第九十四話 狸疑惑浮上
「こちらの部屋をお使いください」
ティオルと一緒に通されたのは老齢のノランの為に設けられた休憩室だった。
落ち着いた葡萄色の家具で揃えられたその部屋は寛ぐためだけというのがわかる。棚には茶器とそれを淹れるセットしかない。なぜかお菓子まで常備されているのが謎だったが、ノランが慣れた手つきでそれらを用意しているところを見ると、いつもの事なのだとわかる。
「いやはや。この年になってお菓子に夢中になるとは思いもよりませんでした。さすがに牛酪や砂糖がふんだんに使われているものは無理ですが、杏の丸菓子などは素晴らしい限りでしてな」
上機嫌で湯具を使って紅茶――ではなく、匂いが香ばしいような茶色い何かと、白い粉が掛かった丸い物体を出してくるノラン。
ティオルが礼を言って茶色い何かに口をつけてから丸い物を手で掴んで食べ、目の前に座ったノランも同じように食べている。
怪しいものならティオルは食べないだろうし、ノランがそんなものを出すとは思っていない。思っていないが、私はおそるおそる茶色い何かに口をつけた。
香りは、やはり香ばしい。味は全く甘くなくて、苦いとまではいかないが何とも言えない。微妙な顔になった私にノランが丸い物を差し出してくるので手に取ってかじってみると、ほわりと杏の甘味が口の中に広がった。
杏の甘味がこんなにあったとは知らなくて驚いていると、ノランとティオルは顔を見合わせて笑った。
ノランはともかく、ティオルが笑うとは思っていなくて思わず凝視していると視線に気づいたティオルはまた元の無表情に戻ってしまった。
笑ったティオルの顔が意外に子供っぽくて、無表情に戻ってしまうと勿体ないような気がしていると、ノランが腰を上げた。
「さて、お二人はこちらでお寛ぎください。心配せずともこちらには誰も通しませぬ」
「感謝致します。
…………いずれ、きちんとお話し致しますので」
「わかっておりますよ。姫様は昔から不器用でございますからな」
笑い声を残しノランが部屋を出て――溜息が出た。
よもや幼き日の厳罰を再度体感するハメになるとは思いもよらなかった。勝手に学院を出てきた事は便宜を図ってくれたノランに対して悪いと思うけれど、きちんと卒業する意思はあるのでそこまで怒らずともいいのにと考え、卒業について何も言って無かったなと、順番を間違えた事に遅まきながら気が付いた。
まぁ肝心な事は言えたんだから……それに、あれ以上話したら余計な事を言いかねないわ。
「ティオル、今話してもいいと思える事はありますか?」
「ない」
今のうちにノランとティオルの関係が分かればと思ったけれど、そういう事も含めてその気は無いらしい。
脱出路の事もここでは話せないという事か……
こうなったら休憩だと決めて、私は丸い菓子に噛り付いた。
無心に食べていると喉が渇いて、それが何かを忘れて茶色い飲み物を口に流したところで、紅茶ではない味に動きを止める。けれど、最初に感じたほどの違和感を感じず、むしろ全く甘味のないそれが口の中に残っていた甘味を流してくれて気分が良かった。
「茶は初めてか」
「紅茶ではないですよね? 茶と言うのですか?」
「あぁ」
「始めは微妙な味だと思いましたが、これを食べてからだとおいしく感じます」
「そういうものだ」
「へぇ」
「グラン殿の場所は分かるか」
「ええ。彼はいつも遅くまで仕事をしていますから、日が落ちてから彼の部屋、二階の南端から三つ目の部屋へ行けば居ると思います」
「……そうか」
それきり、ティオルは目を閉じて動かなくなった。
私もソファにもたれ、力を抜いた。
お前みたいな出来そこない――
――お前のせいで
――お前が男であれば
何の役にも立たない――
役立たず――
役立たず――
――お前のせいで私は
お前など要らない―― お前など居ないほうが――
お前など生まれなければ良かったのよ!!
