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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

三十と一夜の短篇/卅と一夜の短篇

月の子

作者: 暁 乱々

地球とは別の世界で

1.月の子


 早春の黄昏時、もう使われていない鉄橋の下で僕はなぎさの手をとった。

 辺りには誰もいない。目の前の川は大量の排水により大きなドブと化している。こんな臭い場所に近づく人などいない。ここは僕らだけの秘密の場所だ。

 日に焼けた僕と違って、渚はスレンダーで顔から服まで白く可憐だ。ドブとは無縁の存在に思える。でもこの汚れた場所で会うことを提案したのは僕ではなく、渚だった。その理由は僕だけが知っている。


 水平線から月が顔を出す。

 地上に等しく蛍色の輝きが降り注ぐ。渚の体も月の色に染めながら。


「ねぇはく。ほんとにこんな私と付き合ってくれるの?」

「うん。渚は渚だもん。たとえ月に染まっても」

「私、十五になったら月に帰らなきゃならないんだよ。それでもいいの?」

「それでも僕は構わない」


 渚には地上での短い時間を大切にしてほしい、僕はそう願っていた。渚との時間を大切にしたかった。僕に残された時間も長くはないから。


「さぁ、踊ろう。僕と一緒に」


 蛍色に淡く輝く渚とともにドブの上に立った。排水に汚されることなく水面に立っている。水深は僕らの背丈の何倍もあるはずだけど、決して沈むことはない。手と手をつなぎ、水を蹴った。

 水上に立てるのは、すべて渚のおかげだ。僕にはそんな能力など一切ない。

 渚は蛍色に輝きながら頬を赤らめる。その恥ずかしげな顔を見て、僕は笑う。すると渚も笑い返してくれた。

 川の真ん中で踊る僕らには誰も触れられない。二人だけの世界がここにあると信じたかった。


 だけど小さな世界なんてものは幻想だ。

 今、渚の頭の向こうに蛍色の光が走った。轟音ごうおんを放ち天を昇る光は、はるか彼方の星まで行ける船。月の鉱石を燃やし、光の速度で宇宙を駆けるという。いつか渚を連れ去るその船は、きらきら輝く月の残渣(ざんさ)を地上に降らせ宇宙へと消えていく。船の乗り手は僕らの思いなど考えてもいないだろう。

 だから考えないでおこう。残りわずかな地上での時間を大切にするために。


 僕と一緒に渚は踊る。

 汚れた水に浮かぶ彼女は水精。月の残渣に冒された、月の子。



2.月の残渣


 翌日、いつものように学校へ行き、いつものようにモニターに向かった。コンピューターから出ているケーブルを頭につなぐ。

 ケーブルを伝って流されるデータを機械のように脳へ焼き付けていく。昔のように授業を受けて勉強して、実習を受けるなんてことはしない。ケーブルにつなぐだけで実際の経験と同等の電気信号が入力されるのだから。

 データ受信しながら左前の席を見ていた。そこは渚が座るべき席だ。だけど今日も空いている。

 ケーブルからは月に関する話が流れてくる。


  ***


 月は我々の生活を大きく変えた。鉱石に含まれる超合金と高密度のエネルギー体により、我々は他の惑星を結ぶ宇宙船を手に入れた。限りなく光速で飛ぶ船は百年程度の寿命しかない我々にも宇宙旅行の夢を叶えてくれた。惑星間の交流は深まり、より進歩した技術を手に入れられた。

 夢のような物質をもたらした月の鉱石は、抽出と燃焼の過程で大量の残渣を生む。だが月の鉱石の光に目が眩んだ我々は残渣がもたらす結果を考えもしなかった。


 月の残渣は我々の体に蓄積し、変化を与えた。月の残渣の影響を受けた月の子は脳が変化し、不思議な力に目覚め同時に儚い存在となった。その能力はある惑星を破滅させた。しかし、玻璃(はり)のごとく透き通った目は現世うつしよに耐えられない。

 月の子の存在は不幸しかもたらさない。だから我々は月の子が生まれることを防がなければならない。しかし、我々は月の子を生んだ文明を捨てることはできない。ゆえに我々は月の子を……。


