第百二十三話 いざゆかん
遅くなって申し訳ありません。クロクロ回です。
私達に足りないもの。それは絶対的な後ろ盾だ。今の私には後ろ盾と呼べる存在が居ない。本来は母の生家が後ろ盾となり中央での地位を確立するものだが、私の母はサジェスに連なる者でその力を利用する事は出来ない。
ではどうするか。その話となった時、グランは不要だと言った。
後ろ盾とまで言える力を借りようと思うと相手は限られる。それこそ三侯爵の誰か。いずれも一癖二癖ある相手で間違ってもサジェスには頼めず、他の二侯もサジェス縁の第三皇女に与するような事は現状しない。では彼ら以外の後ろ盾を得たとして、それがどれだけの牽制になるのか。宰相であるノラン辺りならば話は違うかもしれないが、それもノラン自身が優れた人物であるからこその牽制であってノランの家、チェルト家の力による牽制にはならない。次期チェルト家当主は中央に寄りつかないため、ノランのように宰相となって王の傍で権力を振る事はしないだろう。そうなればノランが倒れた時に押される事は必至。
ならば、自力を付けるより他にない。
そう語ったグランは私を街へと引っ張った。ティオルも一緒で、目的も教えてもらえず露店を巡り食堂を巡り酒場を巡りよくわからないお店を巡り、学院から卒業の手続きを終えて戻ってきたヒューネも合流して数日続いた。
露店めぐりはいい。食堂も下々の者が使うようなところではあるが不満は無い。けれど、酒場だけは迷った。さすがに夜にそういう所へと入るのは抵抗がある。グランは大丈夫としか言わずティオルはさっさと入っていので、しぶしぶ入った。入ってすぐに知らない男に絡まれたので頭痛がした。ある程度覚悟していたから平気だったが、普通の貴族の娘であれば卒倒するか羞恥心に負けて逃げるか泣くか怒るかどれかだと思う。酒場で誰かと密会するというのならばまだ話は分かるが、そういう雰囲気でもなく騒がしい店内で他の客と混じって他愛も無い話をするだけ。私もことある事に話を振られて無理矢理参加させられた。奥さんと歩いていて綺麗な人を偶々目で追いかけたら三日口をきいて貰えなかったとか、最近子供が生意気になって手が付けられないとか、娘が嫁に行くとか行かないとかで奥さんと喧嘩したとか。あっちの皿の方が量が多いとか。ほとんど愚痴だ。グランにどうにかしてもらいたくても、グランはグランで別の酔っ払いの相手をしているし、ティオルは毎回何故か違うテーブルに引っ張られて無言にも関わらずいろいろ話しかけられている。ヒューネは私の横に居るには居るのだが、居るだけで何もせず面白そうに私を観察している。仕方が無いので自分で応じるが真面目に聞いて真面目に返しても酔っ払い相手だと堂々巡りで埒が明かない。頷いて何度も何度も同じ話を繰り返し聞いて酔いつぶれるのを待つのが一番楽だと最近気付いた。
今日も今日とて私は根菜を煮込んだものを口に運びながら溜息をつく。
何をやっているのかしら……
本当に心の底からそう思う。
「だからさぁ、俺は別にそういうつもりじゃないんだよ~」
「そうね、娘さんの事を心配しているだけよね」
「そうなんだよ~」
隣で酒を片手に語尾を伸ばしている男を横目で見やり、潰れるのはもう少しかと測る。
「そんなに心配してもらえているって分かれば娘さんは幸せよ」
「そうかぁ? そう思ってくれるかぁ?」
べろんべろんの男は傍から見れば情けない事この上無いが、こうして何人もこういう男を見ていると少し羨ましいなと思う事がある。
「……そんな風に思って貰えて嬉しくないわけないじゃない」
「けどな、けどな、鬱陶しいとか言うんだよ~」
情けない顏で泣きだす男。酔う前は強面でいかにも破落戸という風情なのに奥さんや子供の事となると一転して情けない男になるのだから、笑いも出る。
