黒髪の彼女
久しぶりの投稿です。作品自体はだいぶ前から書いていたのですが、ラストを何度も書き直したり、訂正をしたりでアップするのに随分時間がかかってしまいました。よかったら暇つぶしに読んでいただけたら幸いです。
和隆(一)
「女の子のどの部分が好きか?」
男何人かで話していると、一度は出るであろうこの話題。
その日も毎度の面子である大学の同級生五人と、近くのファミリーレストランで夕食を済ませた後、ドリンクバーで粘りながらたわいのない話をしている最中だった。
同級生たちは、胸が大きい子が好きだの、すらりと長い足が好きだの、瞳が綺麗な子がいいだのと、各々のフェチやこだわりを主張し合い、同意を求め合い、互いの価値観の共通点を確認すると同時に、自らの個性を垣間披露し合っている。
僕はそんな彼らの論議に入り込むでもなく、かといって一人の世界に入っているでもなく、早く帰りたいという本音に仮面をかぶせて、彼らの話に相づちをうっていた。
彼らにそんな帰宅願望を悟られないように、さりげなく時計を見ると午後九時半。璃奈のバイトが十時過ぎには終わる予定だから、頃合いを見計らって帰るつもりでいた。いや、できるなら、もう今すぐにでも帰ってしまいたい。
しかし、誰から言い出したでもないこの「女性の好きな部分論議」は、思いの外盛り上がっているし、ここで話の腰を折ってしまうのも後ろめたく感じられた。
別段重要な話をしているわけではない。この論議が就職に活かされる訳でもないし、ましてや大学の試験に出る訳でもない。
これは、自由に使える時間のやたらと長い大学生活におけるごく一部のたわいない、何をするでもない持て余した時間をただ浪費しているだけなのだ。
そして、その時間の浪費を共に分かち合い、仲間意識を強めていこうというくだらない儀式である。
こんなことにいつまでも付き合っていることはとてつもなく不毛なことのように思える。
しかし、小学校から今に至るまで、学校という他人と関わっていく一つの小社会に身を置くようになって、そのくだらない人付き合いに無理にでも合わせる習慣は僕の身体にすっかりと根付いてしまっていた。
人は他人と関わっていかなければ生きていけない。他人に嫌われないように、愛想を振りまいて、集団という器の中からこぼれ落ちないように本音を隠し、機嫌を伺い、つまらない日々を淡々と過ごしていく。
大学生になっても、一見自由に思えて人間関係というものは、やはり切っても切り離せないものだった。
高校とは勝手の違う世界に来て、不安を抱いた連中は似たような仲間を見つけて徒党を組み、一種の安心感を得る。彼らは集団の中で一緒に科目を選択し、時には一緒に講義をサボったり、代返をお願いし合ったり、試験前に真面目な学生からノートを借りて、試験やレポートをなんとか乗り越えていく。
三年生となり、大学生というのが着古した服のようにすっかり馴染んでしまった今、僕が感じているのは、大学というところは責任が自分に降りかかるというのも結局は建前で、仲間がいれば抜け道はたくさんあり、くだらない人間関係をうまく使えば何のことはなく卒業できてしまう場所なのだということだ。
そして僕は、比較的真面目な学生として大学に入ってもそこまで苦労することなくやってきた。しかし、他人とうまく付き合っていくという習慣は消えていなくて、一人で何も出来ないような連中の中に入っては、何かと面倒をみてやるポジションにいる。
試験前に利用されるというのは腑に落ちないし、こんなくだらない暇つぶしに付き合わされるのも正直面倒くさいとは思う。
それでも、たとえこんな形式だけの友情であっても、それによって大学の中での自分の立ち位置が悪くはなくなるのも確かであるし、何かとメリットもあるので、ここでの小社会でも僕は嫌な顔せず、無難な付き合いを保っている。
「それで、カズはどこが好きなの?」
いつの間にか、腕時計を気にしつつ、会話も上の空になっていた僕に、同級生の木内が話を振ってきた。彼の発言を合図に、たちまち他の三人も僕へ視線を注ぐ。
「そうそう、カズ君は女のどこが好きなのさ。実は結構気になる」
「確かに。カズの付き合う子の共通点イマイチ分かんねえし、どういう視点で女の子選んでるのさ」
「もったいぶらずに、さあさ!言っちゃいなよ!」
同級生たちが期待の眼差しで口々に言う。早瀬和隆という僕の名前の一部をとって、彼らは僕のことをカズとかカズ君などと呼ぶ。これまで付き合ってきたトモダチからも大抵似たようなニックネームで呼ばれてきた。
大学の三年生になって二ヶ月が経とうとしている時点で、僕は既に四人の女の子と交際してきた。二年ちょっとの間にそれだけの子と付き合うのは、僕が別にモテるというわけではないし、逆に付き合っても長くは続かない子ばかりだったということであり、何の自慢のにもなりはしない。
大学は高校なんかよりずっと多くの人がいて、容姿や性格など個性的な人がたくさんいる。
おまけに異性と仲良くなるきっかけもたくさんあるので、気がつけばそれだけの女の子と付き合う羽目になってしまっていた。
大学生で付き合って別れた女の子は、モデル体型の美人、胸が大きいけれど歯が出ていて目の細い子、背が低くぽっちゃりとしてやたら元気な仔犬みたいな子と、どれも確かにタイプは全然違っている。今付き合っている璃奈も彼女らとはまたタイプが違っているので、同級生たちが、僕の恋愛観を不思議に思うのも無理はないかもしれない。
ただし、それらの全然タイプの違う女の子の中には一貫した共通点があった。
僕は同級生の暑苦しい視線を避けるように、マグカップに半分ほど残っていた本日五杯目の不味いコーヒーを一気に飲み干すと、愛想笑いを浮かべつつ言った。
「そうだなあ、しいていえば髪が綺麗な子かな」
僕の一言を聞いた一同は、一瞬期待はずれの回答を聞いたように口をぽかんとしたが、すぐに互いにタイミングを合わせたかのように納得してみせた。
「ああ、言われてみれば、カズの付き合ってた子みんなきれいな髪してたなあ!」
「髪ねえ。俺も女の子のサラサラで風になびく髪とか好きだな」
「俺はショートカットの子とか好き。ショートでちょっと活発な感じの子とか」
「おいそれって真由美ちゃんじゃね?」
「ちっげえよバカ!」
「ムキになって、隠すこたあないじゃん」
連中はげらげらと騒ぎながら、今度は標的がショート好きの宮島へと移っていった。僕も適当に笑いながら、その場の均衡を保つ。
僕が女の子の髪に魅力を感じているのは本心だ。
しかし、僕の髪好きは連中が思っているよりも、ずっとずっと深い。
僕がこれまで付き合ってきた女の子は、みんな綺麗な黒髪をしていたという点で共通している。
僕が女の子を好きになるのは、顔でも体型でも性格でもなく、色を染めず、パーマもあてていない純粋で天然の黒髪という一点で、それ以外は全て二の次になる。
心地よい感触の髪を撫でたり、シャンプーで洗ってあげたり、手や顔で触れて眠りに就いたりすることに至福を感じる。
ただ、女の子は僕の髪への執着に嫌気が差してしまったり、僕が髪の手入れにうるさく言ったり、髪を染めることに猛反対したり、などの理由で付き合ってきた子は今まで三ヶ月も経たずに別れてしまった。
別れる原因はもちろん僕の方にあるのだけれど、女の子はイマイチ何を考えているのか分からない。
僕は僕で交際中は相手のことを好きだったし、とても楽しくて幸せを感じてはいたのだけれど、向こうからしたら「思っていたのとは違う」とか、「一緒にいても楽しくなくなった」とか、「本当に思ってくれているのかが分からない」などと言って僕の前から離れていく。
僕が求めているのはきれいな黒髪の一点だけ。それ以外はいくらわがままでも、性格がどんなに悪くても、高いプレゼントをねだってきても、僕は常に彼女たちのどんな要求にも大抵は応え、受け入れているというのに、女というのはずいぶん勝手だと思ってしまう。
そこは僕がまだまだ相手への配慮が足りていない部分があったのだと思うし、髪にばかり執着してしまっているのが悪いのだと思う。でも髪に対する愛情を捨ててしまうことはとても無理な要求だ。
とにかく人生思い通りにはできないのだけれど、僕は大事な髪を失ってしまわないために、もっと女の子のことを知らなければならないし、傷つけないように、相手も満足出来るように心配りをしていくことが必要なのだ。
特に、今交際をしている璃奈は絶対に手放したくない。
彼女は、僕がこれまで出会った女性の中で、誰よりも魅力的な髪の持ち主だから。
璃奈は今年新しく入ってきた新入生で、彼女が入学試験で訪ねて来た高校生の時にはじめて会った。
入試の間、大学は休講で学生の構内立ち入りは禁止だったのだが、厳禁という訳でもなく、ちょっと掲示板を確認するくらいや学食を利用するくらいで追い出されるということはない。それでも休講のキャンパスに来る学生なんてまずいないのだけれど、僕は大学近くのスーパーで食材の買い物をして、ついでに掲示板を確認し、学食でコーヒーを飲んでいた。
学食内は営業をしていなかったけれど、受験生や付き添いの保護者向けに開放はされていて、昼休みの時間帯にちらほらと様々な制服や私服の受験生が持参した昼食を摂っていた。
受験生に気を使って僕は学食の片隅にいた。
そして僕が座っている席から一つ隔てたテーブルの先で、一人弁当を食べている高校生。それが璃奈だった。
後姿しか見えなかったが、その小柄な後姿だけで、僕が彼女に惹かれるのは充分だった。
肩までの長さに揃えられたまっすぐな黒髪は、彼女が少し動くだけで揺れるほど繊細で、蛍光灯が反射して艶やかに輝いていた。まさしく絹のような美しい黒髪だった。
僕がその髪に見とれていると、視線に気がついたのか、それともたまたまなのか、彼女は振り返った。美しい黒髪と同じ黒い瞳は大きくて、なかなか可愛らしい子だった。