  ***


 僕はケーブルを引き抜いて投げ捨てた。この結論はもう想像がついている。これ以上話を聞くことに耐えられなかった。

 監視ロボットが僕を見ている。きっとネットワーク上の帳簿に欠課の文字を刻んでいるに違いない。そんなことどうでもいい。進路を塞ぐ監視ロボットを突き飛ばし、廊下を駆け抜けた。そして純白の廊下の一番奥にある一番きれいな引き戸を開けた。


 僕の想像通り、保健室の中は白いボディーにピンクのハートマークがついたロボットでごった返していた。その中心にあえぐ一人の少女の姿が見えた。筋肉はつっぱり、顔は真っ赤で口から泡を吹いている。あまりにも無惨で目をそむけたかった。でも渚から目をそらすことなどできなかった。

 渚の腕には点滴がつながれている。バッグから液が滴る中、別のロボットが注射器で何かを加え続ける。脇のテーブルに並べられた薬瓶は二十本を超えていた。今もまた一本、空の瓶が置かれた。間違いなく過剰投与オーバードーズ


「渚を殺す気か?」

 僕の声にロボットは振り返る。

「殺す気はありません。これは治療です。月の残渣を排出するクリーニング剤を投与しているのです」

 クリーニング剤は僕も経験した。取り込まれてしまった月の残渣を排出させるための薬。決して効果がないわけでない。クリーニング剤のおかげで多くの人が普通の人間に戻ることができた。僕も同じ。

 だけどこの量はありえない。


「何人分打つ気なんだ? こんな量打ったら死んでしまう」

「この子には四十人分の薬剤を投与します。安心して下さい。推定される死亡率はわずか7.2%です」

「どこがわずかだ。この殺人ロボット」

 ロボットはそろって僕を見ていた。奴らの顔は仮面だ。感情など一切宿っていない。だけど注射器で薬を足すことだけは止めない。この行為が月の子に向けられた思いを物語っている。


『ゆえに我々は月の子を排除しなければならない』


「私は殺人などしておりません。この子の生存確率を上げているのです」

「ふざけたことを言うな!」

「いいえ、ふざけてなどいません。もうあなたも知っている通り、この子は99.95%月へと送られます。その場合、死亡率は98.1%に跳ね上がります。今、この治療を行うと2.9%の確率で残渣の排出が完了します。排出が済めばこの子は十五歳以降も地上で生活することが許されます。そうすれば75.6%の確率で百歳以上生きられます。結果、生存率は1.9%から3.7%に改善するのです。どちらがこの子のためになるのか、もうわかるでしょう? あなたの発言は統計学に反し、非論理的な思考に基づいた殺人誘発行為。犯罪に値するものです」


 ロボットの言葉に手を出すことはできなかった。

 四十本のクリーニング剤を打ち終わると、ロボットは渚から離れた。取り残された渚は天井を見たまま何の反応も示さなかった。

「行きなさい、あなたはもう月の子ではない。この子とは関係ないでしょう」

「関係ないわけないだろ!」

 彼らには感情というものが一切ないんだ。だから平気でそんなことが言えるんだ。渚のことを考えていると言いながら、渚のことをまったく考えていないんだ。

 僕は彼女の言葉に抗い保健室の中に残った。渚の意識が戻るまで、ずっとそばにいた。



3.月の妖精


 渚の意識が戻ったのは空が赤く染まったころだった。渚はけいれんで痛む体をさすりながら保健室を出た。不安定な足取りの渚を僕はずっと支え続けた。

「渚、どうして保健室なんかにいたんだ? 無理して登校しても意味ないのに」

「もう私、監視されているの。逃すことなく、着実に月へと送るために。だから引きこもっていても強引に学校に連れ出されて、機械と接続させられる。月の子は機械と通信できないからすぐにばれる。それでまた保健室に詰め込まれたの」