でも、そうして情けない姿を晒せるのもこの男が平穏な暮らしを手に出来ているからなのだと思う。奥さんが居て子供が居て、愚痴を零せる場所があって、情けなくても待ってくれる家族が居て――羨ましいと思うのと同時に、このどうしようもなく情けない姿を晒す男がずっとその平穏を享受出来ればなと酒の空気に当てられた頭でぼんやりと思う。
「クロ」
不意に名前を呼ばれ、振り向くとティオルが立っていた。
「帰るの?」
「………」
帰るらしい。さっぱりわからなかったティオルの表情も少し判るようになった事は果たして進歩と言うのだろうか。そんな疑問を抱きつつ、戸口に向けられたティオルの視線にどことなく固いものを感じ、私はヒューネを覗った。ヒューネも察知したのか「じゃあ帰りますか」と間の伸びた口調で言って会計を始めた。私はその間に酔っ払いに肩を組まれているグランに近づいて異変を知らせる。グランはすぐに気付いてさりげなく男の腕をどかし席を立った。そこに会計を済ませたヒューネが来てほろ酔い顏で首を横に振った。それを見てグランは困ったように眉を下げると踵を返して店の奥、厨房横の戸を空けて手招きした。すぐに私達も続いて入り店裏から外へと出るとみな無言で駆けた。
足を止めて落ち着けたのは宿ではなく、何故かリダリオスの屋敷。夜も遅い時刻に尋ねるなどと躊躇う私をまるきり無視してグランが門扉に手を掛けると、いつだったかと同じように門扉が一人でに空いた。そのままグランは出迎えも無いのに屋敷へと入るので流石に止めた方がと思ってティオルを見ると、ティオルは後ろを気にするように闇にその視線を固定していた。
余程急いでいるという事を理解して、私は無言でグランに続いて屋敷に入った。最後はティオルで、扉を閉めるまでずっと何かを警戒していた。
「何事ですか?」
「さぁ。ティオル?」
ヒューネもティオルの様子に従っただけで状況が理解出来ていたわけでは無いらしく、閉まった扉をまだ見ているティオルに聞いていた。
「魔導師団が動いたんですよ」
答えは上から降ってきた。振り向けばエントラスの正面、階段の上からリダリオスが降りてきた。
「ご無事で何よりです。迷われませんでしたか?」
「目印が役立ちました」
「それは僥倖。試していて良かったですね」
「ええ。ですが魔導師団が動いたというのは?」
リダリオスと言葉を交わすグランに、ティオルが歩み寄り口を開いた。
「一人二人では無かった。判っただけで二十」
固い声で話すティオルに、リダリオスは鷹揚に頷いた。
「それだけ動かすとなると、指示したのは団長以外に有り得ません。つまるところ、目標はベアトリス様という事です」
「私?」
「状況をお話ししましょう。こちらへ」
居間へと移り相変わらず自分で茶器を用意するリダリオスを見て、私は自然とリダリオスから葉を奪った。しらじらしく目を丸くするリダリオスに呆れた視線を向ければ、苦笑された。それでも何も言わず椅子に腰かけたところを見ると今回は毒物を入れる気は無かったらしい。
「ベアトリス様に淹れて頂くなどおそれ多いですね」
「思っても無い事を口にする暇があるのなら、状況を教えて頂きたいですわね」
「それもそうですね」
さらりとリダリオスは私の嫌味を流して話を始めた。
「目標はベアトリス様だという点で既にお分かりになったかと思いますが、本格的に彼の御仁が動き出しました」
彼の御仁?
「という事はアーギニア様の派閥が仕掛けるという事ですか」
言いながらヒューネは首を傾げた。
「ですが、切っ掛けとなるような事が何かありましたか?」
「無いとは言えないですね」
答えるグランに視線が集まる。
そのグランの視線は私に。……私?
