ホーリーシットなサイレントナイト
チキンの後には、デザートのショートケーキ。クリスマスの定番である。
買ってきたのは駅前にある人気店のケーキだ。寒空の下、三時間並んで手に入れたクリスマス限定ケーキ。お値段なんと8000円。直径15cm程のホールケーキが、だ。今日が特別な日でなければ絶対に買ってこないであろう高級品だった。
中央に乗っているのは砂糖細工のサンタと、それから一組の男女。王子様とお姫様に扮したそれは、もちろん俺と彼女を表していた。その精巧な造りからは、素人目に見てもそんじょそこらの砂糖細工とは違う、高い技術が見て取れる。食べるのがもったいないくらいだ。
でも今日は、今日くらいは、こんな贅沢も許されるだろう。
俺はケーキナイフを手に取ると――それをお姫様に向けて振り下ろした。
「クリスマスなんてクソ食らえッ!!」
力み過ぎたか、狂った手元がサンタをスポンジの地面へ生き埋めにした。クリームの間から覗く優しい微笑みがシュールだ。それがまた俺を苛立たせる。
まどろっこしくなって、今度は素手でお姫様を掴み取った。サンタのそれより幾分女性らしさを意識した綺麗な微笑み。恨みを込めてその甘い瞳を睨みつけた後、俺は頭から噛み付いた。砂糖の砕ける音がする。首のないお姫様が生クリームに受け止められる。そこにまた顔から突っ込んで、後はもうめちゃくちゃだった。
視界はひたすらにまっしろで、口の中はひたすらに甘くて。
どんなに上品な生クリームでも、これだけ食えば胸焼けも起こす。すぐに胃腸が拒否反応を示した。俺は喉元までせり上がってきたそれを何とか押さえ込んで、慌ててトイレへ駆けるとまだ高い打点でそれをぶち撒けた。
胃液と、強いアルコール臭。
当たり前だ。今日は昼間からずっとやけ酒をしていたのだから。
当たり前だ。クリスマスに、彼女に振られたのだから。
便器に入りきらず床や壁に飛び散った吐瀉物をぼんやり眺めていると、急に自分の惨めさが際立って感じられてきた。
「くそ……くそぅ……」
別に喧嘩をしていたわけじゃない。特に何があったわけでもない。
それなのに、どうして今日になって急に。
自分ではどんなに考えてもわからないし、彼女も答えを教えてはくれなかった。
後にはただ独りぼっちで惨めな自分だけが残った。
と、そんなことを考えていると思考が晴れてくる。あるいはアルコールを吐き出したせいもあるかもしれない。
いかんいかん!
とにかく今日はもう何も考えまいと、まだ明るい内にそう決めたのだった。
俺は思考を誤魔化すように頭を振って水洗レバーを引いた。
もう彼女のことなんて知らねえ! トイレの掃除も知らねえ!
洗面所で口だけゆすぐと、さて今度は何を飲もうかとリビングへ戻る。シャンパンか、ワインか。ケーキと同じで、今日は高級酒がよりどりみどりなのだ。ぶっ潰れるまで飲んでやる。
そうして、部屋のドアを開けた時だった。
「――あ、」
「……んぁ?」
俺が、ベランダに立つ赤い服のそいつを見つけたのは。
ガラス越しにしばし見つめ合う。
もちろん鍵なんてかけていなかったので、窓は三分の一程開けられていた。その向こうに立っているのは、ここ最近街やテレビでよく見かけたあの赤服を着て、白い袋を背負っていた。
「サン、タ……?」
そう、つまるところそいつはサンタだった。赤い帽子、赤いコート、赤いズボン、黒い長靴に白い袋。それはどこからどう見てもサンタだった。
ただ一つ、帽子の下のその顔が、若い女性のそれであるということ以外は。
「ふぉっふぉ、見つかってしまったか」
やがて、女サンタは困ったように笑い出した。
「もう寝てるかと思ったんじゃがのう」
言われて枕元のデジタル時計に目をやると、いつの間にか時刻は深夜の二時を回っていた。ちょうど昼の二時頃から飲みだしたから、単純計算で既に半日もこの部屋で飲んでいたことになるのか。サンタの登場よりも、そんな事実に俺は驚く。
