103.紫の二角獣
「ヴォルフ、朝帰りで風呂か? 髪、乾いてねえぞ」
「いや、朝練して水浴びてきたところ。どのみち今日は暑いからすぐ汗かくし、面倒だ」
「朝練って、これから訓練だろうが……」
魔物討伐部隊の待機室、ドリノが呆れた顔でヴォルフを見ている。
今日は朝から走り込みなどの体力作り、午後はチームごとの対戦訓練の予定だ。この暑さの中、一日みっちりの予定なのに、その前に朝練というのが理解できない。
「俺、先輩との朝練、半分しかついていけませんでした……」
ヴォルフの陰で見えなかったが、後ろにカークが続いていた。こちらも髪が濡れたままだ。
このところ、よくヴォルフと一緒にいる彼だが、どうやら朝練にまで付き合っていたらしい。
「朝練って、何してた?」
「隊の鍛錬場を十周ほどして、素振りを五百です」
「お前ら、訓練前にその量はおかしいだろ?」
隊の鍛錬場は全体を回るとかなり広い。大体午前の訓練で走るのが十周だ。朝食前のウォーミングアップの量ではない。
「いえ、ヴォルフ先輩はその倍を……」
「ヴォルフ、より跳ぶためにダイエットか?」
からかいを込め、ドリノは尋ねる。だが、ヴォルフは微妙な顔のまま、笑いもしなかった。
「……ここ数日、よく眠れなくて。眠るために動こうかと」
「それなら、医務室行って睡眠薬もらってこいよ」
「ドリノ、ヴォルフも自分も睡眠薬はほとんど効かん」
ランドルフが隣から低く声をかける。
ヴォルフもランドルフも伯爵家の生まれである。もしやに備え、睡眠薬は早めに慣らしておくべき薬のひとつだ。
もっとも、ヴォルフが慣らしたのは学院に入ってからだったが。
「あー、そうだよな。前も聞いたっけ。悪い、忘れてた」
「あの、魔導師さんに頼んで睡眠魔法でもかけてもらってはどうでしょうか?」
「あれは短時間しか効かない」
「そうだね、確か三時間くらいだね……」
よく見れば、ヴォルフの目の下には珍しくクマが浮かんでいる。
ドリノはその肩をぽんと叩くと、耳元に口をよせた。
「ヴォルフ、そんなに眠りたいなら、久々にきれいなお姉さん方のいるとこにでも……」
「至急の討伐命令だ。本日の待機者を全員呼べ!」
言いかけたドリノの後ろ、大声が響いた。
魔物討伐部隊長であるグラートが、足早に入ってきた。そのひどく険しい表情に、隊員達へ緊張が走る。
屋外や別の部屋にいた者を急いで呼び出すと、待機室は隊員達でいっぱいになった。
「討伐命令だ。南街道の水場に、紫の二角獣が出た」
ずしり、部屋の空気が重く変わった。普段は冷静な熟練の騎士達が、思いきり顔をしかめている。
「四頭が確認済、もしかすると、もっといるかもしれん……」
グラートの言葉に、いつもは私語のない隊員達からひそひそ声がもれはじめた。
「……俺、行きたくねえ」
「心から遠慮したい……」
「あれは無理だ……絶対に無理だ……」
顔を歪める騎士達の後ろ、新人の騎士が首を傾げた。
「紫の二角獣って、そんなに強いんですか?」
「ああ、まだ会ったことなかったか。二角獣の紫って、性質の悪い変異種でな、戦闘力はそうでもないけど、幻覚がひどい」
「そんなにひどい幻覚を?」
小声で尋ねる後輩に、その騎士はうつろな目で答える。
「……そいつの好きな奴とか、大事な奴を見せる。妻とか、子供とか、恋人とか。よって、なかなか倒せない。魔法防御だけは高いから、魔法はよっぽどきっちり当てないと死なない。その上、近くに行くと、蹴り入れてくるんだが、その蹴りが凶悪。好きな奴に見えるからって斬るのをためらうと、大怪我か死ぬ。ちなみに二角獣は、草食ではなくて雑食だ」
「うわ……嫌すぎる……」
先輩騎士達の異変の理由を理解し、新人は眉を寄せる。
そんな幻覚を見てしまったら、とても戦えるとは思えない。
「相手が相手だ、早駆けで移動し、今日中に済ませたい」