「そうか」


 街では人々が何事もない様子で歩いている。無事十五歳を終えた高校生が笑いながら僕らの横を通り過ぎる。

 渚はとっさに僕の背中に隠れた。制服をギュッとつかみ、顔をくっつけてくる。

 高校生たちの声が笑いに混じり聞こえてくる。

「うわ~。あの子、月の子だぜ」

「人の顔、まともに見れないらしいぜ。邪念がなんとかといって」

「それってよっぽど重症だよな」

「あぁ、たぶん月に飛ばされる、きっと」

「月の子なんだから、月で暮らした方がいいんだよ。ここはあいつらの場所じゃない」

「月の子は伝染(うつ)るって言うしな」

 高校生は僕らを指差しながら去っていった。


「渚、大丈夫か」

「うん。もう慣れっこだから」

 そう言いながらも渚は僕の背中から離れることはなかった。致死率7.2%を懸けた治療は失敗だった。


「ねぇ珀は平気なの?」

「なにが?」

「あの人たちの目、ひどく澱んでた。見てて怖くないの?」

「全然大丈夫。僕は玻璃の眼を捨てたんだ。月の残渣と一緒にね」

「ほんとにそうなの?」

「なんで疑うの?」

「珀は知っているでしょ。月の子じゃない人間は心の色が着くことを」

「もちろん。僕も昔は月の子だったから」

「でもね、珀のことはずっとわからない。珀は昔っから珀のまんまで見えているの」

「それって、僕がまだ月の子だっていうこと?」

「そうじゃなきゃいいんだけど……」


 僕らは昨日と同じ鉄橋の下に行った。ドブの臭いが漂っている。

 渚はようやく僕の背中から離れ、ドブ川の水の上に乗った。僕も渚についていく、だけど渚は川に踏み入れようとする足を押さえた。

「私、もう珀とは踊れない」

「どうして?」

「さっきの高校生が言ってたでしょ。月の子は伝染るって」

「あんなの迷信だよ。もし本当なら僕はとっくに月の子になっている。だけど今日の学校でも機械とちゃんと通信できた」

「でも私、珀のことがわからないの。珀の体にはきっと月の残渣が残ってる」

「そんなことないって」

 渚は大きく首を横に振った。

「私と一緒に川の上を歩くたびに珀は月の力に触れる。私の力は月の残渣によってもたらされたもの、それを珀に貸すことで珀の体は月の残渣に汚染されたのと同じになる」

「その根拠はあるの?」

「ううん。科学的に証明されているわけじゃない。でも噂はいっぱい流れてる」


 渚は空を見た。釣られて見上げると、蛍色の光を放つ宇宙船がまた宇宙(そら)へと消えていく。

「月の鉱石を採掘してた別の星ではね、月の残渣のせいでたくさんの月の妖精を生んだの。その子たちは人間とはほど遠い存在で、水面を駆け、風に舞い、火と戯れている」

 渚はそう言いながら川の中央へと離れていく。その足元は汚水に染まることなく浮かんでいる。渚はもはや妖精だった。

「その星ではね、妖精の力に触れると、自分も妖精に変えられてしまうっていうの」

「この星でも同じっていいたいわけ?」

「そう信じる人はいっぱいいる。でもね……」

「でも?」

「ほんとは信じたくないの、自分のせいで珀を汚染しているなんて。私、ずっと大丈夫だと思ってた。残渣のクリーニングが終わって、定期検査でも検出なしで、機械との通信も正常だって聞いてたから。でもさっきの言葉を聞いて噂のことを思ったら、こわくてたまらなくなった。珀の心が見えないのは珀が例外なんじゃなくて、川で踊るうちに私が月の子に変えてしまったんじゃないかって」

