第百二十話 選択
ここ一月で、随分と学院の雰囲気は変わった。
一月前に起きた火事の責任を取る形で学院長が去り、その後任は未だ決まらず数名の教師陣が代行を務めている。講義の内容や進み具合については変わらず、学院という意味だけで見れば変わったところは無いが、学院長が居なくとも機能している学院は、あくまでも学院長は有事の際の責任を取るだけの存在だと公言しているようで入学の時にあった尊敬の念が生徒の間から薄れていっているような気がする。それは学院長だけでなく、教師全体に向けられるものも同様で、教師と生徒の間に見えない壁を作りだしているようでもあった。先を争うように教師へと殺到していた生徒の数は減り、微かに軽視するような視線がちらほらと感じられる。俺の思い過ごしかも知れないと思っていると、事実そうであるとヴェルダ先生が教えてくれた。下の学年程それが顕著で、何故そうなのかと疑問をぶつければ火災時の対応を見た結果らしい。エントラスの教師と言えば間違いなく凄腕の魔導師だと想像する。それなのにたかが火事におたおたと惑い、それどころか学院長が姿を見せる事もなく辞めたという事実が尊敬に値する者ではないという考えに至らせたのだと。
俺もそうではないのかとヴェルダ先生に問われ、首を傾げた。火事がある前とあってからで俺の中で先生達への意識は変わっていないと思っていた。すごい人はすごいし、気の弱そうな人は気が弱そうで実技とか苦手そうだとか。火事なんて誰でも慌てるから、先生達が慌てるのも仕方ないんじゃないのかと答えると苦笑された。そういう状況でも落ち着いて対処出来るのが生徒を預かる学院側の人間として当然なのだと言われると、なるほどなと思った。けど、それでもなってみないと分からない事は多いとも思う。それに火事で怪我した人は誰も居ないし、火だってすぐに消し止められた。遠目だったが白光と共に一瞬で火が消えたのが見えて、今考えてみればかなりすごい魔術だったんじゃないかと思う。火を消すのは普通水で、それ以外の手段は無い。あるとすれば風だけど、あの時そんな様子は無かった。どんな属性でどういう性質ならあんな事になるのかいくら考えてみても、俺にはわからなかった。
それにしても、先生にそんな事を聞かれるというのはそういう素振りを俺もしていたという事だろうかと、数日前の会話を思い出しながらいつもの場所で食事を続ける。
遠巻きに生徒達が談笑しながら食事をする風景を横目に、何気なく空っぽな前の椅子を見る。当然テーブルの上には俺だけの食事があり、他に座る者は居ない。
「………」
キルミヤとあの少年の行方はまだわからないまま。ヴェルダ先生も少年の保護者である元魔導師団長に連絡を取っているらしいが、返信を読んでいる表情は芳しいものではなかった。それからだろうか。先生は訓練中にどこか遠くを見るようになり考え込む姿が多くなっていた。真面目な人だから、きっと二人の行方を考えているんだろうと思うと、先生一人を悩ませて何も出来ない自分が歯がゆかった。
自然と出た溜息に何もしていない自分が溜息つくのもおこがましいなと頭を振る。そうしてちゃんとご飯を食べようと食事に向き合った時、視界の端に先を歩く生徒を追いかける二人の生徒が引っかかった。先に食堂を出て行ったのはたぶんサジェス。追いかけた二人はいつもサジェスの近くに居るあの二人。