彼女は少し怒ったように僕をじっと見ていた。おとなしそうなのに、その目は強い光を帯びていた。
僕はきまりが悪かったが、とりあえずぎこちなく微笑んだ。すると彼女は驚くように目を一瞬大きくしたが、再び前を向いて弁当を食べ始めた。その際黒髪はまるで生き物のようにゆるやかに動いた。
僕はその時、璃奈の黒髪に一目惚れをしてしまった。
一週間前に当時付き合っていた女の子と別れたばかりで、まだ傷心は癒えていなかったのに、彼女の黒髪は僕のそんな気持ちを全て忘れさせた。
それからというもの、彼女の黒髪のことが頭から離れずその髪に触れることを夢見ていた。
彼女が入学してきた時、僕は本当に嬉しかったし、運命すら感じていた。
サークル勧誘にかこつけて僕は彼女に近づき、受験の際に会ったことも手伝って、僕と彼女が仲良くなるのにはさほど時間を必要とはしなかった。
璃奈の髪は僕の想像以上に心地よい感触で、繊細で柔らかく、撫でるとするりとなめらかで、指の間から湧き水のようにこぼれていく。
璃奈の髪に触れている時、僕は心から安らぎを感じ得ることができ、日々の様々なしがらみから開放される。
彼女のことを大切にしなければいけない。決してこの髪を失いたくないと僕は心から思っている。
璃奈(一)
スズメの鳴き声が聞こえてきて、私は目を覚ました。
薄暗い部屋の中で、窓際には明るい朝の光が差し込んでいる。
疲れが溜まっていてすぐに寝てしまったけど、割と気持ちがいい寝覚めだった。
起き上がろうとしたら、髪が引っかかって、痛みと同時にそのままの勢いでまたベッドに頭が落ちた。
私の横で和隆がすうすうと寝息をたてている。その手には私の髪を絡みつかせてしっかりと握っていた。
痛いじゃないかこのヤロウ!と内心で思いつつ、口を半開きにして間抜けな顔をしている彼を睨みつけた。朝の心地よい目覚めを台無しにしやがって。
肩の位置よりも伸びた髪をうらめしく思う。今までは肩に触れるかどうかという頃には切っていた。それ以上長くなると、毛先が背中に当たってくすぐったくなるからだ。和隆が長い髪が好きだと言うので、しぶしぶここまで伸ばしてきた。
きっとコイツは私が髪を切ったら嫌がるだろう。なにしろ寝ていてもこうして私の髪を離さないわけだから。
和隆は私の通う大学のふたつ先輩で、顔もそこそこカッコイイし、大学の成績は優秀だし、とても優しい。
それだけ聞けば、理想的な恋人のように思えるけれど、ただ一点普通と少し違うのは、彼が髪に対しては異常な執着心を持っているということだ。
はじめて二人きりで出かけたときは、ぶしつけに髪を触らせて欲しいというもんだから驚いてしまった。
彼は私の髪のために、美容院で売っている高級なシャンプーを買ってきてくれる。そして、時々彼は私の髪を洗ってくれる。
髪を洗ってもらう時、私は恥ずかしくていつもうつむいているので、彼がどんな顔で洗っているのかは分からないけれど、その手つきはとても丁寧でやさしく入念なので、きっと幸せな顔をしているのだろう。愛犬の毛を洗ってあげるみたいに。
そして、普段も隙あらばいつでも私の髪を触ろうとする。私の頭を撫でたり、時には自分の顔を近づけて髪のにおいを嗅いできたり、頬ずりしてきたり、口に入れたりする。家で二人きりでいる時はまだいいのだけれど、外で歩いている時急に頬ずりしてきたり、カフェで話している時に髪をずっといじっていたりするのは恥ずかしいからやめて欲しい。
そのように和隆は変態的な髪フェチなのだけど、その一点を除いたら模範的な学生であり、女友達が憧れる先輩であり、周りから頼りにされ慕われている存在である。
和隆と初めて会ったのは大学入試の時。彼は私のことをじっと見ていて、目が合うと笑いかけてきた。こっちは緊張して受験に臨んでいるのに、それを冷やかしにきた在学生かと思って私はムッとした。
その男に「なんだ落ちたのか」と思われるのが癪だった私は、絶対に受かってやるという熱い執念が湧いて、午前中の不調を午後の試験で巻き返し、無事に合格することができた。
入学してから、その冷やかし学生は私のことを覚えていて、やたらと話しかけてくるようになった。
私は人見知りのうえ、男にはことさら苦手意識を持っていたにも関わらず、私の警戒心は彼の優しい人柄に触れていくうちに解きほぐされていき、いつの間にか私たちは恋人となってしまった。
今まで恋人なんていたことがなかったのに、出来るときなんてずいぶん簡単なもんだなと思ったけれど、恋愛なんてそんなものなのだろう。
私が作った料理をいつもおいしいと言ってくれる。出不精な私を連れ出して、遊園地や水族館や山に連れて行ってくれる。機嫌が悪く八つ当たりをしても、彼は怒らずに話を聞いてくれてそっと抱きしめてくれる。
和隆と出会って、私はたくさんのものを彼から与えてもらった。私が彼に応えることができるのは、彼が愛してやまない私の髪を触らせてあげること。彼はそれ以外を望まない。
私たちは誰がみても仲がいいカップルで、彼は私をほんとうに大切にしてくれていると思う。
こんなによくしてくれているんだから、髪を触らせることもどうということはない。彼が触りたいなら、好きなだけ触らせてあげようとも思っている。
私たちは幸せなのだ。そのはずなのに、私の心の片隅には妙な違和感のようなものが潜んでいる。
オシャレなブランドの服を着て、みんなから似合うよと褒められているのに、着心地はあまりよくなくてチクチクしているみたいに。
気がついたら、いつのまにか目を覚ましていた和隆と目が合った。
「おはよ。どうした?」
私が和隆の顔をじっと見ていたので、彼はそう言って微笑んだ。
私は首を振って、無愛想におはよと応えた。た。
シングルベッドの中で私と和隆の距離は近い。さっきまで一方的に私が見ていた特権を奪われてしまい、逆に彼に見られてしまっているのは少し恥ずかしい。
――と思ったのも束の間。和隆の視線はもはや私には向いていなくて、再び目を閉じていた。彼の顔の先にはしっかりと握って放さない私の髪。
私は和隆の頬を片手でつねってぐいと引っ張った。
「いたたたた。なにすんだよ」
睨みつけてくる和隆をよそに、私は彼の手から髪を取り戻し、ようやく自由を得てベッドから起き上がった。
そのまま台所へ向かい朝食を作り始める。
ご飯は昨夜のうちにタイマーをセットしておいたから、もう炊き上がっている。鍋に火をかけて、中の水が煮立ったらだしの素を入れて、適度な大きさに切ったジャガイモ、もやし、わかめ、豆腐をそれぞれ投入する。
みそ汁の状態を見つつ、網を使ってししゃもを五匹焼く。みそを溶かしている間に、顔を洗ってきた和隆が後ろから抱きついてきたけれど、徹底的に無視した。
ししゃもを焼き終えた後に、今日は玉子焼きも作った。
和隆は一度私の邪魔をした後はテレビを観ていて、朝食が出来始めた頃に食器を用意したり、料理を運ぶのを手伝ったり、ご飯を碗によそったりしてくれた。
「うん。今日もおいしいよ」
みそ汁をすすり、和隆は二コリと白い歯をみせた。
私はにんまりとしてしまうのを必死で抑え、平静を装いながらししゃもを頭からかぶりついた。
日曜日の朝。
時間の流れがゆるやかで、朝の光が白く、静かで穏やかなひと時。
とても心地が良くて幸せだなと、ふっと感じられる。
「今日はいい天気だし、どっか行こうか」
「日曜日なんてどこも人が多いし、家でゆっくりしてる方がいい」
「またそんなこと言って、いい若いもんが」
「あ、ほらニュースでも今日は暑いっていってるし」
「まったく、璃奈のぐうたら癖はしょうがないな」
和隆は呆れながら笑い、私は彼に向かってあっかんべーをして、みそ汁を口へ運んだ。和隆はおいしいと言ってくれたけど、今日のみそ汁は少し味が濃かった。
結局私の希望通り部屋でゴロゴロすることとなったが、その代わりに和隆が髪を洗わせろというので、私はしぶしぶ了承した。
背後から和隆の細長い指が私の髪に絡んで、シャンプーと共に馴染んでいく。明るい浴室に裸で一緒にいるのは恥ずかしいからいつも渋るのだけれど、和隆に髪を洗ってもらうのは心地がいいからまんざらでもなかった。
「和隆は髪を洗うのが上手。将来は美容師目指したら?」
「それも考えたけどな。やっぱ璃奈の髪を洗っているだけがいい。璃奈よりきれいな髪をしている人なんて他にいないからさ」
和隆にそう言われて、私はどきりとした。
嬉しいと思ったが、それと同時に心の奥の違和感がチクリと私の背中を刺した。
「私ね、近々髪切ろうかなと思うんだけど」
ためらいつつもさりげなさを装って、私は言った。
和隆の手が一瞬止まったけれど、彼はすぐにふうんと言って再び手を動かした。
「どのくらい切るの?」
「肩くらいまでかな」
「どうして、切っちゃうの?」
「だいぶ伸びちゃったし、本格的に暑くなる前に少しスッキリしたくて」
和隆は力無い声で、そっかと言ったきり黙ってしまった。シャワーで泡を流す音だけが浴室に響いた。
「もし私の髪がなくなってしまったら、それでも和隆は私のこと好き?」
そんなことをよほど彼に訊いてやろうかと思ったが、そんな質問が私の口から出ることはなかった。私にはその答えを聞く勇気がどうしても持てなかった。
ずっと黙っていた和隆は、そのまま何も言わずに私を抱きしめた。
「なに?どうしたの?」
驚く私に返ってくる言葉はない。彼は私をきつく抱きしめ、私の頭に自分の顔を押しつけていた。
口では何も言わないけれど、彼の様子から私が髪を切ることを快く思っていないのは明らかだ。
普段は大人っぽい雰囲気でクールぶっているくせに、こうやって私の髪に触れている彼は幼い子どもと同じだ。どっちが年上なのか分かったものじゃない。
「長い髪が璃奈にはすごく似合っているのにな」
ぽつりと、さも名残惜しそうに和隆は言った。
