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第十六幕『魔術』

 レナ姫が悪魔の姿の男にかけられた術は、忘却魔術と言われるものだろう――この世界にはそういった魔術、魔法が存在する。

 この世界の本来の忘却魔術とは、戦場の医療から生まれた概念だった。戦場で傷つくのは身体ばかりではなく、精神にも深い傷を負わせた。それは生涯消えない傷となり、その記憶はその人物を一生苦しめ続ける。そこで忘却魔術というものが生まれた。

 しかし、高度な技術を要することもあり、忘却魔術を使える者は限られていた。全ての魔術師が忘却魔術を正しく使えるというわけではなく、また、別の目的で悪用しようと考える者も少なからず存在した。

 悪徳魔術師は当然裁かれるのであるが、忘却魔術を使う場合は綿密な計画を報告し、許可を国から得ることが必要なのだった。どんなものであれ人の記憶を消すものなのだから、それは当然と言えば当然だ。

 私利私欲のためにこの術を使う者は、文字通り悪魔とされた。それを判断する事は、どんなに誠実そうな見た目や厚い信頼を得ていようと、そればかりでは難しい場合がある。悪事を企てる者の思考は読めない。

 しかし、この男が邪悪なのは何も見た目に限った事ではなかったという事だ。


「しっかし、参ったぜ。まさか一国の姫が“見える”とはな」

男は劇場を慌てて飛び出し、その上空に浮かんでいた。

「……あ」そして自分の過ちに気が付く。

「どうせならあのまま、さらっておけばよかったな……」

忘却魔術を先程のように使えるのなら、姫を連れ去り、周りの記憶を消すという方法もあった。ではなぜそうしなかったのか。それにはどうやら、この男の能力と魔術が未熟だという欠点が関係ありそうだ。術はその労力と引き換えに、男に副作用をもたらすようだ。何やら男は顔をしかめ、頭を抱え始めた。

「う……さすがに術を使いすぎた、な……」

そのままふらふらと下降して行き、そして気を失った。城の傍ら、木の茂みの中に落ちていった。



――



 レナ姫は先ほどの憂いが晴れたかのように、観劇へその身を没頭させていた。劇場にいる観客共々、怪物となり果て国を脅かす存在となったエリオを憐れんでいる。エリオは国民さえも襲い、脅威として恐れられ、憎まれた。それは憎悪の怨念として怪物の中で増幅していき、さらに凶悪な悪魔の騎士へと力をつけてしまったのだった。


 悪魔に魂を売ったことと引き換えに、ダークナイトへとその身を堕落させたエリオ。しかし皮肉なことに、ジュリエッタは生きていた。姫という地位を捨て、衣服も脱ぎ姿を変え、独り国を逃げだしたのだった。それをエリオは知らない。いや、今のエリオにはそれを知ることはできない。

 自我を失い、人の言葉をきく事のできる耳はもはや残っては居やしない。心というものや愛というものは、昔のように純潔なものには戻らないだろう。エリオを染めてしまった黒という色は、何色であっても塗り替えることはできないのだ。


 そんなエリオの姿を心配そうに見つめるレナ姫。そしてそれを安心したように見つめる、一人の騎士がいた。

(姫様、あんなに楽しそうにお芝居を観られて……)この青年はやや鈍感だが、姫に豊かな表情が戻ったことを心から喜んでいる。おそろしく単純な男なのだ。


 舞台の時は進み、『ダークナイト』に対抗する存在として一人の聖なる騎士が立ち上がる。『ホーリーナイト』。これはエリオの微かに残っていた良心の表れだと、この演目の熱狂的なファンの間で一考として囁かれていた。


 聖なる騎士は、その暗黒と化してしまった上空、邪悪な騎士と一騎打ちを繰り広げる。

黒い槍と白い槍。

それらは何度も火花を散らす。

ぶつかっては離れ、槍の先が互いの脳をかすめては通り過ぎる。

互いが互いをただ、滅ぼそうとする存在。

そしてそれ自体が互いの存在する理由となっていた。

 国を恐怖の渦に陥れ、ただの暴徒と化した邪悪な騎士『エリオ』を止める方法は、もはやただ一つを残すのみ。

それは、ホーリーナイトの槍によって心臓を一突きにすることだ。

それができなければダークナイトは、更なる惨劇を起こす。

そして殺戮を繰り返すであろう。

もはやその死を持ってしか止めることはできなくなってしまったのだ。


 ダークナイト――黒馬にまたがる暗黒の鎧の騎士。

それに対するホーリーナイトは、白馬にまたがる白銀の鎧の騎士。

その騎士は背中に聖女を乗せていた。

尼寺にいるその恰好をした聖女は、きらびやかな衣装を身に付けてこそいないが間違いなくジュリエッタなのだろう。

 しかし、悪魔に心を奪われたエリオには、その姿は見えていない。

 ジュリエッタはエリオに対し、何度も声を投げかけた。

「ああ、エリオ。

どうか聞いて。

あなたはエリオなのですね?」

兜と甲冑にその身の全てを蔽い尽された、男のその表情は少しもわからない。

それでもジュリエッタは言葉を投げかける。

「エリオ?

エリオ!

私の声が聞こえないの?」

ジュリエッタはひたすらエリオの名前を呼ぶ。

「私です!

ジュリエッタなのです!

あなたの事を愛するジュリエッタは、ここにいます!」

脳に憑りつく兜の、男のその表情は微塵も変わらない。

「私の愛しいエリオ。

あなたの事を想わなかった日はありません。

今でもこんなに、あなたの事を……愛しているのです!」

ジュリエッタは震えながらも、エリオに想いを伝える。

エリオを救いたい――昔のエリオに戻って欲しい。

その一心だった。


『私の事を思い出して』――意を決しジュリエッタはそこから身を投じた。

その瞬間にバランスを崩し、聖なる騎士も降下していった。

それをダークナイトはただ一進に槍を構え、急降下していった。

ホーリーナイトとダークナイト。

そのどちらもジュリエッタの方を目がけ、走った。

ジュリエッタの命を救えるのは、果たしてどちらか。


 観客は皆、息を飲んだ。




                                -第十七幕へ-


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