「って、うわぁ、きったなぁ……」
「へ?」
と、俺が呆けている間に女サンタの視線は机の上へと向けられていた。そこにあるのはぐちゃぐちゃになった高級ケーキと転がされた酒瓶の数々。
「何あんた、どうしたのこれ……」
「いや、ていうかお前喋りか」
「あー言わなくていい、わかった、あれでしょ、せっかく頑張って準備したのにドタキャンされたんでしょ! 彼女に!」
「ふぐぅっ……!」
それはブロークンハートをミキサーにかけてさらに細かくするような、非情な一言だった。
いや、知ってはいた。俺は、自身の現状を正確に理解していた。
だけど、それを自分で言うのと他人に言われるのとでは意味合いが全然違う。
「ふぇぇ~~~~!」
「おーよしよし、泣きなさい泣きなさい、お姉さんの胸で思い切り泣きなさい。その方が楽になる」
とうとう泣きだしてしまった俺の背中を、女サンタが優しくさする。さすってくれる。それだけで、何だか俺は心を許してしまった。途端に俺の口からは次々と言葉が溢れてくるのだった。
「悔しい、悔しいよぅ! 俺は悔しいよぅ!」
「うんうん、そうだね、悔しいよね」
「大学からの付き合いでさぁ! 就職して、お互い大変なこともあったけど支えあってさぁ! 五年! 五年だぞ!?」
「うんうん」
「それを突然、何なの!? 理由も言わずに、よりによってこんな日に!?」
「うんうん、ひどいよね、嫌だったよね」
「くそぅ! 俺がこの日のために一体どれだけ頑張って準備をしたか! 今日明日無理して休みを取って! 一人じゃ絶対手を出さないような高いご飯とお酒を買って! それでこの仕打ち!? そんなのってありなのぉ!?」
「うんうん、なしなし。あんたは何にも悪くないよ」
「ふぇぇ、サンタさぁん!!」
「はいはいサンタですよ、サンタのお姉さんですよー」
もはや恥ずかしさなどなく、俺は女サンタの腰に抱きついた。そうして、ただただ子供みたいに泣きじゃくった。女サンタはやっぱり優しく背中をさすってくれて、俺は深い安心感に包まれる。
「本当はさぁ! 今日プロポーズするつもりだったんだぁ!? そりゃ、ロマンチックではないかもしれないけどさぁ!」
「ほほう、プロポーズ。するってぇともちろんあれも……?」
「指輪ぁ!? そりゃ買ったよぅ! ほらそこ!」
俺は実家から持ってきた小さなクリスマスツリーの根本を指さした。そこには、いかにもクリスマスプレゼントな風に包まれた、給料三ヶ月分の指輪が入っている。おそらくもう、誰もはめることのないであろう指輪が。
すると、女サンタが突然明るい声を出した。
「よぉし、仕方ない! 今夜はお姉さんがクリスマスパーティに付き合ってやろう!」
「ほ、本当……?」
「おうともよ! これでも私はサンタだからね。あんたには物よりもそういうプレゼントの方がいいだろ!」
言うなり、女サンタは机の上のゴミを適当に片付けて、まだ封のしてあるシャンパンを開けると俺のグラスへと注いでくれた。
「さあ飲もう! お姉さん、いくらでも付き合うよー。話も聞くよー」
「さ、サンタさぁん!」
俺にはその時、女サンタが天使に見えた。そうして、女サンタと二人のクリスマスパーティが始まったのだった。
女サンタは、俺がどんな話をしても笑ってくれた。それが嬉しくて、俺はますます饒舌に話をした。グラスが空けばすぐに新しい酒を注いでくれて、俺がケーキを勧めると喜んでそれを食べ、「何これ!? うっま!?」と更に喜んでくれた。
もう、最高な気分だった。
一人の寂しさを埋めてもらえて、俺の努力も無駄にならなくて、最高のプレゼントだった。
「はぁ~~、お姉しゃんみたいな人が彼女だったらよかったのににゃ~~」
「はっはっはっ、見る目があるねぇあんた! でも残念、お姉さんは非売品でーす」
「うぇえ~~~~~~?」
繰り返すが、もう本っ当に俺は最高の気分だったのだ。
