第九十六話 国とは
クイネと合流してからティオルの先導で宿を取り、その日はそのまま眠った。
明けて翌朝、眠い頭を顔を洗って起こし、先に起きていた二人と一緒に黙々と食事をとってティオルとクイネの部屋に集まる。
「クロ様、これをどうぞ」
「あの……クイネ? ……これは有り難いのですけれど…………クロとは?」
私は着替えが入った袋を受け取り、こめかみに指を這わせた。
いや、聞かなくても分かっていたけれど、聞いてしまった。
「お名前をお呼びするのは憚られますので」
真面目に淡々と答えてくれるクイネに罪は無い。
「……グランが、『クロ』と?」
「クロワッサンがお好きだと伺いました」
言ってない。
断じて決して言っていない。
っていうか何で知ってるのよ! まさかあの馬鹿が!?
…………あり得る。アイツならあり得る。適当な事をグランに書いている可能性が容易に想像できる。
「クロ」
ティオルに促され、何も考えず椅子に腰かけた所で『クロ』に決定された事を悟った。
呼ばれて動いた時点で認めたも同然なので今更無様に嫌はない。嫌は無かったが、言いしれない敗北感が胸に渦巻いていた。
「クロ様――」
「あぁクイネ、公以外は敬称は不要です。他も自然にしてください」
何気なくティオルが既に呼び捨てにしてくれたが、身分を隠すならその方がいい。
私の歳で明らかに年上の者に敬称をつけられては目立って仕方がない。
「かしこまりました」
「貴方は何と呼べば?」
「このままで」
クイネはティオルに視線を送り、ティオルは口を開いた。
「エフ」
私がクロで、ティオルがエフ。
「エフですね。分かりました。
話の腰を折ってごめんなさい。続けて」
クイネは目礼し、言葉を続けた。
「どこから話しますか」
「……内情からお願いします」
「国内は依然として元老、アクナス様、アーギニア様、中立の四本に集約されます」
「構図と力関係は三ヶ月前と変わりないですか?」
「やや、アーギニア様が勢力を増しているようです。逆にアクナス様を中心とする一派は押されて発言力が低下しているようです」
まぁアーギニアお兄様はご自分から前に出ているけれど、アクナスお兄様は王位に就く事を拒否しているから周りも苦労しているのだろう。
「元老の方はサジェス侯爵を除いた他の三大議員は動いていませんか」
元老一派とされるが、元老院を掌握しているのは三侯爵。
北東領主のサジェス侯爵がその一角で、対外強硬政策を打ち出そうとしているのを残りの二侯爵、南東領主のサイリス侯爵と南西領主のサーハルト侯爵が否定も肯定もせずでバランスを保っている。もしどちらかでも傾けばバランスは一気に崩れる可能性が高い。
そうなれば兄上達を取り巻く者達など押しのけられ、そのまま傀儡が始まる。
本当は継承権一位のアクナスお兄様が立てば一番手っ取り早いんだけれど……あの方が立つ確率はリダリオスが全ての手の内を晒すぐらいに有り得ないし……
「サイリス侯爵は中立のままです」
「サイリス侯爵は、ということはサーハルト侯爵は動きが?」
「中立は維持していますが、南のジンバルに探りを入れているようです。どこかと接触しようとしているようですがまだ先は掴めていません」
「中立という事に変化はないけれど、変化する兆候があるという事ですか」
「もともとサジェス侯爵に抑え込まれているところがありますから、今回の中立も反発の色合いがあります。何かきっかけがあれば立場をはっきりさせるかもしれません」
対立する側になったとしても、元老院は荒れるか……誰が誰の味方をするのか探って牽制して揉めるでしょうから……
「サイリス侯爵は相変わらず完全に中立の立場を貫かれているの?」
「はい。鋼の女侯爵の異名のままです」
彼女をこちらに引き込めれば一気に勢力図を書き換える事は可能だけれど、それはまだ先だ。あの人は話をするに見合うだけの力を相手に要求する。
「国外に意識を向けている者はいますか」
「サジェス侯爵は背後――東のデライトへと接触を図っています。北のグレリウスと事を構えた場合、隣接しているニヘルトに後ろを取られないようにと思われますが、どこまであちらの中枢と繋がっているかはわかっておりません。
サイリス侯爵は隣接する南東のブリガナディーンと友好的な関係を保ち、特に動きは見られません。
サーハルト侯爵は先ほど言った通りです」
「フーリを危険視している者は?」
「ノラン様をはじめ、中立の中におられます。備蓄を増やしてはいますが、今の状況で大々的に動かすと各勢力に敵対行動を取っていると取られかねませんので微々たるものです」
「他の者はベルナール姉様が嫁いでいるから安全だと考えているのですか?」
「その風潮ではあります」
あの国がその程度の事で牙を剥いてこないとよく楽観視できるわね……周期的に周りの国を吸収して肥大化しているというのに……