「表向き、ベアトリス様はサジェス縁の姫君です。そのベアトリス様が学院から姿を消し、さらに急いて卒業の手続きを取ったと聞けば普通はサジェスが何か動き出したと考えるでしょう。まさか継承権がアーギニア様より低いベアトリス様を擁立するとは考えないでしょうが、何かしらの妨害をしているのでは無いかと勘ぐるぐらいはしそうです。
疑問なのは、サジェス侯が魔導師団を使ってまでもベアトリス様を見つけ出そうとしている事です」
グランの言葉に私は思わず目を瞠る。
「何故サジェスが魔導師団を? 魔導師団は王の力ではないの?」
「ここ数代でものを言えば、本当に王の力だったのは私の代だけですよ」
驚く私に、さらに驚く事を投げ放つリダリオス。
理解が追いつかない私を余所に、グランは難しい顔をしたまま呟くように言った。
「今までベアトリス様に対して表だって干渉しなかったところを見れば、然程重要視していないと思われます。にも拘わらず、ここで動きを見せるというのはどういう事なのか……」
それに答えたのもリダリオスだった。
「どうやら、ベアトリス様を使って次代を作ろうと考えたようですね。
現在継承権を持つのは、アクナス様、アーギニア様、ベルベット様、ベアトリス様です。実質アクナス様とアーギニア様のお二人ですから、このお二人に何かあればベルベット様かベアトリス様。政を握るのはその王配。ここまでは誰でも考えますが、ならばベルベット様、ベアトリス様にも何かあればどうなるでしょう? そこにもしベアトリス様の血を引く者が居たとすれば?
他国へと嫁いだ姫達の血を使って横槍を入れる者どもなど力づくで排除して実権を握るでしょう」
「そこまでやる必要が?」
ヒューネの疑問にリダリオスは肩を竦めた。
「あるのでしょう。最終目標までは知りませんが、このセントバルナを支配し動かしたいと考えているような節があります」
「それは二年前から?」
「ええ。私が魔導師団に在籍していた頃からずっと。この私に遠回しにでも『下れ』などと言ってきたのは後にも先にも彼の御仁ぐらいなものですから」
「他の方はそれなりに遠慮して憚っていたのにねぇ」と薄ら笑うリダリオス。漂う嫌な空気に寒気を感じたが、それよりも魔導師団がサジェスと繋がっているという事実の方が衝撃で反応出来なかった。
静寂が降りた後、ふと考え込むように口元に手を当てていたグランが顔を上げた。
「リダリオス殿は二十が本気と取られたのですね」
「二十でも個人的に動かす事は大変なのですよ。基本的に魔導師団は王の手足ですから、王命無く動かせば物理的に首が飛びます」
「貴方であれば可能だったのでは?」
「可能だと思いますよ。しかし今の団長には荷が重いでしょう。彼は王に信用されていませんから」
「その事をサジェス侯はご存知なのですか?」
「察してはいるでしょう」
「……それでも動かした。なるほど」
納得したグランを見て『あぁ本当なのだ』と私は受け入れた。今まで魔導師団はセントバルナの象徴であり、王の力を一番に表す存在だと思っていた。魔術を重要視するセントバルナにとってそれは自然な事で、だからこそ私もグランの弟を魔導師団へと導こうとした。それなのに、それなのにそれすらも本来王の為の、セントバルナの為の力だというのに、そうではなかった。
「立ち回りによってはサジェスを転がす事も可能ですよ?」
不意打ちのように手が止まった私に言ってくるリダリオスに、私は逆に力が抜けた。
「どれだけ私は自分を過大評価すれば良いのですか」
国の要の一つと言って良い魔導師団まで取り込む相手に今の私がやり合えるとはどう見積もっても現実的ではない。
「一つ訂正しておきますが魔導師団員全てがサジェスと繋がっているというわけではありません」
「え?」
「魔導師団も一枚岩ではありません。所詮人が集まった組織ですから思惑が入り乱れるものです。サジェスに与する者は今の所、現在の団長以下六十名程度。疑問を持たず団長の指示に従うという者はもう六十名程」