「また伸ばすから、我慢してよ」
「髪って一ヶ月に一センチくらいしか伸びないんだぜ。この長さまでどのくらいかかることか」
「私伸びるの早いから、あっという間だよ」
和隆は深いため息を吐いて、私の髪に口づけをした。
彼は私以上に私の髪を愛している。
彼のそばにいることが出来るのは、彼が私に優しくしてくれるのは、全部この黒髪があるから。私はただ彼のお気に入りの人形みたいな感じだ。
そう考えると、体中がチクチクと痛み出した。
和隆(二)
午後の専門科目の講義はなかなか退屈なものだった。
級友の中には、机に突っ伏してそのまま終止顔を上げようとしない奴もいるし、はじめから来ていない奴もいる。
この教授は講義の始めに出席カードを配るので、はじめのうちにカードを受け取って、提出を友人に任せてこっそり抜け出しそのまま帰ってこないのも数名。出席カード自体も毎回同じものだから、ストックがある連中に昼飯代でも奢ってやれば、代返もしてもらえる。
そんな抜け道は沢山あるのだけれど、僕は真面目に講義を受けている。
出席はどうにかなっても、試験は当然毎回の講義から出題される訳だから毎回きちんと受けて、板書だけでなく教授の言っていることまで細かにノートを取っていく。
僕は試験前に他人からノートを借りたことはないし、今後も借りるつもりはない。
他人に貸しは作ってやっても、借りは作りたくはない。
だからたとえどんなにつまらない講義だったとしても、毎回きちんと出席するし、真面目に聴いてノートもとる。試験前に級友からノートを貸してくれと頼まれたら、嫌な顔せず快く貸してやる。
教授の言葉に耳を傾けながら、僕は璃奈のことを考えていた。
先週の日曜日、璃奈は髪を切ると言っていて、それ以降互いに都合が合わなくて会っていない。試験も近いので、この時期は勉強やらレポート作成やらで忙しい。
璃奈は、結局髪を切ってしまったのだろうか。それが、彼女と会うことを僕に躊躇させてもいる。
彼女をつなぎとめるために、髪を切ることを容認してしまったけれど、本音はやはり彼女に髪を切って欲しくはない。
最近ようやく彼女の髪が、僕を充分に満足させるほどの長さになってきたというのに、また数ヶ月待たなくてはならなくなった。
でも、璃奈以上に美しい髪の人はいない。今まで付き合ってきた女の子も綺麗な髪だったけれど、璃奈の髪には及ばない。彼女の髪が間違いなく今までのどの髪よりも綺麗で、なめらかで、安らげる。
むやみに髪を切ることに反対して、彼女の機嫌を損ねてしばらく触らせてもらえないという事態になってしまうことの方が痛手だ。
彼女に会って、たとえ短くなったとしても、あの美しい髪を肌で感じ、撫で回し、眠りに落ちたい。
もう三日も彼女の髪に触れていない訳だから、恋しい気持ちが溢れてしまっていた。
講義が終わり、僕は寝ていた級友を起こしてやり、涙目をこすりながらのっそりと起き上がった彼と共にカードを提出して講義室を後にした。
級友が、今日いつもの面子と学科の女子数人とカラオケ行くけど、と僕を誘ってきたけれど僕は丁重に断った。彼は特に気にも留めず、大きなあくびを一つしてキャンパスの人ごみに消えていった。
僕は学科の掲示板を確認した後、携帯電話を取り出し璃奈に電話をかけた。
「もしもし、どうしたの?」
電話の中の璃奈の声はいつもより少し明るかった。いつも何となく眠たげな気だるい声なのだけれど、今日はいつもより声のトーンが高い。まあ機嫌がよいだけかもしれない。
「今日、何もないから会えないかと思って、都合はどう?」
「そんなの、メールすればいいのに」
「しばらく会っていなかったし、久々に声を聞きたかったから」
ほんとにー、と璃奈はころころ笑った。
「今何してるの?」
「今日は、午前中で講義終わったから家でごろごろ。でも、今からバイト行く準備」
「じゃあ、バイト終わったら迎えに行く」
「わかった。じゃあ、今日も泊まっちゃおうかな」
「また美味しい朝ごはん作ってよ」
「わかった、楽しみにしてて。じゃあまた後でね。バイト頑張ってくる」
僕は彼女が髪をきったのかどうかについてはあえて何も触れないようにした。
電話を切って帰り道を歩きながら、璃奈のやつ機嫌よかったなと思った。
僕は彼女のその明るさにどこか引っ掛かるものを感じていた。別に根拠があるわけでもないし、ただの思い過ごしだと思うので、すぐに振り払った。
考えすぎるのもよくはない。璃奈の髪に触れることを楽しみにして、部屋を片付けることにしよう。
まだ明るい夕方前の空に、一筋の飛行機雲がのびていた。
結論から言うと、僕が璃奈に会う前に感じた引っ掛かりは、嫌な予感の前兆だった。
僕はいつもの待ち合わせ場所であるコンビニで雑誌を読んでいたら、バイトを終えた璃奈が店外のガラスを軽く叩いた。
僕がそれに気づいて雑誌から顔を上げると、大きなキャスケット帽を被った璃奈が僕に笑顔で手を振っていた。
僕は彼女の笑顔にすぐ応えることが出来ずに、彼女を見て文字通り固まってしまった。
コンビニの明かりに照らされた璃奈の白い顔。
黒い大きなキャスケット帽。
その帽子の影に隠れるようにチラリと覗かせる彼女の髪。
その髪は、僕が大好きな天然の黒ではなく、鮮やかで明るい茶色をしていた。
事態が呑み込めず、僕の頭は混乱していた。絶句というのはまさにこのときのことを言うのだろう。
僕は金縛りから解けたように、ぞんざいに雑誌を棚に戻し、璃奈のもとに駆け寄った。
唖然としている僕を、彼女は黒い目をまん丸くしてじっと見ていた。
しばらくの間沈黙が続き、互いに見つめ合ったままだった。
そして僕は璃奈に近寄って、夢なら醒めてくれと思いながら、彼女の帽子を取った。
肩までにきれいに切りそろえられた髪。そして、当たり前ながら帽子に隠れていた部分も明るい茶髪だった。
その茶色の髪を、僕はちっとも綺麗だとは思えなかった。
見た目がどんなにきれいな色で染まっていても、サラサラに見えても、染めてしまった髪は少なからず痛んでしまっていて触った感触が全然違う。
璃奈の髪は、もはや僕が興味を注ぎ、愛して止まなかったものではなくなってしまった。
生唾を飲む音がやけに大きく鳴った気がした。
「悪いけど、今日はもう一人にさせて」
弱々しい声で、かろうじてそれだけを璃奈に伝えて、僕はそのまま夜道を歩き始めた。
まともに前を見ることが出来ず、暗いアスファルトだけを見ていた。はたから見れば、さぞうなだれた情けない男に映ったことだろう。
絶望に打ちひしがれている僕の足音と共に、背後から小さな足音がついてきた。
僕が立ち止まると、ふたつの足音は同時に止んだ。
歩を進めると、再び僕ともう一つの足音。
振り返ると、そこに璃奈がいた。
さきほどと同じく、まっすぐに僕を見ている。
「言ったろ。ひとりにさせてくれって。ついてくるなよ」
僕がそう言っても、璃奈は動じず人形のように僕を無言で見つめている。
黒い瞳が静かに輝いていた。
結局璃奈は何を言っても聞く耳を持たず、僕のアパートの前までずっとついてきた。
「部屋には入れるつもりはないから、今日はもう帰りなよ」
静かに言ったけど、僕の言葉には怒気が含まれていた。
「帰らない。言ったでしょ、今日は泊まるって。それに朝ごはんも作るって」
璃奈の黒い瞳は柔らかな色を帯びていた。いつもとなんら変わらないかのように、彼女は微笑んでいる。
必死で怒りを抑えていたのに、彼女がそんな顔をするので僕は拍子抜けをしてしまった。
結局追い出そうにも、璃奈は聞く耳を持たないので、僕は観念して彼女を部屋に入れることにした。
「コーヒーを入れてあげる。飲むよね」
僕は璃奈の呼びかけには応えず、電気をつけてソファーにどかりと腰を下ろした。
璃奈は構わずに、お湯を沸かしているようで、台所から換気扇の音が聞こえた。
程なくして、コーヒーの香りを漂わせて璃奈がやってきた。そして二つ持っているマグカップの一つを、そばのガラステーブルにそっと置いた。
彼女はソファーには腰掛けずに、僕の隣に体育座りをしてマグカップを両手で大切そうに包んでいる。
僕らの間に音はなく、静寂の中二つのコーヒーがただ湯気を立てていた。
互いの沈黙が今日はやけに気まずく感じられた。
まるでこの部屋のあちこちに針があって、少しでも動いたらちくりと刺さるみたいに。しかしその針を散りばめたのは、自分自身である。
隣にいる璃奈のことを今日ほど疎ましく思ったことはない。
苦痛な空気の中、時間だけは進むのが遅い。
僕はたまらずに、本題へと入ることにした。
「どうして、髪を染めてしまったんだ」
僕は璃奈に訊いた。訊いたところで、理由はだいたい見当がついた。
僕が髪しか興味を持たないからだろう。今までも、僕への当てつけに別れたとたんに金髪に染めた元恋人もいた。
しかし、彼女の返答は僕が予想していたものと違っていた。
「和隆のことが好きだから」
僕は、意味が分からないと言ってコーヒーを一口飲んだ。璃奈は僕のマグカップを持っている手を見ていた。
「私ね、和隆の手が好きなんだ。その手で撫でられる時、すごく幸せだなって感じられる。あと、和隆の優しいところも大好き。バイトで落ち込んだり、イライラしていたりしても、いつも話を聞いてくれるし、私の料理をいつもおいしいって言ってくれる。和隆の顔も好き。静かに微笑んだり、大笑いしたり、気持ちよさそうに寝ていたり、寝ぼけたり、色んな表情は見ていて飽きなくていつも見てしまう」
「何が言いたいのさ」
璃奈は一瞬むすっとして口を尖らせたが、話を続けた。
「だからね、私もうまくは言えないんだけど、今まで私が和隆のこと好きだと思った部分って、黒髪の私を見る和隆だったの。私自身も和隆の表面しかまだ好きになれていなかったから、髪以外の部分で接する和隆のことをもっと知りたいし、好きになりたいと思ったの。そして、出来れば和隆にも、髪以外の私を見て欲しい。だから和隆が怒るのを承知で髪を染めてしまいました」