変わったといえばあのサジェスも変わった。あまりしゃべらなくなり、どこか追い詰められたような顔をして今みたいに一人で動くようになった。俺に対しても、まるで視界に入らないようで因縁を付けられることもなくなった。俺の座学の成績は相変わらずだったけど、実技の成績が良くなり始めた事もあってか、サジェス以外も手を出してくる事はなくなり今のところ無視されるだけになったので有り難いといえば有り難いが、サジェスの顔つきはあんまりにも必死で見ているこっちが心配になってくる。後何か一つでも押されたらあっけなく転んでしまいそうな危うさが絶えず付き纏っているようで、思わずヴェルダ先生にも零してしまった。ヴェルダ先生は同意してくれたけど、直接介入は出来ないと歯切れの悪い口調で返され、何かあったのだと思ったが頭を痛そうに抑えている先生を見ると問えず結局そのままだ。聞いたとしても俺も何かをしたいというわけでもないから、余計な事を言って先生を疲れさせて悪かったなと後で後悔した。だいたい、サジェスは俺なんかが心配していたと知れば怒るだろう。
食事を終えて食器をそのままに食堂を出て部屋には戻らず、教師棟の裏手にある小屋に入るとすでにヴェルダ先生は居て、壁に寄り掛かり紙束を捲っていた。
「遅くなりました」
「いや、早く来たのは私だ」
「それ……キルミヤの?」
ヴェルダ先生が捲っていたのはキルミヤが書き綴ったあの紙の束のようだった。
どうしてそれを今見ているのかと不思議に思えばヴェルダ先生は腕を振った。途端、キンという耳鳴りがした。いつも通り小屋を覆う結界を張ったのだと理解して先生に近づく。
「ハンドニクスはこれを書けるか?」
「無理ですね。途中までなら書けると思いますけど高等まで知識が追いつきません」
「……そうだな」
「どうしたんです」
先生はその場に座ると、膝に紙束を置いた。
俺も先生の前に座ると先生は口を開いた。
「これは不確定な事で、確証は無い」
「先生?」
「しかし、レライは知っておいた方がいいと私は思う」
唐突に俺を名前で呼んだ先生に、キルミヤの事が何かわかったのかと俺は身構えた。
「近く、セントバルナは戦乱に包まれる」
「はい?」
予想外の言葉に、思わず聞き返す。けど先生は俺の戸惑いを無視するように続けた。
「切っ掛けはおそらく王位の継承争い。第二王位継承者のアーギニア皇子と第五王位継承者のベアトリス皇女から始まる。アーギニア皇子は後ろに物量。ベアトリス皇女は質量がつくと予想されるため、下手をすれば長引く。そうなれば諸外国がここぞとばかりに手を伸ばし、セントバルナは刈り取られる」
「あ、あの……そないな話、俺なんかが聞いてていいんですか?」
内容が大事過ぎて俺は驚くよりも戸惑いが強くて、何よりも俺が聞いていいような話じゃないんじゃないかと慌てた。
「レライ」
「は、はい」
「私は魔導師団員だった。そして今でも当時の団長の下についている」
「えっと……どういうことです?」
「現在の魔導師団長ではなく、元魔導師団長カルマ・リダリオスに従っているという事だ。そして団長はベアトリス皇女につく事を決め、私に人を集めるようにと指示してきた」
「集める……って、ここでですか?」
「いや、ここは候補の一つに過ぎない。だが余計な者が居れば力を削げと言われている」
「そ、れって……」
先生の削ぐという言葉が生々しくて、手足に這い上がるような悪寒を感じた。
「再起不能にするか――まぁ、そういう事だ」
「そんなん……」
「幻滅してくれていい。私達魔導師団員は高潔でも何でもなく、セントバルナという舟を浮かべるために存在している兵力だ。平常時はその存在自体の監視と所外国に向けての抑止力として働くが、非常時は戦力として働く」
「……なんでです。なんでそないな事を俺に話すんです」
「お前がこのまま学院に居れば、私はお前を頭数に入れてしまう」
「それって、俺をベアトリス様側の戦力にするって事ですか?」
「そうだ。入れられなければ力を削がねばならない」
「な、なんで?」
「アーギニア皇子とベアトリス皇女を比べれば、普通に考えればアーギニア皇子の方が継承権が高く次期皇帝として妥当だと見なされる。そうなれば国が造った学院であるエントラスは個人が意思を表明しない限りアーギニア皇子の戦力となる。教師だけでなく、生徒も」
