第二十三章 謎の美女
ニオイの出所を確かめようと、テオはしきりに鼻をひくつかせながら通りを歩いた。道行く人々が好奇な一瞥を向けるのも構わず、テオは絶えず顔を前に突き出しながら足を進めた。
テオが辿り着いたのは、一軒の店舗だった。
店内からは、ガヤガヤという男たちの騒がしい声が聞こえた。
店の前で立ち尽くすテオの横を屈強な冒険者らしい二人の男が通り過ぎ、吸い込まれるように店の中へと入って行った。
テオは出入り口の看板に書かれた文字を見た。
そこには「酒場『ほうろう亭』」と書かれていた。
以前、父親からお前には無縁の場所だと教えられた名前なのは覚えていたが、なにをする所なのかまでは聞いていなかったため、テオは好奇心も重なり入ってみることにした。
開けっ放しの扉をくぐった瞬間、外から聞こえていた以上の喧騒が耳をつんざき、テオは思わずドキリと身を震わせた。
高らかな笑い声を上げながら、男たちがテーブルを囲って愉快そうに会話を弾ませていたり、乾杯の音頭を取ったりしている。客層も多彩で、筋骨隆々の男たちのほかに気の強そうな女戦士や老齢の魔術師もいれば、風采の上がらない庶民らしき身なりの客もいた。
多様性に富んだ顔ぶれだが、彼らは揃って熱気に包まれていた。
そこそこの盛況を見せる街の中以上の活気に溢れる空間にテオは辟易したが、ニオイの元を確かめるため恐る恐る店内に足を踏み入れた。
アルコール臭をプンプンと漂わせながら豪快に酒を食らう男たちは、話題を盛り上げるのに夢中らしく子どものテオが店内にいても誰一人見向きもしなかった。一部の男たちはチラリと一瞥を向けたが、それ以上は気にも留めず談話を再開させた。
時折、酔った男たちの会話から魔物を侮辱する言葉が聞こえ、テオは居心地の悪さを抱いた。
街で聞き込みしたときのように文句を言ってやりたい衝動に駆られたが、テオは頭を振って自制した。過剰な興奮がきっかけで変身魔法が解けてしまうケースもある、という父親の言葉を思い出したからだ。
もしもこんな所で変身が解けてしまったら大騒ぎになるのはさすがのテオも理解していたので、彼は男たちの会話を必死に無視しながら再びニオイの元を辿った。
テーブルとテーブルの間を縫うようにテオが向かったのは、横向きの樽がいくつも壁に並んでいるカウンターだった。
店主らしい腕の太いガイゼル髭の男が、カウンターの席に座る男と向かい合って話をしていた。…というより、客の男が店主に向かって一方的にしゃべっていて、それを店主が半分ほど聞き流しているような表情で聞いているようだった。
ニオイは、その客の男から漂っていた。
店内で蛮声を上げる男たちとは異なり、その客はなにもないカウンターに頬杖を突きながらつまらなさそうに口だけを動かしていた。
テオはイスを引くと、その男の隣に座った。
男は一瞬、テオを横目で見てからすぐに無視を決め込んだ。
男の横顔をテオはまじまじと見つめた。
どことなく陰気なオーラを放っており友好的な印象など微塵も感じられない上、頬骨の張り具合とやる気の感じられない死んだ魚のような目付きがより一層悪目立ちしていた。
ニオイも含め、酒場を占領する男たちとは対照的に映っている点から、テオはこの男が浦辺と同じ異世界人だと確信を得た。が、雰囲気は浦辺とは似ても似つかなかった。
「…なにをジロジロと見てるんだ?」
と、視線に耐え兼ねた男が威嚇するようにテオを睨んだ。
「この街の人?」
と、テオは動ずることなく男を直視して聞いた。
「だったらなんだよ?」
「この街の人じゃないなら、どこか遠い所から来たの?」
「そんなこと、お前に関係ないだろ。第一、ここはガキの来るような所じゃないんだから、さっさと出て行けよ」
と、男はうっとうしそうにシッシッと手を振った。
「『ガキ』ってなに?」
と、テオがあどけない顔で首を傾げた。
「お前のことだよ」
「ボクはテオって名前だ」
「知らんよ」
「オジさんの名前は?」
「オジ…」
眉間にシワを寄せた男はテオに迫ろうとしたが、それを店主のいかつい声が止めた。
「子ども相手にムキになるんじゃねぇよ」
「こいつ、オレのことバカにしやがった」
「その程度でキレるなって。大人げないぞ」
「だったら、なんとかしろよ。目障りで仕方がないんだ」
「分かった、分かった。…なあ、ボウズ。ここはな、こいつみたいなガラの悪い連中が集う大人の場所なんだ。ボウズみたいな子どもが来るところじゃないんだぜ?」
「ボクの名前はテオだ」
「テオか、いい名前だな。…ほら、いつまでもこんな所にいたら危ないから、外へ行きなさい。両親が心配して捜しているぞ」
「ボク一人だけだよ」
「迷子になったのか?」
「違う」
「なら、出て行きなさい」
「でも、ボクはーー」
「口の減らないガキだな」
と、男は突然テオの口を手で塞いだ。
ムッとしたテオは、思い切り男の手に噛み付いた。
男は声を上げたが、店内の喧騒にかき消されてしまった。
憤慨した男が胸倉を掴もうと腕を伸ばしたが、寸前でテオはピョンッとイスから飛び降りて回避した。
店主の制止を振り切って迫ろうとする男に、テオは獣のように口角を上げながら後退した。
そのとき、背後から誰かがテオの両肩に手を乗せた。
「こんな所にいたのね。ダメじゃない、勝手に動き回ったりしちゃ」
ギョッとしたテオが見上げると、どう見てもサイズの合わない大きな帽子を被った一人の女性が立っていた。
