第三 十章 酒場
国境の山脈を越え、グリンメル王国領土であるミデェール広原の上空に差しかかったルミウスは、眼光を鋭くさせて下界を見下ろした。
広大な自然の中に点在する三つの都市を見回した彼は、はなはだしいほど主張の強い巨大な十字架がそびえる街に焦点を当てると、そこへ目指して高度を下げた。
途端に、浦辺がグッと両腕に力を込めたためルミウスは軽く咳込んだ。
〈もうすぐで到着だから、我慢してくれ〉
浦辺は返事の代わりに再び両腕に力を入れた。
ルミウスは、オスニエルの街が巨大な防壁で隠れて見えなくなるまで高度を下げた。
群れの仲間の報告によれば、リヴィアが起こした騒動を機にカルトレイクとイリーナから衛兵の増員を要請し、魔物の潜入を重点に置いた警備を徹底しているという。となると、陸だけでなく空にも警備の目を光らせているのは言うまでもなかった。
あらゆる潜入経路を念頭に入れている衛兵に存在を気付かれないために、ルミウスは防壁が死角の役割を果たしてくれる高さになるまで高度を下げたのだ。
〈もう目を開けても大丈夫だ〉
と、ルミウスは背に乗せている浦辺に言った。
出発から絶えず目を閉じていた浦辺は、恐る恐る瞼を開いて下を見た。
まるで、新幹線の車窓から眺める景色のように地面が猛スピードで移動していた。
肝が冷えた浦辺は慌てて前方を見た。
顔に吹き付ける強風に目を細めながら、オスニエルの街を囲う防壁を捉える。
「…あそこまで飛んで下さい」
と、浦辺は前方を見すえながら一点を指差した。
ルミウスは承諾すると、指定された場所に向けて低空飛行を維持した。
目的の場所に到着し、ルミウスはゆっくりと地面に足を着いた。
礼を言って飛び降りた浦辺は、防壁のすぐそばにあるいくつもの岩に近付いた。
一つ一つ岩に触れる浦辺を見て、ルミウスは訝しそうに首を傾げた。
浦辺は一つの岩の前で深呼吸をすると、両手で掴んで手前に思い切り引いた。
岩が音を立てて転がると、地下通路へと通じる秘密の出入り口が現れた。
〈どうしてこんな所に洞穴が…〉
と、ルミウスは目をパチクリさせた。
「酒場を営んでいるラングさんが掘った秘密の地下通路です。オスニエルからどうやって抜け出そうかと困っているとき、彼がこのルートを使わせてくれたのを思い出したんです」
〈なるほど。確かに、これを使えばわざわざ警備の厳しい街を通る必要はないな〉
と、ルミウスは言ってから洞穴に顔を近付けた。
「どうしました?」
〈…妙だぞ。耳を澄ませてみても、酒場らしい喧騒どころか人の話し声すらまったく聞こえない。この時間なら、店が開いていてもおかしくなさそうなのに、気配すら感じられない〉
「あのとき、退魔の教えが唱えられていて国民のほとんどが広場に集まっていましたから、今もそうなのかもしれませんよ」
〈さっき、上空から確かめた限りそんな様子はなかった〉
「休業中なのかも」
〈そうならいいが、私はどうもイヤな予感がするな…。本当に行くのか?〉
と、ルミウスは思案顔で聞いた。
「行きます。ここで待っていてもなにも始まらないし、ここを通る以外に酒場へ行ける方法はありませんからね」
〈それはそうだが…。しかし、この穴の大きさじゃ私はとても入れそうにない〉
と、ルミウスは穴の中を覗きながら言った。
「ボク一人で行くので、ルミウスはここで待っていて下さい」
〈やむを得んが、そうするしかないみたいだな。…いいか、ウラベ。この先、なにが待ち受けているか分からない。私の取り越し苦労ならいいが、くれぐれも用心するんだぞ〉
「分かっています。それじゃあ…」
と言って、浦辺は洞穴に潜り込むとラングの酒場を目指して進んだ。
脱出のときに通ったときと同様、カンテラの明かりのみで照らされた薄暗い通路を進みながら、浦辺は耳を澄ませてみた。
ルミウスの言葉を裏付けるかのように、酒場にありがちな男たちのハツラツとした声も聞こえなければ、酒を運ぶウェイトレスが忙しなく動き回る物音も一切聞こえなかった。
下戸の浦辺は仕事の都合でしか居酒屋に行ったことがなかったが、飲み客が酔いに任せて陽気に騒いでいるのを幾度か目の当たりにしていた。そのたびに自分まで酔客の仲間入りを果たしそうな気持ちになって、飲んでもいないのに気分が悪くなったものだった。
しかし、通路の先からはそれらしい気配が微塵も感じられない。
ひょっとすると店には客だけでなく店主のラングもいないのでは…という一抹の不安がよぎったが、だからと言って引き返したところで進展があるわけでもないので、浦辺はそのまま通路を進んだ。
突き当たりに差しかかり、浦辺はポツンと一つ穴の空いた天井の板を持ち上げた。
板を持ったまま、外の様子を窺った。
カウンターの裏からでも、店内が薄暗い不気味な静寂に包まれているのがすぐに分かった。
(本当に誰もいないのか?)
