第五章 囚われの身
意識を取り戻した浦辺は、ゆっくりと目を開いた。
ひんやりとした床に頬を当てたままうつ伏せになっていることに気付き、浦辺は地面に両手を突いて体を起こした。
気をしっかり持とうと頭を振った。
不意に、錆のキツイ臭いが鼻孔を刺激した。
ボンヤリする目をこすってから、グルッとその場で体を回した。
薄暗く湿った部屋、水が滴る天井、薄汚れたベッド、そして鉄格子。
(…牢屋?)
浦辺は、自分が牢に囚われている立場に置かれていると悟った。
しかし、それが限界だった。
さっきまで、彼は指名手配犯の高瀬と岐阜駅で揉み合い、その末に地下通路へ繋がる斜面を転がり落ちて気を失ったのだ。
それが、いざ目を覚ましてみると高瀬は姿をくらました上、なぜか錆臭い牢屋に閉じ込められている。
気を失う前、警察車両が近付いてくるサイレンの音がしたが、知り合いの井崎警部がいる以上、勘違いで捕まって牢に入れられるようなことはまずないだろう。
なにより、彼が囚われている牢はあきらかに警察署の拘置所とは雰囲気が違い過ぎる。
浦辺はポケットにしまっていたスマホを取り出そうとしたが、入れていたはずのスマホが無くなっていた。
足元を探してみたが、スマホはどこにも見当たらない。どうやら、高瀬と揉み合っているうちにどこかへ落としてしまったらしい。
(ここは一体どこなんだ?)
自分が置かれている状況がどうしても呑み込めず、浦辺は困惑しながら鉄格子に近付き外の様子を窺った。
壁にかけられた松明の炎だけが照らすその廊下は、左側に道が続いていたが反対の右側はすぐ壁だった。どうやら、一番突き当たりの牢に入れられたらしい。
「誰かいませんか?」
浦辺は声を上げてみた。
ピタッ、ピタッ、と水が落ちる音だけが虚しく響いた。
「誰かいませんかッ」
浦辺がもう一度叫ぶと、廊下の奥から重い扉が開くような音が聞こえた。
金属音を含んだ重々しい足音が徐々に近付いてきた。
あらぬ誤解で閉じ込められていることを浦辺は説得しようとしたが、現れた相手の正体を捉えた途端、彼は言葉を失ってしまった。
「大声を出すな」
と、胸板の厚い鎧を身にまとった茶髪の騎士が咎めた。
浦辺が呆然と眺めていると、もう一人別の騎士が現れた。
「目が覚めたようだな」
眼光の鋭い赤い髪の騎士が、威厳に満ちた語調で言った。
ますます混乱した浦辺がポカンとしているのを、赤髪の騎士がバカにしたような目で見た。
「まるで状況が掴めていないようだな。やはり、異世界人というのは判断能力が我々より劣っている人種のようだ」
「そのようですね。…しかし、ロディル隊長。異世界から召喚したこの男をエドガー牧師に会わせて、本当に大丈夫でしょうか?」
と、最初に現れた茶髪の騎士が不安そうに尋ねた。
「牧師と陛下はそれを望まれた上で、魔導士のレインに命じてこの男を我々の世界に召喚したんだ。オレたちはそれに従うだけだ。なにか不満でもあるのか?」
「い、いえ…。ただ、もしもこの男が暴力的な危険人物だった場合、陛下たちの身が危ぶまれるかもしれないと危惧したもので…」
「そんな心配など無用だ。万が一、陛下や牧師に手を出そうものならオレがその場で首を斬り落としてやる」
と、ロディルという名の隊長は言ってから浦辺を見すえ、
「貴様の名はウラベで間違いないな?」
と、威圧感に満ちた口調で聞いた。
名前を名乗った覚えはないと疑問に思いつつも、浦辺は頷いた。
「自分が置かれている立場が理解出来ていないようだから教えてやるが、お前は魔導士レインの召喚術によって我々の世界に召喚されたのだ。理由はただ一つ、我が主であるディアドロス国王陛下と、我らが指導者であるエドガー・クロード牧師がお前との会談を望まれたからだ。これからお前をお二人のいる場所まで連れて行く。あらかじめ忠告しておくが、妙な真似はしないことだな。それによって貴様自身の命が危ぶまれたときは、己の愚行を嘆くことになるだろう」
「………」
「おい、分かったのか?」
「暴れるつもりはありませんよ。どこのどういう場所かも分からない以上、たとえ逃げられても途方に暮れるだけですからね」
「隊長には敬意を払って口を利け!」
と、部下の騎士がキッと睨んで叫んだ。