百二十。魔導師団総数は三百。半数強はそうではないという事か。それがどれほど確実なのかはわからないが、リダリオスがそうも断言して言うのなら全ての団員がサジェスの手の者と考えるのは早計だろう。
「その辺りの事はおいおい説明する事になるでしょうから後回しとしましょう」
「後回しにするような内容ではないと思うのですが」
「魔導師団の事をここで話したところで何が変わるるというわけでもないでしょう。今はサジェスの動きに対策を考える方が優先ですよ」
さらりと流そうとするリダリオスに喰いつけば軽く切られた。言っている事は正論なので腹は立たない。私は茶器を並べて葉を蒸らしながら、確かにそちらの方が先に考えるべきかと、感じていた疑問を口に出してみた。
「アーギニア兄上の派閥で動きがあった理由は私だとして、サジェスはどうして動いたのでしょう? 私でなくともサジェス縁の姫はベルベット姉様で十分でしょう? 私を見つけ出そうとする理由がどこにも無いように思えるのですが」
「それ、私も疑問です」
手を上げて私に同意を示すヒューネ。
「ベルベット様は元々サジェスに守られている姫ですから、ここでベアトリス様を探す事に力を入れる意味がわかりません」
リダリオスがティオルを見遣ると、微かにティオルは顔を顰めた。
「試金石か……」
ティオルが零した言葉にリダリオスが続いた。
「ベアトリス様はご兄弟の中で最も優れた使い手ですから、それを確保したがっているものと思われます」
「眼……ですか……」
観察眼と揶揄されるこの眼に対してサジェスが執着するのだろうか?
「ベアトリス様は魔術師とそうでない者を見分ける方法をご存知ですか?」
不意にリダリオスがこちらを向いて問うてきた。
「見分ける方法ですか? ………いえ、わかりません」
少し考えてみたが、思い当るものは無かった。少々悔しかったが、正直にそう言えばリダリオスは手を叩いた。
「正解です。見分ける方法なんてありません」
一瞬、笑顔のリダリオスを殴りたいと思った。もちろん耐えるが、どうしてこの人物はこう人の神経を逆撫でる事が好きなのだろう。
「もちろんそれなりの経験を積めば、腕の動きに癖があるとか見えるようになりますが、所詮予想で完全なものではありません。ベアトリス様の眼は、その点から言えば完全なのですよ」
「そうかもしれませんが、それが重要な事ですか?」
「ええ。とても重要です。戦力となりそうな人物の発掘もですが、間者を見破る事も可能なのですから」
ぽん、とヒューネが手を打った。
「確かに間者は魔術師が多く起用されますから、軍に所属していない者でそれらしいものは怪しいですね」
「その程度の事ですか?」
「その程度ではありません。警備の観点から言えば相手が魔術師かそうでないかだけで随分と対処は違います。投擲武器と魔術の威力と効果範囲はと言えばわかっていただけますか?」
武器にそれほど明るくは無いけれど、そういわれると私にも理解出来た。上級魔術なら術一つでリダリオスの屋敷程度吹き飛ばす。
「王宮やエントラスに設置されている魔術を感知する魔術具もそう簡単に作成できるものではありません。三侯爵と言えど、それは例外ではありませんから……理由としてはわからないでもないですね」
グランの呟きに、私はもしやと思った。
「サジェスは戦支度を始めたという事でしょうか」
「事前準備といった段階ではあると思いますが、おそらくそうでしょう」
リダリオスは肯定した。私は紅茶をそれぞれの前に置き、ティオルには不要と首を振られたので自分の分を持って椅子に座り、揺らめく水面に視線を落とした。
アーギニア兄上が止まらなければ、サジェスも止まらないだろう。そんな事は容易に想像つくけれど、それを止める手立ては未だ思いつかない。いっその事、陛下に嘆願しようかとも考えたが理由もなしに継承権を剥奪したり蟄居させる事は出来ない。そんな事をすれば彼を擁立している者達が黙ってはない。
