第四章 消えた浦辺
電話嫌いのインテリ風のサラリーマンの元へ赴き、調査報告を行っている際も断続的に起こる例の異変に浦辺は襲われた。
生真面目な依頼人は体調の優れない浦辺を気遣う素振りを見せつつも、浮気調査の報告を聞くやいなや頭に血が上り、八つ当たりとばかりに浦辺と北村を自宅から追い出した。
事務所への帰宅途中、北村がブツブツと愚痴をこぼしている間も浦辺は時折訪れるめまいにさいまれた。
気をしっかり保とうと頭を振るたびに足元がフラついてしまう。
「本当に大丈夫ですか?」
「…さすがに、ちょっとおかしい気がしてきた」
「やっぱり、事務所で安静にしているのが一番ですよ。さっきの依頼のほかはまだ急ぎじゃありませんから、一旦体を休ませましょう」
と、北村も真剣な面持ちを浮かべて言った。
ただごとではないとようやく認めた浦辺は、北村の言う通り事務所に戻り次第、安静にすることに決めた。
しかし、その帰り道で浦辺のおぼつかない眼差しがキラリと光る瞬間が訪れた。
俄然、足を止めた浦辺が道路を隔てた向かいの歩道を見つめた。
「どうかしましたか?」
「…いたよ」
「いたって誰がですか?」
「高瀬実だよ。井崎さんが言っていた指名手配犯の」
「ど、どこです」
「反対側の歩道を歩いてる男だよ。ほら、あそこ」
と、浦辺は向かいの歩道でポケットに手を突っ込んで歩いている頬骨の出た男を指差した。
北村は男を目で追いながらカバンにしまっておいた手配書のコピーを取り出すと、顔立ちが符合するかどうかを確かめた。
頬骨の男が歩きながら背後を振り返ったその一瞬に正面を捉えた浦辺と北村は、間違いなくその男が指名手配中の逃亡犯、高瀬実だと確信した。
「間違いありません。高瀬ですよ」
「駅の方に向かって歩いているな」
と、浦辺はJR岐阜駅の方角に向かって歩を進める高瀬を目で追いながら言った。
「市内に潜伏しているかもしれないと知った警察が警戒網を敷いたと知って、別の場所に逃げることにしたんですかね」
と、しきりに周囲をキョロキョロとする高瀬を見ながら北村は言った。
「北村。井崎さんに高瀬を見付けたと電話してくれ」
「了解」
「JR岐阜駅に向かっていて、よそへ逃げる可能性が高いともね」
「了解」
「ボクは今からあいつを追いかける」
「了解。…て、なに言ってんですかッ」
「警察が来る前に逃げられたら元も子もないだろう。どこへ逃げるつもりかは分からないけど、徹底的に尾行して現地の警察に通報すれば捕まえられる」
「それはそうですが…。でも、万が一あいつが浦辺さんの尾行に気付いたらどうするんですか? 普段の浦辺さんなら高瀬を簡単にねじ伏せられるでしょうが、今は体調が悪いから厳しいですって」
「探偵がそう簡単に尾行に気付かれたら面目丸潰れだよ。それに、もし気付かれて襲われても、なんとか張り合ってみせるさ」
「そんな無茶な。第一、井崎さんから手出しするなって…あッ、浦辺さん!」
北村の声も聞かず、浦辺は駅に向かって駆け出した。
歩道橋の階段の手前で、浦辺は道路を隔てた歩道を歩く高瀬の様子を窺った。少し慌てている様子を見ると、北村の言う通りバスの乗客から市内に潜伏しているという情報を掴んだ警察が警戒網を敷いたため、身の危険を感じているのかもしれない。
高瀬が歩道橋の階段を駆け上がった。
(やっぱり駅に向かう気だな)
浦辺も歩道橋を一段飛ばしで駆け上がった。
上ってから、浦辺は人混みに紛れて高瀬を監視した。
イラ立っているのか、高瀬は老け顔がますます老けて見えるほど眉間にシワを寄せながら、相変わらず周囲を気にしていた。
当然か、と浦辺は思った。潜伏しているという情報を得た警察が、見回りを強化したり手配犯が電車などの交通手段を用いて逃亡を図ったりすることを視野に入れて警戒しているのは、高瀬も理解しているに違いないからだ。