「まさか、だって生徒ですよ? 戦えるわけ」
「野戦を忘れたか? 二年以上は戦闘訓練を受けている。そして一年も魔術という極端に高い戦闘力を持つ。訓練を受ければ魔術を持たない一兵卒よりも戦力としては確実に高く評価される」
「ま、まってください……」
あかん、頭が余計混乱してきた。
俺は手を上げて先生の言葉を止め、落ち着こうとしたが頭がうまく動かない。
「せやけど……俺……」
「今ここを離れるのなら私はお前の事を報告しない。両親の下へ戻り、南方の国へ行けばセントバルナの争いからは離れられるだろう」
先生の目は怖い程真剣で、継承争いで戦乱にまでなるなんて冗談にしか聞こえないのに、現実に起きてしまう事だと何よりも目が語っていた。
その目を見てしまって、俺の中で浮かんだ言葉は次々と消えて最後に残ったのは――
「……無理です」
無意識に出た言葉に、俺は改めて無理だと悟った。
「無理なんです。だって、頷かんから。ここから離れるんやったらもっと早くに離れてるんです。俺は国外へ出てもいいんちゃうんかって父さんに何べんも言うたけど、セントバルナが在る限りハンドニクスはセントバルナを支える礎になるゆうて聞かんのです。ハンドニクスなんてあっても無くても変わらんやろゆうても、聞かんのです、何言うても聞かんくて……せやから俺、こないなとこに……母さんも弟も妹も置いてきて……」
握りしめた拳にぽたりと雫が落ちて、慌てて目を擦る。
泣いてどうにかなる問題じゃない。泣く暇があるのなら母さんやリクル、イレインをセントバルナから逃がす方法を考えなければならない。母さんが頷かなくても、弟と妹だけは絶対に逃がす。
「……先生、俺がベアトリス様につくて言うたらお願い聞いてもらえますか」
「レライ。我々は元魔導師団員であって、現在魔導師団員というわけではない。政治的力はほとんど無いと言って差し支えない状態だ。そしてベアトリス様が王位を継がれるとは言い切れない。そうなれば我々は反逆者として断罪される」
先生は俯いたままの俺に諭すように言った。それはきっと、俺も一緒に逃げろという事なんだと思う。今俺に話してくれたのも、今なら逃げられるからという意味なんだと思う。父さんを残せば、それは出来るかもしれない。だけど、頑固で分からず屋でどうしようもないと思っていても、それでも父さんは父さんで放っておく事も出来ない。
本当に仕方のない人だと思う。何を考えているのか分からなくて、でも父さんを見捨てたらリクルもイレインも――母さんも泣いてしまう。
だから俺は顔をあげ、先生の目をちゃんと見て答えた。
「わかってます。結果が全てだって、俺の高祖父が証明してます。俺達は命だけは残されたけど、それしか残されんかったから」
「その上で言っているのだな?」
「はい」
じっと俺を見る先生の目から、視線を外さず俺は答えを待った。
無言の間が続き、それにも耐えて待つと先生はゆっくりと目を閉じた。
「願いの内容は」
「俺の母さんと弟、妹を先生が安全だと思う場所へ逃がしてください」
「先程の話では父親は承服しないように思えるが」
「邪魔するなら父さんは俺が殴り倒します」
「父親が承諾しなければ母親も承諾しないのではないのか」
「……最悪、母さんが無理なら弟と妹だけでもお願いします」
「レライ、子は大人の力なくして生きていく事は難しい。知らぬ土地へ子供だけ送ってもそこで生きていけるかの保障などない」
「それでも! それでも、どっちにしたって父さんのとこにおったら、俺みたいになる………まだあいつら知らんから」
ものを投げつけられる事も、汚らわしいモノを見る目も、理由のない暴力も、心を切り刻む言葉も、まだ知らない。何も知らないままでいて欲しい。二人の笑顔が暗く歪められる事なく、無邪気でほわっとした暖ったかいままであって欲しい。