と、浦辺は本格的な不安を抱きながら板を横に置いた。
「誰だッ」
俄然、カウンターの向こうから大きな声が聞こえ浦辺はドキッとした。
穴から這い出てカウンターの陰から恐る恐る立ち上がると、腕の筋肉を異様に発達させながら握り拳を振り上げているガイゼル髭の男が険しい顔で睨んでいた。
酒場の店主であるラングだと知り、浦辺はホッと安堵した。
「誰だ、お前は? どうして通路のことを知ってるんだ?」
と、ラングは眉間にシワを寄せながら問い詰めた。どうやら、相手が以前脱走に手を貸してやった浦辺だと気付いていないらしい。
「ラングさん、ボクです。以前、助けていただいた浦辺ですよ」
と、浦辺は無意識に両手を上げながらカウンターを出た。
ラングは不審げな眼差しで浦辺を見つめていたが、すぐにあッと声を漏らした。
「あんときの威勢がいい兄さんか」
「思い出してもらえて安心しました」
「それはともかく、なにしに来たんだ? オスニエルから逃げたはずだろう」
と、ラングはやや困惑した様子で聞いた。
「突然押しかけた上に驚かせてすみません。ただ、どうしてもラングさんにお聞きしたいことがあったもので」
「オレに聞きたいこと?」
「高瀬という男のことです。ボクの知り合いが、この店にいるのを見たという話を聞いたんですが、ご存知ありませんか?」
「タカセ? …知らんな」
と、ラングは素っ気なく言った。
「本当ですか? 高瀬実という胡散臭い感じの男なんですが」
即答する相手に浦辺は拍子抜けしつつも再び尋ねた。
「知らないものは知らんよ。そんな名前のヤツ、オレは聞いたことも見たこともない」
「ですが、確かにこの店で見たと…」
「きっと、そいつの見間違いだろう。それより、さっさと出て行ってくれないか?」
そういうラングの態度はあきらかに焦っていた。
浦辺の目に疑惑の色がよぎった。
「もしかして、お取込み中でしたか?」
「そうじゃない。ただ………これから大事な来客があるんだ」
「お客と言えば、誰も店にいませんね。今日は店をやっていないんですか?」
と、浦辺は誰もない店内を見回しながら聞いた。
「今日はその…か、貸し切りなんだ。これから来る大事な客のためにな。分かったら、早くさっき来た通路から出て行ってくれよ」
「本当に高瀬を知りませんか?」
「くどいな、知らないと言っただろッ。早く帰ってくれ!」
(ウソを吐いている)
浦辺は直感的にそう悟った。
高瀬がラングの店にいたことは、リヴィアとテオの二人の話を聞いた限り紛れもない事実であることは断言出来る。しかも、彼はカウンターに座っていたというから、店主のラングと顔を合わせていた可能性は充分考えられる。
しかし、ラングはそれを頑なに認めないどころか、そもそも高瀬という男すら知らないと言い張っている。その上、執拗に食い下がる浦辺を一刻も早く追い出そうと必死になっている。なぜか、狼狽えながらである。
ラングは大事な来客があるからと言ったが、そう口にする前にわずかな間があったところから、とっさに思い付いたウソだと浦辺は見抜いていた。
(あきらかになにかを隠している。だが…)
どうして隠す必要が? という疑問が浦辺を悩ませた。
そのときだった。
ガタッ…。
ラングがギョッとした顔で音のした方をチラッと一瞥した。
その視線の先を浦辺は追った。
店の奥に木製の扉があった。どうやら、音はそこから鳴ったらしい。
浦辺は扉に向かって駆け出した。
「よせ!」
ラングが叫びながら彼の前に立ち塞がった。
浦辺は左へすり抜けようと見せかけてから、床を蹴って勢いよく右にすり抜けた。
フェイントにダマされたラングを素通りした浦辺は、扉に直進しドアノブを回した。
このとき、浦辺はラングに匿われている高瀬が中に隠れていると思っていた。匿う理由は不明だが、高瀬の話題をして間もないこともあり、彼が身を潜めていると踏んだのだ。
しかし、開いた扉の奥にいたのは高瀬ではなかった。
蝋燭の明かりが灯った意外と広い室内には、豊富な種類の剣や盾のほか、魔術師が使っていそうなステッキといった道具がいくつも壁に立てかけられていた。
そして、部屋の中央に佇む二人組の男。
大柄の筋肉質な男と、腰巾着らしい猫背の男。
浦辺はギョッとした。
高瀬ではなかったのもあるが、それ以上に男たちの顔に見覚えがあったからだ。
「お前!」
大柄の男は叫ぶやいなや猛然と駆け出し、そばにいた猫背の男を肩で弾き飛ばした。
恐ろしいほどの剣幕を浮かべて迫る相手を見て、浦辺は慌てて扉を閉めた。
しかし、中にいた男が凄まじい勢いで体当たりを繰り出したため、壊れた扉ごと浦辺は吹き飛ばされてしまった。
床に倒れた拍子に後頭部をしたたかに打った浦辺は、朦朧とする意識の中で男に掴み起こされた記憶を最後に気を失ってしまった。