璃奈はそれだけ言い終えると、口を真一文字に結んでじっと僕を見上げた。子どもがいたずらをして、親に悪さをした理由を言った後みたいだった。
僕はコーヒーをすすって小さくため息を吐いた。
「璃奈の言いたいことは大体分かった。僕も璃奈の髪ばかりにしか目がいっていなかったのは悪かったよ。本来璃奈がそうやって髪を染めたことにとやかく言う筋合いもないっていうのも分かっている。でも、この先今まで通りの関係でいれるのかは自信がない。璃奈のことは好きだけど、僕にとって璃奈の髪がやっぱり一番だったから」
今更言葉を選んでもしょうがないので、僕は正直な今の心境を璃奈に伝えた。彼女はまっすぐに僕を見て、僕が話し終わると力無くうつむいた。
「そうだよね、和隆が一番好きな部分を奪ってしまったのはごめん。でも、今までのままだったとしても、私は自分の髪に嫉妬してしまっていて、和隆がどんなに優しくしてくれても、心のどこかで違和感をいつも感じていた。和隆は私のことを本当に大切にしてくれていて、いつも気を使ってくれている。それは私の髪を触っていたいからで、本当の自分を隠しているようにも見えた。私たちまともにケンカもしたことないし、本当に言いたいことをお互い言い合えずに表面で仲良くしているだけのように感じられた。私が髪を染めなくっても、このままでいることに私が耐えられなくなっていたと思う」
璃奈の言っていることは、僕にも思い当たることがあり、心に深く突き刺さった。僕は璃奈の髪を触れたらそれでよくて、彼女を傷つけないようにいつも機嫌を伺っていた。
恋人といいながら、僕は他の同級生たちと同じように、当たり障りなく彼女に接していた。
璃奈は、大きく澄んだ瞳でまっすぐに僕を見て、話を続けた。
「今日みたいに落ち込んで、怒っている和隆を私は初めて見た。そうさせてしまったのは私のせいだけど。私が和隆のことを好きになった部分全部が嘘じゃないと思うから、和隆のことを好きな気持ちは変わらない。もっともっと私の知らない和隆を教えてほしい」
璃奈はマグカップを持って台所へ向かった。コップを洗う音が聞こえてから戻ってくるとバッグを持って僕を見た。
「泊まって朝ご飯を作るって言ったけど、今日は帰るね。自分勝手でごめん。でもこれが私だから。そんな私を受け入れてくれたから、私は和隆が好き。今でもこんな私を受け入れられるのか、よく考えて欲しい。私はずっと待っているから」
璃奈が玄関から出て行くのを僕は黙って見送った。
ほんとうに、自分勝手だなと思いつつ、僕はぬるくなったコーヒーを飲み干した。今の状態で璃奈のことを考えようとすることはとうてい無理な注文だった。
彼女の綺麗な黒髪が失われてしまった。その事実が今の僕にずしりとのしかかっている。今までみたいに別れ話を持ちかけられたり、平手で打たれてしまったりするよりもこたえる。
染めてしまった髪が元の黒髪に生え替わるまで、いったいどのくらいの月日を要するのか。染めてしまった髪を元の髪質に戻す方法はあるのか。
璃奈の髪のことばかりがぐるぐると頭をよぎっていく。
璃奈(二)
大学の前期試験も終わり、夏休みになった。
大学では終業式があるわけでもホームルームがあるわけでもなく、最後に受けた試験が終わり次第そのまま休みに入るので、なんだかあっけない。そのくせに休みは二ヶ月近くもあるのだから驚きである。一体何の為にそんなに長い間休みにする必要があるのだろう。
ともあれ、大学一年生の半分が終わり、長い長い夏休みのはじまりだ。
夏休みの間私はアルバイトに明け暮れ、今日からはアパートの隣人の麻希と以前から計画していた温泉旅行に出かけていた。
麻希の運転する車に揺られて、まるで傷心旅行のような気分だった。案外麻希も私の気持ちを察して今回の旅行を計画してくれたのかもしれない。
私が茶色の髪を和隆に披露して、三週間が経とうとしているけれど、その間彼からの連絡は一度もなく、大学でもいつも待ち合わせをしていたコンビニでも、彼に会うことはなかった。
私が髪を染めてしまっても、そんな私を受け入れることが出来るのかよく考えてほしいと彼に伝えたけれど、本当はとっくに彼の中で答えは出ていて、あの時点で私たちの関係は終わってしまったのかもしれない。
あのとき彼の返事を聞く勇気が私にはなくて、彼との関係があっけなく終わってしまうのが怖くて、ただ先延ばしにしていただけに過ぎないのかもしれない。
しょっちゅう会っていた習慣がぱったりとなくなって、心の中はスカスカしている。和隆は髪ばっかり触ってくるし、それをいつもうっとおしいと思っていたのに、目が覚めてから髪を引かれることも、そばに寝顔があることもなく、ひっそりとした静寂の朝をむかえるのが寂しくて泣き出したくなるようなことが時々ある。そんな風に思ってしまうのは、私が和隆のことを本当に好きだということで、彼と一緒にいるのがそれだけ私の日常に溶け込んでいたということなのだろうか。
感傷に浸りながら、変わり映えのしない高速道路の景色を眺めていると、麻希が私に話しかけているのに気がついて、いつも以上に真剣に前方を睨みつけている彼女の方へ視線を移した。
「ごめん、何か言った?」
「この先サービスエリアあるみたいだから、休憩しようかなと思って」
私は同意して、そのまま運転する彼女を眺めた。彼女は私の一つ年上で美容師の専門学校に通っている。童顔でおっちょこちょいでのんびり屋なので、とても年上にはみえないけれど、栗色のウエーブがかった髪はきちんと手入れがされていて、いつもオシャレなのはいかにも美容師という感じがする。
運転している麻希は、普段のおっとりしている彼女よりもいくらか頼もしく見える。自分の車を所持し、その愛車を悠々と走らせているあたりは、免許すら持ってない私にとってはさすが大人だなあと感心してしまう。
時折彼女は私の方を向いてニコリと笑った。その笑顔は柔らかくてぬくもりがあって、あまりに自然にすっと入ってくるから、私は何で笑うのとは訊かずに思わず笑い返してしまう。
「なんか麻希に運転任せてごめんね。別に電車でよかったのに」
「んーん。運転するの割と好きだから気にしないでー。車の方が周りに気を使わなくていいしさー」
いつもの間延びしたのんびりな口調とは裏腹に、彼女はアクセルをしっかり踏み込んで、周りの車をぐんぐん追い抜かしていく。
「ねえ、スピード出し過ぎてない?」
「高速走ってるからねえ。大丈夫よー。初心者マークは取れているから」
「高速道路運転するのは?」
「え?今日が初めてかなー」
私は自分の顔が強張るのを感じた。緊張する私を見て、麻希はまた笑った。
「そんな不安な顔しないでよー。ちゃんと安全運転を心掛けているからさー」
「じゃあ、せめてもう少しスピード落として」
「璃奈ちゃんは心配性ねー。あ、でも確かにちょっとスピード出し過ぎてた。高速道路って意外と速度出ていない気がするのよねー」
のんきに話す彼女の言葉に私はひやりとさせられながら、緊張した表情を崩さずに道路をじっと見ていた。
収入の少ない学生の身であるから、必然的に低予算の旅行になった。
宿泊する宿は小さくて年数もある程度経っている感じだったけれど、海が近くにあって、案内してくれた女将さんは愛想がいいし、こじんまりとした和室は小綺麗でとてもいい感じだ。これで一泊二食付きでビジネスホテルと変わらないくらいの料金なのだから充分だ。
畳の部屋なんてずいぶん久しぶりで、荷物を置いてから私はそのままごろんと寝転がった。い草のにおいはどことなく懐かしくて、田舎のおばあちゃん家を思い出す。
「いい宿だねー。窓から海が見えるよー」
後から入ってきた麻希が窓を開けると、ほのかな潮の香りがした。彼女も私の横に寝転がってきた。
「真似すんなよー」
「いいでしょー?畳に寝転がっちゃうのは日本人の習性みたいなもんじゃん」
けらけらと笑いながら麻希は私の手を握り、二人で天井を見ていた。
「こんないい宿よく見つけたね」
「学校の友だちに教えてもらったの。すごくいいとこだったって言ってたからさー。璃奈ちゃんと来れてよかったー」
麻希の手の感触が伝わってくる。優しくて温かできれいな手。
和隆とのことを麻希には沢山相談に乗ってもらっていた。私は恋愛経験が乏しいうえ、何でも話せる友人なんてほとんどいないから、彼女に頼りっぱなしだ。
普段は子どもっぽくて、のほほんとしている麻希が時折みせる年上らしい所に、すっかり甘えてしまっている。
「私も、麻希と来れてよかった」
和隆のいない寂しさで空いてしまった隙間を彼女が埋めてくれる。都合のいいときだけ彼女に甘えてしまっている自分がずるくて、情けないと思うけれど、そんなずるい私を彼女は慈愛に満ちた優しい微笑みで見ている。
お茶を入れにきた女将さんの声が聞こえてきて、私たちは慌てて寝転がっていた身体を起こして正座した。
「どうぞおかまいなく、ゆっくりくつろいでいて下さいな」
四十歳くらいの女将さんは、上品に笑って丁寧にお茶を入れてくれた。
食事の時間や浴場の説明を、こんな学生の小娘二人に親切に説明して下さり、私たちは恐縮しながら相槌をうった。
女将さんが出て行き、正座をしていた私と麻希は顔を見合わせて笑い合った。
「さあてと、夕飯まで時間あるし、ひとっ風呂浴びてきますかー。ここの温泉美容にいいんだってー」
微笑が弾ける笑顔に変わって、麻希は立ち上がった。
「璃奈ちゃん行くよー。髪を洗ってあげる」
麻希の差し出す手に掴まって、私も立ち上がった。生暖かい潮風が窓から入り込んで、外を見ると、遠くで海がキラキラ輝いている。
見知らぬ土地の見知らぬ海は、なんだか特別にまぶしく美しく見える。
和隆(三)
「お元気ですか?