 空から月が顔を出し、渚の体は呼応して輝き始める。川の水に月の輝きが一粒、二粒落ちていく。汚水に染まることなく光は水に浮かんでいる。

「私、どうしよう? 珀も月送りになったら……」

「そうなったら諦めるしかないな」

「え?」

 渚の顔が絶望に落ちた。


「渚、違う! 諦めるのは渚じゃない。僕が・・諦めるんだ!」

 僕は大きなドブ川の中に飛び込んだ。

 水しぶきとともに汚水に染まった。臭い水が鼻をつく。凍えるような冷たさとぬるぬるした感触をこらえながら、渚のもとへと泳いでいく。

「渚は僕が月の子だったとき保健室でいっぱい話してくれた。僕は心の見えない渚に安心していた。心の見えないところが好きだった」

「私もそうだった。珀の心が見えない。最初は怖かったけど一番落ち着いて話ができた」

「他の子が保健室を卒業して、僕ら二人になってからは毎日このドブ川で遊んだ。そして今の渚のように水面を踊った。僕が月の子を卒業してからも、ずっとずっと」

 きっと渚は、他の子と違っていつまでも心の見えない僕が好きだったんだ。いや、今となっては僕と一緒じゃなきゃ生きていけないという方が近いと思う。


『玻璃のごとく透き通った眼は現世に耐えられない』

 僕も元は月の子、誰よりもそのことをわかっていた。渚は僕を支えてくれた。だから僕は渚を支え続けた。だから……。

「僕は月の子だ。月に行く準備はとっくにできている。今まで渚と一緒に生きてきた。もし渚と一緒に連れられるなら、僕は月にだって行っていい」

 僕は渚の足元にたどり着いた。蛍色の光が身を包む。

「さぁ、今日も一緒に水面を踊ろう。これは僕の意思なんだ。たとえ月に染まっても渚のせいじゃない」


 渚の手は僕をつかんだ。体は一気に浮かび上がり、水面に乗った。汚水に染まっていたはずの制服は乾き、泥の跡は一つも残っていなかった。


 渚の手を握ると、頭越しにまた宇宙船が飛び立った。

 月の残渣が地上へと降り注ぐ。十五で飛び去る月の子が何人生まれようとも資源採掘と宇宙の旅はやめられない。

 月の子は残渣、カスから生まれた存在。だから宇宙船より軽いんだ。


 もう考えるのはよそう。

 僕らは世界を忘れ、月夜に輝き水を蹴る。

 この不思議な遊びができるのは明日で最後だ。



4.バースデーケーキ


 渚の誕生日が明日に迫った。

 渚にとっては残りわずかな地上での時間。だけどその時間はまたも拷問のような治療に費やされようとした。

 僕は注射器を持つロボットに飛びかかり、注射器をその手から外そうと手を伸ばす。だがロボットは渚に向けるべき針を僕の方に向け、腕に刺した。なんの配慮も突き刺さった針は痛く、言葉にならない声で叫んだ。

 実際に薬剤を入れることなく針は抜かれ、注射器はゴミ箱の中に捨てられた。だけど怯んだ僕はすぐにロボットに取り押さえられた。保健室の外に運ばれ、引き戸は音を立てて閉まった。カチャリという音も聞こえた。

 

 このままロボットの監視のもと、月へと運ばれるのだろうか。僕はそんなことを考えながら、学校を出てある店に入った。

 ショーウインドウに並ぶケーキの数々。どれも甘く柔らかで溶けてしまいそうだった。

 白く柔らかなクリームが乗ったケーキを買った。みずみずしい果実が乗ったそれは、渚の最後の日にはふさわしくないかもしれない。十五歳の誕生日は祝うべきものではないんだ。だけど十五本のろうそくをつけてもらった。