「!」
声にならない悲鳴が喉から零れ、私は飛び起きた。
心臓がどくどくと脈打ち、身体が心臓そのものになったかのように煩い。
必死で脈を落ち着かせていると背中をさすられている事に気付き、横を見ると無表情のままティオルが手を動かしていた。
「夢見が悪かったのか」
「……少し」
顔を上げて窓の外を見ると、日は無く代わりに月が昇っていた。
部屋の中はいつの間にか灯された明かりに照らされている。
「顔色が悪い」
「大丈夫です。グランの所へ行きましょう」
身体にかけてあった外套を纏い、立ち上がる。
夢のせいで気分は最悪だが、眠ったおかげで頭の方は晴れていた。
扉に近づき、隣に居るのがノランだけか耳を澄ますと、
「ノラン殿だけだ」
並び立ったティオルはあっさりと扉を開けてしまった。
「索敵なしでよく分かりますね」
「五感は訓練次第だ」
訓練でそうまで便利なものになるの?
それはちょっと違うような気がしたけれど、些末事とわりきりノランに出ていくことを告げると、ノランは寂しそうに微笑んでで無事を祈ってくれた。
「ノラン殿申し訳ないが」
「わきまえておりますよ。私はこうして仕事をしております。何も見ませんし何も聞いておりません」
「かたじけない」
机に向かいペンを走らせるノランの後ろ、壁しかない場所にティオルが手をつくとぽっかりと黒い通路が現れた。ティオルに続いて私も入ると、やっぱり後ろに壁が現れ戻る事は出来なかった。
「どうなっているのやら……」
ティオルの先導のままに足を進め、やがて止まったところでその先が部屋なのだとわかった。
……ん? そういえば階段なんてあった?
ノランの部屋へ行くときも階段を上った記憶が無い。なだらかなスロープという感じも無かった。
ますます謎が深まるばかりだった。
一人悶々としているとティオルが壁を透かし、部屋の様子が露わとなる。相変わらず図書のような本だらけの部屋を見ると軽く笑いが出たが、その中で深く項垂れて顔を覆っているグランの姿が目に入った瞬間顔が強張った。
「ティオル、開けて」
余裕の無い私にティオルはすぐに壁を消してくれた。
それと同時に部屋に飛び出した私は、動きを止めた。
「……っは……ははは……」
笑っていた。肩を震わせ、両手で顔を覆ったまま。
「そう……だな。お前は…………もう、子供じゃない」
掠れた声は震え、揺れる灯りの影に消えていく。
私は、見たこともないグランの姿に、声を掛けようとして声が出せなかった。
グランはいつもゆったりとしていて、何事にも動じなくて、穏やかで、強い人間で、こんな風に肩を震わせる事があるなんて思いもしなかった。
「だが、私がお前の保護者である事に変わりはない」
いきなり椅子を蹴立てて立ち上がったグランに、ビクッとして後ずさると背に固い物がぶつかる。
「あ……」
後ろを見れば、ティオルが支えてくれていた。
「ベアトリス様……と、あなたは」
声にはっとして見れば、こちらを見て表情を硬くしたグランと視線が合う。
「ティオル・エバース殿ですか?」
相手が特定出来たからか、グランの表情が緩まる。
逆にティオルはスッと目を細めた。
「警戒するのはこの場合、私の方だと思うのですが……あとびっくりするのも」
「あ、その……」
「失礼。この顔を出した覚えがないので」
「大よその特徴を聞き及んでいただけですよ。どうやらお恥ずかしいところを見られたようですが、私に何かご用でしょうか?」
にっこり笑むグランにティオルの警戒が強まっているような気がして、私は一歩前に出た。
「夜更けにごめんなさい。どうしても話したい事があって参りました」
「お話しですか? わかりました。少し待っていただけますか? 飲み物を用意致しますので」
「待って、私達は表から来ては――」
部屋を出ようとするグランを呼び止めようとすると、いつもの笑みを浮かべて頷かれた。
「えぇ心得ております。先程も別口のお客がありましたから」
「別口?」
「ご安心を。高位貴族のどなたでも御座いませんから」
瞳の藍色が濃くなり、今はそれ以上重ねて問いかけてはいけないと私は本能的に悟った。
グランが部屋を出たのを見計らい振り返って見れば眉間に皺を寄せているティオルが居た。
