第百四話 ろくな思い出がない
「ミアは今まで何をしていたの?」
なるべく歩きやすそうな場所を選びながら足を進めていると、後ろで黙ったままだったレースが聞いてきた。
「今まで?」
「あたしは里にいて、ミアに会いたくて里を出てきた。ミアは?」
俺は足を止め振り向いた。
こちらを見上げるレースと視線があって、少しばかり意外な気持ちになる。が、思い起こせばエリーゼさんの家を夜中に出ようとした時もそうだった。
余裕が無いと誰だってそんなもんか。
俺だって他人の事なんて考える余裕ないし。
答えない俺に首を傾げるレース。それに苦笑を浮かべて頭を掻き、前を向いて再び足を動かす。
「隠れながら勉強してた」
「隠れて? べんきょ?」
前に垂れさがる蔦を拾った木で打ち払いながら「そうだよー」と返す。
「俺は怖がりでさー、安全だと思ったところから出ずにいろいろ勉強してたんだよね」
「危ないの?」
「今は大丈夫だよ」
たぶん。
「べんきょって?」
「いろいろ。最初は言葉だったな」
言葉なんて勉強するというより、耳に慣れさせていくものではあるが、俺はそれが出来なかった。
赤子の時はほぼ意識が無い状態で、まともに思考する事を思い出したのはたぶん二歳ぐらいからだったような気がする。それまでは曖昧で断片的な記憶しかない。その記憶も他人の目を通して視ているようで自分のものだという感覚が薄い。およそ子供らしからぬ反応の無い物体だっただろうに、片時も離れず見ていてくれたグランにちょっと尊敬する。
何が理由ではっきりと自分を意識出来るようになったのか未だに不明だが、気が付いたら言葉は全くわからない文字もわからない。俺の意識としては生まれたばかりの赤子――おかんが死んだ直後から、いきなり幼児にまで飛んだような感じで感情の方も現実についていかなくてみっともなく泣きわめいた。
そこから言葉を教えてくれたのもグランで、反応を返し始めた俺に『ばっちこい全力投球してやんぜ!』の構えで熱い指導をしてくれた。精神の方が安定したら十歳にもならない子供が一生懸命教えてくれるその姿がかなり微笑ましくて――
「次は文字で、文字がわかったら食べ物の事を調べて、地理と乗り物と物価と……まぁ砂糖欲しさに本を漁りまくったんだが」
「……なんで? さとうが欲しいなら作ったらいいのに」
「いや無いから。原材料となるべきものが無かったんだよ。根菜も育ちにくいみたいだったから、代用品ないかと探して」
「あったの?」
「……無かったよ」
さっぱりばっちり、無かったさ。
砂糖を作れるまでの植物は無くて余所からも移送費が掛かって商売にまで発展させるのはガキには無理だったさ。そもそも土台無理って分かってたさ。三歳児がんな事出来たら怖いだろ。それでも諦めきれなかったんだよ。もういい? もうこの話題から離れていい? いいよね?
「た、たいへんなんだね」
諦めきれずに足掻いた過去に涙していると後ろから励ますような声が掛けられた。
気遣われた……余計にダメージ。
俺の心を悟ったように、ずり落ちそうになる荷物。それをよいしょと直して木の合間から覗く空を確認。
日が弱くなったと思ったのは雲が出てきたからのようだ。色からしてひと雨降りそうな気配。
「その後は興味の赴くままに本を漁ってたから勉強って感じではなかったかな」
そうそうに雨宿りをする段取りをつけた方がいいかと葉が密集していそうな場所を目で探す。
「そうなんだ」
「八歳の時にちょっとびっくりなイベントがあって、それからは自分の身体の事を調べて戦い方を教えてもらって」
「びっくりな出来事って?」
「痴漢にあった」
「ちかん?」
あ。通じてない。
このボケは駄目か。
「というのは冗談で、年上の相手と喧嘩したんだよ」
「ちかんって何?」
「子供と大人じゃあ腕力が違いすぎてねー、あっちゅーまにやられちゃったわけだよ」
「……」
「………」
「……ちかんって聞いちゃだめな事?」
調子に乗ってすいません。まじめに雨宿りの場所探します。
「忘れて。まだ知らなくていいから」
「じゃあいつか教えてくれる?」
………。
誰か……誰か、この純粋という名の凶器を封印してください!
