第二章 神さまの贈り物
丘陵に燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びながら、イザベラは遥か遠方を見つめた。そよ風になびくブロンドの長い髪が、陽光の反射できらびやかな輝きを放っている。
突然、そよ風が強風に変わりイザベラの髪だけでなく草木をも激しくなびかせた。
丘の上まで移動したイザベラは、遠方の空からこちらに向かってくる二羽の鳥に向かって手を振った。
途端に、彼女を捉えた一羽が猛烈なスピードで接近した。
〈母さーん!〉
鳥ではなく、一頭のグリフォンが嬉しそうに叫んだ。
「テオ、気を付けて!」
イザベラの心配をよそに、グリフォンの子どもであるテオは地上に向けて斜めに急降下を始めた。
イザベラがドキドキしながら見守る中、テオはようやく速度を落とすとそのままゆっくり地上に降り立った。
〈母さん、ただいま!〉
テオはイザベラに駆け寄ると、勢いよく体をすり寄せた。大人のグリフォンほどではないが、人一人は乗せられるほどの大きさに成長しているため、踏ん張らないとそのまま背中から倒れてしまいそうだ。
「おかえり、テオ。父さんとの旅はどうだった?」
〈最高だったよ。初めて里から遠い土地まで行ったけど、見たことのない色んな世界が一杯広がっていたり、ボクたちよりも強そうな魔物がたくさんいたり、それからえーっと…。とにかくすごかった!〉
「よかったわね。でも、さっきみたいな無茶だけはしないでちょうだい。でないと、そのうちケガをするわよ」
〈ごめん。久し振りに会うからつい嬉しくなって〉
「仕方のない子ね」
と、イザベラは微笑みながらテオの頭を撫でた。
テオは嬉しそうにクルルル…と喉を鳴らしながら母親に甘えた。
少しして、イザベラの夫であるグリフォンのルミウスが地上に降り立った。
「おかえりなさい、あなた」
〈ただいま、イザベラ。一人にしてしまってすまなかった。三日のつもりだったんだが、テオがあまりに興奮して色々と見て回るから、少し長引いてしまった。寂しくはなかったか?〉
「ううん、平気よ。里のグリフォンたちも一緒にいたから」
〈なにか問題はあったか?〉
「いいえ。ゆったり過ごしていたわ」
〈それならよかった〉
「相変わらず心配性ね、あなたって」
と、イザベラはクスッとした。
〈私たちと違って、キミは人間なんだ。そんなキミを、魔物が蔓延るこの土地に一人で残したままにしてしまったんだ。夫として心配するのが当然だろう?〉
「ええ、分かってるわ。でも、向こうの世界に戻っても父は出向で一ヶ月留守だし、私は折角お休みをもらったからロッジで一人寂しくいるよりかは落ち着けるわ。それに、共存社会の今は魔物も人も仲睦まじく暮らしているんだから襲われる心配なんてないわ」
〈そうでもないよ。繁殖期に入って興奮した魔物や、フェルナールの森にあるキノコから出てくる毒の胞子を嗅いだ魔物が、凶暴化していきなり人間を襲うこともあるから油断は出来ないよ〉
と、テオが横から言った。
〈ごらん。テオもそう言っているだろう〉
〈…て、父さんが帰ったら言えって〉
〈テオ!〉
ルミウスが叱ると、テオはおかしそうに笑って空へと逃げた。
ルミウスはハーッとため息を吐いてからフッと笑みを浮かべ、空を飛んで遊んでいる息子を見上げた。
「あの子、あなたに似てきたみたい」
と、イザベラもルミウスの横に並んで見上げた。
〈そうかな?〉
「ええ。勇敢なところと優しさに溢れているところ、それにグリフォンとしての誇りを大切にしているところとか、あなたにそっくり」
〈キミにも似てきているよ〉
「私に?」
〈旅先で一休みしているとき、テオはしきりにキミのことを気にしていたよ。『母さんは大丈夫かな、寂しくないかな』とね。あの子なりに母親のキミをとても気にしていて、その様子を見るたびに私は思いやりに溢れているキミのことを思い浮かべていたよ。それに、夜中寂しくなって私のそばに寄り添って来たときも、五年前のキミを見ているようで微笑ましかった〉
と、ルミウスはそのときを思い出してフッと笑った。
