Episode 7 椛と陽
陽はすっかり和室部の表現のしづらい魅力に心を奪われ、誰よりも早く教室棟から離れた部室棟に走るようになっていた。その姿はたびたび教科棟の端で昇降口から裏手の部室棟へ続く通路に囲まれるような位置にある四教室(教科棟は四階建て)から見ることができる。もっとも、HR直後にはそこに誰もいないので学校内の話題になることはないのだが。
部室棟の鍵はHR開始時に事務員が開けてくれるのだが、時折電話応対などで遅れることがあり、陽は何度か彼に会っている。
「おお、悪いね。今日も電話が来ちゃって」
「いえ、俺が早すぎるんです。急かしちゃってすみません」
「部活に熱心なんだね。いいことだよ」
鍵が開くと陽は事務員に頭を下げ、部室に入った。部室には鍵がついているが、古風なもので、内側からしかかけられないようになっている。2080年代の現在でもそれが残っているのは、この建物が建てられた40年ほど前に社会的な『懐古ブーム』が起きたからだろう。江戸から昭和初期にかけての日本家屋に趣を見出し、景観を損なうことなく現代技術―災害への備え―と融合させた建造物は、ここ以外にもいくつか残っている。いずれも老朽化が著しいが、『古き良き日本家屋』を重んじる精神は、一部の若者に受け継がれている。この部室棟を活動場所と定めている部員たちは、きっとそうであろう。
いつものように陽がライトノベルを読んでいると、廊下から鼻歌と足音が聞こえてきた。陽は別の部の部員だと思っていたが、音の主は和室部のドアを開いた。
「先客だ」
「神宮寺先輩!?」
「早いね、御手洗君」
「えらくご機嫌ですけど...何かいいことあったんですか?」
陽の知る限り椛は普段物静かで口は喋るためよりもポテチを食べるためにあるようなものだが、今日はいきなり様子が違う。鞄を下ろして陽の対面に座ると、いつものようにポテチの袋を取り出した。
「じゃーん」
陽は目をこすった。寡黙な彼女が可愛らしい仕草をしている。可愛らしいのが彼女らしくないというわけではないが、今の彼女はまるで別人だ。風のうわさで姉がいると聞いたので、もしかしたら姉がサプライズで椛に扮しているのかもしれない。
「新しい味~!」
陽は『かわいい』と言いそうになり、開きかけた口を慌てて閉じた。陽は二人きりのお約束に則り、積極的に会話をすることにした。話しかけづらい印象のある椛だが、今日だけは楽しく会話ができそうだ。
「これ何味...マヨハニー味?」
「今日発売なんだ~」
椛は電車通学をしていて、学校の最寄り駅の駅前のコンビニに寄って買ったらしい。昼休みには別の味を友人が持ってきてくれたので、これを放課後にとっておいたのだ。
「甘いものも好きなんですね」
「甘いのと辛いのと酸っぱいのは好きだよ」
袋をパーティ開けしたということは、陽も食べてよいということである。陽はお礼になりそうなものを探し、制服のポケットに入っていたグミを出した。
「昼休みのポーカー勝負に勝った賞品で貰ったんですが、よかったらどうぞ」
「おっ、好きだよ」
「えっ...」
「グミがね」
「ああ、そうですよね...」
やはり椛がおかしい。この人は年上という立場を利用して後輩を弄ぶことはしないはずだが、思わせぶりな騙しを陽に仕掛け、見事に彼の勘違いを誘発した。
「いつも私ばかりがお菓子を持ってきてるから、みんなにも持ってきてほしいね。そうしたらいろんなお菓子を楽しめる」
「そういえばいつも椛先輩ですね...当番制にすればいいのでは?」
「それを前に提案したんだけど...『金がない』と断られてしまった」
女子高生はいろんなことに興味を持ち、あらゆるものを試すことを好むので、以前よりお金を使うのだろう。菓子を買うことを習慣としていなければ、損としか思えないのかもしれない。
「部長、はっきりしてますもんね。あ、じゃあ今度俺が持ってきますよ。好みあります?」
「後輩に持ってきてもらうのはさすがに...」
「でもいつも椛先輩だと負担が大きいじゃないですか。たまにはいいんじゃないですか?後輩とか考えずに」
「そう?ありがたいね。食に積極的な人は好きだよ」
「!」
先ほどの勘違いを再発させるような発言をした椛だが、それはからかいではないようだ。今までの彼女を見て、陽は仮説を立てた。
《椛先輩は食のことになると元気になる...というより、人が変わる。まるで第二人格が出たようなものだ》
二人の間の溝が少し縮まった気がしたのは、陽だけではないだろう。