父さんや母さんから離してしまう事になったとしても、それで俺を恨んでも、それでもいいからあいつらはもうハンドニクスとは関係ないところで自由に生きれるようにしてやりたい。
「ハンドニクスの意味を知らないんです。だから、お願いします。逃がした後の事は俺がどうにかします」
「『どうにか』で弟妹の人生を左右するつもりか?」
先生は目を開け、訓練の時とは違う厳しい顏をした。
俺にはそれが真剣に取り合ってくれているからこそ言ってくれたのだと思えた。だから誰にも言わなかった最後の手段を口にした。
「リットです」
「リット?」
「リットが伝手なしの小屋て言われてるの、先生知ってますか?」
「……聞いた事はあるが」
「意味知ってます?」
「頼む相手が居ない者が駆け込む場所という意味ではないのか」
俺は頷いた。
「合ってます。リットは、子供が相手でも依頼を受け付けてくれるんです」
「リットに依頼を出すのか。しかし依頼金はどうする」
「今すぐには出せません。けど、誓約をすれば受けてくれる」
「誓約?」
「五年以内に必ず払うという誓約です。それが叶えられなかったら俺はリットのものになります」
「レライ!」
大声で怒鳴った先生に思わず竦んでしまったが、俺は負けじと声を張った。
「ちゃいます!」
「なにが違うんだ! 人身売買に」
「だからちゃいます!」
やっぱり人買いと間違えてたと俺は急いで誤解を解くべく言葉を続けた。
「リットで働くだけです! 支払う分働けば解放されるんです! 危険もあるけど無理な事はさせんて言われてて、だから俺らの間じゃ『伝手なしの小屋』だって言われてるんです!」
「………そんな都合のいい話があるか」
「もちろん誰でもそれがまかり通るわけじゃなくて、審査があるって聞いてます。けど、叔母さんが覚悟があれば通るって言ってましたから」
「叔母さん?」
「俺の父さんの妹で、リットの登録員なんです」
「ならその方に協力してもらえないのか」
「駄目だと思います。叔母さんはいろんなところを転々としててセントバルナに戻って来る事も珍しいんです。俺がエントラスに入る前に一度来てたから今はもうセントバルナには居ないはずです。リットに確認しても返答には一月以上掛かるのがいつもやから……それを待てます?」
「………」
「何かあったときの最後の手段やと前々から考えてました。実行に移すには俺はガキすぎて出来なかったけど、でももう俺も十七になった。
もし先生が頷かんくてもリットに依頼して弟と妹は逃がして、俺はエントラスに残ります」
「残らず一緒に――」
「母さんと父さんを放って行けませんよ」
笑って軽く言ってみるが、ちゃんと笑えてるのか先生の強張った顔を見るとわからなくなる。
「レライ……」
「馬鹿やと思いますよ、心底。何であんな人の子供なんだろうって思ったりしました。けど、思ったところで変わらないんですよ。何回夢だと思って目を瞑ったかもわかりません。そうやって目を覚ます度に母さんに寝坊助だって怒られて……。母さん、ハンドニクスじゃなかったんですよ? ハンドニクスって知っててハンドニクスになったんですよ? ……それなのに俺が………もう、仕方ないじゃないですか」
「ならエントラスに残らずそばに」
俺は首を横に振って先生の言葉に否定を返した。父さんと母さんのところに居ればいいと言いたいのだろうけど、それこそ無理だ。
「父さん、絶対参加しろって言うてきます。どっちに付けって言われるかわかりませんけど、それなら俺は先生が居る方がええです」
先生は短く息を吐いた。
「………わかった。ただし」
承諾の言葉に喜びかけた俺は、続く言葉にぐっと前に出そうになる気持ちを堪えた。