私は今、友だちと温泉旅行に来ています。
海が近くにあって、潮の香りがする素敵な旅館に泊まっています。
いつか和隆とも行きたいなと思いました。
お土産買ってきます。」
璃奈から来たメールを一読し、僕は返信をすることなく、携帯電話をそのままベッドへ放り投げた。
僕はもう三週間近く彼女とは会っていないし、こちらから連絡もしていない。
それなのに璃奈は、今日みたいに頻繁にメールを送ってくる。
僕はそれに対して何の返事もしないけれど、彼女はそんなこと気にする様子もなく、今日あった出来事なんかをいちいち報告してくる。
僕らがまだ頻繁に会っていた時、つまり彼女がまだ黒髪だった時は、必要な連絡以外でメールをしてくることなんてなかったのに。
僕ら、というより僕の方が璃奈と距離を置いてしまったから、その距離をつなぎ止めようとしているのか、はたまた髪以外の自分を必死にアピールしているのか、彼女の意図は分からない。
いずれにしろ、僕はまだ彼女に連絡を取ろうという気にはなれなかったし、会いたいとも思えなかった。
彼女に会ったところで、僕はどう彼女に接していいのか分からなかった。少なくとも、以前のように彼女に優しくしたり、笑いかけることは出来ないと思う。
最後に璃奈と会った日の夜、彼女は今の自分を受け入れられるのか返事を待っていると言ったけれど、このままではきっと返事を出すまでもなく、僕らの関係は終わってしまうだろう。
璃奈は目が大きくて小柄で可愛らしく、料理を作るのがうまいし、性格もひたむきで素直だ。
あまり外へ出たがらず、家でごろごろしていることが好きだけれど、外へ連れて行ったら行ったで、どこへ行っても喜んでくれる。そして僕が彼女の髪をどれだけいじくり回しても、彼女は基本的に僕の甘えを受け入れてくれた。
結局、璃奈自体に非はないし、髪の魅力を抜きにしても、彼女はとてもいい子で、恋人としては何も不満なところはないのだ。
問題はそれを素直に受けいれようとせず、未だに彼女の髪に執着する僕の方にある。
彼女の髪がまた新たに生え変わり、元の美しい絹のような黒髪に戻るのは時間が解決をしてくれる。
それまで我慢をして、今までと変わらない優しい彼氏として、彼女に接することだって不可能ではない。
ただ、それでは結局彼女の黒髪が目当てで、彼女自身の他の部分を僕が本当に愛して一緒にいるということにはならないのではないか。
それはまるで、遺産目当てでかなり年上の老人と結婚をするようなものではないのだろうか。
僕は、今まで女の子に対してただ安らぎだけを求めてきた。
他人と当たり障りのない関係を保つために無理して自分を作り、そうして緊張してしまった自分をほぐし休ませることが、黒髪に触り、顔をうずめることだった。
本当の僕は、閉鎖的な性格で他人となんて極力関わりたくないと思っている。
現に、夏休みとなってから僕はろくに大学の同級生とも会わないし、実家に帰省することもなく、地元の小学校や高校の同窓会の類の誘いもすべて断っている。
卒業してしまった後の人間関係なんて、もはや無用のものだったし、心の内を何でも打ち明けることが出来る親友なんかもいなかった。
煩わしい集団生活の中で、僕は広く浅い人間関係しか築くことは出来なくて、深い関係になることをむしろ避けていた。
案外、今まで付き合ってきた女の子たちとすぐに別れてしまうのも、髪の執着以外に僕がすべてをさらけ出さない面も一因としてあるのかもしれない。
璃奈と会わなくなって、今の僕は一人でいることが増えた。
孤独な時間を過ごすことは特に苦痛ではないし、むしろ久々なこの感じは、よけいな人間関係に悩まされることもなくて楽に感じられる。
ただ、新学期が始まれば今のようにはいかない。面倒くさい人間関係を無理してやり過ごす日々が始まって、そんな日々を璃奈の黒髪なしで過ごせるのだろうか。
今でも思う。彼女が髪を染めてしまったなんて冗談なのではないかと。
本当はカツラでもかぶっていて、その下には何にも染まっていない純粋で美しい黒々となまめかしい髪が潜んでいるのではないかと。
彼女の髪はあまりに美しく、あまりに強烈だった。
それだけに、僕は彼女の髪を失ったショックは大きく、すっかり依存してしまっているこの状態から立ち直る兆しは一向に見えない。
僕は、もはや璃奈の髪なしでは生きていけないと言ってもよかった。
彼女のあの黒髪さえあれば、たとえ彼女がどれだけ性格が悪くても、どれだけ顔が醜くても、どれだけ料理が下手でも、僕は構わなかったのだ。
それなのに璃奈は、そんな悪いところなんて全くないのが僕には辛い。
髪以外のところが最悪なら、その髪がなくなったとき、何の未練もなく離れることが出来るのに。
近いうちに結論を出さなければならない。
璃奈のことを考えれば、結論は長く考えなくとも出ていたのかもしれない。
璃奈(三)
「都合のいい時に来てほしい。」
和隆が久しぶりによこしたメールは、用件だけを伝える簡素なものだった。
ずっと待ち望んでいたはずの彼からの連絡なのに、そのメールを読んだ私はどきりと嫌なものが横切った。
それは今までの和隆にはない、冷たい文面だったけれど、私が感じた嫌な予感はそれが原因ではない。
本当は和隆が連絡をくれるずっと前から、それはずっと私の中に潜んでいたのだ。
ずっと考えまいと振り払ってきたけれど、和隆がこうして連絡をしてきて、目に見える形で現れたことで、その予感は再び私の心を黒く、ねっとりと不気味さを漂わせて覆いはじめていた。
和隆に会いたいとずっと思っていたのに、来てほしいって言っているんだからすぐにでも行けばいいのに、私は足が動かなかった。
今和隆に会いに行ったところで、彼が別れ話を切り出すことは目に見えていた。
彼と私を繋ぎ止めていたのは、私の黒髪だけだったのに、私が自分で切り離してしまったのだ。
私が髪を染めた時の彼の反応を見れば、もう私たちの関係は元通りにならない。
和隆に会えない間、それを受け入れようとしたし、別れてしまうことを覚悟した。
心はそう決めたはずだったのに、いざこうしてその時が目の前にあると思うと、足がすくんでしまう。
私の本心は、和隆と別れてしまうその現実を受け入れてはいない。
私は、和隆が好きなのだ。どれだけ冷たい反応をされても、メールを無視されても、髪をどれだけいじくり回されても、私は彼が本当に大好きなのだ。
彼に会えない間で、私はその自分の気持ちを嫌という程思い知らされた。
私を動かそうとしないのは、その本心のせいだった。
行ったら駄目だ。彼に会いに行ったら、彼を失ってしまうぞと呼びかけてくる。
頭が痛い。私の脳が葛藤につつかれている。
痛くて痛くて、涙が出そうだった。
しかし、私が悶々としていると、突然呼び鈴が鳴った。
その音が静寂の中に響き渡って、私は驚いて飛び上がりそうになった。
もしや和隆が来たのだろうかと一瞬思ったが、これは違うと直感した。
和隆ではない。足も動く。
私はのろのろと玄関へ向かった。覗き穴を見ると、そこには麻希がいた。
「やっほー璃奈ちゃん。今日もあついねー」
ああ、コイツはなんでいつもこうタイミングよく私の前に現れてくれるのだろう。そう思うと、目が潤んできた。
「アイス買って来たんだー。一緒に食べよ?」
麻希は両手にアイスをぶらつかせながら、いそいそと部屋へ入って来た。
私は堪らず彼女を抱きしめた。
「どおしたのー?くっついたら暑いよー」
麻希はそう言いつつも、私を突き放しはしなかった。
彼女はほんのり甘い香水のにおいがする。
彼女は何も言わずに、袋に入ったままのアイスを私の頬にくっつけた。
「つめたい」
ぶすっとした声で私が反応すると、麻希はけらけらと笑った。
ベランダの窓を全開にして、私たちは並んで腰を下ろして、アイスを食べた。
セミの鳴き声がそこかしこから聞こえ、目の前の空は明るく澄んだ碧色をしている。
「暑いでしょ?冷房つけるけど」
私がそう言うと、麻希はアイスを持っていない方の手の指を振りながらチッチッチと舌を鳴らした。
「璃奈ちゃんわかってないなあ。アイスはこう暑い中で食べるからおいしいんじゃない」
それもそうかと私は納得して微笑んだ。
麻希は私に何も訊かず、ただ温かなまなざしを空に向けてアイスをなめている。
余計な詮索なんかせず、おせっかいを焼くでもなく、ただこうしてあたり前のように傍にいてくれる。それが私にとって本当にありがたくて、油断をしたらまた涙が出そうだった。
「今日隣町で花火大会あるんだって、気晴らしに行ってみない?」
麻希は何気なく言った。
「どうせ人多いんでしょ?恋人と行って来なよ」
私は面倒くさいという声で言うと、麻希は口をとがらせた。
「今の恋人は璃奈ちゃんだしー。だから誘ってるんじゃない」
私ははっとした。彼女はもちろんレズじゃなくて、男の恋人がいる。いや、もういたということなのだろう。この前まで彼女がつけていた指輪もなくなっている。
私は自分のことばかりで、麻希の話を全然聞いてあげられていない。彼女だって日常の中で色々な悩みを抱えているはずなのに、いつもニコニコしていて、私の悩みばかり聞いてくれているというのに。
申し訳なさと、不公平な感じで、私はうつむいてアイスをちびちびとなめた。