「ティオル、彼は信頼に足る人物です。無暗に私達の事を話す人ではありません」
「それは個々の判断だ」
それを言われるとそうなのだけれど、私の事は全く信用出来ないと言っているようにも聞こえて微妙な顔をしてしまった。
「……まぁ、手荒な事はしないでしょうから、好きなだけ観察してください」
ティオルからの返答は無かった。
顔を見れば、また『当たり前だ』という顔をしていて、こっそり溜息をつく。
ヒューネもこんな感じでわかるようになったのか……
ほどなくして、お茶の用意をして戻ってきたグランと向かい合わせに座り、私の斜め後ろにティオルは立ったまま控えた。最初はグランがティオルに椅子を勧めたのだけど、ティオルが無言でそれを固辞したために結局この形に収まった。
「お話しとは?」
「……そろそろ、時期かと思ったのです。グランの力を貸していただけませんか」
既にグランにはこれまでにも手を貸してもらっているので、回りくどい言い方はしない。
グランは首を傾げ、すぐに合点がいったというように手をぽんと叩いた。
「国取りですか。この段階……動かれる前にわざわざ同意を求められたのは何故です?」
『何も言わなければなし崩しにそうなっていたでしょうに』という視線に、私はそれでは駄目だと首を横に振って否定した。
「確かに、何も言わずグランの力を借りていれば周囲は勝手にそう見るでしょう。
貴方の性格から言ってもそのまま私を助けてくれる可能性が高いというのも分かります。
ですがそうなった時、貴方はどう思いますか?」
「……気付けなかった自分の迂闊さを笑うでしょうね」
「けして楽しいものではないでしょう。
私も時と場合、相手によっては卑怯であろうと強引であろうと、やらなければならないなら、そうします」
「今はその時でも場合でも相手でも無い?」
「はい」
「どうしてそこまでして信頼が必要なのでしょう? 契約関係でもそれを履行する人間は多く居ますし」
「ある程度の利害関係は仕方がないと思いますが、国を取るのも治めるのも、一人では不可能です。
どうしても信頼のおける協力者が、必要になる。私は……全てをこの手で動かせるとは思っていませんから」
グランは盛りつけられたお菓子の一つを手に取り、優しい目でそれを眺めた。
「相手に誠意を求めるならば誠意を見せよ。ノラン様の教えですか。
…………幾つか、条件を出しても構いませんか?」
「ものによりますが」
「私が官吏となったのは、この国の為ではありません。私には第一とするものが他にあります」
私に付くとしても、私よりも優先するものがあると正直に言うグランに、思わず苦笑する。
それは誰だって大切なものはあるのだから、それを押しのけようとは思わないし、押しのけられるものでもないと分かっている。二番手三番手だろうと、協力してくれるのならばそれでいい。私が一番ではないと私が分かっていればいいだけのことだ。
「それと、事が叶った暁に――私の下に他の命令系統を交えない部署を一つ創っていただけますか」
「部署?」
「えぇ。そうでもしなければ行方を晦ませるので。
権限は特に与えずとも構いません。ただ肩書きが必要なだけなので」
権限を与えなくてもいいなら、肩書きの意味すら無いように思うのだけど……
今一グランの考えが読めなかったが、それぐらいであれば問題ないだろうと頷く。
「わかりました、約束します。他に条件はありませんか」
「そうですね…………では最後に、その部署に入れたいと思っている者に対しては無理強いしないようにお願い出来ますか」
「それは……さすがに相手がわからないとこちらも対応が取れませんが」
「先にお約束頂ければ、お話し致します」
「……わかりました。それについても約束します。グランが執着するぐらいですから、さぞやすごい方なのでしょう?」
グランは笑って菓子を食べた。
「確かにすごいですが、もうベアトリス様は会っていますよ?」
「え?」
「私の弟です」
数秒、私は耳に入った言葉を頭の中で処理しようと努力した。
弟って……キルミヤ・パージェス?
すごい…………確かに、他に類を見ないタイプの人間だけど、すごい? あぁ、魔術師としては素質が光っているからすごいといえばすごいけど……すごい?