「我々も出ましょうか」
軽く言ったリダリオスに、私は顔を顰めた。
「今私が出てやれる事など――」
「ではいつ出るのですか」
切り返された言葉に、私は奥歯を噛んだ。それが自分でも見えないから焦っているのだ。
「波紋を投じるだけなら、今の貴女でも可能です。グラン殿、顔見せは済まされましたか?」
「こちらはほぼ」
「ティオル殿は」
「終わった」
「では十分でしょう。ベアトリス様、貴女は自分を信じなさい。誤れば周りの者が止めます。ここにはそれだけの者が揃っているのですよ」
リダリオスの言葉に、私はぽかんとした。あのリダリオスがどういう風の吹き回しかしらないが、自分を信じろと言ったのだ。思わず偽物かと思っても仕方が無いのではないだろうか。
「ベアトリス様?」
「は、はい」
「問題ありません、貴女は『立派な皇女』です。貴女の姿を彼らの前に姿を見せるだけで十分な効果があります」
リダリオスが励ますような事を口にした。あの、リダリオスが。天災の先触れかと思うってしまうのも無理は無いのではないか。
「あ、ありがとうございます……ですが、気持ちだけあってもと言いますか、力の無い私の存在が本当に役立つとは限らないと思うのですが」
「それはそうです。ベアトリス様個人の力などたかが知れているのですから当てになどしていません」
「……そ、そうですか」
何故かほっとした。励まされて不安になり、貶されて安堵するというのもおかしな話だ。
「二週間後に催される月夜会。そこでアクナス様を擁護します」
「アクナス兄上をですか?」
アクナス兄上は王位を継ぐ意志が全くない。それはリダリオスも承知している筈なのに、それを擁護しろというのはどういう事か。
「アクナス様を利用されるおつもりですか?」
グランの問いにリダリオスは頷いた。
「ええ。あの方は王位に毛程の興味も無い方ですからね、王位につかせればあの手この手で逃れようとするでしょう。そこに生ニ――ベアトリス様を差し出――勧めれば問題ありません」
生贄と言った。差し出せばと言った。間違いなく言った。
「一見すればベアトリス様はサジェス侯が後ろに控えていると思われますからね。三侯の一角が最上位の王位継承者であるアクナス様に着けば勝負は見えています。実際のところがどうであれ。サジェス侯も同じ事を考えているでしょうから我々の動きを勝手に利用するでしょう」
言い方が気になったが、なるほどある程度は納得できる。
「そうかもしれませんが、私が指名される事は無いのでは?」
まるで難しいことなど何一つ無いという口振りのリダリオスに、私は一つ反論した。自慢ではないが、私の継承権は第四位。王位争いをしたアーギニア兄上を指名する事は周りが絶対にさせないだろうが、順当に言えば他国に嫁いでいないベルベット姉様が妥当だ。
「指名されなくとも、ベルベット様なら十分勝機はあります」
「後ろにサジェスがいたとしてもですか?」
「ベルベット様は王位を望まれる方ですか?」
問われ、そういう事かと私は理解した。
王位に意欲的なのは結局のところアーギニア兄上と私しか居ないのだ。アクナス兄上という力を利用してアーギニア兄上をどうにかすれば、本人の意志という点では私だけが一番近い事になる。
後ろ盾は依然あるとしても、意志のある人間と無い人間で事を構えるなら断然後者の方がいいに決まっている。少なくとも、現状のアーギニア兄上、アクナス兄上二人を相手どるよりはいい。そういうことだろう。
「さあ、我々も気を引き締めて参りましょう。これからベアトリス様の周囲は物騒になりますからね」
さらっと嫌な事を言うリダリオスに、私は思わずため息をついた。
それで話は終いとなり、その日はそのままリダリオスの屋敷にみなが留まった。リダリオスが言うには、この屋敷には目印をたどらなければ見つけられない魔術が施されており、恰好の隠れ場となっているらしい。以前来たときはそんな目印はたどっていないのでリダリオスの戯れ言かと思ったらティオルが事実だと言った。聞けば、グランもヒューネも練習までして目印を辿れるようにしていたと言う。
