産女(うぶめ)
‡‡‡
あそこの交差点、出るんだってよ……。
夕刻の電車は、家路を急ぐ人達によりとても混雑していた
ガラス越しに広がる街の景色は、すべてがオレンジに染まっている
私は電車の揺れに合わせ、体を左右に揺らし、その景色を眺めていた
ほどよい揺れと見慣れた景色、それが仕事の疲れも相俟って、私に眠気を誘ってくる
その会話の声が聞こえて来たのは、眠気を堪えながら小駅を三つ過ぎた辺りだった。
あそこの交差点、出るんだってよ……。
‡‡‡
その声はとても小さな男の声だった……
耳を澄まさないと聞き逃すくらい……小さな声。
そんな小さな声が、私の耳元で囁かれたように、聞こえて来たのだ。
幽霊に興味は無いし、幽霊はこの世にいないとさえ思っている
それでも、とっさに声のする方を振り向むいた
振り向いたその先には、座席に腰掛ける若いカップルの姿があった
眠気を堪えていた私は、眠気覚ましとばかりにそのカップルの会話に耳をそばたてた……。
「ハア? 出るって……ちょっとやめてよ、怖いからぁ!」
女はそう言うと顔をこわばらさせ、鋭い視線で相手の男を睨んだ。
しかし、その表情を見た男は、愉しそうに口を緩ませ、話しを続けた……
「本当だって!!!
友達も見たってさ……
あそこの交差点はマジ出るって」
ウソよ〜……
女はそう言い切ると、頬を膨らませた
私も同感だと……
気付かれないように、かすかに頭を頷かせた。
「あそこの交差点は本当に出るんだって!!!」
男はなおも強い口調でそう言い
交差点に幽霊が出るという怪談話を始めた……。
その怪談話とは……
霧の濃い満月の夜、ある交差点に女の幽霊が出るという話し
女は長い髪を垂らし、腰を少し曲げ交差点に佇む
その両手には赤子を抱き、容姿は端麗なのだという
女は通り過ぎる男達を呼び止めると
「赤子を抱いて……」
そう懇願してくるのだ
呼び止められた男達は、女の美しさに鼻の下をのばし、つい快く赤子を抱いてしまう
しかし、その赤子を抱くと、みるみる赤子の体重が重くなってくるのだ
余りの重さに抱いていられなくなり、慌てて赤子を女に返そうとするのだが
目の前にいた筈のその女は、煙りのようにいつのまにかいなくなり
残された赤子も、混乱する男を尻目に、温もりだけを残し消えてしまうのだという……。
話し終えた男は、満足げな表情を女に向けた
しかし女は、呆れた表情で男を見ると、すぐに携帯へと視線を移した。
そして私はというと、眉間に皺を寄せ、遠い視線を窓の外に送った……
そもそも怪談話とは、すべてが与太話なのだ
今男が話した怪談話も、有り触れた与太話だった
有名な怪談話、産女ではないか!
何時ならフッと鼻を鳴らし、聞き流すような与太話だ……。
だが、今男から聞いた怪談話、私には聞き流すことが出来なかった。
聞き流すことの出来ない理由があった
女の幽霊が出るという交差点、その交差点が、私にはとても大切な場所だったからだ……。
‡‡‡
電車が駅に停車すると、若いカップルも含め、大勢の乗客を降ろす
溢れていた乗客は、引き潮のように車内から消えていった
私は取り残された渡り鳥のような気分で、烏合の衆が去った車内を見渡す
不穏なくらいに静まり返った車内……。
そこには私と同じく取り残された乗客が、疎らに見えているだけだった
少し前まで大勢の乗客を乗せていたことを、微塵も感じさせい。
「ハァー、疲れた」
私は閑散とした座席に腰を卸すと、疲れた身体を背もたれに委ねた。
身体の異変に気づいたのは、それからすぐ後のことだった……。
怪談話のせいだろうか?
