第九十三話 ひょっとして知らないのは自分だけ……
カルマ・リダリオスの屋敷から出ると止める間もなくヒューネは学院へと戻ってしまい、私とティオルは中天に登る陽の下、人通りの無い道を歩いていた。
「ティオル、これから私は行動を開始します。
ですからこれが最後の忠告となります。本当に良いのですか?」
やるべき事を頭に浮かべながら未だ隣に佇む相手に目を向ければ、どこまでも純粋な真紅が私の不安を一笑するように細められた。
「既に決した。進むだけだ」
「……分かりました。あなたもヒューネも、覚悟あっての事だと受け止めます」
そう言うと、少しだけ真紅の瞳から鋭さが抜ける。
はぁ…… どうして王族相手にここまで余裕を持って尚且つ優位を持って対応出来るの……
揺るぎない眼差しに軽く羨望を覚える己を振り払い、思考に意識を戻す。
グランに昼間接触するのは難しい。接触する事自体は然程不自然ではないが、まだ表だって私が動いていると思われたくない。
ならば先に陛下に挨拶をするべきかと思ったが黙って学院を出ている手前、正式な挨拶は卒業の手続きが済んでからでないと周囲が煩い。かといって、何も無しでは余計な心労をかけるかもしれない。
「ノラン・チェルト殿に会いましょう。
陛下に挨拶をしたいところですが正式には難しいので、彼に内々に伝えてもらいます。いずれは私の考えも聞いていただきますが、今はそれ以上話しても仕方がありません。日が落ちたらグランの所へ行きます」
「場所は」
「ノラン・チェルト殿は右宮だと思います。裏から入ったとしても人目に着かずに彼の部屋へと向かうのは難しいですが……」
「人目を避けるのか」
「私はまだ学院に居るはずの者ですから。学院で騒ぎが起きているのに私も時を同じくして行動しては何を思われるか分かりません」
特にサジェスに。ここで下手に付け入る隙を与えてやる必要などない。
「索敵は警報にあがるか」
「ええまぁ。魔術は基本的に宮殿では禁止されています。魔導師団員の何名かは必ず宮殿に残っていますから、やればすぐに気付かれるでしょう」
「……ノラン殿の部屋はどの位置にある」
「右宮の三階、北端から二つ目の部屋がそうです」
「警備の配置は」
「さすがにそれは把握しておりません」
今の段階で確実に信用できる人間は少ない。
引き入れてはいないが、そういう意味ではグランがノランに続いて信用出来る相手。どちらにしても接触するのは難しい。
「ですので、下働きの者に扮して入ります」
「その必要はない」
「は?」
まずは服の調達からと考えていた思考をぶつ切りにされた。
ティオルはじっと遠目に宮殿を眺め、小さく息を吐いた。
……溜息?
思わず振り向いて宮殿を見たが目に付くようなものは見当たらない。
三か月前に戻った時と変わったところなどどこにも無い。
「どうしたのです?」
「いや。変わらないと」
「変わらない?」
ティオルは止めていた足を動かし始めた。
仕方なく私も歩みを再開したが、どこに向かっているのか分からない。
「どこに向かっているのです」
「部屋に」
「……ノラン・チェルト殿の部屋?」
けれど、向かう先は宮殿ではなく逆に遠ざかっている。。
私の困惑が分からない訳ではないだろうに、ティオルは何も言わない。
「あの、ティオル――」
「エバースは昔、剣を賜っていた」
「え?」
「だが八十年程前、それを返上した」
『剣』と言われてまっさきに思い浮かぶのは近衛の象徴。
魔導師団の『指輪』と対をなす象徴で、魔術を用いず魔導師団と渡り合う力を持つ者達。
魔導師団に与えられている自由裁量権は無いが、国王の身辺を警護する上でいかなる者の命令も受け付けないことが出来る。たとえ元老院であろうとも、最大派閥を誇る三候の当主達であろうとも、例外はない。
最も陛下に近い場所に在る彼らはそれゆえにそれ以外での権力は何一つ持たない。ただ在るのは近衛であるという誇りぐらいだから、ほとんど下位貴族、一部平民で構成されている。
そう考えると、権力闘争や派閥といったものに興味を示さないエバースの人間の誰かが八十年前の近衛に所属していたという可能性はある。
「その名残が未だ存在しているのは問題だな」
唐突に足を止めて一軒の小屋の戸を開け中に入る。
誰も住んでいない様子で、木のテーブル、椅子、棚や他の家具にも埃が積もっていた。
「ここは……?」
「管理がそのままなら今は近衛のものだ」
ならやっぱり近衛に所属していた? でもどうしてそれを彼が知っているの。まさかわざわざ伝えていたとか? 伝えるにしても、だいたいここに何が……
ティオルは奥の部屋に入り、そこにあった棚に手をかけると重心を低くして体重をかけ横にずらした。
壁か床に何かあるのかと思って覗いてみるが、家具の跡以外には何もなかった。もっと良く見ようと身を乗り出すと制され、後ろに下がらされた。
私が後ろに下がると、ティオルは確かめるように敷き詰められた床石に触れ、おもむろに短剣を引き抜くと石と石の隙間に突き刺した。さらにもう一本短剣を取り出し同じように別の隙間に突き刺したところで立ち上がり、軽く飛んでその二本の短剣の柄に足を乗せた。
