第三章 不穏な影
日本列島の中心部、岐阜県岐阜市のとある街中を走行するバスの車内で、突然一人の男がナイフを取り出して暴れ始めた。
乗客が一斉にパニックに陥る中、男は運転手にナイフをちらつかせ指定した目的地までバスを走らせろ、と命令した。
顔面を蒼白させた運転手は額から汗を流し、言われた通りバスジャック犯が要求した場所へ向けてバスを走らせた。
赤信号でバスが止まると、犯人はチッと舌打ちした。
「信号なんか無視して突っ走れ!」
と、叫んだときに誰かが彼の肩をトントンと叩いた。
「すみません。ちょっと、両替させてほしいんですがね」
フサフサの黒髪に飄々とした出で立ちだが、昭和の日本男児を彷彿とさせる端正な顔立ちとスラリとした体躯、そしてキリッとした目元が特徴の男が申し訳なさそうに言った。
「なんだ、お前? 気安くオレに話しかけるなッ」
「今、赤信号で停車中でしょう? 次のバス停で降りるので今のうちに両替させてほしいんですよ。ダメですか?」
と、ポケットに手を突っ込んだ男が呑気そうに言った。
「降りるだと? テメェ、この状況が分かんないのか? オレはこのバスを乗っ取ったんだぞ。ここにいる乗客は、お前を含めいわばオレの人質なんだ」
と、犯人が男にナイフの刃先を向けた。
「それじゃあ、目的はお金ですか? それならボクがーー」
と、男がポケットから手を取り出したとき、中に入っていた小銭が床一面にジャラジャラと音を立てて散らばった。
犯人が驚いて足元を見た瞬間、男はナイフを持っている相手の手首を思い切り掴むと、力を込めてねじった。
「イダダダッ」
犯人は悲鳴を上げ、持っていたナイフを落とした。
男は手首を掴んだまま、相手の腕を背中に回し床に押し付けた。
「運転手さん、このまま次のバス停までお願いします」
と、男が言うと運転手は唖然とした顔で何度も頷いた。
「すみません。どなたか警察に連絡して、次のバス停まで来るように言ってくれませんか?」
と、男は呆然としている乗客たちに冷静な口調で言った。
その後、バス停で降りた男は乗客の通報で駆け付けたN署の警察にバスジャック犯を引き渡した。
N署の刑事課に勤務する井崎警部が現場に到着するやいなや、犯人を捕らえた男に近寄った。
「通報の内容を聞いてもしやと思ったら、案の定キミだったか」
と、井崎は犯人を捕らえた浦辺道夫に言った。
「どうも、井崎さん」
と、浦辺は顔馴染みの警部にペコリと頭を下げた。
「『男がいきなりバスジャック犯の手首を掴んでねじ伏せた』と、通報した乗客が興奮気味に言ってね。オレが知る限り、岐阜の街でそんな大胆な行動を起こすのはキミを置いてほかにいないからな。まさか、ジャックされるのを見越して乗っていたんじゃあるまいな?」
「よして下さいよ。事務所へ帰る途中でたまたま遭遇しただけです」
「分かってるって。…しかし、無茶は感心しないな。なんとかケガ人が出ずに済んだが、極力こういう行動は慎んでもらいたいね。キミが関わっていると知ったら、間違いなくオレは刑事部長からお小言をいただいてしまうからな」
「以後、気を付けます。ボクだって、袴田刑事部長にまたお灸をすえられるのはごめんですからね」
「オレだって同じさ」
と言って、二人は笑った。
その後、警察は乗客たちから一人ずつ事件前後の状況を聞き取ってから、バス運転手に運航を再開させて問題ない旨を伝えた。
井崎の厚意により、浦辺は警察車両で事務所まで乗せて行ってもらった。
井崎にお礼を言って事務所に戻った浦辺は、留守番を任せていた助手の北村に頼んでお茶を淹れてもらい、それを一息に飲み干した。
一服して間もなく、彼は調査を終えたばかりの資料を整理しつつ、北村とともに事務所の清掃に取りかかった。ここ数日、立て続けに依頼を受けており掃除する時間がろくに確保出来なかったため、事務所の中は洗っていないラーメンの皿や調査資料の控えや破れたメモ用紙などがそこら中に散らばっていた。
幸い、清掃中に依頼の電話が鳴ることもなくスムーズにはかどったため、一時間弱で終えられた。
思い出の羽が入った額縁の傾きを浦辺が直しているとき、事務所の電話が鳴ったので素早く出た。
「おう、オレだ」
と、受話器越しから井崎が親しげな口調で言った。
「例のバスジャック犯のことで、一応伝えておこうと思ってね。どうやら女房の不倫に悩んでいたらしくて、悩みに悩んだ末に不倫相手の自宅に殴り込もうと思い立って、バスジャックに及んだんだとさ。取り調べ中も取り乱していたが、今は神妙にしているよ。精神的にかなり苦痛を味わっていたから、あのままバスを乗っ取っていたら乗客の誰かに危害を加えていたかもしれないと素直に認めたよ。そう自白をした以上、キミのとっさの判断はひとまず正しかったという結論にいたった」
「袴田刑事部長はなんと?」