心臓の鼓動が早く熱くなっていた
幽霊などこの世には存在しない……
私はそう信じている。
それなのに私の心は高ぶっていた
否定していながら、無意識にそれを想像しているのだうか?
霧の濃い満月の夜
交差点に現れるという
女の幽霊のことを……
幽霊などこの世にはいないというのに……。
「ハァー……」
そう頭で思い、大きなため息を吐く
私は徐に胸元から財布を取り出し、中から一枚の写真を手に取る
それは私が肌身離さず持ち歩く、大切な写真
その写真を見ながら
『幽霊なんかいない』
私は心のなかでもう一度呟いた。
数分写真を見つめたあと、丁寧に写真を財布のなかにしまう
そして私は顔を上げ、正面の窓に視線を向けた
そこには反射して映る顔が見えている
それは疲れ果てた表情をした私の顔だった……
「ふっ……」
窓に映る自分の顔に想わず鼻を鳴らす……
鼻を鳴らしたのは、疲れ果てた自分の顔が可笑しかったからではない。
幽霊がいるのではと、一瞬でも想た自分の顔が、滑稽に見えたからだ。
しかしその滑稽な顔が、身体のなかで高ぶっていた気持ちを和ませた……。
そしてそれは同時に、いつの間にか忘れていた睡魔も、私に思い出させる
何時もは厄介なその睡魔が、今の私にはとても嬉しく思えてくる
怪談話を頭から消し去せるには、一番楽な方法だったからだ。
漣のように押し寄せる睡魔に、私は身を任せながら静かに眼を閉じた……。
‡‡‡
白と黒で彩られたその空間は、お経を唱える住職の声がよく響いていた。
まるで糸の切れた操り人形のように……
ただ黙って座りながらそのお経を聞き、祭壇に置かれた遺影をじっと見つめていた。
「車を運転していた男
飲酒だったんだって?」
焼香を済ませた伯母が私の前に座ると、怪訝な表情でそう言う
私は言葉を出さず、コクリと頭を頷かせた
「辛いと思うけど……
元気出しなよ」
「…………」
「あんたがそんなじゃあ
いつまで経っても成仏できないでしょ……」
私は何ひとつ答ることが出来ない……
うつろな眼をし、ぴくりとも動かず放心する私に、伯母はそう言うと、哀れみの表情で立ち去っていく
親戚の人や、会社の仲間、嫁の友人達が、かわるがわる私の前に座ると、お悔やみの言葉をかけていく
心に穴が開いたように放心する私に、その言葉は届いてはこない
何も考えれず、ただ相槌をするしか、この時の私には出来なかった。
それは当然のことだ
私の大切な人が、いっぺんに二人もこの世からいなくなったのだから……
それからの半年という時間は、私にとって残酷な時間になった。
傷ついた心を癒やすには、半年という時間は十分な時間だった
だが、その半年は心を癒すと同時に、私から記憶を奪っていった。
時間が経つほどに、大切な人の声を思い出すのが、難しくなっていく
写真という物が無ければ、大切な人の顔ですら、私の海馬は、記憶の中からそれを削除するのだろう
生まれて初めて、時間が経つことが、とても恐ろしく想えた……
そしてなにより、人間の記憶などという物が、そんな曖昧な物なのだと、私は絶望した。
‡‡‡
あ・な・た……
それは聞き覚えのある声だった
嫌な夢を見ていた私は静かに瞼を開け、慌てて車内を見渡す
怪談話を聞いた時から、思い出すのが難しかったその声が、脳裏に鮮明に蘇っていたのだ
乗客は途中の駅で降りてしまったのか、他に人影は見えない。
空耳なのだろうか?
空耳なのだろう……
そう言い聞かせる。
『次の駅は――』
車内放送が流れ、それは私に最寄の駅が近いことを伝えた。
家が近づくほどに、淋しさを覚え、気が滅入ってしまう……
「ふー……」
ため息を吐き出しながら視線を窓にスライドさせた
外は漆黒の闇に覆われ、もう夜になっている。
反射して見える私の顔は、相変わらず疲れの色を見せていた
顔の横には丸い光が映っている……
それは、奇しくも今日が満月だと私に気づかせた
そしてその綺麗な満月は、私に又、あの怪談話を思い出させた……。
今日も赤子を抱いた女の幽霊は、交差点に現れるのだろうか……?