「条件が二つ。一つはリットへの依頼が出来る事。もう一つは父親を説得できる事。
我々は絶対数が劣っている。今後、僅かな事でも禍根を残して手を取られる事は出来ない」
「………わかりました」
難しいかもしれないが、引くわけにはいかない。
「…………ぃ」
僅かに顔を伏せた先生は呟くように何か言った。
「え?」
聞き取れなくて聞き返すと首を横に振られた。
「いや、なんでもない。私は時間が取れないから別の者が立ち会うが、いいか?」
「はい」
「では明日リドネの泡沫亭で左頬にほくろが二つある女性を探しなさい」
「その人が立ち会うんですか?」
「あぁ」
「わかりました」
「今日は訓練はなしだ。もう戻りなさい」
「はい。……あの、先生」
立ち上がろうとしていた先生は動きを止めて俺を見た。
「ここに……その、余計なのって居るんですか」
「……まだ知らなくていい。自分の事に集中していなさい」
居るんか……
学生の中に居るのか居ないのか。そこまではわからなかったが、出て行く先生の後ろ姿が少しだけ恐ろしかった。一歩間違えば俺もそうだったのかもしれないと考えかけて、すぐに頭を振った。そんな想像、ちらとでも考えたら竦んで動けなくなりそうで今はとにかく前だけを見なければと自分に言い聞かせた。
まずは外出許可。明日は休講日でその日に戻るなら外出許可も要らないが、一日以上外出する場合は理由を明記して許可を貰う必要がある。まさかバカ正直に書くわけにもいかず、父親が怪我をしたと曖昧な事を書いて出したら予想外にすんなりと許可が降りて驚いた。忙しいからなのか何なのかわからないが、貰えたなら問題ない。
翌早朝に俺は宿舎をを抜けて学園を出て隣街のリドネに歩いて向かった。街に着くころには日が真上を過ぎ、泡沫亭に入る頃は丁度飯時の忙しい時期を終えた辺りだった。
「いらっしゃい。泊まりかい?」
籠を持った女性にカウンターの向こう側から声を掛けられ俺は奥の食堂らしい場所を見やりながら首を横に振った。
「左頬にほくろがある女の人を探してるんです」
「ほくろ? あぁ、あのべっぴんさんかい。聞いてるよ、二階にあがって突き当りの部屋にいるから」
「あ、ありがとうございます」
興味深そうな視線を送ってくる女性から逃げるように俺は二階へ駆け上がり、突き当りの部屋まで行って、ちょっとためらってから戸を叩いた。
「開いていますよ」
「!」
真後ろから声がして俺は飛び上がった。慌てて振り向いたら思ったよりも若い人がそこに居た。
俺より四、五歳上だと思われる女性は、柔らかそうな麦色の髪を一つに纏めた剣士風の姿だった。
「ここでは少し難あり、です。中へどうぞ」
手を引かれ先ほど叩いた部屋に入ると、女性は振り返りピンと背筋を伸ばした。
「初めまして、私はピットです。所属名はありません。あなたがレライ君ですね?」
「は、はい」
腰に剣が無ければ、服装が男物でなければ、妹が好きな物語のお姫様かと思ってしまうほど綺麗な人だった。
緊張する俺に、女性――ピットさんは深い碧の瞳を眇めてくすりと笑うとピンと張った姿勢を崩して柔らかな表情を浮かべた。
「お話は伺っています。馬に乗った事はありますか?」
「あ、えと、昔に何度か」
農具を持った人達に追われた時に否応なく覚えた。覚えて無ければ追いつかれて酷い事になっていた。
「今はどうです?」
「何年も乗ってないので……乗れば慣れると思いますけど」
「そうですか」
ピットさんは腕を組み、少し首を傾げた後頷いた。
「場所はエバースのディーテという街で合っていますか?」
「はい」
「リットはディーテの支部でいいですか?」
「はい。あ、すいません、ディーテの手前のレシーアの支部でもいいですか?」
「構いませんよ。では、レシーアまでは空を行きましょう」
空?
