弐:シュガースティックと異母姉弟
窓際の風通しのいい席。
プルタブに指をかけると、カチッと気持ちのいい音がして、すぐにブラックコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
食堂から拝借したスティックシュガーの先を引きちぎり、缶の飲み口に突っ込む。
もう一本。
さらにもう一本。
そして、もう一本――
「うわっ、…何気持ち悪いことしてるの? ユギ」
教室に帰ってきた柏木俊が、目を丸くしてひょいと横から覗き込んできた。
この男は、俺が引き取られてから移った小学校で出会って、そこから中高と同じの幼なじみと呼べる存在だ。背の高い優男で、昔から結構モテるが、本人は合気道やら他のスポーツやらに夢中で全く自覚がない。 少し抜けているんだと思う。
「どうせ砂糖入れるんだったら、元から入っているやつ買いなよ」
「うるせぇ。手ずから極甘コーヒーを作りたい気分なんだよ」
俺は中学の頃から英語ができない。あんなたった26文字でできたものなんて、ややこし過ぎて無理だ。
今日のテストの単語だけを書くところなんて、20個中8ぐらいしか埋めてない。埋めたとこすらも、あってるか危うい。
購買で半額になっていたパック牛乳からストローを取り、コーヒー缶に差し込んで掻き混ぜる。少し吸ってみると、舌に溶けかけの砂糖がこびりつくほどの気持ち悪い甘さで、急いで牛乳を飲んだ。思わず息をつく。
「ほら、入れすぎなんだって」
「いや、これでいいんだ」
再び缶に口をつけたところで、俊はやれやれというように肩を竦めて黒板に向かっていった。
放課後の、俺達しかいない教室はがらんとしている。今日のテストは昼までには終わり、他の生徒はとっとと下校するなり、食堂や図書館や自習室に行ってしまっている。別の教室で友達と勉強している奴もいるだろう。
「えーっと、明日は一限目が公民で…」
とブツブツ言いながら、俊が黒板に明日のテストの日程を書いていく。
今日は俊ともう一人が日直だったのだが、体よく押しつけられたようだ。提出の古文のノートも、こいつが職員室まで持っていっていた。
「おい、明日は英語はないぞ。今日あったばっかりだろ」
「本当だ、間違えちゃった。…あ、もしかして英語のテスト、まずかったの?」
俺の言葉にこもってしまったわずかなイライラを感じ取って、俊が気遣わし気に聞いてくる。
――ム、カ、つ、く!
食い込んだ指に、スチールの缶がペキリと凹む。
俊がびくつき、弁解しようとあたふたとし始めた時だった。
「あれー。二人ともまだ残ってんの?」
廊下側の開け放たれた窓の枠から、いつの間にか満面の笑みの佐伯涼が身を乗り出していた。
俊も若干色素が薄いが、涼は入学するときに「染めていません。自毛です」と証明書を書かされたぐらい校則ではアウトな髪色をしている。
化粧もしていないのにはっきりとした目鼻立ちも、入学当初は「アイメイクをしているのでは?」という疑いがかかった。
しかし涼はそう言われ慣れているから、入学後初めての服装点検で、クラス全員の視線が注がれる中、メイク落としシートなるものを取り出して顔中を拭きまくって、長い髪をさらっと払ってニッコリと笑って見せた。
『ほら、これが地の顔なんです』
強すぎる。
ちなみに涼も俊と同じく俺の幼なじみだ。
そして、
「あ、俊ありがとねー、日直の仕事」
俊のみに日直の仕事を押し付けた当事者である。
「どこ行ってたんだよー涼。もう仕事終わっちゃうよ」
笑顔の涼とは逆に、俊は不満たらたらで頬を膨らませている。
途端に涼がカクリと顔を伏せる。気味の悪い声を漏らし始めたかと思うと、哄笑し出した。
目を丸くする俺達の内、俊の首根っこの方へ飛び掛かる。
「前に日直が回ってきたとき、『畳が俺を呼んでいる!』とかふざけたことぬかして、先生に持ってかないといけない物理のレポートと古文のプリントと現文のノートの山を私に押し付けていった奴は誰だー!!」
「…ぐ、その日は、久しぶりに道場がある日だったので…。ってか、そんなに提出物あったんだ…」
「出してなかったの!? 姉として嘆かわしいわ!」
ちなみに、この二人は異母姉弟だ。
俺もそんなに詳しくはないが、父親はどっかの立派な家の人で、涼の母親も俊の母親も妾さんだったらしい。
そういう込み入った関係にはドロドロした雰囲気が付き纏うものだと思うが、この二人は非常にあっさりしていて、むしろ姉弟関係を楽しんでいる風がある。二人の母親の仲も良い。
父親には双方とも養育費はきっちりもらっているらしい。
家の話はあまり他人にしているところは見ないが、俺などに話すときの様子は、別に自分たちの出生に関して後ろ暗い思いはなさそうだ。
俺も、不思議な世界があるもんだな、とぐらいにしか思わない。
仲の良い二人には今も昔も「あいつら付き合ってるだろう」という下世話な噂がついて離れないが、二人とも深い付き合いのない学友達に出生の話までして理解されようと頑張る気はないらしい。
こいつららしくて、いい。
「何こっそり笑ってんのよ、ユギ」
いつの間にか緩んでいたらしい口元を涼に指摘されて隠しつつ、
「別にー」
とわざとらしく窓の外を見た。
おや、今日は暑そうだなっと。
「英語が悲惨だったから、開き直っちゃったのかも」
弟が姉だけに聞こえるように言った言葉を耳聡く拾ってしまって、空になったブラックコーヒーの缶が的に当たった気持ちのいい音を立てた。