 大量の保冷剤でケーキを包み、僕はまた保健室へと向かった。


 保健室の鍵は開いていた。引き戸を開けると渚はひとりベッドの上にいた。額には汗が流れ呼吸は荒々しい。

 僕は渚を背負おうとした。すると例のハートマークを着けたロボットが飛んできた。

「この子には安静が必要です。今日一日寝ていてもらわなければなりません」

「ダメだ。渚には時間がない」

「しかし、その子を今動かすのは危険です」

「危険にしたのはお前らだ。なんで渚を苦しめる? 倒れたまま月へ連れ去りたいんだ」

「いいえ、違います」

「それならなんで動けないほど薬を打つ? 渚は明日十五歳になる。今日が最後の日なんだ」

「私たちは最後の日にならないように治療をしているのです。すべてはこの子のためなんです」

「じゃあ治療の成功確率はどれくらいある? 50%超えているのか?」

「いえ……4.2%です」


 ロボットはうつむきながら後ずさりした。僕と渚を隔てていた壁が消えていく。

「本来なら一日安静の予定でした。ですが、やめましょう。明日月へ行くというデータは私も確かに受け取っております」

「今から出ていいのか?」

「それはダメです。しかし、立てるようになったら外出して構いません。私どもはもう止めません」

 ロボットは部屋の奥にある事務室の扉を開けた。

「どうか、最後の時間を一緒に過ごしてあげてください」

 いつも通りの機械的な淡々とした口調、普段は腹が立つほど形式的だけど今日は少しばかり許すことができた。


 渚のそばで、動けるようになるまで待った。

 日は落ち、窓の向こうで月が顔を出した。


 ベッドの上で渚は月の光をまとう。その強さは照明の光には及ばないけど、毛布が照らされてほんのり蛍色を帯びている。残渣の力のおかげか渚はようやく目を覚ました。

 手を差し出すと、渚はその手をギュッと握り返してくれた。

「渚、行こうか」

 まだふらつく渚を背に抱え、引き戸に向かって歩いた。引き戸には保健室のロボットが立っている。

「もう行くのですか」

「僕らには時間がないんだ」

「でも光り輝く体で街をいくのはよくないです。もう少し回復してからのほうが」

「お前らのせいだぞ。明日月へ行かないためとか言って大量の薬を打って、渚の体をボロボロにして、おまけに失敗してるじゃないか。誰がお前の言うことを聞くんだ」

「そうですか。なら行きなさい」


 引き戸はロボットの手によって開かれた。僕らはゆっくりと保健室の扉をくぐる。そのとき目の前にピンクのハートマークをつけたロボットが飛び出してきた。

「邪魔をする気か」

「先程言いました通り、私どもはもう君たちを止めることは致しません。忘れ物です、あなたの大事な」

 ロボットは包みを差し出した。それは僕が買ってきたケーキだった。

 僕は受け取ると、渚を支えながら学校を出た。


 街の中を歩いていると、道行く人が怪奇の眼差しで僕を見ていた。

「あいつ月の子だぜ」

「あんだけ輝いている子、初めて見た」

「近づいちゃダメよ、なにされるかわからない」

「あれだけ強けりゃ、この世で生きられないぞ」


 渚はまた僕の背中に顔をくっつけている。両腕は僕の胸を強く強く締め上げる。

 今日の渚の輝きはひときわ強く、街灯の明かりで打ち消すことなど到底できない。この輝きさえなければ少しは陰に隠れることもできるだろう。でも蛍色の光は月に帰ることを望んでいるがごとく時間が経つごとに強くなる。月への宇宙船が見つけやすいように。


 渚の足取りは少しずつ安定してきた。だけど顔は僕の背中から離れてくれない。

 渚はずっと地上にいてほしい。これからも川の上で一緒に時を過ごしたい。だけど渚はこの世では生きられない。玻璃のごとく透明な目で向き合える人間は家族を除けば僕しかいないんだ。


 頭の中で声が聞こえる。

『渚は月の子。月に帰るべき存在』

 嘘だ。絶対嘘だ。

 渚は月に行かせない。できるのなら僕が守ってあげる。もし無理ならこの身を差し出しても構わない。


 僕らはいつもの鉄橋下に着いた。

 川から離れた場所で渚と二人横に並び、あの包みを広げる。

「珀、それケーキ?」

「そうだよ、バースデーケーキ。形がおかしいけど」

 あれだけ保冷剤で固めていたのにケーキは溶けて崩れていた。きっと長距離歩いたのも災いしたんだろう。

 僕はケーキの上にろうそくを並べ、ライターで火をつける。十五個の火は渚の体より明るかった。

「ろうそく並べてくれたけど。ハッピーバースデーじゃないよね」

「うん。アンハッピーバースデー」

「もっとましな言い方ないの?」

「ごめん」


 それでも渚は微笑んでいた。とてもじゃないけど祝えない十五歳の誕生日には違いないのに。

 普通の十五歳が手にするバースデーケーキを渚は見ることすら叶わない。それなら一日早めてみればいい、ケーキを早く食べても月へ行く時間は変わらないのだから。僕はそれだけを願っていた。

「じゃあ渚、火を消して」

 普通なら息を吹きかけて消すだろう。

 でも渚の場合は違った。ろうそくの先端の火に指を触れる。それだけで火は水の蒸発する音を立てて消えた。渚は一個ずつ火に触れ、すべてのろうそくの火を消した。渚の月光のおかげで火が消えた後も手元はまだ明るかった。


 僕らはプラスチックのスプーンで崩れたケーキを頬張った。渚は白いクリームで口の周りを汚しながら赤い果実を口にした。僕も同じようにケーキを口に含んだ。

 ひどく甘酸っぱい。だけど思った以上に空虚だった。

 ケーキの包みを袋に詰め、僕らは川へと向かった。そしていつものように汚れた水面に立った。

 こうしなければ渚と一緒にいる気にはなれなかった。川でのダンスは僕らが僕らであり続けるための儀式なんだ。


 水を蹴り僕らは舞う。互いに手を取り、月とこの惑星ほしのように近づくことも離れることもせず回り続ける。この距離が永遠に続けばいいのにと僕は願う。だけど僕らに残された時間はごくわずかしかない。目の前の渚は月のせいで連れ去られてしまう。僕らを水に浮かべてくれる月のせいで。