「国外の動きはどうですか? フーリの暗部がセントバルナに入ったと聞きました」
「フーリは属国ダランディエの此方に近い一部を直轄とした後、沈黙を保っています。ダランディエは隣接するジンバルを飛ばしてハイヤットに使者を送っていますが、フーリに邪魔されてたどり着いてはないようです。ジンバルを通ってハイヤットに南下するのが困難と考え、セントバルナとニヘルト、ブリガナディーンを経由している模様です」
「では暗部がセントバルナに入ったのは」
「その使者を消すためかもしれません。しかし」
「そうでないかもしれない」
「はい。暗部の長、バイヤス・グナンが直接セントバルナに入っているかもしれないという情報が入りました。
フーリの暗部の長が自ら動くというのは、余程重要なのでしょう。
国力の差と距離から見て、ダランディエとハイヤットが手を結ぶことをそれほど恐れてはないと思いますので、使者とは別件で動いているかもしれません」
「……目的も気になりますし、ダランディエが隣接するジンバルに使者を送らないのも気になりますね」
下手をすれば、ジンバルは既にフーリと繋がっているのかもしれない。
フーリとセントバルナはダランディエと山脈で隔てられてきた。
その内の一つ、ダランディエがフーリの属国となった時はさすがに衝撃が走り、そのためにベルナール姉様が友好の証として嫁いだ。姉上と山脈があるからまだ大丈夫だと楽観視するにしても、もし隔てるものがないジンバルとフーリが手を結んだら……しかもそのジンバルと接している領地を治めるのはサーハルト侯爵。そう、まさにジンバルと接触しようとしている。
牽制? それとも……
「ジンバルについてはサーハルト侯爵の動きと合わせて調べています」
グランも同じ事を考えたのか……
「北はどうです?」
「グレリウスはスルから流入する難民を追い払いはじめました」
グレリウスは領土の北側が寒冷地で作物があまり育たない。食糧はニヘルトの北に位置するガナルナとスルから輸入していたので、スルが内乱を起こしている今はほとんどガナルナに頼っている状態だろう。そこに一年程前から難民が流入し始めたが、かれらに施す余裕は無いという事だ。
難民を拒絶したという事は内部事情は切羽詰まっていると見ていいかもしれない。
「ガナルナへの難民流入は増えていますか?」
「グレリウスへの流れがガナルナに加わっています。ガナルナも制限をかけました」
そうするとスルの難民は東方に流れる。
気の毒に思うが、他国民の事までは考えられない。
それから休憩を挟みながら気になる事を確認していったが、気になる事は多すぎて、その日だけで声が掠れてきて終いとなった。
翌日も似たような経過を辿り、日が暮れるころには喉が痛み、得た情報を整理する事に費やした。
「今のところ私が持っているのは理念だけ……
取り引き材料になる物は未来の可能性……
これから必要になるのは間違いなく金銭……」
「それと、大義名分ですよ」
部屋にある簡易テーブルに突っ伏していた私はガバリを身体を起こてドアを振り返った。
ティオルに先導されたグランが外套を脱ぎながら苦笑していた。
「グ――」
「ケルトとお呼びください」
「わかりました。仕事は大丈夫ですか?」
「えぇ、今もある意味仕事のようなものですから。あぁ、ありがとうクイネ」
クイネが外で買ってきた飲み物と軽食をテーブルに並べ、ドアの前に下がる。
ティオルはベッドに腰掛けているので自然とテーブルにつくのは私とグランだけとなる。
グランは私に断りを入れて飲み物を口にして息をつくと、すごい勢いで軽食を食べ始めあっという間に完食してしまった。
唖然として見ていると、気付いたグランは照れたように笑って頭を掻いた。
何となく、その姿が誰かとダブって見えたのは気の所為にしておこう。
「失礼。昨日から飲まず食わずだったので」
「は? 何をしていたのです?」
「野暮用です。えぇと『他にない考え』の話ですね」
こほんと咳払いを一つして、グランは表情を改めた。
「クイネに聞いて気になっている事もあるでしょうが、まずはこちらから話をさせていただきます。
それと、お話しする前に、この考え方が必ずしも正しいというものではないという事だけは念頭に置いて聞いてください」
意味がある事だろうと思い、軽く頷く。
「どこからお話ししようかと思いましたが、全てはここからでしょう。
『国』はどうして出来たのか」
グランに視線で問われたので、私は淀みなく答えた。
「三百年前に開国の祖が周辺で起きていた争いを平定してです」
「セントバルナというわけではありません。
『国』という組織形態、形式、在り様はどのようにして出来上がったのかという事です」
……ええ……と?