「しょうがないな、人ごみ嫌いだけれど麻希の誘いなら断れないか」
私が言うと、麻希は花が咲いたように顔を輝かせた。
「やったー。浴衣着ていっちゃおっと」
麻希の嬉しそうな顔を見て、私はようやく決心をした。
温泉のお土産を持って、和隆に逢いに行こう。花火に行って、麻希に全部話そう。そして麻希の話もいっぱい聞こう。
今日の予定がすべて埋まって、めんどくさいなと思ったけれど、気持ちはそれほど重くはなかった。
セミのやかましい声、うざったいほど明るい夏の空、華やかすぎる麻希のおめでたい笑顔。
そんなエネルギッシュなもの達が、私のお尻をひっぱたくから、進んでいくしかない。
麻希(一)
「はかないよね」
夏の夜空に次々と打ち上がって行く花火を眺めながら、璃奈ちゃんは真顔で言った。
「それは花火のことー?」
私が訊くと、彼女は私の方を向いてこくりとうなずいて微笑んだ。
小さな白い顔が花火の光に照らされる。力なく笑みを浮かべる彼女の方こそとても儚いもののように思えた。
「でも本物の花は、だんだん弱ってしおれて枯れてしまうけれど、花火は派手に光ってそのまま散っていっちゃうから、かえっていさぎよいじゃない?」
気休めの私の言葉を聞いて、璃奈ちゃんはくっくと笑い声をあげて、再び夜空を見上げた。
小さな町の花火大会なのに、沢山の人が来ていた。
大きな川の通り沿いに出店が立ち並び、その大きな川の中心で花火が打ち上がっている。
様々なお店の光、エンジンの回る音、人々の声。お祭りってこの雰囲気だけでなんだかワクワクしてくる。
私たちは出店で焼きそばとたこやきとラムネを買って、人の少ない川の端っこの方で花火を眺めた。
せっかく浴衣を着て、祭りの雰囲気を満喫しているのだけれど、今日の璃奈ちゃんは元気がない。
いや、見た目はよく笑いかけてくるし、出店を見てはしゃいだりしていて、いつも以上に元気に見えるけど、それは空元気だとしか思えなかった。
花火へ行く前、彼女は大事な用事を済ませてくると言っていた。きっと彼氏とのことなのだろうなとは、なんとなく感じていた。
「和隆がね、」
璃奈ちゃんが言いかけて、どーんと大きな花火が打ち上がった。彼女はその散って行く光を睨みながら、私の浴衣の裾を握った。
「和隆がね、私の髪を洗ってくれたの」
睨んだ顔のまま、彼女は言った。私は、黙ってうなずいた。
「嫌いな茶色の髪だったのに、和隆は一生懸命洗ってくれた。すごく丁寧で優しい手で。
その手が、私はすごく好きだった。」
話しながら、璃奈ちゃんの顔は花火も私も見ていなかった。私は、膝に押し付けられたその儚い彼女の頭をそっと撫でて、よかったねと言った。
恋愛って人を愛することの練習なのかなって時々思うことがある。そんなことを本気で恋愛中の人に話したら怒られてしまうだろうけれど。
限られた社会の中で、限られた人々と偶然や必然の出会いを私たちは繰り広げていく。
そんな小さな集団の中で、自分が将来ずっと寄り添える人を探し出すんだから、そりゃあ時間がかかるだろう。
中にはひょいと出会って付き合って、そのまま結婚しちゃう人だっているけれど、私はそんな風にロマンチックな恋愛は出来ないだろうなと思っている。
そもそも偶然を運命だなんて言葉で着飾ってしまうことが、私はどうもしっくりこない。
偶然はあくまでもただの偶然。その言葉に色をつけて、恋愛のモチベーションやエネルギーに昇華させているだけ。
結局、顔が好きとか、髪が好きとか、手が好きとかと同じ。その人を好きになる一つのきっかけに過ぎない。
私は、運命という言葉よりも、偶然の方が好きだ。
運命と違って、偶然はあちこちに転がっている。
偶然の中で多くの人との出会いや別れを繰り返し、いつか本当に他人を愛せるようになるために、ずっと練習なのだ。
璃奈ちゃんも、きっとまた新たな偶然によって好きな人が出来るだろう。
私は、ひたむきな彼女をいつまでも見守ってあげたい。
彼女もまた、偶然によって出会えた私にとってかけがえのない大切な友だちだから。
いつのまにか花火は終わっていて、璃奈ちゃんは顔をあげて私のことを真顔で見ていた。
「どうしたのー?そんなじっと見られると恥ずかしいじゃん」
いつものようにふっと笑みを浮かべて私が言うと、彼女は私から視線を外さずに黙ってたこ焼きを口へ入れた。
「なんだか麻希が大人な顔をしていたから、珍しいなと思って」
彼女はにんまりと笑顔になって言った。その顔がどこか吹っ切れたようないつもの璃奈ちゃんに戻っていたので、私は嬉しかった。
「うん。ちょっと運命ってものについて考えてたんだー」
「麻希って運命とか信じちゃうクチ?まあらしいけどさ」
璃奈ちゃんは、目を細めて笑った。
「ううん、私は運命の人とかそういうのは否定派」
「そーなの?そりゃ意外だ」
璃奈ちゃんの適当な相槌がおかしくて、私は顔をくしゅっとさせて笑った。
「色んな出会いって偶然なんだよ。運命だなんて、まるであらかじめ決まってるみたいなの、私は好きじゃない。でもその偶然で、私の隣に璃奈ちゃんが引っ越して来て、こうして仲良く出来た。私はそういう偶然を、とっても大事にしておきたいなって」
言いながら、なんだかちょっぴりクサくて、恥ずかしいなと思ったけれど、璃奈ちゃんは真面目な顔で、私をじっと見ていた。花火で周りが明るくなると、黒々とした彼女の瞳がきらっと光って、心の奥がきゅんっとした。
「運命信じないって聞いて、麻希って意外とドライなのかなって思ったけど、そういう解釈、なんだか麻希っぽいね」
璃奈ちゃんは、目を細めて笑みを浮かべた。
「月並みな気休めだけど、璃奈ちゃんにもそんな偶然がこの先いっぱい転がってるんだから」
「はいはい、そうですねー」
何の感情もない璃奈ちゃんの返事。やっぱりただの気休めだなと思いつつも、次の瞬間、彼女は私の胸に顔を押し付けて来た。どきりとしながらも、璃奈ちゃんが泣いてるのに気づいた私は、彼女の頭を出来るだけやさしく丁寧に撫でた。
彼女の髪は、茶色く染まってもちっとも痛んでなんかいない。とってもさらさらで美しい髪質。今まで触ったどの髪よりも、彼女の髪はさらさらしていると思う。彼女の彼氏が熱中するのも分からなくもない。
口には出さなかったが、璃奈ちゃん達の出会いがこれで終わりとも限らない。どこかで偶然が作用すれば、よりが戻ることだってあるかもしれない。
髪フェチの彼氏の為に、こんなにも想っている璃奈ちゃんを見ていると、そんな偶然がどこかでひょいとやって来てほしいなと、思わずにはいられなかった。
もし、万が一そんな偶然が訪れたなら、運命という言葉があるのかもしれないと信じてみてもいいなとも思えた。
和隆(四)
学長の長たらしい話も終わり、学部に別れて卒業証書を受け取って、長たらしい卒業の行事からようやく解放された。
大々的な卒業式でもなく、卒業証書を受け取って担当の教授の言葉でもなく、卒業を一番実感したのは、四年間使ってきた学生証を返却した時だった。
小学校から続いた学生生活もようやく終止符が打たれ、これからはもっと広い広い社会の中で生きて行かなかればならない。
卒業を巣立ちとは、よく言ったものだと思う。
学校の中にいる限り、たとえ大学生でも、僕らはかごの中の鳥と同じだった。
とはいっても、会社員だろうが公務員だろうが、働く以上何かしらの組織に属しているのだから、結局いつまでもかごの中なのかもしれない。でも、自分で餌を取らなければいけないという点では今までと大きく違う。
新社会人として頑張ろうなんて意欲はなく、いつまでもめんどくさい人間関係のつきまとう人生に憂鬱な気持ちになる。
キャンパスの中は未だに学生達が群がっていて、サークルの後輩が卒業する先輩に花束を渡していたり、友人同士で写真を撮っていたりというような光景が、あちらこちらで行われている。
僕も学部のグループ連中に捕まって、対して仲もよくなかった奴らと写真を撮らされた。
彼らとの一通りの交流が終わって、僕はまっすぐに帰ろうと決め込んでいた。
サークルは三年生の間に辞めた。大学入学後の手っ取り早い人脈を掴む手段であったサークルには、未練などなかった。もしかしたら後輩達が律儀に花束を用意していたりするかもしれないが、いちいち顔を出す気にもなれなかった。
人ごみの間をするすると縫っていき、僕は裏門の方へと向かった。
引っ越しの準備をしなければいけないし、卒業してからも何気に忙しいのだ。
未だに名残惜しくキャンパスに残っている学生が大半だったので、裏門まで来ると一安心だった。学生はちらほらとしかいない。
「和隆さん」
裏門を出たところで声を掛けられた。それは聞き覚えのある声で、どこか懐かしくもかんじられた。
振り向くと、そこには黒髪の女の子が立っていた。
肩にも届かないほどのショートヘアーだけど、その髪は僕が今までで一番綺麗だと思った黒髪だった。
「璃奈」
僕は、彼女の名前を呼んだ。璃奈は、名前を呼ばれてくすぐったそうに微笑んだ。
「サークルの方にはどうせ顔を出さないだろうなと思ったし、私が花束を渡す役を引き受けたの」
そう言って、璃奈は僕に花束を差し出した。
黄色い花を中心に、あちこちに小さな白い花が散りばめられた、シンプルだけど鮮やかな花束だった。彼女から受け取った際、いい香りがした。
「髪、黒く戻したんだ」
