第九章 脱出
アイリスとの対談を終えて地下牢に連れ戻された後、浦辺を待ち受けていたのは好奇心をむき出しにした高瀬だった。
高瀬はアイリスとどんな話をしたのかという興味と、王女とはどんな相手だったかという下心を露骨にむき出しながら浦辺に尋ねた。
浦辺は無視を決め込んだが、井崎警部の「悪賢くて執念深い」という言葉を裏付けるかのように高瀬は執拗に聞いた。
我慢の限界を超えそうになったとき、タイミングよく様子を見に来たロイスが一喝してくれたおかげで、浦辺はようやく苦痛の時間から解放された。
立ち過ぎて足が棒になったと高瀬がごねたので、ロイスは仕方がないと言った調子でイスを用意した。
どっかりと座ると、高瀬もようやくおとなしくなった。
ホッと安心したら、眠気が浦辺を襲った。時計もなければ外の様子も分からないため、朝なのか夜なのかサッパリ分からなかったが、浦辺は訪れた睡魔に身を委ねてそのまま眠りに就いた。
鉄格子の扉が激しく開く音で浦辺は目を覚ました。
時刻を確認しようと反射的に壁を見たが、当然ながら掛け時計などなかった。
起き上がると、トレーを手にした女中が立っていた。
「夕食だ。ありがたくいただけよ」
と、廊下からロディルが意地の悪い笑みを浮かべながら言った。
浦辺は警戒する女中から会釈をしてトレーを受け取った。
汚れた小皿の上にカビが生えたようなパンが三つと、ガラスの容器に濁りのある(ホコリ付き)ミルクが入っていた。
囚われの身である以上、まともな食事にありつけるとは思っていなかったが、いかにも口に入れるのを拒みたくなるような見た目をしているのは意図してのことだろう、と先ほどのロディルの陰気な笑いを思い出して浦辺は悟った。
浦辺は口にするのを躊躇ったが、無神経にも腹の虫が食い物をよこせと空腹の合図を鳴らした。
ふと高瀬を見ると、彼は同じ献立を乗せたトレーを膝の上に乗せながら貪るように食していた。
食べ終えた高瀬は、満足そうにイスにもたれた。
少なくとも食べられると分かり、浦辺は頬張った。
いかにも捕虜向けにこしらえたとしか思えないほどパンは硬い上に味は最悪だった。カビのように見えたそれも本物のカビだったため、浦辺はその部分を指で取り除きながら食した。
ミルクも表面に浮いているホコリを指で摘まみ取ってからチビチビと飲んだが、得体の知れない味覚が口一杯に広がりむせてしまった。それほどひどい献立にも関わらず、平然と食した高瀬に浦辺は感心というより驚き呆れてしまった。
すべて食した後に浦辺は体調を崩さないかと心配したが、幸いにも食後に腹を崩したり気分が悪くなったりすることはなかった。
夕食を終えた後、浦辺はそのままベッドに横になった。食後にすぐ横になると牛になるとよく言われているが、今はそんな言い伝えに構っている気分ではなかった。それに、起きていたところでほかになにも出来ることはなかったので、浦辺はそのまま夢の中へと入って行った。
浦辺は自分の名を呼ぶ声で目が覚めた。
思いのほか気持ちよく熟睡していたらしく、浦辺は眠そうな目をショボショボさせながら体を伸ばした。
声の正体を確かめようと廊下に目をやった浦辺の目に、トレーを持った女中…ではなく、アイリスの姿が映った。
「おはよう、ウラベ。朝食を持ってきたわ」
と、アイリスが手に持っているトレーを掲げて見せた。
「おはよう、アイリス。キミが持って来てくれることもあるんだ」
「あら、私じゃ不満だったかしら?」
「まさか。ただ、王女が使用人みたいなことをするなんて、ちょっと意外だったから。なにか特別な事情でもあるの?」
浦辺が聞くと、アイリスはフフフッと可愛らしい笑みを浮かべてから「ヒ・ミ・ツ」と言った。
それから、アイリスはイスにもたれてイビキをかいている高瀬を見下ろした。
「起きなさい」
と、浦辺のときとは対照的に素っ気ない声で言った。
目を覚ました高瀬は、無遠慮に大きな欠伸をした。
「朝食を届けに来たの。開けてちょうだい」
「あぁ? 人がせっかく気持ちよく寝てたっていうのに、いきなり起こしてカギを開けろだと? 一体何様のつもりでーー」
「おい、高瀬。彼女は国王のご令嬢さまだぞ。それ以上無礼な態度を取ったら、どうなるか考えて口を利けよ」
浦辺が脅すと、高瀬はみるみる顔を青ざめさせてからおぼつかない手付きで牢のカギを開けた。
「はい、どうぞ」
アイリスからトレーを受け取った浦辺は目を見張った。
陰湿な地下牢の雰囲気とは不釣り合いのきれいな食器皿の上に、褐色の表面がふっくらと盛り上がった香りのよいパンのほか、数枚のベーコンと卵の盛り付け、そして濁りのない真っ白なミルクがたっぷり入ったガラスの水差しがトレーに乗っていた。
昨日の夕食とは大違いの彩りに満ちていた。
「私のお手製よ。昨日の夕食があまりにもひどかったらしいから、私が率先してウラベ専用に特別に作った。気に入ったかしら?」
「もちろん。むしろ、捕まっている身なのにこんな豪勢な食事を用意してもらって、なんだか申し訳ない気持ちすらするよ」
「そんなこと気にしないで。あなたに満足してもらいたくて、私が自分からやったことだから。あの目付きの悪いロディルにはついて来ないでと言っておいたから、安心してゆっくり召し上がって」
「ありがとう。感謝するよ」