「容認したわけではないが、今回の件については大目に見てくれるそうだ。だから、お小言の心配はいらないぞ」
「それを聞いて安心しました。わざわざ、ありがとうございます。ではーー」
「ちょっと待った。まだ話は終わってない」
と、電話を切ろうとした浦辺を井崎が慌てて止めた。
「キミは高瀬実という男を知っているか?」
「タカセミノル? …いえ、知りません。誰ですか?」
「強盗致傷と殺人未遂の罪で現在指名手配中の男だ。長野生まれの悪党で、東海地方を主な活動拠点にしているヤツだから、この近辺の交番にも手配書が貼られている」
「強盗致傷に殺人未遂ですか。凶悪そうですね」
と、浦辺は険しい表情で言った。
「その上、悪賢くて執念深い。それに、金への執着が尋常じゃないそうだ。風采の上がらない野暮ったい見た目をしているが、性格は短気で喧嘩っ早いらしい」
「その高瀬がどうされたんですか?」
「どうやら、この岐阜の街に潜伏している可能性が浮上してね」
「ホントですか?」
驚く浦辺に反応した北村もそばに寄って受話器に耳を傾けた。
「実はバスジャックに巻き込まれた乗客の一人が、走行するバスの窓から高瀬らしい男を見たと言うんだ。特徴的な顔立ちの男だから、手配書に載った男と同一人物に間違いないと自信たっぷりに言っていた。実際、高瀬は年齢のわりに老けた顔をしている上に頬骨が張っているから、特徴的と言えば特徴的だ」
「それじゃあ、高瀬は本当にこの街にいると?」
「オレは間違いないと思っている。…それでだ、浦辺。万が一、街中で高瀬を発見することがあっても、絶対に手を出さないと約束してほしいんだ」
「手を出さず、井崎さんたち警察に連絡を入れろってことですね?」
「そうだ。正直、キミが高瀬のようなチンピラにやられるとは思ってもいないが、今日みたいに独断で行動して捕まえようとするのはだけは控えてほしい。もしも街中で高瀬を見付けたら、今キミが言ったみたいに我々に真っ先に連絡を寄越してくれ。いいな?」
「分かりました」
「今しがた事務所のファックスに高瀬の手配書を送っておいたから、助手の北村と一緒に確認しておいてくれ。いいか? 何度も言うが、くれぐれも自分の手で捕まえようなどとは思うなよ」
と、浦辺という男をよく知っている井崎は執拗に念を押した。
「分かっていますって。見付け次第、真っ先に井崎さんに連絡を入れます」
「頼んだぞ」
と、井崎は言ってから電話を切った。
受話器を戻すと同時に、ファックスから高瀬の手配書が描かれた紙が吐き出された。
浦辺と北村は、じっくりとそれを見た。
井崎の言った特徴通り、頬骨の張った老け顔がそこにあった。白黒印刷の影響もあり、いかにもなにかしでかしそうな危険臭をプンプンと漂わせている。
「胡散臭さがプンプンしてますね」
と、北村が自身の特徴であるキツネ顔にシワを寄せながら言った。
「人は見かけによらずとよく言うけど、この男は見かけ通りのワルと見てよさそうだな」
と、浦辺は苦笑を浮かべてから、高瀬の悪党面を脳内に焼き付けようとジッと見すえた。
そのとき、不意に手配書の高瀬の顔がグラグラと揺れた。
異変に気付いた浦辺が手配書からほかに目を移すと、北村の顔だけでなく事務所全体がまるで壊れたアナログテレビのように歪んで見えた。
浦辺は頭を振ると、気をしっかり持とうと目をこすった。
再び目を開くと、視界はなんともなくなっていた。
「大丈夫ですか?」
と、北村が心配そうに尋ねた。
「…ああ、大丈夫だ。ちょっと視界がぼやけたただけさ」
「ここのところ依頼、依頼でまったく休めていませんでしたから、疲れがドッと押し寄せたのかもしれませんね。少しの間だけ、横になったらどうですか?」
「そうしたいけど、例の浮気調査の報告をしに行かないと」
「電話じゃダメなんですか?」
「依頼人が根っからの電話嫌いなもんでね」
「耳の遠い年配ですか?」
「いや、現役バリバリのインテリ風なサラリーマン」
と、浦辺は言ってからカバンを取り出すと、調査資料と手配書の紙を一緒に突っ込んだ。
「外に出ている間に今の症状が起きたらどうするんですか? 言っておきますけど、倒れた浦辺さんを担いで帰る自信なんてボクにはありませんからね。見た目に反して重いんだから」
と、支度する浦辺に北村は気が進まない調子で言った。
「だったら、北村もボクみたいに飯を食えよ。そうすりゃ自然と力が付くから」
「肉体派の浦辺さんと一緒にしないでほしいですね」
「心配するなよ。ヤバイと思ったら、タクシーでも拾って事務所まで帰るから」
「経費抜きの自腹で頼みますよ」
「へいへい」
「井崎さんも余計なことを言ってくれましたよ。浦辺さんに独壇場を築かれるのが心配なら、わざわざ教えなくてもよかったのに」
と、北村は最後に文句を言ってから、浦辺とともに事務所を出た。