旅先で見せたテオの意外な思いやりを知って胸が熱くなったイザベラは、健気に空を飛び回っている息子を見上げ嬉しそうに微笑んだ。
「…それにしても、不思議な気持ちだわ」
〈なにがだい?〉
「だって、あなたが森のオアシスで初めてテオを私の前に連れてきたのが、まだついこの間のような感じがするから。あのとき、今よりも甘えん坊で私に抱かれながら仔猫のように鳴いていたあの子が、あんなにたくましく成長したなんて未だに信じられないわ。五年って、あッという間なのね」
〈五年か…。確かに、長かったようで短かったな〉
「私ね、今でもホッとしているの。テオが卵から孵る前に、私は父と私を捨てた母みたいにはならないって決めていたけど、内心では不安もあった。ひょっとするとグリフォンの子を育てていくのは私が思う以上に大変で、いつか弱音を吐いてしまうんじゃないかと」
〈しかし、キミは吐かなかった。一切の弱音を吐かず、私とあの子をこの五年間支えてくれた。私はとても感謝しているし、人間の妻を持つグリフォンとして誇りに思っているよ〉
「ありがとう。でも、無事にテオを育てられたのはグリフォンの夫であるあなたがいつもそばにいてくれたおかげだと私は思っているわ」
と、イザベラが言うとルミウスは首を横に振った。
〈妻を持つ夫として、子を持つ父親として過ごしたこの五年間は、私にとって新しい経験で溢れていた。テオの子育てに苦戦し、ときには配偶者のいる仲間のグリフォンの手助けも借りてきた。私なりに必死だったが、テオがあれだけたくましいグリフォンに成長を遂げられたのは、やはり母親であるキミの存在が大きく影響しているだろう。人でありながら、魔物の子を献身的に育て上げたキミのね〉
「ありがとう、ルミウス」
イザベラは微笑みを浮かべながら、純白の羽で覆われたルミウスの顔に身を寄せた。
愛する妻の温もりを感じながら、ルミウスもそっと彼女に寄り添った。
その後、イザベラはルミウスの背に乗ると、空を飛び回って遊び続けているテオと一緒にグリフォンの里へと帰った。
里に到着すると、数頭のグリフォンたちが長であるルミウスに駆け寄り、リーダーの帰りを出迎えた。
〈おかえりなさい、長。旅はいかがでしたか?〉
〈ああ、新しい発見もあったから充実したよ。ここは大丈夫だったか?〉
と、ルミウスはグリフォンたち集っている所へと移動し、留守の間に里で起きた出来事を彼らから聞いた。
〈あ~あ、また退屈な話が始まっちゃったよ〉
と、テオがうんざりしたように地面に体を伏せた。
「仕方がないわ。あなたの父親はこの里で暮らすグリフォンたちの長だから、彼らと里を守るためにもここで起きたことはなにもかも知っておかなければならないのよ」
〈群れの長って大変なんだね〉
「そうよ。だから、我慢しなさい」
と、イザベラは地面に突っ伏したテオの頭を撫でた。
テオは退屈そうに突っ伏しながらも、イザベラに撫でられると嬉しそうに喉を鳴らした。
〈…そういえば、いつ会えるの?〉
「え?」
〈母さんと同じ異世界の人だよ。昔、父さんと一緒によく聞かせてくれた人。確か、えっと…。なんて名前だったっけ?〉
「浦辺さんよ。浦辺道夫さん」
〈その人がボクの名付け親なんでしょ?〉
「そうよ。人とグリフォンが結ばれて生まれた奇跡の子だから『神さまの贈り物』という意味で、浦辺さんが『テオ』と名付けてくれたのよ」
〈早く会いたいな〉
「あら、あなたが生まれて間もない頃、一度会っているわよ。浦辺さんに抱かれながら嬉しそうに鳴いていたけど覚えてない?」
テオはしばらく考え込んでから、首を横に振った。
〈その人は母さんたちを助けてくれたんでしょう?〉
「私たちだけじゃないわ。テオがまだ卵の中にいたときも、浦辺さんは悪いハンターたちから必死にあなたを守って闘ったのよ」
〈だったら、なおさら早く会いたいな〉
「どうして?」
〈ボクたちを守ってくれたお礼が言いたいんだ〉
「そういうことね。でも、浦辺さんが生まれ育った日本という国はここからとても遠いから、無闇に呼んだら迷惑になってしまうわ」
