第八十八話 お預け
「……頭腐ってますか?」
ひどい………しみじみ言うとかひどい………
見た目も味もスポーツ飲料をちびちび口に含みながら、上目づかいで腹黒狸をちらちら見てみる俺。
「腐ってたんですね」
笑顔で言われて右手が翻り――ってまて貴様!
俺は慌ててレースを抱えて横に飛びのいた。その直後、椅子が音もなく垂直に切れた。
ってか、力の流が判らなかったら今喰らってたよね!? 間違いなく俺は真っ二つになってたよね!?
「お、俺だっていろいろあって混乱して冷静になろうと日常生活の一コマを演じてみたい時だってあるんだよ!? 大目に見ようよ!?」
焦って我ながらよく分からん抗議をしたら、おだやーかに微笑まれた。
「日常生活の一場面ですか? 大丈夫ですよ。私にとってはこれは日常といって差し支えないですから」
「差し支えてー!! お願いだから平穏に生きて!」
「それは無茶というものです」
「あんたの日常どんなんなの!?」
「おや、私に興味がおありで?」
「無いです。愚問でした。聞き流してください」
平謝りする俺に腹黒狸は肩を竦め、座れと指さした。
……真っ二つに切っちゃった椅子に座れと? 俺に空気椅子しろと?
「それで、どうしてあの子をこの屋敷から出すななんて無謀な事を言われるのです?」
相変わらずマイペースに話を続けてくれる御仁に俺は疲れ、まっぷたつになった椅子の隣に腰を降ろした。
ふははは。日本人感性持ちの俺には椅子がなければその場に座れば良いとすぐに明解答が浮かぶのだよ。
どうだとばかりに見上げたら、呆れというか、残念なものを見る目で見降ろされていた。
レースはそんな俺に隠れるようにしゃがみこむ。
あー……なんか、ごめん。レース。
都に戻って一先ず少年の保護者たる元魔導師団長殿のところへお邪魔して、少年を問答無用で眠らせ状況説明と情報収集の為に狸親父と会話を試みたのだが、最重要事項であった少年をこの屋敷から出さないでくれという俺のお願いに、開口一番お腐れ発言してくれた。
でもって問答無用に仕掛けてきた。
「白の宝玉の役目はお話ししたと思っていたのですが、その程度の事も頭に留めて置けませんでしたか?」
言葉を発するのも嫌そうに言ってくれる腹黒狸。
俺は首を横に振り、言葉を考える。
「……違いますよ。
…………そうじゃなくて、今動くのは拙いように思ったんです。たぶん、見られてる」
「ほう」
監視されている。という内容に、狸はさしたる反応を示さなかった。
それは俺も想定内。狸に言わせればこれまでの白の宝玉のやってきた事を思えば、誰かしかに目を付けられちょっかいかけられるのは当然の事で、その程度少年も分かっていると言いたいのだろう。
だけど俺が言いたいのはそういう事ではない。
「普通じゃないんです。魔術じゃない感じで……魔導に近い感じなんですけど、かといって精霊のような感じでもない。っていうかあれ何? っていう感じで、なんかこう、張り付くような視線っていうか」
例えるなら百人以上のストーカーの視線を一つにより合わせたような、背筋の凍るような気味の悪さだった。緑頭のレースのおかげで猿が暴れて意識の大部分をそっちに割いていたから、まだ耐えられた。
カルマが無言で手を出してきたので俺は意図を受け取り、その手を握った。
仄かにカルマの目が発光したかと思うと、眉間に皺を寄せた。
「またあの子は馬鹿な真似を……不良物件なりにオプションがついているんですからそこまで心配せずとも………
で、どこでその視線を感じたのですか」
「分かりませんでしたか?」
「生憎モノの感覚で視るものではなく、モノを通して視ているのです。音はまだしも感覚的なものは分かりません」
見せ損じゃないっすか狸さん。いいですけどさ。
「少年を背負った後です」
「だからあの外套を着せたのですか?」
「無いよりましかと」
「………あなたは感じましたか?」
俺の斜め後ろに隠れていたレースは尋ねられ、カルマが怖いのか黙って首を横に振った。まぁこの子の場合は少年が気になって気になって仕方がない様子だったから、そのせいで気付かなかったかもしれない。
「今はありますか?」
「雑木林の中を歩いている時は探されているような感じのままでしたが、街道に出た時にはもうありませんでした。隠せたのか確信はありませんが……」
カルマは手を放し、俺の目を正面から見据えた。
「………あなたは……炎獄と対峙した時の感覚を覚えていますか?」
「忘れてはないですけ…ど………まじかよ……」
口を押えた俺に、カルマは苦々しげに息を吐いた。
「その様子では当たりですね。捜していたとなると、宿主が居る可能性が高い……あの子の力が目的なのか、あの子の役目が問題なのか、相手が何を掴んでいるのか調べなければなりません」
「手がかり、ありますか?」
「さぁ……いかんともしがたいところです。権力者であればまだ探りようもありますが、情勢とは異なる次元で動いている宿主の場合では……
一先ず回復するまではあの子には黙っておきましょう。この屋敷から出すなというのは、この屋敷に目くらましを?」
「精霊がいる限りはやってくれると思います」
精霊がいる限りと言ったが、たぶん少年がアレを使わない限り永続的にやってくれるだろう。
カルマは俺の答えに目を細めた。
「あなたは、どうするのです?」
カルマの顔に表情は無い。期待する様子もなければ、鬱陶しがっている様子もない。静かにこちらの出方を見定めている。
たぶん、カルマは俺が何をしようとしているのか分かっているんだろう。それでもこうして冷静に確認しているのは年の功というか。若者なら都合のいい解釈で先走りそうなものだが、相対するにはやっぱりちょっと疲れる。
「俺は……ちょっと父方の里帰りをしてきます」
「だからそれを?」
レースに向けられた視線には微かに侮蔑の色が見て取れた。
「何も知らない様子ですよ? それに見た目はそうですが能力はとても信じがたい」
俺は立ち上がり伸ばされた手を掴み、レースを後ろ手で俺の真後ろに引っ張り隠した。
「…………」
「…………」
睨むでもなく、互いに視線を合わせたまま押し黙る俺とカルマ。
俺もレースの過去を視てもらう事を考えなかったわけではない。
だが、レースの記憶を視て一番利益を得る事が出来るのは俺だ。
少年も狸もそれなりに何か得られるのかもしれないが、一番が俺であるのは間違いないだろう。ついでに俺がここでレースから情報を得られれば、遠回しに少年の為になると踏んでそういう行動に出たのだろう。この狸は無駄な事を無意味にするタイプではない。
それは分かっているが、過去を視られて悦ぶ人間がどこにいる?
少なくとも俺は誰にも視られたくなかったし、レースにとっては異性。冗談ではないだろう。
「コレを相手にしてそれですか? 余程の変人ですね」
「ほっといてください」
カルマは口の端を吊り上げ、楽しそうにくつくつと笑って身を引いた。
俺は背後で身を強張らせているレースの手を握る。俺がそれをしたところで安心させる事が出来るか甚だ疑問ではあるが、他に思いつかない。
「私は、あなたならば独力で行けると思うんですけどね?」
「無茶言わないでください。少年も知らないような所へどうやって行けと」
「まぁ……あの子も知らないでしょうけど……」
「じゃあもう行きますんで」
話すべき事は話した。
あとは俺がどれだけ出来るかだ。
レースの手を引いて立ち上がり、カルマの視線から隠すようにして部屋を出る。
「さっさと片付けて来てください」
ドアを閉める間際、カルマは誰も座っていない壊れた椅子に向かって言った。