ピットさんはきびきびと部屋を出て振り向き、俺がついて行くのを待っていた。俺はひとまず疑問は脇に置いて足を動かした。
ピットさんは一階の女性に一声かけると泡沫亭を出て、街道ではなく林が広がる場所に向かって歩き出した。何かあるんだろうかと黙々と先を行くピットさんの背を追いかけていると、唐突に足を止めて振り向いた。
「離れましたね」
ピットさんの視線の先には遠くなった街。「そうですね」と言って振り向いたらピットさんが俺の前で背を向け片膝をついていた。
「どうぞ」
「………え?」
「おんぶです」
準備万端で首だけこちらに回して見上げているピットさん。
「……え??」
「この運び方が一番安全でお互い楽だからです。君よりも大柄な男性を運んだ経験もありますから心配無用です」
「は、はぁ……?」
そうは言われても俺は別に足が痛いとか歩けないとかそういうわけではないのだが。
意味がわからないままピットさんに促されてどぎまぎしつつおぶさる。どこに捕まっていいのか彷徨う手を掴まれて首に回され右手でピットさんの左肩を、左手で回した俺の右腕を掴むように誘導された。
「いいですか? しっかり捕まっていてくださいね?」
「は、はぃ」
がっちりと抱きつくような状態で、しかもなんかいい匂いがして顔が熱い。絶対顔が赤くなっている。
「行きます」
そう言うとピットさんは右腕を振って地面を蹴った。その瞬間、ぐんと勢いよく地面が離れた。
「え……!?」
「走天です。君も我々の仲間となるなら覚えてもらわな変えればならない魔術です」
「走天って……」
高等魔術。しかも使い手がかなり限られていると聞いた事がある。
「消耗が激しい魔術ですが、いろいろと戦術が広がります。損はありません」
「それはわかるんですが……いきなり高等魔術って言われて、その、ちょっと」
眼下にある地は見たことも無い景色だった。山の頂上から見下ろす下界とはまた違い、真下に覗く彼方の地は落ちた時を考えると恐ろしかった。
「大丈夫です。君はヴェルダ様がお認めになった人物ですから」
「先生が?」
「このような事態にならなければもっと楽しく君と訓練が出来たと、珍しく愚痴のように零しておいででした」
「………ありがとう、ございます」
「世辞ではなく事実なのですけどね」
「あの、ヴェルダ様って、先生って偉い人なんですか?」
「ヴェルダ様は君になんと説明されましたか?」
「魔導師団員だったって言われました。今の魔導師団長じゃなくて、先代の魔導師団長に従ってるって」
「そうですか。では、君が正式に我々の一員となった時に紹介しましょう。それはまではお楽しみという事で」
軽やかに話すピットさんに、『話してくれてもいいのに』と口を尖らせると狙ったように笑われた。
「あははっ……本当、聞いてた通り可愛いですね」
「かっ!?」
「そうやって赤くなるところも可愛いですね」
「ぅえっ!?」
ピットさんはこちらを見てもない。なのにタイミングが合いすぎていて俺は余計に焦って変な声が出た。
「ほらほら、動くと危ないですよ。しっかり捕まって」
「……ピットさん」
「なんでしょう?」
「からかってるでしょ」
「ええもちろん」
それはもう嬉しげに肯定されて、俺はがっくりと肩を落とした。
「なんでそんなに楽しそうなんですか」と聞けば、「初めての後輩になるかもしれないですから」と言われた。
もう少し聞いてみると二年前、魔導師団員を辞めた時ピットさんは入団一年目で自分の後の入団者というのが居なかったらしく、それから元魔導師団長は人を増やすでもなくきたので今回の増員が純粋に嬉しかったようだ。
他にも、どうして元魔導師団長の下についたのか聞いてみたが、それはまだ話せないと言われてあたりざわりの無い会話だけが続いた。それでもピットさんと話していると楽しくて、魔導師団に入りたての頃の失敗談とか、おっちょこちょいな先輩の話とか随分と笑わされた。
だからか、レシーアに着いたと言われた時は驚いた。確かに日が頭上から傾き地に沈みかけていたが、たかだが半日で着いてしまうような距離ではない。馬車でも三日は掛かる。今一信じらなかったが、視界に町並みが見えて本当だったと呟いてしまった。
近くの林に降りて歩いてレシーアに入ると、見慣れた喧噪に包まれて懐かしさに足が止まった。
「ぎりぎり、リットの支部が開いてますね」
「あ、はい」
表通りの突き当り、一番目立つ場所にレシーアのリットはある。
こういう目立つ場所にあるのは珍しいが、レシーアは依頼が多いためか王都のリットよりも立派だという噂を聞いた事がある。
家に帰る人と一日の終わりに酒を目指す人の流れを縫って進み、リットに入る。閉まるぎりぎりとあってか、幾人も剣を履いた人が列を成していた。俺はその横から奥へ続く部屋に入り、受付の人に声を掛けた。
「あの、アンスガーさんは居ますか?」
「お名前とご用件を伺っても宜しいでしょうか」
「レライと言います。要件は依頼です」
「依頼でしたらここで受け付けておりますが」