私はつい……そんな与太事を、頭に思い浮かべてしまった。
「いや……何を考えてるんだ私は?」
そう言いながら怪談話を頭から振り払う
そして写真を再度手に取り、そこに映る女性に視線を落とした。
一粒の雫が、写真に零れ落ちる……
その雫は、私の目から零れた涙だった……。
「会いたい……」
私は写真を見つめながら、自然にそう呟いた。
写真に写る女性――それは私の妻だった……
しかし、その妻はもうこの世にはいない……。
七ヶ月前、飲酒運転の事故に巻き込まれ命を奪われしまった。
赤子を抱いた女の幽霊が出るという交差点
その交差点で……。
そんな偶然がある物だろうか?
幽霊などはいない。
それを解っていながら
もしかしたら……
もしかすれば……
そんなあやふやな気持ちが、あの怪談話を聞いた時から少しずつ、私の心を支配していた。
交差点に現れる女の幽霊というのが
もしかしたら……
妻なのでは……。
女の幽霊が抱く赤子というのは
もしかすれば
私の……。
‡‡‡
今すぐ病院に来て下さい。奥様が交通事故で重体なんです……。
その報せを聞いたのは、残業中に鳴った携帯からだった。
私はすぐに残業を切り上げ、タクシーを拾い、あわを食って病院に向う。
「妻は! 妻は無事なんですか!?」
病院につくなり、看護婦にそう詰め寄った。
「今は手術中ですので、落ち着いて下さい」
看護婦はそう言い、足早に手術室のなかへと消えていった
残された私は落ち着くことなど出来ず、手術室の前をいったりきたりしながら、赤く光る掲示板を固唾を飲んで見つめた。
それはどれくらいの時間だったのだろう……
短かったのか?
否、
長かったのだろう。
時間という概念さえ欠落するほど、長かったのだ。
その時間の長さが、私の不安を膨脹させた。
赤く光る掲示板が緑色に変わったのは、その不安が限界まで膨脹しかけた時だった……。
手術室の扉が開き、黒い影が揺らめく
それが医者なのだと確認すると、私はすぐに黒い影に駆け寄った。
「先生、妻は……。妻は先生……」
医者は渋い表情を浮かべる
「最善を尽くしたのですが運ばれた時にはもう…」
手の施しようがなかったと、そう言った……
「そ、そんな……」
余りのことに、私は手で顔を覆い隠す。
なおも医者は深刻な表情で話しを続けた。
「それと……
お腹のお子様ですが」
「え!……子供?」
はい。と、医者は頭を頷かせた。
「ご存知ありませんでしたか……。
奥様のお腹の中には、三ヶ月の子供がいたんです」
「こ…ども……?」
それは、どうにか体裁を保っていた私の身体を、打ち砕いた。
私はその場に崩れ落ちるように座り込んでしまう。
そして、はらわたがちぎれる想いになった。
大切な人を、二人もこの世から失ったのだ。
妻と……。
産まれる筈だった……。
子供を……。
‡‡‡
満員電車のなかで、私がカップルを見掛けたのは偶然なのだろう
しかし、私があの怪談話を聞いたのは必然だったのだと想う……。
霧の濃い満月の夜に、交差点に出るという赤子を抱いた女の幽霊
その女の幽霊が、私は妻なんだと確信していた。
妻が死んだのは七ヶ月前
妻は妊娠三ヶ月だった
妻が子供を身篭り、ちょうど十ヶ月……。
私は思う……
道行く人に赤子を抱いてもらいたいのでは無い
産まれる筈だった子を、私に抱かせたいのだ。
妻と子供は待っているのだろう……
私が交差点に来ることを二人でずっと……。
そのことに気付いた時、電車はスピードを緩め、静かに駅に停車した。
無意識に溢れ出していた涙を、私はそれをスーツの袖で拭い、座席から立ち上がった。