「……お……おうとも」
そして俺の口も塞いでください……
嬉しそうな顔をしているのが容易に想像出来て振り向けない。
だいたい俺は何て説明する気だ。『痴漢は公共の場所で相手に羞恥心を抱かせ、不安にさせる行為を行う者。もしくはその行為そのものだよ』とでもいう気か。余計質問されそうだ。
というか親御さんに『ちかんって知ってる?』と聞かれた時点でアウトな気が……
……敗北映像しか想像できない。
「俺の未来は決した………」
「え?」
「なんでもない。うん、俺は強く生きると決めたんだ!」
「大丈夫?」
……本格的にボケは駄目だな。これ以上はやめよう。傷が広がるばかりだ。
と、馬鹿な事を考えている間にもどんどん空は陰っている。
目から入る情報は他の感覚で入手する情報よりも大きい。従って薄暗くなった森を見た俺の脳が弾きだした記憶は――
「姉御を恨む」
「え?」
考えるな俺。嵌るな俺。違う事を考えるんだよ。ほら、例えばナバシュ千頭に囲まれてハーレム状態とか。
……ハーレムじゃねぇよ。雌ナバシュでもハーレムと言わねぇよ。
終ってる……俺の脳みそ終ってる。
「戦いかた、あねごさんって人に教わったの?」
一瞬凶器持った姉御の映像が浮かびかけ、即座に消す。雌ナバシュ千頭消すより早く消す。
「戦い方はおやっさんに教わったんだ。姉御じゃなくて」
「おやっさ……ん? おじさんの事?」
「通りすがりのね」
「知らない人に教わったの?」
意外だというような声。
「そんなもんでしょ。俺とレースだって『知らない』同士だったんだから」
「あ」と、後ろで手を打つ音がした。
「おやっさんっていう人は強いの?」
「めちゃくちゃ強い」
「ミアより?」
「当然。つーか、人間かと疑いたくなるような人だよ」
「人間じゃないの?」
……生身でそこらへんに生えてる木を蹴り折るような人間………いやまぁ魔法が存在しちゃってるし先天性の能力みたいなものもあるから、ある意味頑丈な身体っていうのも普通なのか?
「………人間だと思うけど、普通の人よりすごいんだよ」
無難にそうしておく。
「へぇー……会ってみたいな」
その言葉に思わず足が止まり、振り向いてレースの目線の高さに合わせていた。
「やめとけ」
「え、え?」
目を瞬かせたレースに、再度言う。
「やめとけ」
「な、なんで?」
「身のためだ」
「身のため?」
「やめとけ。いいからやめろ」
「わ、わかった」
引き攣り気味の顔でコクコク頷くレース。
それに俺は満足して立ち上がる。
多少怯えられようともあの野郎の前に出すよりはよっぽどましだ。
最初、性別を間違えられて喜色悪いくらいに優しかったが、男だと気付いたときの手のひら返しは凄まじかった。何で男なんだよとキレられて、知るかと言ったら殴られて、殴りかえしたら間接極められて、ギブアップしても解かれなくて失神させられたのは未だにむかつく。
おっさんと呼べば鉄拳制裁。くそじじいと呼べば失神コース。それでも屈っしたくなくておやっさんと呼んだら妙にツボったらしく気に入って若干胸を張った姿もイラっとした。残念ながらそれ以後はおやっさん以外を許されず、身の危険を感じる程の制裁に泣く泣く定着してしまったが、今ならくそじじいと呼んでも対抗できるだろうか?
……無理だな。
シュミレーションを途中で放り投げる。
たまに見かけた少女や幼女を実に楽しそうに見ていた変質者。
俺はまだ肉体年齢がそれ相応だから許される。許されると信じている。少なくとも三十後半の野郎より。
そんな三十後半で堂々と口説きに向かおうとする変質者に勝てない己が激しく情けないが、実戦の前に精神戦で敗れる。間違いなく。
こういう変質者がいるからアイツもああいう事をしているんだろう。本当、そういう事をされている世の冒険者の方々には頭が下がるというか何と言うか……
「仲が悪いの?」
「悪くはないけど……いや、悪いな」
『力はない体力もない。お前それで男かよ』と、さんっざん言われて嘲笑も露わに『女のよーに、よわーいよわーいお前でも戦える方法を教えてやるから泣いて喜べ』とふんぞり返って言われて友好的な態度が取れるか。
その後も『センス無い』『とろい』『単純』『馬鹿』『阿呆』『チビ』などなど。後になるにつれ戦闘技術とは関係ない事まで言われてガチ喧嘩して血を見る事になった。その時に血がダメというのが発覚したのだが……『軟弱者』が追加される事となり吐きながら迫るという芸当も覚えるに至った。
「まぁでも……感謝してるよ」
おっちゃんとグランの次ぐらいに。
「仲が悪いのに?」
すぐさま問い返すレースに、俺は笑って頷いた。
「男って馬鹿だからね」