「アンスガーさんに受け付けてもらうように言われているんです。俺の名前を伝えて貰えないですか?」
「わかりました。少々お待ちください」
まだ若い男性の受付は立ち上がると、後ろで書類を仕分けていた別の職員に窓口を変わるよう言って奥へと消えた。
「アンスガー?」
俺の横に来たピットさんがそっと聞いてきたので、俺は小さく頷いた。
「叔母さんに『もし依頼するような事があれば』って言われていたんです」
俺が考えていた事を叔母さんに話したことは無かったが、リットの事をいろいろと聞いていた俺に、叔母さんは薄々気づいていたのかもしれない。
「会った事は」
「ないです」
「そうですか」と呟くと、ピットさんは下がった。見れば先程の職員ともう一人、年配の男性が入ってくるところだった。年配の男性は仕切りの台を跳ね上げてこちら側に出ると手招きをした。
「あの、あなたが――」
「話は奥で聞きましょう」
やんわりと止められ、開かれたドアの先へと背中を押された。
「貴女は?」
「見届け人です」
続こうとしたピットさんを止めた男性はその答えに束の間沈黙したが「どうぞ」と道を空けた。さらに二つの部屋を抜けて階段を昇り、突き当りの部屋へと入るとそこが他とは違う場所だと一目見てわかった。
重厚な樫の机と、その前に設けられたテーブルとソファが下で見たものとは明かに質が違った。
「どうぞお掛けになってください」
父さんよりも上の年代の人に丁寧に言われ、俺は戸惑いながらソファに腰かけた。ピットさんは当事者ではないという事を示す為か座らず戸口から移動しようとしなかった。
「私に依頼と伺いましたが、どのような依頼でしょう」
落ち着いた声音で尋ねる男性に少し緊張を解かれ、俺は一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。話す事は前から考えていたので纏める必要はない。
「俺の家族を他の国で生活できるように支援してほしいんです」
「技能訓練、という事でしょうか」
「必要であればそれもお願いしたいですけど、生活の基盤を整える事も含めて支援をお願いしたいんです。具体的に言えば、子供だけでも生きていけるように」
「一時的なものではなく永続的なものでしょうか」
「五年は続けて欲しいですが、支援が不要と判断されたところで見守り程度の確認をしてもらえれば十分です」
「国はどこでしょうか」
「南方のいずれかです。すみません、今はまだ確定していないので」
男性は紙を取り出すと、そこにさらさらと書き綴っていった。
「どうぞ、五年間支援が必要と判断した場合の費用の内訳です。どの国にされるかで変わりますが南方の国でしたら一人あたり大よそこのぐらいとお考えください」
紙を見て、俺は頷いた。
まず、払えない。俺がエントラスに行くまで働いていた賃金で換算すれば二十年ぐらいは要る。
「依頼金の事で相談があります」
紙をテーブルに置いて、俺は男性に向き直った。
「今この依頼金を支払う事は出来ません。けど、どうしてもこの依頼は今必要なんです。だから俺自身を保証として五年待ってもらえませんか」
男性はゆっくりと瞬きをして「誓約ですか?」と聞いたので俺は頷いた。
「いくつか質問をしても宜しいですか」
「はい」
「貴方はいくつ言語を操れますか?」
「話せて書けるのはシィール語の一つです。話すだけならラドルゴ語とファス語も出来ます」
「四則計算は出来ますか?」
「出来ます」
「これは?」
紙に書かれた数字を読み答える。
「十八です」
「今まで職に就いた事はありますか?」
「棟梁……大工の手伝いはしていました。専門的な事はわかりませんが……」
「他に技能はありますか?」
「魔術を習ってます」
「魔術?」
それまで流れるように次々と質問していた男性の問いが止まった。
「貴方は、魔術が使えるのですか?」
「難しいものはまだ出来ませんが、簡単なものであれば使えます」
答えると男性は視線を俺からピットさんに移した。つられて俺もピットさんを見たが、変わらずドアの前で静かに佇んでいる。
「貴方は魔術をどこで習っているのですか?」
「あ、はい。エントラス魔導学院です」
「エントラス……。レライと言いましたね。貴方は家名を持っていますか?」
顔が強張った。名前を聞かれるのは、どうしても嫌な記憶が甦って身構えてしまう。
「はい。ハンドニクス、です」
はっきりと口にすると、男性は一瞬目を丸くしたがすぐに穏やかな表情に戻った。
「レライ・ハンドニクスさん」
「……はい」
「貴方の依頼、承りました」
一瞬、理解出来ずに間が空いた。
「ほ、ほんとですか?」
「えぇ」
勢い込んで尋ねた俺に、男性は頷いてくれた。
………っ
こんなにすんなりと聞いてもらえるなんて思っていなくて、俺は言葉に詰まった。お礼を言わなきゃいけないのに、嬉しさと安堵が込みあがってきて喉の奥が震えて、言葉が紡げない。
「登録員から少しだけ、貴方の事を聞いています。その内容と貴方は一致しました。私達は貴方の事を信用致します」
それって……叔母さん?