刃の先端しか入っていなかった短剣が重みに従ってするりと埋まり、柄本まで呑みこまれたところでガコッという音ともに短剣に挟まれていた石が落ちた。
ティオルは無言で開いた穴に手を入れ、次々に石を外していく。
「ティオル、これは……」
だんだんと口を開いていく暗い穴に、それが何なのかうすうすわかってきたが、まさかという気持ちが強くて言葉にして確かめるのを躊躇ってしまった。
「外側からはこれでしか開かない」
出来上がったのか、こちらを振り返り言うティオル。
「あの……それは」
「昔の脱出路だ」
躊躇いもせず穴の中に消えるティオル。
「早く」
脱出路を王族以外の人間が知っているという事実に呆然としていると声をかけられ、慌てて私も穴に足を入れて地面に伸ばしていると腰を掴まれ降ろされた。予想していた、長い間密閉された空間特有の湿っぽさやカビ臭さは無かった。上からの光で目を凝らせば細長い通路がずっと奥に続いているのが見えた。
ティオルは落ちていた短剣を拾い、じっと穴を見上げている。
そういえばこのまま穴が開いているのは問題ではないだろうか。誰かが小屋に入ってこの脱出路を見つけてしまうのは危険だ。
「ティオル、移動する前に穴を……」
私の言葉は最後まで紡がれなかった。
なぜなら、目の前で崩したはずの石が浮かび上がり、元通りに天井の穴を塞いでしまったから。
「外側からは侵入できないように作られている」
「え? ですが私達は外側から」
「管理の為の手順だ。勝手に修復される」
「魔術……?」
聞いてみたものの、こんな元通りに復元されるような魔術は知らない。
仮に魔術だったとしても、この道が八十年前から存在しているというなら、その時点でかけられた魔術という事になる。魔術具でも寿命は良くて十年程度だというのに、それほど保つものなど聞いた事が無い。
「魔術といえば魔術だ」
「魔術ではない?」
「作成方法の詳細が伝わっていない。管理方法だけ残っている」
ティオルが通路の奥へと手を翳すと、薄ぼんやりと壁面が光を帯び始めた。
ティオルがそうやったのではなく、ティオルの手の動きを感知して通路自体が反応したように見えた。
「……いつ、誰がこのようなものを」
歩き始めたティオルに問うと、少しの間を開けて応えがあった。
「建国当時の『剣』だ」
近衛? と考えかけてすぐに否定する。近衛は魔術を使わない。魔術に頼らない力を中心として創られたのだから、こんな高等技術を要する魔術は無理。
昔から近衛の位置は変わってないのだから作ったのはそれとは違う『剣』……?
「『白剣』ではない。『黒剣』だ」
いつの間にか足を止めてしまったらしく、ティオルがこちらを振り向いていた。
「白と黒……ですか? 剣とは近衛の事ですよね?」
背を向けたティオルに追いすがるように足を進めて尋ねる。
「近衛は『白剣』。『黒剣』は既に無い」
「ひょっとして、エバースが有していた剣というのが?」
「白剣に引き継がれた時、この道も塞ぐべきだった」
エバースがその『黒剣』だったというのは確かのようだ。
ティオルが言いたいのは、解散した組織が管理していたような道は塞いで、新たに別の道を作るべきだったということなのだろうか。
それにしても、『黒剣』なんて聞いた事が無い。
今でこそ極一部の知識層にしか残されていないが、『黒』は忌避色。建国当時の三百年前ではその風潮は少なからず貴族の中にあった。その中でわざわざ『黒』を使われた『剣』。今の近衛とは役割が多分に異なる組織だったのだろうと思われるし、何より八十年前に解散したとはいえ表にその名が出ていない組織ともなれば、役割は自ずと見えてきた。
前を歩くティオルの顔を伺うが、淡々とした無表情しか見えなかった。
「……何故、解散……いえ。剣を返上したのか聞いてもいいですか?」
「……………………無力だったからだ」
「……そう、ですか」
何がどう何に対して無力だったのか。
権力としての力が無かったのか、それとも武力が無かったのか、もっと違う何かが足りなかったのか。淡々とした表情からは何も読み取れない。
けれども、それ以上尋ねても仕方がないように思えた。過去の話をここで聞き出したところで、知ったところで何をどうできるわけでもない。
重要なのは、ティオルが話してくれたと言う事実。言葉少ない彼が語ってくれたという事は、私に対してそれだけの何かを向けてくれているという事。学院の生徒同士という以外何の繋がりも無い私に、何かの繋がりを持たせようとしてくれたという行為の方が重要だろう。
「今はこの道は近衛が管理しているのですね」
黒剣の存在について考え込みそうになるのを止めて現実に意識を戻し、埃一つ無い通路に目を向けて問えば、間が空いた。
「…………放置されているようだ」
「ですが整備されていますよね?」
埃は無いし、黴臭くも無い。
ふと気づいたが、通路に使われている石が微妙に熱を持っている。
触れてみると気持ち悪い事に人肌に近い温度があった。
「機能の一つだ」
まさか人肌なのも機能? なぜ? ひょっとして温度の調整なの?