「やっぱり、怠け者でしたか?」
「はい……あ、いえ、その、自分に正直というか」
「いえいえ。昔からなので言いなおさなくても大丈夫ですよ」
手を振ってから、グランはあまり浮かべない悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「でもね、あの子は私などより余程ココの回転が速いんです。それに、出来方も違います」
言って、自分の頭を示すグラン。
「私はあの子の世話をしていましたが、いつからか私の方があの子に学んでいました。
あの子は常識を常識と捉えないところがあって、幾通りもの可能性と考え方を話すんです。
例えば――」
おもむろに立ち上がり、棚から一冊の本を取り出すと頁をめくって見せた。
そこにはこの大陸の地図が描かれており、特に珍しいものではない。
戸惑う私を見て、グランは悪戯が成功したように笑った。
「ね? 何も思いませんよね。
でも言うんですよ『白地地帯が少ない』って」
白地地帯は、未踏の地。地図に描けない土地の事を言うが、その名はあまり知られていない。
未踏の地そのものが少ない事もあり、あまり認識されていないからだが、それを知るには専門の本でも見ないと出てこない。
知っている事も驚きだけれど、白地地帯が『少ない』という意味の方がよく分からない。
「どうして少ないと思うのか聞いてみると『交通手段が限られているのに高度な測量技術を持った人間がこれだけの広さを測定しているのはすごい』って言うんです。他にも、『正確な地図は戦時に求められるから、大規模な戦争が無い状態でここまでお金と労力をかけるのは商人かもしれない』とか。実際のところ、地図の起源を調べると作者不明の書物に行き付きますから今の地図はそこから商人が広めたのかもしれません」
地図と戦争。確かに戦時中は土地の情報が正確であれば行軍や作戦を考えるのに役立つ。
役に立つどころか、それが命取りになる事もある。
「ですが『大規模な戦争が無い』というのは私にはわかりませんでした。
私が知り得る大きな戦争は三百年前、この国が興った時に一度。そして百六十年前から十年程続いたグレリウスとの戦い。最後に八十年前の再戦です。
千九十年前の最古の書から五百年程、何があったのか知る手がかりはありませんから一般的に我が国で知られているのもこの三つの戦争です。そのいずれも国同士の戦いで小さいとは言えないものだと私は思いますが、あの子は『小さくはないけど、大規模でもない』と言いました」
「規模の意味が違うのか」
それまで黙っていたティオルがポツリと零し、グランは肯定した。
「『質』ではなく『面』の意味で言っていたようです。
地図が必要とされるのはより広大な国の統治、より遠方への派兵。
大規模とは、この大陸全土にわたるような戦争の事です」
「全土って……」
それはさすがに大きすぎるのではと言おうとして、その先に私は気付いて言葉を切った。
自分達が使う地図は、どの程度? 自国と近隣国程度ではない? それ以上を必要とする場面なんてあった?
流通を活性化させるために道をつくる事も、領土を統治するために土地を調べる事も、全てはその国が行う事で他国、それも遠方の国が首を突っ込むようなことではない。
国交が開かれているなら、ある程度の地図で十分なはずなのに、手元にあるのはこの大陸全てが描かれた地図。
もし、この地図を作ろうとするなら大陸中の国に測量の許可を取らなければならない。それに技術を持った技師を派遣する経費も掛かる。何の理由もなしにそんな莫大なお金を掛ける者は誰も居ない。
では逆に、そんな莫大なお金を掛ける理由があったとすれば?
「隣国同士の戦争なら、ここまで大きな地図は必要ないでしょう。せいぜい周辺国までで十分です。
これだけ大きく詳細な地図があるというのは、それだけの範囲で戦争が起きた可能性があると、あの子は思ったようですね。
けれど史実には残っていませんから、もしかすると千九十年以前にそのような事が繰り広げられていたのかもしれないとも言っていました。千九十年前から五百年程は人口が少なすぎてそこまでの戦争が起きる可能性が低いからと」
「彼は誰に学んだのだ」
「ですから、最初は私が読み書きを教えて、いつの間にか私があの子から学んでいたのです」
「…………」
「本当に?」
ティオルの無言を引き継いで念を押すと躊躇いなく肯定が返された。
「この地図の話をしたのはあの子が三歳ぐらいの時です。
珍しく熱心に地図を見ていたので、どうしたのかと思ったら砂糖が欲しかったみたいで」
「誤魔化そうとして、目が泳いでいましたけどね」と、グランは楽しそうに二つ目の菓子に手を伸ばす。
「砂糖?」
「甘いものが好きなんです」
そういえば、学院でデザートを次々と平らげていたような気がする……
いえ、でもなぜ砂糖? 砂糖からどうして地図の話になったの?
「パージェスは然程流通が盛んでは無かったですから、砂糖といった嗜好品は手に入り難い環境だったんです。どうにか流通路を確保出来ないかと考えたんでしょうね」
砂糖欲しさに流通路を考える三歳……
「八歳頃を境にあまりしゃべらなくなってしまいましたが、今でもいろいろな事を考えていると思います。ちなみに、私がこれまでやってきた事はほとんどあの子が考えた事なんですよ」
あれが? どこからどう見てもふざけているとしか見えないあれが?
だったらあれはカルマ並みの狸だという事?
「狸が二匹……それは嫌だわ」