駅の外に出ると、霧がやさしく私を包み込む
漆黒の空に輝く満月は、温かく私を照らしていた。
私は歩き出す
妻と子供の待つ
交差点へ……。
‡‡‡
駅から徒歩10数分、細い路地を抜けると忽然と見えてくる交差点。
赤子を抱いた女の幽霊が出ると、巷で噂になっている交差点
妻が七ヶ月前、事故に遭い命を絶った交差点。
私は今その交差点に立っている
それは、もうこの世にはいない妻に会うため……
産まれて来る筈だった我が子を、この腕で抱きしめたいがため……
そのために私は此処に来たのだ。
交差点は11時前だというのに、人影は疎か車の走る姿も見えない。
信号機は一時停止を促し、点滅している
霧は更に濃さを増し、視界は2メートルにも満たない状態
満月の明かりすらも、届いてはこない
それらが交差点に、底知れぬ不気味さを醸し出させている。
私は目を凝らし辺りを見渡す。しかし、何も見えてはこない。
ただその場に立ち尽くし、ひたすら待つことしか、私には方法がなかった。
10分が経ち
30分が経ち
1時間が経つ。
何も現れない。
何も起こらない。
何も変わらない。
それが現実だった……。
この世に幽霊なんていないのだから……
そう心のなかで思いながら、目頭が熱くなり、涙が溢れ出す。
最初から解っていた
私が望んだことは現実では無く、理想なのだ
幽霊など、いる筈がないのだから……。
私にはもうこの交差点にいる理由が無くなった
いくら待っても妻にも子供にも会えないのだから
張り詰めていた緊迫感が弾け跳び、体の力が抜け、疲れがどっと押し寄せた
「あっ……」
その疲れは足を縺れさせ、思わず吐息が漏れた
体のバランスを崩した私は、交差点のなかに倒れ込んでしまった。
交差点のなかは、辺り一面、霧で白い世界になっている。
足に力を入れることが出来ず、私はなかなか立ち上がることが出来ない
その時、霧の向こうからまばゆい光りが、もたつく私を照らした……。
ビッビーー!!!
キィーーー!!!
ドン!!!………。
鈍い音と共に、私の体に衝撃が走る
体は重力に反して宙に浮き、視界がグルグルと目まぐるしく回り
そのまま地面に、勢いよくたたき付けられた
「あぁ……うぅ……」
全身に激痛が走り
景色が赤く染まる
意識は遠のいていく
「お…ん……な………」
薄れゆく意識のなか、視線の先に、赤子を抱く女の姿が見える
その女が、交差点に出るという幽霊なのか、それとも私の妻なのかわ、はっきりとは解らない……
女は、恨めしげに私を見つめ、微かに笑みを浮かべていた
まるで……
私が車に轢かれたことを、喜んでいるかのように微笑んでいる……
しかし
そんなことは私には関係ないのだ
なぜならそれは
忘れかけていた大切な記憶を、思い出させてくれたのだから……
私は
「やっと会えた……」
そう呟いた……。
‡‡‡
「また此処か?」
「はい……運転手の話しですと、突然交差点に飛び出してきたらしいです」
「これで何件目になる?」
「もうかれこれ7件目ですかねぇ」
「ハァ〜、此処は呪われてるな?」
「あれっ! そうゆうの信じてるんですか?」
「いや〜、信じちゃいないがなぁ……最初の事故は4年前だったなぁ」
「そうなんですか?」
「あぁ。被害者は妊婦でな、トラックに轢かれて、お腹の子供と即死だよ、悲惨だった……」
「………」
「んー……。あれから七ヶ月置きに死亡事故か、やはり呪われてるよ」
「偶然ですよ……。あ! そう言えば、こんな話し知ってますか?」
「なんだ?」
「霧の濃い満月の夜、赤子を抱いた女の幽霊が出るって怪談話」
「………よせよ、そんな与太話」
END