あまり俺達に近づかず、諸国を渡り歩いている叔母さんの事を羨ましいと思った事は数知れない。憧れた事もある。そして、ハンドニクスから離れて生きる事が出来る力を持っている事を妬んだ事も。
きっとローザ叔母さんはそんなんわかってたやろうな……
会えば頭をかき混ぜられて砂糖菓子を貰った。外の国の事を聞けば面白おかしく教えてくれた。一度だけ、叔母さんに何で一緒に居てくれないのかと聞いたら、悲しそうな顔で謝られた。叔母さんの口からハンドニクスの事について語られる事は無かったけれど、俺達の事を心配してくれているのだけは伝わって、妬む気持ちは萎んでしまった。
俺、どれだけ助けられてるんやろ……
知ってる事でも両手で足りない。知らない事はもっとあるような気がした。
「五年以内に依頼金をそろえる事が出来ずとも、私達は貴方を迎い入れましょう。ですから、命を軽んじるような真似は謹んでください」
「え?」
「貴方には依頼金を支払って頂かなければなりませんからね」
「あ、あぁはい」
一瞬、命を軽んじるなと言われてこれから起きる事を言われているのかと思った。だけど考えてみれば、そんな事を知っているのは特殊な人達だけだ。先生みたいに動向を伺っていたり、元老院とか国政に携わっている雲の上の人達。リットは大陸中にある大きな組織だけど、特定の国と関わりを持ったりしないからそういう事は関心が薄いと思う。
「場所が決まりましたら教えてください。契約書はそれから作成しましょう」
男性は立ち上がると俺に手を差し出した。
「申し遅れましたが、私はアンスガー・ベルゲン。ここの支部長です」
「え!?……あ、俺、じゃなくて私はレライ・ハンドニクスです」
支部長なんてものがリットにあるとは知らなかった。どの国に対しても公平な対応を取るリットの中の組織構造はどこにも明かされていなかったから当然だけど、まさか目の前の人物が支部長という人物だとは思わなくて、今さら慌てて手を握り返した。
「レライ・ハンドニクスさん。私があなたの誓約を受けた時点であなたは私達の家族です。緊張しなくてもいいんですよ」
「は、はい」
反射的に頷くと、男性は緊張の解けない俺を見て可笑しそうに笑い、ピットさんに視線を向けた。
「お名前を伺っても宜しいですか?」
「ピットと申します」
軽く会釈するピットさんに、アンスガーさんも会釈を返した。
「是非、貴女の仕えるお方にもここでの会話をお伝えください」
「ええもちろん。そうさせていただきます」
二人とも微笑んで言葉を交わしていたが、何か俺が話していた時とは違って固い空気が流れているような気がした。争うような雰囲気では無かったけど、気安い雰囲気でも無くて何でそんな空気になっているのか戸惑っているとピットさんが話は終ったのかと確認してアンスガーさんが肯定したのでリットを出る事になった。
その去り際、そっと手に何かを握らされた。何かと見ればアンスガーさんは秘密だと言うように口に人差し指をあてていたので、黙って頷いて先に出たピットさんを追いかけた。
「次はレライ君の家ですね」
「はい」
表の通りを歩きながらピットさんから見えない位置でそっと手のひらを開くと、小指の先程の大きさの黒い石があった。
黒い……
黒はあんまり縁起のいい色ではない。それをピットさんに内緒で渡して来たというのは、どういう事だろうか。