあなたは、大切な友人だ。その逆に、あなたにとって、ヴォルフが、商売としての関係なのか、大切な友人なのかを聞きたかった。商売人ならば、もしもに備えて、金と人脈を優先させるものだからね。もって回った聞き方をした」
なんと言うのが正しいのか、こんなことは貴族のマナー本にはなかった。だからダリヤは必死に言葉を探す。
「身の程知らずな言い方になりますが、お許しください。ヴォルフ様は、仕事で関係がなくても、大切な友人です。これでは、お答えになりませんか?」
「充分だ。本当にすまないね。この年で心配もどうかと思うが……なにせヴォルフの女性運は最悪だ。我が弟ながら、知れば知るほどに同情がつのる」
「それは……」
眉を寄せて言う男は、辟易した顔を隠さなかった。
ダリヤはどう答えていいか迷う。
知ってはいるが、自分が言葉にしていいものかどうかわからない。
「その様子なら多少は聞いているようだね。最近は、いっそ太ってしまえばいいのではないかと思っているが。あの倍ぐらいになれば、平和になるとは思わないかい?」
「それはそうですが……そこまで太ると、健康に悪そうです」
つい真面目に応えたダリヤに、グイードは大きく破顔した。
「確かにその通りだ。さて、第一印象は最悪になってしまったが、ここから少しは挽回させてほしい」
言い終えぬうちに、従者が廊下側のドアを開く。
そして、ワゴンで運んできたのは、ティーセットとケーキ、そしてクッキーの山だった。
「うちの料理人渾身の品でね、ベイクドチーズケーキと、苺のタルトだ。クッキーは子供の頃のヴォルフの好みだね。ソルトバタークッキーは今も好物だったと思う。茶は、東ノ国の緑の茶をそろえてみた」
「……ありがとうございます」
グイードはダリヤの好みをよく知っているようだった。
以前、ヴォルフから謝罪されたことがある。『兄がダリヤのことを調べていた』と。
スカルファロット家は伯爵だ。ヴォルフの心配をし、友人の自分を確認するのも仕方がないとあきらめた。
ダリヤには調べられても困るようなことはない。だが、食べ物の好みをここまで知られているのは、ちょっぴり恥ずかしい。
ただ、歓迎してくれるためと思えば、ありがたいことだ。
最初に皿に盛られたベイクドチーズケーキを、斜め向かいのグイードと共に食べ始める。
王城で食べた高級感あふれるチーズケーキもおいしかったが、こちらはシンプルで、チーズ自体の味がとてもいい。舌にほろりとほどける柔らかめのタイプだ。
ケーキ地の甘みは抑え気味なのに対し、一番下のビスケット地が甘いのがうれしい。
その後に飲んだ緑茶は、甘くわずかな苦みがあり、とてもなつかしい気がした。
東ノ国の緑茶は一般の紅茶の十倍ほどする。なかなか気軽には飲めないが、このチーズケーキとはぴったりだ。
「おいしいです……」
しみじみとつぶやくと、グイードがにっこりと笑う。
その瞬間、従者がありえない速さで空の皿をタルトの皿に取り替えた。
苺の鮮やかな赤がいきなり目の前に来て、思わずテーブル横の従者の顔を見つめてしまう。
「お勧めですので、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
さきほどの速さはお勧めの意志の強さなのか、一つの出し物のようなものなのか。
それにしても、皿替えをする手がどんなふうに動いたのか、まるで見えない速さだった。
とはいえ、苺のタルトがおいしそうなことに変わりはない。
グイードが手をつけたのを確認し、ダリヤも食べ始める。
かわいらしい小さな丸型のタルト地の上、甘酸っぱい苺がたっぷりのっている。フォークを進めると、カスタードクリームがとろりと光った。
甘さは少し強めだが、苺との相性がとてもいい。
今日は、夕飯を抜こう。そしてカロリーのことは考えまい。
内で誓いつつ緑茶を飲んでいると、向かいでグイードがクッキーに手を伸ばしていた。
ダリヤも勧められたが、ボリュームのあるケーキ二個の後では流石に入らない。
贅肉のまったくなさそうなグイードだが、そのカロリーは一体どこに行くのか。少し不公平さを感じてしまうほどである。
軽い咳に目を向ければ、従者が錆色の目を細くしてグイードを見ていた。
その唇から、聞こえる限界の音でつぶやきが落ちた。
「グイードの夕食は減らすべきだな……」