そうならそうと私にも教えてくれればいいのにと思ったら、私が独りで動くような事態になったら終わりだとリダリオスに言われた。一応エントラスでも魔術の腕は高く評価されていたので襲撃されてもくぐり抜ける自信はある。そう遠まわしに言えば、微かに鼻で笑われ実戦と学院の訓練を同列にするなと言われた。その気になれば兵士一人に魔術師は敗北する。奢りこそが魔術師の弱点であり身を滅ぼすきっかけだと。
王族の義務で護身術を学んでいなければ棘のある言い方に反論していたかもしれない。確かに魔術は巨大な力になるけれど、使えてこそ力だ。使う暇もなく攻められたら、使うことができない状況におかれたら、ただの人。それは事実で、私が簡単な護身術しか習っていないのも事実だ。と、大人しく引き下がったものの、よくよく考えればティオルやヒューネだってそれは同じ。グランに至っては魔術が使えない。
少しばかり不満に思うも、日が迫れば本題に集中しなければと気を引き締めティオルの知るあの通路を使って私の宮へと忍び込んだ。学院で生活するようになってからは年に数度しか使わなかくなってしまったが、いつでも使用出来るように整えられている。表からグランの従者を一人侍女として引き入れ、他の者は全て下げさせた。
唐突に表れた私に驚かれたが、それらを黙殺し嗅ぎつけたサジェスをとにかく接触されないように追い返して月夜会を待った。
「ご準備整いました」
言葉少なに膝を曲げて姿勢を低くするのはグランから借りた侍女。
私は鏡の中の自分を確認する。レースやフリルといった飾りがない代わりに、空色の生地と同色の刺繍が裾から胴をまわり王家の象徴である宿り木を浮かび上がらせている。同色でも刺繍が栄える質の良いドレスだ。
対する私は表情が固く、化粧で誤魔化していなければ青白い顔をしていただろう。
三ヶ月前に開かれた日天会は他国を招いて催される。セントバルナの国力を見せる場としての意義があり、抑止力として魔術を披露する演目が組み込まれている。
されに対して月夜会は国内の人間を集め結束を固める意義がある。実際は派閥の勢力拡大を画策する争いの場ともなってしまっているが、表面上は他国が入らない内輪だけの和やかなものに仕上がっている。表面上だけ。あの気の休まらない空気は日天会の比ではない。十三歳から王族は出席が半ば義務づけられているため、心構えはしていたが可能なら二度と出たくないと思う程に表情と言葉が噛み合わない会だ。
加えて今年は陛下の体調が思わしくないため、延びに延びていた皇太子をついに決めるのではないかと噂されているらしい。公表の場としても月夜会は妥当なため、なんとか優位に立とうとアーギニア兄上が頑張っているとかいないとか。公表の段階にまでなっているとすれば今更な気もするが、最後まで諦めない精神は素直にすごいと思う。グランとリダリオスは今年ではなく来年だと言っているので、頑張りはまるきり無駄ではないかもしれないけれど。などと私が考えるのも他人事のようで良くないが、正直自分が立てずともグランやリダリオスがいればこの国は大丈夫かもしれないと考えてしまっているところがある。あれこれ口にしながら、どこかで兄上達を敵に回すことにためらいがあるのかもしれない。こんな優柔不断な人間につきたいとは私自身思わないので、しっかりしなければ。
「姫様、リダリオス様がお見えです」
「わかりました」
準備が出来たところで、リダリオスが迎えに来た。心情的にはグランが良かったが、単純に爵位と影響力の大きいリダリオスの方が都合が良く、あっさりと決まった。本来ならエスコートは母方の誰かが妥当だ。前回は例のごとくサジェス。それは有り得ないのでサジェスに睨まれても平気な相手が条件となる。であればリダリオスになるというのは私だとて理解出来る。出来るけれど。