「おや、お姉さんはその子の知り合いかい?」
店主が聞くと、女性は苦笑を浮かべて頷いた。
「友だちから子守を任せられていたんだけど、落ち着きのない子でちょっと目を離すとこの有り様なのよ。ご迷惑をかけたみたいでごめんなさいね」
女性は早口で言うと、困惑するテオの手を引っ張ってそそくさと店を出た。
小走りで人気のない場所に身を隠してから二人は息を切らせた。
女性は大きく深呼吸してからテオを見下ろした。
「まったく…。なにを考えているの? 子どものくせにあんな物騒な所に一人で入るなんて。どうしたの、お腹でも空いてたの?」
「違うよ」
「じゃあなんで?」
「なんでもいいでしょ。それより離してったら」
と、テオは絶えず握り締めている手から逃れようと腕を振ったが、女性は逃がすまいとさっきよりもギュッと力を込めた。
「無茶をするのはよしなさい。どれだけうまく変身したつもりでも、あなたは根がグリフォンなんだからそのうちきっとハメを外すに決まっているわ」
テオは驚いた顔で女性を見上げた。
「どうしてボクがグリフォンだって…」
「さっき、しきりに鼻を嗅ぎながら通りを歩いていたでしょ? 普通の人間はあんな真似しないから、すぐに魔物だって分かったわよ。それだけじゃなく、あなたがルミウスの息子ってこともニオイで既に分かっているわ」
「…お姉さん、誰なの?」
女性が手を離すと、テオは警戒の眼差しを向けて後退りした。
「あら、まだ分からない? それじゃあ…」
と、女性はおもむろにサイズの合わない帽子を外すと、後ろに束ねていた髪を下ろした。
歳は二十代前半と思われる端麗な顔立ちの妖艶な女性は、腰まで伸びた空色の美しい長髪をなびかせてから、テオに向かってニッと笑みを向けた。
途端に、テオはハッとした。
「ドラゴン…さん?」
「正解! 昨日、あなたの里にお邪魔したリヴィアよ。この髪を見ても分からなかったらどうしようかと思ったわ」
と、リヴィアは長い髪を再び束ねると、それを隠すようにトレードマークの大きな帽子をすっぽりと被った。
「ドラゴンさんも変身出来るんだ」
「あら、ひょっとして変身魔法を使えるのは自分だけだと思ってたの? お生憎さま、変身魔法は高度なスキルを要する魔法だけど、私はそんなに苦労せずに習得出来たわ。もっとも、それなりの特訓を積む必要があるから、面倒臭がりの私は覚えようなんて最初は思わなかったわ。でも、仕事で色々な街を見て回っているうちに人間が作る独特な品物に魅了されたのがきっかけで、習得を決意したの。特訓は厳しかったけど、思いのほか早くマスターしたわ。競争心をたぎらせた兄たちは未だに苦労しているから、短期間で使いこなせるようになった私にとってある意味で強みと言ってもーー」
「ドラゴンさんはここでなにしてたの?」
テオに遮られ、リヴィアは思い出したようにハッとした。
「いけない。友だちと買い物をしている最中だったの忘れてたわ。用事が出来たって断ってくるから、ここでおとなしく待っていなさい」
と、リヴィアは言うやいなや駆け出した。
間もなくして、息を切らせながらリヴィアは戻って来た。
「フゥ…。普段と違う姿で動くとやっぱり疲れるわね」
と、リヴィアはパタパタと手で顔を扇いだ。
そんな彼女を、テオは胡散臭い眼差しで見つめた。
「なによ、その目は」
「お姉さん、本当にあのドラゴンさん?」
「さっきそう言ったでしょう。まだ疑ってるの?」
「だって、どう見ても人間にしか見えないから」
「そう? …まあ、仕方ないわね。卵にいたときから人間のそばで育ってきたんだから。人間らしいのがそんなに不満なの?」
「そうじゃないよ。ただ、この街の人は魔物をとても嫌ってるみたいだから、ボクを油断させて捕まえようとしてるのかと思ったんだ」
テオが言うと、リヴィアは一瞬ポカンとしてからアハハと笑った。
「たんとおっしゃい。心配しなくても、昨日あなたが出会った正真正銘のドラゴンさんよ。確かに、この街の人たちは魔物を悪い生き物として捉えているから、用心深くなるのも理解出来るわ。でも、それは仕方がないことなのよ。共存社会が実現したとはいえ、誰もが魔物を隣人感覚で接しているとは言い切れないんだから。私たち魔物を危険視する人たちは、今でも一定数はあっちこっちにいるからーー」
と、言いかけてリヴィアは口を閉じた。
がっくりと肩を落として俯くテオの姿を捉えたからだ。
「無神経なことを言っちゃったみたいね。ごめんなさい」
「…いいよ、街の人もドラゴンさんと同じようなことを言ってたから、ボクが間違ってたんだ」
「間違ってたって…。もしかして、グリンメル王国が魔物を怖がっているっていう話が本当かどうかを確かめるためにオスニエルへ来たの? それも一人で」
リヴィアの問いに、テオはゆっくりと頷いた。
「ルミウスたちは知ってるの?」
今度は首を横に振った。
「ダメじゃない、そんな勝手なことしちゃ…。ほら、私と一緒に帰りましょう。今頃、みんなあなたがいなくなって心配しているはずだわ」
「帰りたくない。そんな気分じゃないから…」
と、テオはいじけた子どものように壁にもたれた。
リヴィアは腰に手を当てると仕方なさそうにため息を吐いた。
どうしようかと悩んだ末に彼女は、
「それなら、いい所へ連れてってあげるわ。来なさい」
と、笑顔でテオの手を取って歩き出した。