言われている意味が分からなくて視線を他へやると、ティオルが微かに口の端を持ち上げていた。
「セントバルナという国が出来る前から人は存在しています。争いを起こしていたのも今で言うところの小国です。ではその小国が出来る以前は? 一番初めに出来た国はどのようにして出来たのか」
「ちょ……ちょっと待って」
話についていけずに思わず止める。
だって、それは『国は無かった』という事ではないの? 国が無いという意味がわからない。国が無ければ人は困るのではないの? 国がなければ人は居場所を失うのではないの?
「人は国がなくとも生きていけるものです」
――――。
「そもそも人がこの世界に誕生してすぐに『国』が形成されたと考える方が難しいでしょう。
名称が『国』で無かったにせよ、その概念を誰かが考え出さねば『国』は出来ません。赤子が成長し、いろいろな事を考え出すよ……う……に」
――人は国がなくとも生きていける。
何かが音を立てて崩れていく。
揺れてないはずなのに、足元が揺れているような気がする。定まっているのに、どこか視界が定まらない。
………じゃあ、私は? ……私は
定まらない視界が顔色を変えたグランを写して、また仮面が落ちてしまったのだと気付き、ゆっくりと付け直す。
早く付けなければならないと思っても、それ以上早く顔が動かない。頭が動かない。
焦るな。焦るな……
必ずしも正しいとは限らないと言っていたではないの……
気持ちを整え首を傾げいつも通りの声音で尋ねて見せる。
「どうしました?」
良かった。出来た。ちゃんと普通に声が出た。
グランは気遣わしげな眼をしていたけれど「いいえ」と首を振って続けてくれた。
「……では、どのようにして『国』が出来たのでしょう。
人がこの世界に誕生した時、というのがなかなかに想像し難いのですが」
『レイ』という聞きなれない単語に首を傾げると、グランは一瞬沈黙してから気付いたように「そういえば今は使われない単語でしたね」と手を打った。
「この世界とは、人が認識している最大の空間の事です。
人によってそれはこの大陸だけとも捉えますし、海を隔てたはるか彼方の地、天を超えた届かぬ虚空までも含める場合があります。
私の場合は、私と同一の時間軸を共有する空間と認識しています」
「……ごめんなさい、ちょっと理解が」
まだ混乱をひきずっている頭ではうまく理解出来ない。
「いえ、うまく説明出来ずすみません。この世界とは、全ての大地、全ての海、全ての空――というのはどうでしょう?」
それなら、まだなんとか……
頷くとグランは話を続けた。
「この世界に人が誕生した当初、それは生まれたての赤子と同じ知識しかなかったのではないかと思います。要するに、本能ですね。食糧を求め自然から採取し、狩猟を行う。
狩猟は個人よりも複数の人間で行った方が成功率も高く効率的ですので、この時から人は生き残るために集団で生活していたのではないかと思います。
ですが、国の存在を仄めかす王のような特別な者は居なかったでしょう。役割分担はあったかもしれませんが、個人で狩りの成功率を著しく跳ね上げる事は難しく、いつも食糧が手に入るという環境でも無かったでしょうから個人を特別とするよりは基本的には対等な地位にあり、互いに協力し合って生き延びるという方が無難ではないかと思います。
ではここからどうやって国が生まれてくるのかですが、きっかけはやはり食糧だったのだろうと思います。
狩猟、採取、それに加えて農耕が始まった時、人は安定した食糧を得る事が可能となります。さらに農耕技術が発達すれば余剰生産物が発生し、それを持つものと持たざるものが生まれます。
持たざるものがより多くの食糧を求めて、持つものに農耕技術、または食糧そのものを要求した時、持つものが対価を求めたら……
又は、持たざるものが持つものに、どうやったら多くの食糧が得られるのか指示を仰いだら……
そこに優位性が生まれ、上下が出来ます。
人に指示するだけで食糧を得られるようになったら、ここでほぼ国の原型といっていいのだと思います」
「国の原型?」
「国の定義を誰も定めていないので原型と言ってしまっていいのか迷いますが、今の国の在り様を国の定義とするなら、まぁ原型だろうと思うのです。
クロさんは何を持ってして『国』と認識していますか?」
「…………」
クロさんって……
私は一気に脱力して、テーブルにつっぷしかかった。
非常に微妙な感じがしたが、それが逆に戸惑いから救ってくれた。グランも真面目なのは見ればわかるので問われた事を考える。