僕は、さりげなさを装って言った。こんなことを言っても、彼女はやっぱり髪のことしか頭にない男だと思うかもしれない。でも、もはや彼女にどう思われようと構わない。僕らの関係はとっくに終わっているのだから。
「うん、染めたのはあれきり。これから就職活動もしていかなきゃだしね。どう?昔と変わらない?」
彼女は、肩にかかる髪の一束を触って微笑んだ。その微笑には、呆れや不機嫌さはなく、純粋に笑っていたので、僕は少しほっとした。
「変わらない。すっかり元通りだ。相変わらず綺麗な髪だ」
僕は、素直に感想を伝えた。
「少し歩かない?先輩の帰り道を、最後に一緒に歩きたい」
彼女に促され、僕らは肩を並べて歩いた。とはいっても、僕の肩の隣には彼女の頭が並ぶ。
まだ少し肌寒い三月の空気の中で、吹く風はほんのり暖かい。学校に植えられた桜の木は、小さなつぼみをぽつぽつと膨らませている。
「もう春だね」
璃奈は、何の感慨深さもなく無表情に言った。そういう時々無愛想になるところも、相変わらずだなと思って僕は笑った。
「なあに?私変なこと言った?」
彼女は僕の方を振り向いて、眉を寄せた。
「いやいや、そういうとこ、変わってないなと思って」
僕が言うと、彼女は一瞬目を大きくした。どうして驚くのだろうと思ううちに、彼女はすぐにまた前を向いてしまった。
うっすら春を宿した風に撫でられた璃奈の髪はふわりと膨らんだ。
その髪を、最後にもう一度撫でたいと思ってしまう。でも、それは出来ないことだった。
せっかく禁煙をしたのに、一本吸ってしまってそれまでの努力が水泡に帰してしまうのと同じ。そして僕が髪を触ってしまったからといって、僕らの関係が元に戻るということにはならない。
一緒に歩こうと誘っておいて、もう春だねと言ったきり、璃奈は何も言わない。
互いに無言のまま、靴の音と時折通る車の音を聞きながらただ黙々と歩いた。
僕の方こそ、璃奈に何か言いたいと思っているのに言葉が出ない。このまま僕の家まで着いたら、おそらく彼女と会うことはもう二度とないだろう。最後に先輩らしくもっともらしいことを言ってやるべきだろうか。付き合ったのに、何もしてやれなかったことを謝るべきだろうか。黒髪に戻った彼女によりを戻したいと言うべきだろうか。考えながら、どれも違うと思った。
僕の本心は、璃奈ともう一度一緒にいたい。彼女が黒髪に戻ったからという訳ではなく、一緒にいるのなら璃奈と一緒じゃなきゃ駄目なのだ。
もちろん彼女は今までで一番の黒髪の持ち主だ。璃奈と別れた後も、彼女の黒髪がいつまでも忘れられずに未だに僕の心に鮮明に残っている。
黒髪の綺麗な女の人は沢山いる。実際、璃奈と別れた後だって、何度か出会いはあったし、付き合おうとも考えた。
璃奈と付き合う前に別れてしまった人たちと同じように、璃奈と別れてまた別の綺麗な髪の持ち主と付き合えばいいはずなのに、僕はそれができなかった。
黒髪の彼女は、璃奈しかいなかった。髪に触れているのも、歩くたびに揺れる髪をただ見つめているのも、璃奈だったからこんなにも幸福を感じられたし、僕の心が満たされたのだろうと今になって思う。
髪を洗ってやって恥ずかしそうに猫背になる黒髪の璃奈。朝ご飯をおいしいよと言うと照れて視線を外す璃奈。僕がくだらない冗談を言うと、冷めた視線で無愛想に相槌をうつ璃奈。
黒髪はもちろん彼女の一番の魅力だけれど、それにばかり目を奪われて気がついていなかった。璃奈の小さな身体、大きな目、天の邪鬼で気分屋の性格。どれもこれもが、本当は好きだったのだ。
それなのに、彼女が髪を染めたことがきっかけで、腹を立ててそのまま気力を失くし、別れてしまった。
別れた後の璃奈がいない空白の時間に、璃奈への強い想いに気づき、気づいていながら僕は何もしなかった。
僕の想いを正直に伝えれば、璃奈は再び僕の元へ戻ってくる可能性は充分にあった。
それなのに、彼女と別れてから、彼女に一切の連絡も取らず、大学へも必要以上に足を運ばず、彼女と出会うことを避けてきた。
今こうして彼女と並んで歩いているにも関わらず、僕の本心が口から出ることはない。
これが最後のチャンスなのに、何も考えずに彼女への僕の想いをぶつければいいのに、のどまで昇りつめた気持ちが口から出てくることはない。
僕のアパートが見えてきた。そこへ向かう道が途絶えてしまえばいいのに、僕らの歩みは止まらない。
璃奈(四)
「そういうとこ、変わってないなと思って」
さりげなく言った和隆の言葉に、私は一瞬耳を疑った。彼は、私のことを髪だけでしか見ることが出来ないと以前言っていた。
実際に私が髪を染めた時、彼は私に見向きもしなかった。
だから私たちは別れてしまったのに、私には納得出来ない部分が、別れてしまってからじわりじわりと、服についたシミのように少しずつ広がっていた。
どうして和隆は、別れた最後の日に私の髪を洗ってくれたのだろう。別れ際の最後に見せてくれた彼の優しさだと最初は思っていた。
でも優しさを見せるのに、彼が嫌いな茶色くなった髪を、どうして洗う必要があったのだろう。
抱きしめてくれるとか、キスをするとか、他にもあったはずなのに。
しばらくそのことをずっと考えて、結局彼は私の髪と最後まで関わりたいと思っていたのだと自分に言い聞かせるようにして、私の中で滲んだシミは消してしまっていた。
卒業式の日に和隆に会いに行ったのは、最後に彼が大好きだった黒髪を見せてあげようと思ったから。
黒髪に戻った私を見て、もし彼がまたよりを戻そうと言ってきても、私は応じるつもりはなかった。
和隆と別れてから、会うことも見かけることさえなかった。彼が卒業してしまったら、会うことなんてきっとなくなってしまう。
そうなってしまうのは嫌だったから、最後に少しだけでも彼と会っておきたかった。そして、本当の意味で彼と出会うことが出来るのは、茶髪の私ではなく、黒髪の私。
黒髪の私と最後にきちんとお別れをさせてあげなきゃいけない。
和隆にとって、私の黒髪との別れは、あまりに突然だったから。
黒髪の私に、和隆は驚きを見せながらも、ちゃんと目を向けてくれた。
私はやっぱり、黒髪に惹かれる彼のことが好きだったのだろうか。久しぶりに会うと、心臓がドクドクと高鳴った。
昔何度も一緒に歩いた、大学からの帰り道。
桜並木があって、春には鮮やかな桃色の花びらが舞う道。その道を一緒に歩きたいねなんて私が言って、彼は待っていればすぐに来るよって笑っていた。
結局和隆とは桜が満開のこの道を一緒に歩くことは出来なかった。もう少しすれば、それは出来るのに、そのもう少し待つ時間が、私たちにはない。
そう思ったら切ないけれど、彼と付き合ってから、いつも歩いた道。そこは彼と付き合ってから思い出をいっぱい作った道だ。
セミの抜け殻を拾って彼を驚かせてみたり、空に浮かぶ雲の形が何に見えるか言い合ったり、私の気分が沈んでいた時、午後の講義をサボって海を見に行ったり。
どれもたわいのないことなのに、たわいのないことほど次々と浮かんでくる。
「そういうとこ、変わってない」
歩きながら、和隆の言葉が蘇る。私の髪しか興味がなかったくせに、私のことちゃんとみてくれているじゃない。
ただの社交辞令かもしれない。でも、私はその言葉が彼の本心から出たものと信じた。
そう言う言葉を、もっと早く言ってくれたらよかったのに。
どうしてさよならをする時に、ふわりと言ってくるのだろう。こういう言葉をもっと言ってくれていたら、私は信じることができたのに。
私たちは無言で歩き続けた。
和隆は何を考えているだろう。やっぱり、私の髪のことを考えているのだろうか。それとも、別の黒髪の綺麗な女の子のことを考えているのだろうか。
空白の時間が、彼の思っていること、考えていることさえ分からなくする。真っ白な霧が私たちを覆っているように。
私の髪をもう一度触りたいと言うのなら触らせてあげる。
だから何か言ってほしい。このまま黙って歩いてさようならなのだろうか。
よりを戻したりなんかしない。そう心に決めていたのに、今和隆に言われたらはっきりと断る自信がない。
やっぱり私の髪が好きなら、それでもいい。一緒にいる中で、彼が私のことを思ってくれる部分に気づいていけるかもしれない。
優しい和隆が私は好きだ。
黒髪の私に対して、優しい目をする彼が好き。私の黒髪を撫でる細長い彼の指が好き。
不機嫌な私をリラックスさせようと、冗談を言ったり、どこかへ連れ出してくれたろする彼が好き。
とっくに吹っ切れたはずなのに、会ってしまうと彼への想いが溢れ出す。
私ってこんなに未練たらしだったのだろうか。
結局、私の好きな和隆は、黒髪の私を見る和隆だった。そして、そんな和隆に接する黒髪の私が、自然体の私だった。
私が髪を染めて、元気を失くした和隆も、そんな彼を振り向かせようと必死になった私も、どこか不自然だった。
変に思い悩んだりしないで、そのままでよかった。
今になってそんなことに気づいたってもう遅いのに。
和隆は遠くへ離れてしまう。無理矢理引き止めることなんて、今の私でもできっこない。
今できるのは、最後の綺麗な別れ。それが私自身が壊してしまった関係への罪滅ぼしという自己満足。
和隆のアパートが見えてきた。
