116.大豚と大猪
二杯目の塩スープパスタを食べ、皿洗いを終えたヴォルフが、ゆるりとソファーにもたれている。
訓練もあったのだし、自分が洗うから休んでいるようにすすめたが、笑顔で完全拒否された。
魔物討伐部隊では、食べた者が洗うという決まりがあるのかもしれない。
「ダリヤのレシピで食堂ができればいいのに。できれば王城の近くに」
炭酸水とライムをローテーブルにのせると、ヴォルフがしぶい顔でこぼした。
「どうしたんですか、いきなり?」
「最近、食堂のご飯がちょっと。人数が多くて、時間もかかるから、常温で保存の利くものが多くなってて。食べられるだけありがたいし、贅沢な悩みだとわかってはいるんだけど。ここでおいしいものを食べると、つい考えてしまう……」
「暑くなってきましたからね。作りおきも、ものによっては難しくなりますし」
王城は広い。食堂を利用する騎士や兵士の数はかなり多そうだ。調理も保管も大変に違いない。
しかし、何か補助できる魔導具は入っていないのだろうか。
「食堂に大型魔導コンロとか、大型冷蔵庫ってないんですか?」
「見える範囲では、通常の魔導コンロの少し大きいのが、何十台も並んでる感じだね。冷蔵庫は冷蔵室というか、倉庫丸ごと冷蔵だし。お肉なんかはあるみたいだけど、料理を載せた皿を冷やすっていうのはないね」
「大型魔導コンロとか、大型冷蔵庫とかができればいいですね。王城の魔導具師さんや魔導師さんでないと、制作は難しいかと思いますけど」
「王城の魔導具師はどうかな……学術的研究が中心だとは聞くけど、どんなものを作ってるか、くわしくは知らないんだよね」
『学術的研究のための魔導具』、これはこれで魅力的な響きだ。
やはりファンタジー的に、姿消しの指輪や、飛行の絨毯、転移陣、アイテムボックスなどの開発だろうか。
それとも、首無鎧や呪いの剣の研究か。あるいは、飛行大陸の制作や、賢者の石の生成を目指すような壮大なものはないだろうか。
かなり気になる。
「大型の魔導具って、ダリヤは作れる?」
「いえ、私では厳しいです。付与も入れて作るとすれば、魔力量がかなり必要ですから。あと、その魔導具が動かせないと、その場で作らなきゃいけないじゃないですか。それはかなり集中力がいるので」
「ダリヤは集中力があるじゃないか」
「普通です。それに、王城で集中できる自信はありません……」
王城には二度行ったが、二度ともたいへんに緊張した。いろいろなことがあり、できるかぎり避けたい場所でもある。
「何回も通えば、そのうちに慣れるよ」
「何回も通うこと自体が、きつそうなんですが?」
ヴォルフは笑っているが、そこに住んで働く彼と、庶民の自分では、感覚が違いすぎる。
ダリヤは話題を思いきり変えることにした。
「正規納品のときの燻しベーコン、おいしかったです。あれ、どこのお店のものですか?」
「東街道にある養豚牧場の大豚のベーコン。この前行った『黒鍋』の副店長に教えてもらったんだ。隊の方でも購入するのが決まったよ」
二人で行った港近くの食堂を思い出し、納得した。
あそこのお店であれば、いろいろなおいしい食材に詳しそうだ。
副店長も以前は魔物討伐部隊だったそうだから、日持ちやいろいろなことを考えての選択だろう。
「よかったです。あれなら遠征中でもおいしく食べられそうじゃないですか」
「ああ、まちがいなく喜ばれる。正規納品のあの後、グラート隊長が遠征用コンロを待機室に持ってって、その場で焼いちゃって……『人よせベーコン』になってたから」
それは仕方がない。あれだけいい香りだ、人も寄って来るだろう。
燻しベーコンの量が間に合ったのかどうかが、ちょっと気になるが。
「おかげで、今日の大猪の訓練も、皆が本気になっちゃって」
「豚と猪で、似てるからですか?」
「そうとも言える。大猪って、東の山に多いんだけど、群れにはボスの雄一頭だけで、若い雄は追い出される。で、その若い雄が、養豚牧場に入り込むことがある」