フーン…と、テオは残念そうに鼻を鳴らしてから、閃いたように顔を上げた。
〈だったら、ボクがニホンって国まで飛んで行ってウラベを連れて来るよ。そうすれば、迷惑にならないでしょ?〉
「…フフ」
〈なんで笑うのさ?〉
「なんでもないわ」
と、微笑むイザベラをテオは首を傾げて見つめた。
このときイザベラは、里の掟で二度と再会出来ないはずだったルミウスが、今のように言葉を発せなかったテオを一緒に連れて森のオアシスに現れたときのことを思い出していた。
叶わないと思っていたルミウスとの再会、そして会えないと思っていた我が子との対面で感極まった五年前のあのときは、イザベラにとって一生忘れられない日となった。
そのとき、ルミウスが発した言葉も彼女はよく覚えていた。
浦辺に名付け親になってもらおうと決めたとき、
〈私がニホンという国まで飛んで行かなくてはいけないね〉
と、彼は言ったのだ。
(やっぱり、あなたは父さん似よ)
そう思いながら、イザベラは怪訝な顔を浮かべているテオの喉をくすぐった。
そのとき、話を終えたルミウスが二人の所へ戻ってきた。
「あら、もう終わったの?」
イザベラが聞くと、ルミウスは頷いてからテオに目をやった。
〈テオ。母さんと大切な話をしなくてはならない。まだ明るいから外で遊んできなさい〉
〈え~、ここにいたいよ〉
と、テオはイザベラの膝に顔を乗せて愚図った。
〈いいから、遊んできなさい。言うことを聞かないと、今回みたいにまた旅に連れて行ってやらないぞ〉
「行ってきなさい。父さんを怒らせると怖いわよ~?」
イザベラが脅かすと、テオは渋々ながら立ち上がった。
〈いい子だ〉
テオは父親と頬ずりした後、元気そうに里へと飛び出した。
「大切な話ってなに?」
二人きりになってからイザベラが聞いた。
ルミウスは神妙そうな面持ちを浮かべながらイザベラのそばで体を伏せた。
〈現在、この世界では魔物と人間が共存し、助け合いながら暮らしている。多くの国では無益な争いを起こさない平和的な社会の実現に歓喜したが、一方では魔物の存在を絶えず危険だと認識し、人間との接触は好ましくないと主張する者もいる。ここから北東へ目指した所にグリンメル王国と呼ばれる小国があるんだが、その国を統治するディアドロスという国王がまさにその思想の持ち主だ〉
「グリンメル王国…。初めて聞く名前だわ」
〈ミデェール広原と呼ばれる大自然の中にカルトレイク、イリーナ、そして王都オスニエルという三つの都市を構える小国だ。ディアドロス国王は、うち一つの王都オスニエルに築いた城に住んでいる〉
「その国に住んでいる国民も全員、国王の思想を支持しているのかしら?」
と、イザベラはふと浮かんだ疑問を口にした。
〈歴代の国王はその思想を持っているが、果たして国民が賛同しているかどうかは分からない。しかし、ディアドロス国王がグリンメル王国の全国民に対魔物の思想を植え付け、掌握しようと画策しているのは確かだろう。だからこそ、王都の広場に巨大な十字架の建造物を建てたと私は思っている
「巨大な十字架ですって?」
〈そうだ。偵察に出向いた仲間によると、王都の広場に物々しい雰囲気を放つ巨大な十字架がそびえていたと言うんだ。恐らく、対魔物の思想を象徴付ける意味で建てられたんだろうが、私はディアドロス国王の確固たる執念を表すシンボルだと思っている〉
「そう…。その国王みたいに、魔物と人間が一緒に暮らす世界を疎ましく思う人が、もしかすると一定数いるかもしれないのよね。だとしたら、ちょっと悲しくなってきたわ」
〈そうだな。確かに悲しいことだが、それが運命なんだ。常識では考えられないことを成し遂げた以上、それに対する否定的な考えを持つ人間も必ず現れる。その事実を真摯に受け止めつつ、どうやって理解を示してもらえるかを考えるのが共存社会を築いた私たちの役割だ。だが、私が心配しているのはそれとは別のことだ〉
「別?」
〈そのグリンメル王国で、なにかよからぬことが起こりそうな予感がするんだ〉
と、ルミウスがいつになく真剣な面持ちを浮かべて言った。