 月は確かに僕らを狂わせた。渚に水の力を与え、同時に心を透かす目を与えた。前者は夜の舞いをもたらし、後者は渚の社会生活を奪った。社会にとっても力は恐怖であり、社会の一員になれないことは負担なのだろう。だけど、それは月へと連れ去る理由になるのだろうか。少なくとも僕にはそう思えなかった。


「ねぇ珀。私、月に行ったらどうなるんだろう? 死ぬのかな」

「僕にはわからない。だけどね、渚に大量の点滴を入れたロボットから聞いたことがある。月にいっても生きることはできるって」

「ほんとに?」

「でもどんな世界なのかわからない。少なくとも僕とは別れることになる」

「そっか。いつか宇宙船に乗って帰ることはできるのかな」

「それは僕にはわからない」

 ロボットが示した本当の数字などとてもじゃないけど言えなかった。98.1%死ぬなんて渚に言えるわけない。100%死ぬわけではないから嘘は言っていないけど、希望を持たせるのは心苦しかった。

 それに一度月に行った月の子が戻ってきた事例など聞いたことがない。きっと渚も事例のないことは知っている。僕を安心させるためにわざととぼけているんだ。きっと。

 でも、渚の本心はわかっている。水面を照らす蛍の雫と僕を強く抱きしめる腕が心の内を語っていた。


「さて、そろそろ準備するか」

「なにを?」

「決まっている。渚を月に行かせないための準備だ」

「そんなの無理だよ」

「一生逃げ続けるのは無理だと思う。でも一日二日延ばすことはできる」

「でもどうやって」

「ここはドブ川だ。パイプはたくさん通ってるし、いろんなところへ逃げられる。それに鉄パイプとかもたくさん捨ててあるから武器も豊富。渚の力があればきっとできる」

「珀、もういいよ。私のために危険な目にあう必要なんてない。ただ日付が変わるまでいてくれたらいいの」

 渚は僕から離れ、岸へと歩を進めた。僕の背中を押しながらゆっくりと。

 もう水面を踊ることは二度とないのだろう。そう思いながら川を見ると僕の制服が目に入った。渚が抱きしめていた場所が月に染まり蛍色に輝いていた。渚の目は今もなお月の残渣を振りまいていた。


 僕が先に岸に上がり、渚に向かって手を伸ばす。

 だけど渚は手を握ってはくれなかった。気づけばまた川の中央へ戻っていた。

「珀、もう私たちお別れだね」

「陸に上がらないのか?」

 渚はうなずいた。

「だって陸に上がったら、珀が巻き添えになっちゃう」

 渚は僕を守ろうとしている。自分一人だけが犠牲になろうとしている。

「心配そうな顔しないでよ。大丈夫、水が私を守ってくれるから」

 水の中では僕にはなにもできない。手を出すこともキスすることすらも。

 そんな僕の思いをよそに渚は黒い汚水の中に消えていった。最後にありったけの笑顔を見せつけて。


「バイバイ、珀」

 水底から聞こえるエコー。時計は0時を示した。



5.月に()つ日


 僕は近くにあった鉄パイプを握り、渚のいる川に向かって素振りする。

 陸や水面に気配はなに一つ感じられない。鉄橋の上を見ても、汚水を垂れ流す配管を見ても何もない。ただ沈黙の時が流れている。

 渚が放つ月光はまったく見えない。僕が気づかない間に連れ去られてしまったんだろうか。もしくは未知のワームホールが用意され月に転送されてしまったのだろうか。月の鉱石のエネルギーがあればワームホールは実現可能というニュースをみたことがある。それが本当なら、もうすべてが終わっているのかもしれない。


 でも待ち続けた。鉄パイプを握りながら渚を狙う集団がくる瞬間を待っていた。

 空にはまた蛍色の光が打ち上がる。新たな犠牲を生む月の残渣を振りまきながら、今も星へと船が飛び立ってゆく。渚はまだ地上にいるのだろうか。いるのならどうかもう一度顔を見せてほしい。

 僕がそう願ったとき、川から大量の水しぶきが上がった。


 異臭のする汚水が雨となり降り注ぐ。空には大きな影がかぶさり、月光はもう見えない。

 その代わりに影からサーチライトが照らされた。影は自らの光により姿を表す。それは月の残渣を撒き散らし、星までゆくあの宇宙船。いつの間に川底に隠れていたんだろう?