「縄張りにするためですか?」
「管理と肉質の関係で、大豚の飼育は、ほとんど雌なんだって。だから、若い雄には、牧場が魅力的な出会いの場に見えるらしい。牧場側でも警備はしてるけど、たまに多く出るらしくて。夏から秋に討伐に呼ばれることがあるんだ」
「なるほど、お嫁さん探しですか」
あの燻しベーコンがかかっているのだ、それは訓練に身が入るだろう。
しかし、大猪の若者には、ちょっとだけ同情もする。
大豚の方も、もしかしたら種別を超えた恋になるのかもしれない。
「お嫁さんと言うか……大猪の雄一頭で、大豚の雌を二十匹以上、連れてくんだって。そんなのが多く出たら、養豚牧場は閉鎖だから」
訂正する、それは駆逐に本気にならざるをえない。
隊の遠征のため、あの燻しベーコンを守るために、討伐は必要だ。
「それと、大猪を燻しベーコンにすると、野性味があってまた別格のおいしさがあると、業者が言ってた」
「大猪の燻しベーコン……」
「そのまま牧場に持ち込めば、格安で加工してくれるって。できるなら、傷みなく仕留めたいよね……」
笑顔なのに、騎士の目ではなく、捕食者の目になっているヴォルフがいる。
いや、もしかすると、この話を聞いた隊員すべて、こういった目になっているのかもしれない。
「……訓練、がんばってください」
ダリヤはそっと、大猪の冥福を祈ることにした。
「今日のドミニクさんの話だけど、ダリヤは、男爵位をとるつもり?」
炭酸水用のライムをしぼっていたヴォルフが、ふと顔を上げた。
「とれたらいいと思うようにはなりました。身の程知らずかもしれませんが……ヴォルフは、もうちょっとで、とれるんですよね?」
「数年経てばとれるし、家もあるから、推薦をもらいたいと強く言えば今もいけるとは思う。ただ……」
「やっぱり面倒ですか?」
「それもあるけど、隊の先輩方を抜いてもらうのは申し訳なくて。俺はそこまで隊に貢献してないから」
「赤鎧って、十分貢献してると思うんですが」
「赤鎧は目立つけど、俺の場合、ただ前で戦うだけで、重い怪我をしたことはないし。ランドルフのような盾持ちの方が重い怪我が多いし、危ないのは補給の隊員だって同じだよ。引退する先輩に男爵位があれば、支給金も出るだろうし……」
ヴォルフはワイバーンに持ち去られるほど危なかったではないか、そう言おうとして、言えなくなった。
「男爵位をとったら、うるさくなるか静かになるかも、判断がつかない」
ヴォルフが男爵位をとったら、貴族子女のお見合いや、言い寄る者は減るのか、増えるのか。
恋愛が面倒でその気がない彼としては、今より増えるのは避けたいところだろう。
「ヴォルフの場合、とってもいいと思えるようになってからで、いいのかもしれませんね」
「そうかもしれない。ああ、なんならダリヤが男爵になるとき、一緒にとろうか?」
「……仕事が違いますから、そういう無理は言いませんよ」
一瞬、『とらなくてもいい』、そう言いそうになった。
赤鎧を十年。それはあと何年なのか。
怪我はしないか、危険はないのか、確実に生き残って、また塔に来てくれるのか。
こんなことを言えば、きっとヴォルフを困らせる。
言いたいことをすべて呑み込み、作り笑いでグラスに口をつける。
今夜のライム入り炭酸水は、ひどく苦かった。
「爵位がとれたら、貴族街への引っ越しは考えてる?」
不意のヴォルフの質問に、少し驚いた。
男爵の位は一代限りだ。魔導具師の弟子をとったとしても継がせることはできない。
権利としてはあるらしいが、貴族街への引っ越しなど、考えたこともなかった。
「いえ、父は男爵になっても塔にいましたし。私も、もしとれても、ここにいるつもりです」
「よかった。じゃあ、ダリヤが男爵になっても、俺はここにお邪魔していいかな?」
ほっとしたように笑うヴォルフに、なぜか自分も安堵する。
ダリヤは作り笑いを止め、心から笑って答えた。
「ええ、どうぞ。お待ちしています」