「グラート隊長、質問です! そこまで急がなければいけないのでしょうか? 騎士団で弓の使える騎士に協力を仰げば……」
「私が若い頃には、二角獣の紫が出る場所が、『亡くなった者に会える場所』と言われて、そこに行く者が続出し、犠牲者が増えた。その後に討伐したが、大変恨まれた」
「……了解しました」
たとえ幻でも、亡くなった者に会いたいという気持ちは理解できる。
しかし、それで犠牲者が増えるのはやはり困る。討伐して恨まれるのも避けたい。
「希望者には少しだが手当を出す、人数に満たない場合はコインだ」
「希望します。手当はいらないので、できましたら、二角獣の素材を優先で買い取らせてください」
「いいだろう。一頭分なら回そう」
「ありがとうございます」
最初に手をあげたのはヴォルフだった。
二角獣の紫は魔法防御力が高いという。魔剣や魔導具の素材になるかもしれないと思ったら、即座に申し出ていた。
「自分も希望します。たまには妻に内緒で、いい酒を飲みたいと思います」
「わかった。私のコレクションから現物で支給してやろう」
グラートの台詞に軽く笑いがこぼれたが、やはり希望者は少ない。
結局、希望者はヴォルフを含めて十人だけだった。うち、赤鎧は五人である。
あとは人員をそろえるため、コインで決める。
コインの表が出るか、裏が出るかで部屋の左右に分かれ、数回の振り落としを行う。
「俺の運よ、全力で頼む!」
「心の底から行きたくない……!」
祈りと嘆きが交差した後、さらに二十名が加わっての討伐が確定した。
・・・・・・・
副隊長のグリゼルダと、三十名の隊員、四人の魔導師が馬の早駆けで討伐に向かう。
南街道の水場に着いたのは、昼すぎだった。水場のかなり手前で馬を止め、隊員のみで移動する。
「……幻覚だとわかるがきついですね、これは」
「魔導師の私が、幻覚防止の魔導具を使っても二重写しになるので、かなりですね……右二匹が特に強い個体のようです」
グリゼルダと魔導師の一人がひそひそと話し合う。
魔導師が魔導具を使って見た二角獣は、黒みの入った濃い紫で、一角獣とよく似ていた。しかし、それよりも一回りばかり大きく、目が少し細く鋭い。
一角獣と決定的に違うのが、黒曜石のような二本の角である。
「二角獣へは、遠距離魔法での攻撃は難しいですか?」
「はい。二角獣は魔法防御が高いので、一撃で仕留めないと逃げられます。四匹ですので、風魔法や氷魔法で逃げられぬよう時間を稼ぐ方がいいかと」
「それなら、動きの鈍ったところを叩きましょう。ただ、これは……なかなかに難しいかもしれません。私も二人とも斬りづらいです……」
グリゼルダは二角獣に視線を向けたまま、珍しく上ずった声を出した。
「副隊長、その……失礼ですが、お二人というのは?」
「妻が愛娘を抱いている姿が見えます」
「それは、きついですな……」
妻と愛娘に見える二角獣、それを迷いなく斬れる者がはたしているだろうか。
「そちらはどうです?」
「妻に見えます。魔法もなかなか気合いがいりますな。そちらはどうです?」
「私は婚約者に見えます。いたって正常な幻覚で……って、無理でしょう、これを射るのは」
ひそやかにかわされる声は、どこも苦悩に満ちていた。
近距離まで防音できる魔導具を使っていても、悩める雰囲気だけはお互いにしっかり伝わる。
「……どうしよう、いつも会うメイドさんに見える」
「待て、それについては後で詳しく聞かせろ。で、俺は、宵闇の館の一番人気、ファビオラちゃんに見えるわけだが」
「お前、遊びで貢いでいるわけではなくて、本気だったのか?」
「今、汗だらだらかきはじめてる……」
一部、自覚のない心をえぐられた者達が、痛みを込めて話をしている。
「で、ランドルフは?」
「……これほど嫌な幻覚もないな」
ランドルフは珍しくひきつった笑みを浮かべ、ただ二角獣を見つめていた。
「赤鎧で誰か、先駆けに行けますか? 無理はしなくていいです」