「そうカッカするな、ロイス。所詮、この男は異世界の人間。我々のような高貴な身分にどう振る舞えばいいか考える頭がないのさ」
と、ロディルがバカにしたような笑みを浮かべた。
(どうやら、本当に知らない世界に飛ばされたみたいだな)
と、浦辺は冷静に悟った。
唐突な展開に混乱はしていたが、実際に浦辺はそこまで驚いてはいなかった。というのも、彼は過去にスコットランドの原野にて非現実的な出来事をその身で実際に体験したからだ
五年ほど昔のことだが、あのときに体験した不思議な出来事や存在するはずのない生き物との遭遇を果たした記憶は、今でも鮮明に彼の心の引き出しにインプットされていた。
あの体験をして以降、浦辺はこの世で信じられていない事象や空想上と言われている生物の存在を信じるようになっていた。
その経緯により、彼は自身が現実世界とは異なる別の世界に召喚された身であることが、紛れもない事実であると素直に受け止められたのだ。
(それにしても、相変わらずイヤな予感が拭えないな)
と、浦辺は内心で警戒しながら二人の騎士を見比べた。
ロイスと呼ばれる部下らしい騎士は高圧的な態度を示し、異世界人である浦辺に対し露骨に敵意に満ちた眼差しを向けていたが、感情的になりやすい気質なのはこの短い時間だけでおおよそ理解出来た。
騎士としての手腕は定かではないが、相手としてはそこまで手強いようには思えなかった。
しかし、一方のロディルという赤髪の騎士は違った。
狙いを定めた獲物は仕留めるまで追い詰める蛇のような執念深さと、他人をいたぶることにこの上ない快楽を得ることを知っていそうなサディスティックな光が両目の奥で不気味に輝いていた。
ロイスと同じく剣の扱いがどうかは判断が付かなかったが、浦辺は直感的に一筋縄ではいかない相手だと悟った。
浦辺が分析している間に、ロディルに促されロイスは牢のカギを開けた。
鉄格子の扉が耳障りな音を立てて開いた。
「出ろ」
ロディルの素っ気ない声が石造りの廊下にこだました。
浦辺は警戒心を絶えず抱きながらゆっくりと牢を出た。
背後をロイスに、前方をロディルに挟まれながら浦辺は薄暗い廊下を歩かされた。
そんなに長くない廊下を進んだ先に階段があり、それを上がると鉄格子の窓が付いた木製の扉が待ち受けていた。
ロディルが力を込めて扉を引いた。
一気に光が流れ込み、浦辺はまぶしさで目を細めた。
ようやく慣れた目を開けた浦辺は目を見張った。
静謐な空気が流れるだだっ広い大理石の廊下には幅の広い深紅色の絨毯が奥に向かって敷かれ、壁にはじっくり嗜むにはあまりにも時間を有しそうなほど巨大な絵画が掛けられている。いかにも高価そうな調度品のテーブルが均等に配置され、その上には夜に暗闇と化す廊下を照らす炎を灯すためであろうキャンドルスタンドが置かれている。
天井を見上げると、これまたバカでかいシャンデリアが縦長の窓から差し込む陽光を反射させるクリスタルを揺らしながらぶら下がっていた。
ついこの間、北村を伴って訪れたヨーロッパの古城の内部とは、あきらかに桁違いの装飾で施されていた。
(金持ちっていうのはどうしてこう飾り立てたがるんだろう?)
庶民的な生活を当たり前のように送っていた浦辺にとって、どこを見回しても経済力の豊かさを誇示するかのごとく飾り立てられたこの建物の内部は、ある意味で目の毒だった。
ロディルとロイスに挟まれながら豪奢に飾られた廊下を進んでいるとき、途中にあった二枚扉がゆっくりと開いて中からドレス姿の若い女性と使用人らしい初老の女性が出て来た。
ドレス姿の若い女性と浦辺の目と目が合った。
カラフルな色彩のドレスを着こなし、肩から胸の辺りまで伸びた艶やかな橙色の髪、小ぶりで形のきれいな鼻、サファイアのような輝きを放つ虹彩を宿す凛とした瞳、そして通りすがりの誰もが思わず振り返ってしまいそうなほど整った顔には美しさと同時に、幼気な少女を思わせる子どもっぽさが残っている魅力的なその女性は、いかにも優雅な生活を送っている王女という風格を漂わせていた。
王女は興味津々と言った眼差しで浦辺を見つめていた。
浦辺は小さく会釈をしたが、途端にロイスに肩を突かれてしまった。
ムッとする浦辺の背を、ロイスは再び小突いた。
浦辺は小さく吐息しつつ渋々従ったが、王女はその後ろ姿が見えなくなるまでジッと見つめていた。