一緒にご飯を食べたり、髪を洗ってくれたり、布団の中でずっと髪をいじられたりした和隆の部屋。
おそろいで買ったマグカップはとっくに捨てられてしまったかもしれない。
最後の横断歩道。歩行者信号が青になって、数十メートル歩いてしまえばそれで終わり。
いやだ。この時間が終わってほしくない。
心が急に騒ぎだす。目の奥が熱くなってくる。
私の焦りとは対照的に、外の景色はどこまでも穏やかで、春を感じさせる暖かな陽気があたりを包み込み、緩やかな風は静かに吹いている。
道路を走る車までも、どこかゆったりと通っていくように感じられた。
そのゆっくりとした空気が、いつまでもいつまでも続いていけばいいのに。
もっとゆっくりゆっくり。どんどん遅くなって、そのまま止まってしまったらいいのに。
でも、どれだけそれを望んでも、どんなに世界がゆっくりと感じられても、時間の流れは変わらなくて、時計は淡々と確実に時を刻んでいく。
歩行者信号が青になった。
その瞬間、鼻が変な違和感を覚えた。ちっちゃな虫のようなものが緩やかな風にのって私の鼻の穴に入ったようだ。
なんということだろう。鼻はむずむずとするし、隣にいる和隆だけには、鼻の穴に虫が入ったなんて恥ずかしいことを知られたくはない。どうやら鼻の奥に入ってしまっている。指を突っ込んでもとれそうもないし、何より彼の横で鼻をほじるなんてできない。
信号が青になっても立ち止まってる私のことを、どうかした?と言う顔で和隆が見ている。
私は何も言えなかった。和隆へのこみ上げる想いを必死で我慢しているのと、鼻に虫が入ってしまうという恥ずかしさで、私の顔は自分でも分かるくらいに真っ赤になっていた。さらにさっきの虫のせいで、くしゃみが出そうで出ない。
和隆は黙ったまま、遠慮がちに私の手を握った。彼にも、これが最後のお別れだと言うことはわかっているだろう。最後に黒髪の私が姿をみせた私の意図をきっと理解してくれている。
和隆の手のぬくもりを通して、私はそう感じられた。
きっと彼の目には、私が感極まって動けなくなってるように見えたのだろう。本当はそれ以外にとても恥ずかしいことを隠しているけれど、そのことは悟られないように、今だけは彼の前で情けない小娘のままでいいと思った。
「はっくしゅん!」
言葉通りの、豪快なくしゃみがでた。くしゃみとともに鼻の奥の虫の違和感も消えた。
鼻がすっきりしたかと思うと、気を抜いてしまって、我慢していた涙が流れてきた。
「豪快なくしゃみだなあ」
和隆は言った。私は涙目で見上げると、彼は遠慮がちにくすくすと笑っていた。
「どうして笑うのよ」
「そっちこそ、どうして泣いてるんだ」
「いいでしょ別に。花粉症なの」
言いながら、涙がみるみる溢れていく。とっさの嘘も、こんなに涙を流していては、意味をなさない。
それでも、私はこの嘘を突き通すことしか出来なかった。
涙を流し続ける私を見かねて、和隆はハンカチを差し出した。
私はそのハンカチを受け取っていいものかためらった。もう会うことのない彼に、涙でぬらしたハンカチを後日洗って返すことも出来ないし、涙を拭いてそのまま返す気にもなれない。
和隆は私にハンカチを受け取ってもらえないので、そのまま私の涙を丁寧にぬぐった。
まだ洗ったばかりの、清潔で温かいにおいがした。和隆がいつも使っていた洗剤のにおい。太陽をいっぱい浴びせたにおい。
和隆のハンカチは、私の涙をどんどんと吸い取っていく。涙はまだまだ溢れていったけど、その涙を全部ハンカチは受け止めてくれていた。
涙が一通りおさまった時、私は和隆の部屋にいた。
道ばたでいつまでも子どもみたいに泣き止まない私を見かねて、おそらくそうするしか彼には選択肢がなかったのだろう。
部屋の中は、荷物が詰まった段ボールがいくつもあって、生活する上で最低限の家具しか出されていない。
以前通っていた頃の部屋からの変貌に、本当に彼が居なくなってしまうのだということが現実的に感じられて、油断するとまた涙がたまってしまいそうだった。
私はベッドに背を預けて、フローリングの床にぺたんと座りながら、その寂しい部屋を所在なげに眺めていた。
家具がなくなると、ずいぶん広い部屋のように感じられる。
和隆は、スーツの上着をベッドに放り投げて、そのまま台所へ引っ込んでしまった。
することのない私は、とりあえずその上着をハンガーにかけて、カーテンレールの上にかけておいた。
そして、テーブルの上に置かれた花束を手にとって、静かに顔を近づけた。
男の人への花束だから、ピンクよりも白や黄色を基調とした花をお店の人に見繕ってもらった。
黄色いフリージアと小さなカスミ草の花束は、ぽかぽかな春を感じさせる。寂しいこの部屋の中で、その小さな花束がほんの少し彩りを与えてくれるように思えた。
引っ越しの合間にもしかしたら花束なんて邪魔かもしれなかったけれど、すぐ捨てられてもいいから、和隆が出て行ってしまうその時まで、この花が寂しさを和らげてくれればいいなと、今は心から思えた。
和隆が右手に二人分のコーヒー、左手に半分に切ったペットボトルを持ってリビングに戻ってきた。
「こっちはお花さん用ね」
和隆はそう言って、ペットボトルをテーブルに置いた。
私は丁寧に花束の包装を解いて、水のたっぷり入ったペットボトルに生けた。
水に生けると、花たちは少し元気になったような気がする。
あくまでそんな気がするだけだけど、フリージアの花が薄暗い部屋に光をさすように、質素な部屋を温かく照らしているように思えた。
和隆は私の前にコーヒーと、二つにガムシロップとミルクを置いた。私がコーヒーを飲むときは、決まってガムシロップを二つ使うことを、彼はまだ覚えていてくれているようだった。
しばらくの間、私たちは何も言わずにコーヒーをすすっていた。
ときおり大きな風が窓を揺らし、相変わらずのんびりと走る車の音が聞こえてくる。
私が髪を染めた日の夜みたいに、お互いの会話がない状況なのに、今日はあの時のようなピリピリと張り詰めた空気は微塵にも感じられなかった。
もっと穏やかな、いつかの日曜日の朝みたいな、ゆったりとした安心感に包まれた空気があった。
和隆は、ときおり私に視線を向けた。でも私が見ると、彼はその視線をすぐに引っ込めて、目の前に生けられた花を眺めたり、マグカップの中のコーヒーに視線を落としたりした。
その時の和隆の気持ちが、私はなんとなく分かっていた。
彼は私になにか言おうとしている。でも、何から言っていいのか分からない。そんな感じ。その気持ちは、私もそっくりそのまま同じであったから、私も何も言えないでいた。
ゆるやかな時間の中で、焦る必要はなにもないように感じられた。それでも、時間は着実に進んでいる。
「ひとつだけ、お願いをきいてもらえる?」
先に口を開いたのは、和隆の方だった。少し緊張した面持ちの彼を見て、私まで少し緊張した。
私はゆっくりと首を縦に振った。
「一年半前、璃奈が作ってくれるはずだった朝食を、今作ってほしい」
あまりに意外な言葉が和隆から出たので、私は呆気にとられて口がぽかんと開いてしまった。
そういえば、私が髪を染めた日の夜、私は和隆に朝食を作る約束をして、追い返そうとする彼の言葉にも耳を貸さずに、彼のアパートに押し入った。
そこで少しだけ話をして、結局その日は夜のうちに帰って、朝食を作らずじまいだった。
「朝食って、もう夕食の時間だよ?」
私は言った。
「いいんだ。時間は関係ない。朝食と言ったら朝食だ。璃奈の作る味噌汁とししゃものご飯が食べたい」
あまりに真剣に、まっすぐな目をして彼は言った。
私は、とうとう我慢できずに、吹き出して笑ってしまった。
「なんで笑うんだ。自分でもおかしいことを言っているとは思うけど」
和隆はむっとした顔で言った。
「ごめんね。おもわず、可愛いなと思っちゃって」
私は笑いながら、また涙が出てきた。泣いたり笑ったり、和隆はさぞ私のことを変な女と思っているに違いない。
目の前のフリージアも、笑っているように一層明るく見えた。
和隆はむすっとしながら、ハンカチを差し出した。
今度は遠慮なく受け取って、私はこぼれる涙をケラケラと笑いながら自分で拭った。
「しばらく会わない間に、ずいぶんと涙もろくなったもんだね」
和隆は言った。
「前の璃奈は、あまり表情を表に出すような感じじゃなかったと思うけど」
「こうなったのは、きっと和隆のせいだ」
私がそう言うと、和隆は目を丸くした。
「朝食を作ってもいいけど、私も一つだけ、お願いを聞いてもらえる?」
今度は彼の方が、少し緊張したようにうなずいた。
私は、今からいうお願いを聞いたら、和隆はどんな顔をするだろうと想像してみた。
もしかしたら少しためらうかもしれない。
でも、きっと聞いてくれると私は思っていた。
黒髪の私は、いつだって彼の前ではわがままでいられることを、私は知っていたから。
この作品は、あるとき旅行に行って、その時バスに乗っていた際前の座席に乗っていた女の子の黒髪がすごく綺麗で、その時に思いついた作品です。二人の主人公の視点から物語を進めていきましたが、その二人の心情がうまく描けたかどうかに不安もあり、ラストを何度も試行錯誤して、なんとなく今の形でまとまりました。もう少し長く書いてもよかったかもしれません。