あぁいえ、そうではなくて、問題なのは――
「高い技術だという事は分かりました。陛下はこの通路の事をご存知なのですか?」
「不明だ」
「放置されているというなら、管理しているはずの近衛も定かではありませんね」
「…………」
相当問題。いいえ、大問題だわ。
「宮殿の外観を見て変わってないと言いましたよね?
それはつまり、この通路が生きている事を外から見分けられるという事ですか?」
ティオルは私を見た。
淡々とした表情の中に、微かに驚きが混じっているような気がする。
「また頭の痛い問題が……」
「外観についてはエバースの直系。今は私と父、祖父しか知らない」
その保証はどこにあるのか問いただそうとして、踏みとどまる。
もしそうでなかったとしたら、これまで使われずにきただろうか? 情勢が落ち着いているとは言っても腹の探り合いをしている事に変わりない。
「八十年間、私達が入るまでは一度も使われていないと分かりますか?」
「間違いない。形跡が残っていない」
「ろぐ?」
「記録だ。入れば勝手に取られる」
それも魔術だというの?
……一度、この件についてはじっくり話をした方が良さそうね。
私は頭がついていかなくなって、軽く振った。
「分かりました。後程、詳しく教えてください」
「わかった」
「右宮にこの通路は続いていますか?」
ティオルは当然という風に頷いた。
ぼんやりと明るい通路の中を無言で歩いていくと、暫くして行き止まりにぶつかった。ティオルは足を止めて行き止まりの壁に手のひらを当て、ぶつぶつと何かを呟いた。
途端、壁が割れた。
驚かないようにしようと思っても、驚いてしまった。
この通路について詳しく聞いたところで私には理解出来ないのではないかという不安が過ぎる。
カルマ・リダリオスといいティオルといい、今日一日だけで精神的にどっと疲れてしまった。これからノランへ言伝の依頼とグランに話をする作業が残っているというのが気を遠くさせる。
何気なく後ろを振り返ると、先ほど開いた壁がまた元に戻っていた。
…………ここ、理解している人間じゃないと閉じ込められたり……
背中に冷や汗が流れ、前を歩くティオルに遅れないように足を速めた。
何度か行き止まりとなった壁を同じ手順で開け、ようやくティオルが完全に足を止めた。
「この壁の向こうが部屋だ」
「一人になっているところでないと入れませんね」
索敵が使えないこの状況では音を拾うしかないと思い、壁に耳をつけようとしたら押しとどめられた。
「この中は外部と遮断されている」
「外の音は聞こえないという事ですか?」
「ああ。こちら側も」
参った。それではどうやって外の状況を確認したらいいのだろうか。
と、悩むだけ無駄だったらしい。
ティオルが壁に手のひらをつけて呟くと手のひらをつけた壁一面が透き通り、そして部屋の中を映し出した。
「……一人のようね」
驚きは一先ず横にどかして、部屋の中を観察すると背中まである浅緋色の髪を束ねたノランが静かにペンを走らせていた。
「扉の前に二人、護衛がついている」
見えない位置の報告をしてくれるティオルは有り難いが、どうしてわかるのかと問いたい。
けれどノランが一人で居る機会もそうそうないので、通路の事と合わせて後で聞く事にする。
「驚かせてはなりませんね……って、ティオル!」
ティオルは私の制止を無視して、目の前の壁を消して足を勧め部屋に入った。
「失礼。ノラン殿」
閉じ込められないうちにと慌てて部屋の中に私も入れば、ティオルの呼びかけにノランがこちらを振り返った。
「……おやおやおや。これはまた。異なところから異な組み合わせでお出ましになられましたなぁ」
柔和な顔を綻ばせ、ノランは微笑んだ。
目じりに浮かんだいくつもの笑い皺が好々爺のような雰囲気を醸し出すが、ここに人が入ってこないかこちらは気が気ではない。
「ノラン・チェルト殿、申し訳ありませんが鍵を掛けさせていただいても宜しいですか?」
「えぇえぇ、構いませんとも」
私の言葉によいしょと立ち上がろうとするノランを、ティオルが手を挙げて制しそっと鍵をかける。
私は外套を脱ぎ、軽く淑女の礼を取った。
「お久しぶりで御座います。ノラン・チェルト殿」
「はい、お久しぶりで御座います姫様」