「……自分が行きます」
副隊長のグリゼルダの問いかけに、ヴォルフがすっと前に出た。
うつむいた顔に黒い前髪がかかり、その表情が読み取れない。
「流石、ヴォルフレードだな」
「そういや、前回も二角獣は二角獣にしか見えないって、言いきってましたね」
「ある意味でかわいそうだな……想い人が一人もいないというのは」
「それはそうだな……」
少し離れた場所、一部の騎士達が、同情のこもったまなざしをヴォルフに向けている。
向けられた青年は、グリゼルダの了承を受けて、先駆けの準備に入った。
「副隊長、自分も今回は先駆けを希望します」
ヴォルフとすれ違うように前に出たのは、青灰の髪の騎士だった。
だが、彼は赤鎧ではなく、通常の隊員だ。
「助かりますが、問題はありませんか?」
「はい。むしろ、これは行かなければ負けた気がするので。行かせてください」
「……わかりました。ヴォルフレードと共に先駆けをお願いします」
一拍遅れたが、グリゼルダは許可を出した。
ヴォルフはいつもの剣と共に、同じサイズの剣を手にする。
両方の鞘を地面におくと、腕を軽く振って、感触を確かめた。
「ヴォルフ、二つ持ってくのか?」
「ああ、できるだけ短時間で終わらせたい」
「お前……平気か?」
ヴォルフは軽くうなずくだけで、視線をあげなかった。
「とりあえず右二匹。すごく気分が悪いから行かせてくれ。ドリノ、背中を任せても?」
「しゃあねえ、二秒遅れて行く。いざとなったら目つむってでも斬るから心配すんな。ランドルフ、どっちかが蹴られたら、盾でガードを頼むな。身体強化があるから、一回ぐらいならもつだろ」
「任せろ」
武器と防具を確認した後、魔導師やもう一人の先輩と位置確認をした。
討ちもらした場合は、他の隊員が続く予定ではあるのだが、幻覚がなんとも悩みの種だ。
左に先輩騎士、右に自分、背後にはドリノを含めた数人の騎士。
足場を双眼鏡で確認すると、グリゼルダが手を下ろすのと同時に走り出す。
ヴォルフは身体強化を全開にし、天狼の腕輪を使い、加速した。
紫の二角獣に会ったのは二度目だ。
前回、二角獣は二角獣にしか見えなかった。皆の戸惑いが理解できなかった。
今回は自分も見えた、理解もできた。
そして、心底、腹立たしくなった。
今、目の前に見えるのは、赤い髪、緑の目の女。
自分に微笑むダリヤに見えるが、絶対に違う。
赤い髪はもっとやわらかで、目はくすみのない翠玉だ。
「……ふざけるな……!」
ヴォルフの喉からこぼれたそれは、思いがけぬほど低く、しわがれていた。
そもそも、彼女は、こんな獣の臭いをさせてはいない。
そう思って目を見開いた瞬間、紫の二角獣は二角獣にしか見えなくなった。
クロスされながら落とされる剣先に、向かってきた二角獣の首が、斜めに落ちる。
逃げようとするもう一匹へ、樹木を蹴って空中で追いつき、後ろから首を落とす。それでも止まらなかったもう一本の刃は、その胴までも二つに裂いた。
身につけた赤い鎧は、返り血でさらに赤く染まった。
もう一方では、大剣を持つ騎士が、ヴォルフとは反対側にいる二角獣に向かっていった。
「未練がましい!」
叫んだ声と共に、ごうと風が動く。おそらくは動きを止めようとした魔導師達の魔法だろう。
一瞬動けなくなった二角獣は、騎士を前足で迎撃しようとする。しかし、力はまるで足らず、前足と共に胴体までを叩き斬られた。
横から逃げようとした一頭も、横殴りの大剣に飛ばされ、派手な血飛沫をあげる。
大剣の先が下ろされたとき、二頭の二角獣は完全に動かなくなっていた。
「全員、周囲を探せ! 他にもいるかもしれん!」
命令の声に、続く騎士達が一斉に走り出した。
・・・・・・・
二角獣が他にいないことを確認し、後処理をはじめる。隊員達はようやく緊張をときはじめていた。
「……ヴォルフレード殿、怒ってましたね。誰か見えたんでしょうか?」