続きの間へと足を運ぶとさすが伯爵家当主なだけあって、成りは良かった。濃い緑の布地に金糸の刺繍がされた色合いは着る者を選びそうなのに、リダリオスの立ち姿を見ると似合っているとしか言えない。そしてふと自分のドレスとリダリオスの刺繍の色を見て、はっとした。
リダリオスの目は青い。私の髪は当然、金。
互いの色を身に纏うというのはかなり親しい間柄を示す。それこそ、婚約した相手と言ってもいいぐらいだ。そうでなければ――
「まさか、壁になられるおつもりですか?」
「挨拶もなしとはベアトリス様は礼節をお忘れでしょうか」
胡散臭い笑顔のままに腰を折るリダリオスに、私は冷静になった。
互いの色を纏う事で後ろ盾だと明言するという行為がリダリオスにとっても危険な事ではないかと思った私が馬鹿だった。おそらくリダリオスなら大丈夫だからそうしたのだろうと、無条件に今思った。
「失礼いたしました。今宵はお相手、よろしくお願いいたしますね」
「謹んでお引き受けいたします」
差し出された手に手を乗せれば真似事のように甲に顔を近づけ、触れる事なく私を横に招き部屋を出た。
「姉様もおいでになるでしょうか」
「もちろんサジェス侯が手を引かれておりますよ」
私は横の顔を見上げた。
「見たのですか?」
「気になりますか?」
「……いえ、よく奥宮を動けますね」
「私ですから」
その一言で納得してしまう自分がどことなく哀しい。
「グラン達は」
「グラン殿は既に会場に入っています。ティオルとヒューネは配置につきました。これで少々の事があってもベアトリス様だけは安全です」
私だけと強調する事も無く言い放つリダリオスは、やはりどこか私達とは違う感性を持っている。
外宮に入り、会場に近づくと人の気配と声が聞こえてきた。
「そういえば陛下にお会いなられなかったのですね」
「出席する事は伝えてもらっていますし、お時間を取らせるような事は出来ません」
控えの間の前までくるとさすがに私もリダリオスも無駄口を口にする事は出来ず、控えていた騎士が扉を開けるのを待って無言で入った。
「ベアトリス!」
入った途端にベルベット姉様に飛びつかれ、危うく押し倒されそうになった。さりげなくリダリオスが私の背を支えてくれていなければ相当無様にこけただろう。
「ベルベット姉様、落ち着いてくださいませ。せっかくのドレスに皺が寄ってしまいますわ」
なんとか姉様を引きはがし、寄ってしまった姉様のドレスの裾を綺麗に整えると、姉様は「えへへへ」と気が抜けるような顏で笑った。
「だってベアトリスったらちっとも帰ってこないんですもの。帰ってきていたのに教えてもいただけなかったから寂しく思っていましたのよ?」
小首を傾げて訴える姉様は、間違いなく私よりも可愛らしい。身体のラインも女性らしい丸みを帯びていて、薄い黄色のふわふわとしたドレスが本当に良く似合っている。
私はささっと自分のドレスも整えて少しだけ眉を下げた。
「申し訳ありません。卒業のための準備で少し疲れてしまっていたのです」
「まぁ……具合はよろしいの?」
「はい。この通り」
にっこり微笑めば、姉様はじっと私を見てから同じようににっこりと笑った。
「体調が優れないと伺っておりましたが、あまりご無理をされませぬようお願い致しますベアトリス様」
姉様の後ろから鋭い眼光のサジェス侯が歩み寄ってきた。
王族の控えの間に入れるのは王族とその付き人なので、ここにサジェス侯が居るのは何ら不思議ではない。予想もしていたので私も皇女の仮面を被ったまま口元をほころばせた。
「ご心配ありがとうございます。お声を掛けて頂いておりましたのにお会いする事が出来ず本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、ベアトリス様の御加減が良くなられたのでしたらそれに勝るものは御座いません」
表情には笑みを浮かべているが、姉様の無垢な笑みや、リダリオスの不気味な笑みとは違う。一つも笑っていない笑みを浮かべるサジェス侯に、自然と腹に力が入る。