ノランも胸に手を当てゆっくりと腰を折った。
「それにしても急なお越しですなぁ。今は学院に居られるとばかり思っておりましたがいかがなされました?」
「いろいろと御座いまして。一言では言い表しにくいのですが、陛下に言伝を頼みたく参りました」
「陛下にで御座いますか? 老いぼれで宜しければ承りますが、直接お話しされた方が陛下は喜ばれますよ?」
「それは学院を卒業してから正式に致します。陛下に『自分の道を歩む』と、伝え願えますか」
ノランは眉を下げ、こちらにと手招きをする。
私は穏やかなノランの口調についつい気が抜けそうになるのを抑えて、背筋を伸ばして歩み寄ると、いきなり頬をつまみあげられた。
「の、のりゃん?」
両の頬を思い切り引っ張り上げられ、冗談ではなく痛みで涙が出てきた。
「ほっほっほ。こうするのは姫様が悪戯をされて以来ですなぁ」
わ……忘れてた……ノランは笑いながらこれをやるんだった…………
「ノラン殿」
やんわりとした口調で遮ったのは、ティオル。
「ティオル殿。貴殿がおられるという事は、姫様と」
「それは、まだ」
「…………さようでございますか。では姫様から事の次第を伺いましょうかな」
「てをはにゃひてくだしゃいまひぇんは」
「はぁ。申し訳ありませんなぁ。近頃耳が悪くなりまして、はっきり仰っていただかなければよくわからないのです」
引っ張られたままの頬にかかる指の強さが増しているような気がして、必死にティオルに視線を送る。この際、なりふり構っていられない。このままでは頬どころか――
「ノラン殿」
「……これは喜ばしいことなのやら嘆かわしい事なのやらわかりませぬなぁ」
ノランの腕にティオルの手が置かれ、ようやく私の頬から手が外された。
助かった……
ノラン・チェルトには教育係の頃から叱られ、そして昔から容赦が無かった。それによくわからない理由で叱られた事もあった。今回もその類だろうけれど何故かを聞いてはならない。聞いたらさらに叱られる。
「お……お二人はお知り合いですか?」
「そうですなぁ、ご当主殿とも先代当主殿ともお付き合いがございますが……それはおいおいティオル殿がお話してくださいますでしょう。
さぁ姫様は何があったのかお聞かせ願えますかな?」
私は頬に当てていた手を降ろし、丸めていた背を伸ばす。
「それについてはいずれお答え致します。
今は陛下に反意が無い事を理解して頂ければ十分です」
「私がそれで納得すると思われているのですか?」
ノランの微笑みに、引きかけている頬の痛みがぶり返しそうだった。
幼い頃に叩き込まれた条件反射で言うとおり話してしまいたくなるが、今ノランに負担をかけるべきではない。内政を支えているのは実質このノランただ一人。彼をこちらに引き込むのは老齢の彼の命を縮めかねない。
「思っておりませんが。納得していただくしかありません」
「…………参りましたなぁ。姫様がこうも頑固者になるとは思いもよりませんでした。小さい頃は爺や爺やと可愛らしかったのに」
嘘泣きを始めたノランを思わず半眼で睨んだら、その瞬間ぱちりと視線が合い、笑われた。
「ティオル殿、少々じゃじゃ馬なところが御座いますが根はまっすぐな姫様です。どうかお頼み申します」
「それは頼まれる事ではない」
「そうですな。そうだと存じておりますが、爺としては頼まずにはおれぬのですよ」
「…………承知とは言えないが、言は受けた」
「十分で御座います」
ノランがティオルに腰をおる姿に、私は目を疑った。
宰相であるノランが、伯爵とはいえ学生なだけのティオルに腰をおる姿など予想外にもほどがあった。
「じ、爺や?」
「姫様、さっそく仮面が剥がれておりますぞ。自らの道を歩むなら仮面は外してはなりませぬ」
「…………それはそうだと思うけど、私何もわからないのだけど?」
「それは私とて同じですよ? 姫様がこれから何をされようというのか皆目見当がつきませぬゆえ」
ほっほ。と笑うノランは、どう見てもわかっていそうだ。
なんだか不公平な気がしたが、年の功というか彼の事を考えればそういうのも仕方がないかと諦めがつくようなつかないような。
「……ちょっと疲れてきたわ」
「おやおやおや。それはいけません。どうぞこちらへ。ティオル殿もどうぞ」