「王と領土、民の存在です」
「では、属国は『国』でしょうか?」
「……それは…………それでも、国だと思います」
「確かに建前上は、国とされます。しかし、他国が宗主国と属国を同等に扱いますか?」
「…………」
「今『国』として認められている国々の共通点は、先ほど言われた領土、支配する側である王と支配される側である民が在る事。そして他の支配を寄せない事です。
ここで先ほどの原型の話に戻りますが、人に指示をして食糧を得るというのは支配する側にあたります。指示を受け食糧を生産するのが支配される側です。支配する側は己が持っている優位性を維持しようとするでしょうから、他からの支配を拒絶するか回避する傾向にあると思います。その結果、武力による衝突が発生する事もあるでしょう。
そうなってくると、今度はただ生産しているだけではなく、安全を確保しなければならなくなってきます。農耕に関係のない武具を作ったり、戦いを専門とする者が求められるようになりますが、これを用意できるのは財力を持った者、即ち支配する側です。
単純に支配するだけというのであれば支配される側は反発もするでしょうが、従っていれば多くの実りが約束され安全も保障される。支配される事にそれほど抵抗はないのだと思います」
「それが国が出来た流れですか」
「推論の一つで理由となるものは異なるかもしれませんが、より豊かさを求めてという部分は外れていないと思います。今もそれは同じですから」
……同じ。
それは確かに……誰もが望むことではある……?
「クロさんは豊かさと言われても既に満たされていますからピンと来ないかもしれませんね」
「ケルトそれは」
どういう意味かと問おうとして、口を噤む。
客観的に見れば私は王家の人間で、表面上は私を蔑にする者は居ない。必要な物は何もせずとも整えられてきた。民と比べれば豊かであるのは間違いなく、そしてセントバルナの顔である王家はそうでなくてはならない。
口を噤んだ私に、グランは穏やかにほほ笑んだ。
「ですよね? 豊かさは物だけじゃない。人が求める豊かさとは形にならないものもある。
人が一番最初に求めるのは、命を繋ぐために必要なもの。食糧、住む場所、あとは今なら着るもの。
二番目に求めるのは安全。命の補償という危機的なものではなく、安定した生活を送るために必要な安全。
三番目は帰属。誰かと同じ母体に属しているという安心感。誰かと繋がっていたという思い。
四番目は認知。他者に認められること。価値ある存在と認められ、尊敬されたいという願望。
最後が、自分自身をより高めたいという願い。
この順番は一番を無視して二番目にいくことはなく、かならず段階的に求めていきます。
衣食住が整えられたら安全、安全だと確信を得られたら帰属意識、そして人と関わる事で認められたいと願い、最終的には自身を上へと押し上げる。
余裕のある多くの貴族は認知です。物資も安全もあり、セントバルナ王家に帰属していますが、その中で他者に認められているのは――」
「元老院やノルドのような大貴族」
「そうなります」
「貴方も?」
私に協力するのはいずれは大きな力を得たいと願っているから?
グランは権力を得ても権力を望む人間には見えなかったので少々意外な気がした。
「私も認知の段階だと思いますが、想像されているものとは少し違います。ですが権力を狙っているのも確かです。
私が認めて欲しい相手というのは王家でも上位貴族の方々でもありませんが、力を手にすれば認めさせやすいんですよ」
いつの間にかクイネが下の食堂からお茶をもらってきたようで、テーブルに置いていた。
グランは礼を言ってそれに口をつけた。
「私個人の話は今は置いておきましょう。
言いたかったのは、たとえ物質的に豊かに見える者でも求める豊かさがあるという事です」
平民、貴族、王族と、そんな身分に関係なく何かを求めるのは同じ。
という事だろうか。
「国はそれを叶えるための一つの形だと思うのです。
だから人は国を作る。国を維持する。国を発展させる。
国がなくとも人は生きていけますが、国があればより良い暮らしが出来ます」
「この考え方が、私が仕事をする上で基本としているものです」と言って、グランはお茶を飲み干した。
「国は……あった方がいいのですね?」
「今の情勢、人の考えた方では、なくては大変です。
支配と言いましたが、それは統制という意味でもあり個々人の独走による混乱を抑止しています」
……なら、私は大丈夫。