警察に目撃情報を得られた以上、いつまでもその地域にとどまっているのはかなり危険だった。早々にその場から立ち去りたいと思うのが、犯人が抱く当然の心理だった。
それを証明するかのごとく、高瀬は周囲に警察らしい人間がいないことを確認すると、「杜の架け橋」と呼ばれる歩行者用デッキを早足で進み始めた。
浦辺は絶えず人混みに紛れて尾行を続けた。
駅に入り、券売機の列に並ぶ高瀬を監視する。
柱に隠れて様子を窺いながら、浦辺はスマホで北村に電話をかけた。
「井崎さんに電話したか?」
「しました。浦辺さんが尾行したことも仕方なく話しましたが、絶対に手は出すなと言ってましたよ。高瀬はどうしていますか?」
「券売機の列に並んでいる。確実に岐阜を発つ気だ。あまり混んでいないから、ヤツが改札を通るのは時間の問題かもしれない」
「井崎さんにもう一度電話して急かしてみます」
「頼む」
と、浦辺が電話を切ったその瞬間、再びあのめまいが起きた。
柱に手を突いて体を支えようとしたが、バランスを崩して背後にいた中年の男にぶつかってしまった。
男が引いていたキャリーバッグが大きな音を立てて倒れた。
「あんた、気を付けなよッ」
と、男が浦辺に怒鳴った。
「すみません」
浦辺は平謝りしてからハッと券売機の方を見た。
切符を手に持った高瀬と目が合った。
本能的に危険を察知したのか、高瀬は切符を握ったまま改札へ向けて突っ走った。
浦辺もとっさに駆けた。
改札に切符を入れる寸前で、浦辺は高瀬の襟首を掴んで制止した。
高瀬が振り返りざまに右手を思い切り背後に回したが、浦辺は身を屈めてそれを避けると正面を向いた高瀬を改札に押さえ付けた。
「強盗致傷と殺人未遂で指名手配中の高瀬実だな。N署の警察が間もなく来るからおとなしくしろ」
「冗談じゃない。捕まってたまるかよ」
高瀬が浦辺の腹に膝蹴りを繰り出した。
普段から運動で体を鍛えている浦辺にとって高瀬の蹴りはたいした痛みではなかったが、今回は体調が芳しくないためかうっかり手を離してしまった。
高瀬は浦辺を突き飛ばすと、駅の出口に向かって走り出した。
その後を浦辺が追う。
高瀬と浦辺の二人は駅を出た目の前にある階段を下りると、太陽の光を浴びてきらびやかに輝く黄金の信長像が有名なスポットの「信長ゆめ広場」を突っ切った。
バス専用の車道を横断する二人を、付近の人々が何事かと言った様子で眺めている。
地下通路へ通じる階段を下ろうとする高瀬だったが、寸前で浦辺に肩を掴まれ阻止された。
振り返った高瀬は両手をブンブンと振り回してヤケクソに殴りかかってきたが、浦辺は軽快なフットワークでそれを避けた。
勝手に疲れを溜めた高瀬は、手すりにもたれると苦しそうに息継ぎを繰り返した。
苦笑を浮かべる浦辺の耳に、警察車両が鳴らすサイレンの音が聞こえてきた。
「警察のお出ましだ。もう観念しろ」
と、浦辺が高瀬に近付こうとしたその瞬間、再びあの忌わしい異変が彼を襲った。
(クソ、こんなときに…)
浦辺は必死に不安定な体のバランスを保とうとしたが、視界だけでなく頭の中までおぼろげになって、体を支えている両足の力も次第に入らなくなってきてしまった。まるで、脳みそが頭の中でフラフープのようにグラグラ動いているような感覚に見舞われ気分が悪くなった。
突然、高瀬が浦辺に向かって突っ込んできた。
視点が定まらず、徐々に気力を失いつつある両足でなんとかバランスを保つのが精一杯の浦辺は、しがみつく高瀬を引きはがせないまま揉み合った。
そのうちに、浦辺の足が平坦な足場から斜面に着いた。
二人は掴み合ったまま、地下通路へ通じる階段を転がり落ちた。
離れて眺めていた人々が慌てて駆け寄って、地下まで転がっていった二人を確認しようと見下ろした。
しかし、その先にはスマホが一つ落ちているだけで、二人の姿はどこにもなかった。