一人で飲んでいた時とは違い、飲めば飲むほど気持よくなって、頭がホワホワ身体がポカポカしだして。
そんな状態になって、眠くならないわけがないのだ。
「お姉しゃん、ひじゃまくらしてぇ~~~~?」
「ええー? もう、仕方ないなあ」
「うわは~い~~!」
そうして、とうとう俺は女サンタの膝の上でいびきをかき始めてしまった。しつこいようだが、本当にもう、人生で最高の気分だった。
――翌朝、目が覚めるまでは。
「んぐっ、痛っつつ……うをぇ」
起きたのは、もう日が昇って大分経ってからだったと思う。俺は床で寝ていて、完璧に二日酔いになっていた。頭が死ぬ程重くて、胸がムカムカとして、俺は節々の痛む身体を引きずってトイレに這い進むと、堪らず便器にすがりついて嘔吐した。
一通り吐き終わると、そのまま便器に顎を乗せて考える。
昨日のあれは何だったのだろう。もしかして、夢でも見ていたのだろうか。
部屋にはもう、女サンタがいた痕跡などどこにもなかった。
あるのは、生クリームでベトベトの机と、あちこちに転がる空き瓶のみ。部屋に戻ってそれを見て、俺はさすがにげんなりした。
とにかくは、これを片付けることから始めようか。
そう決めて、そばにあったワイン瓶を拾い上げた時だった。
ピンポーン、とチャイムが鳴ったのだ。
こんなタイミングで誰だろう。訪問販売だとか、宗教勧誘だったら嫌だなあ。
そう思ったのだけれど。
「はい?」
「あ、お忙しいところすみません。県警の鈴木と申しますー」
チェーン分の幅から見たドアの外には、何と警察が二人立っていた。一発で頭が覚醒していく感覚があった。血の気が引いて、それなのに心臓だけは馬鹿みたいに鼓動を打つ。
――俺は、何かしてしまったのだろうか。
と、そんな俺の様子を察してか、県警の鈴木さんはほんの少しだけその表情を崩した。
「ああいえ、別に逮捕令状を持ってきたとかそういうことではないので」
「え、あ、そうなんですか……」
正直めちゃくちゃ安心した。一気に肩の力が抜けて、俺は座り込みそうになる。
でも、それなら一体何の用なのだろう。それが疑問で、俺はまた鈴木さんに目で訴えた。
「実は昨晩、このマンションに住んでる方で泥棒に入られた方が多くいらっしゃいまして」
「泥棒……?」
「はい。なので、被害に遭われていないかの確認と、もし何か知っていることがあれば教えていただきたくお訪ねしたのですが……」
「いえ……うちは、別に…………あ」
突然、嫌な予感に襲われた。いや、でも、まさか。そんな俺の逃げ道を塞ぐように、鈴木さんは泥棒の情報を口にした。
「他のお宅では、何でもお子さんが昨夜『サンタさんが来た』とおっしゃっているそうで」
「サンっ……!」
「あっ!」
その瞬間、俺は部屋へと駆け戻っていた。昨夜から変わらずに散らかった部屋が迎えてくれる。そう、何も変わっていないと思っていたのに。
「ない! ないっ!? ない、ないないないないないない……な! い!?」
だけどどんなに探しても、ツリーの根本に置いてあったはずの指輪が見つからなかった。
俺の給料三ヶ月分が、なくなっていた。
「うわああああああああああああああ!! なああああああああああああいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
「ちょっ、どうしました!? 何がないんですか!?」
玄関の方から鈴木さんの声がする。警察が俺を呼んでいる。
だけどもう、それに答える余裕など俺にはなかった。
思い出されるのは、優しかった元カノと、優しかった女サンタ。
楽しかった元カノとの思い出、楽しかった昨夜の思い出。
そして、突然裏切られた悲しみ、怒り、悔しさ。
「あああああああああああああああああああああっ!?」
「どうしたんですか!? どうしたんですかっ!?」
「もう女なんて嫌いだああああああああああああああああッ!!」
こうして俺は、めでたく女性不信になったのだった。
――了