「それにしてもリダリオス殿がこちらに来られるとは思ってもおりませんでした」
「お久しぶりですサジェス殿。二年ぶりでしょうか?」
「そうなりますかな。なかなか姿をお見かけしないので領地に戻られたのかと心配しておりました」
「それも考えの一つにはありましたが、領内の者に邪魔と言われましてね。王都でのんびりと過ごさせて頂いておりました」
サジェス候の皮肉に笑って返すリダリオス。
「それは頂けませんな。仮にも伯爵家のご当主に対してそのような態度を取るなど臣下としてお赦しになられるのですかな」
「能力はありますのでね。無ければそのような事はさすがに口にしなかったでしょう」
「そうでしたか。実力主義のリダリオス殿らしいですな」
「ええ。その点であればサジェス殿にも共感頂けるだろうと思っておりました」
「なるほど、確かに有能であれば遇するのも当然。貴殿のところには数多くおられるのかもしれませんな」
「サジェス殿のところに比べるべくも御座いませんよ」
にこやかに会話は進むが、こちらは気が気ではない。姉様が私の手を取ってきゃっきゃと喜んでいる姿は和むが、隣の会話が気になって曖昧に相槌を打つだけで精一杯だ。早くアーギニア兄上とアクナス兄上に来てほしいと思うが、どちらも顔を合わせたくないと考えている為かこういう場合はぎりぎりまで来ない。私もぎりぎりまで待てば良かったと軽く後悔した。
「それにしてもベアトリス様をお連れするというのはどういう縁があったのです?」
「あぁ、ベアトリス様が学院を卒業される際に出された個人術に興味がありまして、それで話を伺っている時に月夜会の事が出たのです」
こちらに視線を感じたので、何も聞いていませんでしたわかりませんという顔で微笑み首を傾げて見せる。
「何かと噂が絶えない中でベルベット様にはサジェス殿に着いて欲しいと言われたのですよ」
リダリオスは声を潜めた。辛うじて聞き取れたが、余計に姉様の話が聞けない。
「そうなるとベアトリス様自身はどうされるのかと問えば困ったように笑われるだけでしたので、よろしければと。これでも経験だけはございますので」
「そうでしたか。それはお心遣いありがとうございます」
「いえ、私のようなもので逆に恐縮しております」
白々しい言葉の羅列に心の籠らない遣り取り。化かし合いもここまで来ると安定感があるというか、リダリオスは本当に大丈夫だとわかって安心した。
「あ、兄上」
ぱっと姉様が私の手を離し扉に向かうと、ちょうど入って来たアクナス兄上に飛びついた。
アクナス兄上は事も無くそれを受け止め、へらへらと笑って姉様の頭を撫でる。
「もう駄目だよ、ベルベットは今着飾っているんだからちゃんとしないと」
「兄上ともあんまりお会い出来ないんですもの」
「ん? あぁ、ベアトリスも居るんだね」
「アクナス兄上、月夜会ですから私もさすがに出席致します」
「そっか。それもそうだね」
「あ、アーギニア兄上」
今度はアーギニア兄上が現れ姉様は同じように飛びついた。
アーギニア兄上は嫌そうな顔をして振り払おうとするが、にこにこ嬉しそうに笑っている姉様に毒気を抜かれたのか疲れた顔をして引き剥がすだけに留めた。
こうして並ぶと、同じ金髪碧眼だけれどそれぞれ違いがある。アクナス兄上は母君であるベール伯爵家の令嬢リール様と同じ真っ直ぐな髪質で、瞳の色も少し薄い。アーギニア兄上も母君であるアルトナー男爵家の令嬢エーディット様に似てふわふわとした柔らかい髪質で瞳も角度を変えると赤茶っぽく見える。ベルベット姉様はアクナス兄上と同じく真っ直ぐな髪質で私達の母と瓜二つ。そして私は陛下と同じ癖毛で、瞳の色も一番濃い。
「皆さま。お時間で御座います」
従者の声で、兄上達の間に流れていた不穏な空気が薄れた。
といってもアクナス兄上はベルベット姉様とはしゃいでいて、アーギニア兄上が一方的に睨みつけていただけだが。
私は改めてリダリオスに手を取られ、背筋を伸ばした。