「公爵家のご夫人だろ。崇拝してる夫人が、こんな森で扇情的な姿だったら流石にキレるだろ」
「あー、とうとうあいつも本気になったか。でもなぁ、相手が悪すぎるな……」
「かわいそうだが仕方あるまい。いくらヴォルフレードといえど、あのご夫人が本気になってくれるわけはないからな」
噂の先は公爵家の未亡人、アルテア・ガストーニである。
女達からは権力と財力でヴォルフをはべらせていると言われ、男達からは権力と美貌にヴォルフがかしずいていると言われる。
立場上は王の妻の義姉、早くに亡くなった夫、側にいる美しいツバメ――噂には、ことかかない女性だ。
「自覚するというのは残酷なものだな……」
誰が見えたのか、言わない者も少なくない。深いため息をこぼす者もあった。
「で、お前は、城のメイドさんの名前を調べるところからスタートか?」
「あんなにかわいいんだから、きっと恋人がいるよ……」
「簡単にあきらめるな、確認してから決めればいい。男は当たって砕けてこい」
「砕けたくないよ……そういうドリノは?」
人の恋路を応援していた男は、遠い目をし、はかなく笑った。
「……貴族にも大人気なファビオラちゃんが、何をどうまちがえたら、俺に本気になってくれると? 帰ったら自棄酒に決まってるじゃないですか、やっだー」
「笑いをとろうとしてもむなしいぞ、ドリノ」
「うっさいわ、ランドルフ、お前こそ誰だったんだよ?」
「……黙秘する」
「いいや、聞いたからには吐け!」
恋路の話が盛り上がるのに、酒は必要ないらしい。
しらふでありながら、すでに酒の席かと思えるほどのにぎわいが始まっているグループもある。
にぎやかになり始めた背後を振り返らず、ヴォルフは鎧を外した。
水の魔石を片手に、頭から思いきり水を浴びる。
全身が血だらけで、なんとも生臭い。再度、髪を洗っていると、隣に青灰の髪の騎士が並んだ。
「怪我はないか、ヴォルフ?」
「はい。アストルガ先輩は、お怪我は?」
「大剣が一部欠けたな。力が入りすぎた」
笑った男は、同じように水の魔石で髪と顔を洗う。こぼれる滴が涙のようにも見え、少しばかり気になった。
「アストルガ先輩、見事な剣でしたが……誰に見えたのかを、伺ってもよろしいでしょうか?」
「お前にしては珍しいな……一昨年、離縁した妻だ。遠征が多くて、いないも同然だと言われてな」
今まであまり話すことのなかった男は、あっさりと答えてくれた。
ヴォルフはその場で頭を深く下げる。
「すみません、失礼なことをお伺いしました」
「いや、たいしたことではない。斬れたということはふっきれているのだろう。そのうち、勧められている見合いでもしてみるさ。ああ、ヴォルフレードはどうだったんだ?」
目の前の男に言うべきか、少し迷い、ようやく言葉を吐き出した。
「……友人が見えました。二角獣も、自分も吐き気がします」
「相手が誰であれ、思いつめるなよ。別に見えるのは好きな奴だけじゃないからな。大事に思ってる者に見えることもある。私は、妻の前は、幼い頃に死んだ弟が見えてな。かなり腹を立てた覚えがあるよ」
「弟さんですか……」
「他にも、亡くなった妻に見えたとか、子供に見えたって言ってた者もあった。案外、『守りたい者』『守りたかった者』を見せるのかもしれないぞ」
『守りたい者』を見せる――そう言われれば、すとんと納得できた。
そして、『守りたかった者』という言葉に、母を思い出した。
守りたい者を守れぬのも、弱さを後悔して泣くのも、二度とごめんだ。
「お互い、魔物につけこまれないぐらいには、強くなりたいものだな」
「ええ、そうありたいと思います」
ヴォルフはそう答えて、ようやく、いつものように笑えた。
今回の豪雨による被害にあわれた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
一日も早い復旧を祈ります。