 その疑問を追う思考は翼を羽ばたかせ飛び立つロボットに遮られた。

 大きな羽虫のごときロボットたちは百はいる。夜間にあってはならない騒音を響かせながら川に向かって銃を撃つ。その銃口の延長線は一つの場所に収束する。

 川底にある一つの水塊(すいかい)、透明な水の球の中心に渚が浮かんでいた。

 

 これが月の子に対する地上の人の思い。月の子は月の残渣から生まれた。だから月の子の命はカスのように軽いんだ。


 羽虫の放つ弾は水に阻まれて水塊の中をゆっくりと落ちていく。渚の体には傷一つ付いていない。力が続く限り、渚はずっと地上にいられる。だけどその時間は決して長くはない。

 宇宙船から一本のアームが伸びてきた。アームはジャバラになっていて先端は開いている。僕はとっさにアームの関節に鉄パイプを投げ込んだ。ゆがんだパイプは似合わないきれいな放物線を描いて関節部に突き刺さった。でもアームの動きが止まることはない。

 アームの先端は渚のまとう水を突き刺し、音を立てて吸い上げた。一瞬にして水を失った渚。羽虫は銃撃をやめて一斉に襲いかかった。羽虫の群れが鉄橋下を飛び回る。僕から渚を見えなくするように。

 羽虫の渦は徐々に巣に帰っていく。きっとあの中に渚はいるに違いない。だけどどこにいるのか全然わからない。渚がまとっていた月の光は宇宙船のライトには敵わない。


 僕は廃材置き場に行き、ありったけの鉄パイプを手元に置いた。そのパイプを宇宙船のハッチ目がけて投げつける。

 文明の集大成である宇宙船に鉄パイプなど敵いはしない。だけど許せなかったんだ。なんの抵抗もせず、渚が連れ去られるのを見ていられなかったんだ。ただひたすら鉄パイプを投げつけた。まるで狂ったように。


 背中から生えた手によって僕の体は宙に浮いた。羽虫に向かって鉄パイプを突きつける。けれども羽虫はびくともしない、ハッチとの距離が近づいていく。

 その瞬間、渚の顔が見えた。顔だけでなく服まで純白の渚は、(けが)れに染まることなくハッチの上で横たわっている。

 僕が向かう先はきっと渚の隣。


『もし渚と一緒に連れられるなら、僕は月にだって行っていい』

 昨日もおとといも同じように願ったんだ。

 羽虫の飛行に身を任せ、ハッチへと降りた。渚の眠る横で光り輝く手を握った。


 宇宙船の奥からロボットがやってきた。

「君も行くか?」

 僕はうなずいた。

「そうか。うなずくまでもなく君は行かなければならない。君は月に()れた月の子。もう治る望みはない。旅立ちが今日か十日後になるかそれだけの違いだ」

 ロボットは月光に染まった僕の制服を指差した。


「月に冒された子は存在が罪。我々は月の子を排除しなければならない」


『月に()れた者を生まないためにも』


 眠っているはずの渚から二筋の月光が流れ落ちた。

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― 新着の感想 ―
[一言] むむむ、感想を書くのがへたっぴいな玉三郎はなんと書けば伝わるか四苦八苦しております∑(゜Д゜) SFの濃い香りをまとった少年少女の青春ファンタジーでしょうか。スケールめっちゃデカいですね。…
[良い点] SF……なのかな。とても広がりのある作品でした。面白かったです。分量を増やせば、もっといろんなことが書き込めて、いろんなことが言えそうですね。 錫さんがおっしゃるように、公募向きの作品だと…
2017/05/09 07:56 退会済み
管理
[一言] とても耽美だという印象を受けました。それでいて優しい言葉選びに努めているように感じました。 容易な文体が個人的に好みです。何より解りやすいです。 そしてスケールがでかい。とても壮大ですね。…
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