礼を言う浦辺にアイリスはニッと笑みを向けてから牢を出た。
「オレも腹減ってるんですけどねぇ」
と、牢のカギを閉めながら高瀬が聞いた。
「え? …あら、ごめんあそばせ。すぐ持って来るわ」
と、アイリスは演技っぽく思い出したように言うと、一旦地下牢を出てから再びトレーを持って戻って来た。
夕食と同じ貧相な献立が揃っていた。
アイリス特製の美味しい朝食を終えた後、浦辺は満足そうに大きく体を伸ばしてからベッドに横になると、今後のことを考えた。
エドガー牧師は、ルミウスたちをこの城へ連れてこれば元の世界へ戻すと言った。しかし、彼らに危害を加える可能性が高いため、浦辺は指示に従うつもりはなかった。そもそも、果たして本当に戻してくれるかどうかも胡散臭かった。
とはいえ、いつまでもこの場にとどまっているわけにもいかなかった。突然消えた自分を助手の北村や井崎警部が捜し回っているはずだし、まだやり遂げていない依頼も数件残ったままなのだ。
いつまでも彼らに迷惑をかけているわけにはいかなかった。
なんとか牧師の思惑通りに動かずに元の世界に戻れる術はないかと浦辺は思案したが、いかんせん非現実的な事情が絡んでいるため中々いい解決策が見いだせなかった。
レインという魔導士を捕まえて、元の世界に戻すよう強引に手配させてみようかと一瞬考えたが、魔術を駆使する相手ゆえ下手に手出しは出来ないな、とすぐに諦めた。第一、城の構図もハッキリしていない段階で特定の人物を誰にも見付からずに捜そうなど、冷静に考えれば容易なことではない。
日本にいた頃に出くわした事件とは一線を画した専門外な事柄に溢れている現状、浦辺一人で打開策を閃かせるのは至難の業だった。それを承知の上と知りつつも、浦辺はなんとかこの牢から脱出し、元の世界に戻る方法を必死に考えた。
…どれくらいの時間が経過しただろう?
地下牢の扉が開く音が聞こえ、浦辺は目を覚ました。
考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
(もう昼メシか)
ついさっき朝食を摂ったばかりに感じられる浦辺は、なにも出来ないまま刻々と時間だけがイタズラに経過する今の状況を嘆きたくなった。
牢に近付いて来る足音を聞きながら浦辺はベッドから体を起こした。
廊下の奥から現れたのは、ロディルたちや女中ではなくアイリスだった。
ただし、彼女は手ぶらだった。
アイリスは忍び足でイスに座って眠りこけている高瀬に近付くと、おもむろに彼の懐をガサゴソと探り始めた。
浦辺は思わず声をかけそうになったが、高瀬が目を覚ますのを恐れて口をつぐんだ。
やがて、アイリスは高瀬の懐から牢のカギを取り出すと、それを鍵穴に差し込んだ。
ガチャンッという音が鳴り、アイリスは鉄格子の扉を開いた。
「さあ、今よ」
「ちょっと待った。どういうこと?」
「出るなら今よってこと」
「…逃がしてくれるの?」
「見れば分かるでしょ。お父さまと牧師は、今王都の広場で国民に退魔の教えを唱えている最中なの。その間、憲兵騎士団のロディルたちもレインと門番を連れて広場の警護に当たっているから、城の中は女中たちしかいないわ。彼女たちもそれぞれ持ち場に控えているから、逃げるなら今がチャンスよ」
「だけどーー」
と、浦辺は言いかけてから慌てて高瀬を見た。
高瀬はグースカとうるさいイビキをかいたまま、起きる気配を見せなかった。
「効き目は抜群みたいね。これなら当分は目を覚まさないわ」
と、アイリスはしてやったといった表情で言った。
「なにをしたんだ?」
「眠り粉入りのポーションを朝食のミルクに混ぜたのよ。さあ、こいつが起きないうちに早く逃げて」
「だけど、大丈夫なのか? 城に女中以外誰もいないなら、ボクが脱走して真っ先に疑われるのはアイリスなんじゃ…」
「ご心配無用よ。その男がカギを閉め忘れたまま眠っていたことにすれば、お父さまはそれを信じるはずだから。お父さまの言い分なら、あのロディルに疑いは向けないわ」
と、アイリスは自信満々に言った。
「どうして助けてくれるんだ?」
「お茶会に付き合ってくれたお礼よ。それに、このままだとあなたはいずれ処刑されてしまうわ。勝手に召喚しておいて殺すなんて、そんなのあんまりだもの」
と、アイリスは言ってから牢の扉を閉めると、施錠せずに元あった高瀬の懐へとカギを仕舞った。アイリスの言う通り、眠り粉入りポーションの効果は相当らしく、高瀬は死人のように眠り続けている。
浦辺とアイリスは、一緒に地下牢の扉を開け外の様子を窺った。
彼女の言葉を裏付けるかのように、広々とした廊下は人っ子一人いない静寂に包まれていた
「昨日、お父さまのいる王座の間まで連れて行かれたでしょう。その反対側へ行けば城の出入り口に突き当たるから、そこから外へ出られるわ。それから、ロディルたちに見付かってしまうから広場には絶対に近付いちゃダメ」
「分かった。…だけど、召喚術で連れ戻されないかな?」
「安心して。召喚魔法は転移魔法とは原理が違うから、この世界とは別の世界にいない限りは対象に入らないの。だから、この世界にいる間は少なくとも連れ戻される心配はないわ」
「ありがとう、アイリス」
「いいのよ。その代わり、またお茶会に付き合ってよね」
と、アイリスは笑みを浮かべてから、励ますように浦辺の背中を押した。