第十六章 フェルナールの森
テオに連れられて浦辺はフェルナールの森へ足を踏み入れた。
入って早々、彼が感じたのは森全体に漂う世にも不思議な空気感だった。
それは、スコットランドの原野にある森の奥深くにあるオアシスで感じた感覚と似ており、あきらかに現実世界には存在しない摩訶不思議な癒しのアトモスフィアが、このフェルナールの森には蔓延していた。
「こんなおいしい空気、向こうの世界じゃ絶対に堪能出来ないな」
と、浦辺は歩きながら深呼吸した。森林浴が趣味の浦辺は、都会の汚れた空気から逃げるように近場の山へ時折散歩に出かけていたが、そこでさえ味わったことのない透明感のある不思議な空気が彼の鼻孔を刺激した。
〈気に入ってくれた?〉
「うん、とてもね」
〈よかった! ボクも昔からこの森は好きなんだ。木の実はおいしいし、木の葉の音と一緒に流れてくる風が気持ちよくってね。それに、とっても静かで心が安らぐんだ。だから、暇さえあったら一人で森に入りたいんだけど、父さんと母さんが許してくれないんだ。ボクがキノコに近付かないかどうしても心配らしくて〉
「この森には、そんなにそのキノコが生えているのか?」
〈ううん。前に母さんたちと一緒に入ったときは、そんなに見かけなかった。だから、心配し過ぎだとボクは思ってるんだけど、それでもあの二人はボク一人で森に入らせてくれないんだ〉
「二人にとってキミは大切な一人息子なんだから、親として心配するのは当然だよ」
〈だけど、いつまでも子ども扱いされてるみたいでちょっとイヤなんだ。一人前だとは思っていないけど、ボクだってもう立派なグリフォンなんだから〉
と、テオは不満そうに頬を膨らませた。
「背伸びをしたい気持ちは分かるけど、今は両親の言うことを聞かないとね」
と、浦辺は言ってからふと足を止めた。
彼らのすぐそばにある木の根元に、半透明の傘をクラゲのようにブヨブヨと揺らしながら光の粒子を浮遊させている大きなキノコが生えていた。
〈これが父さんの言っていたキノコだよ〉
と、テオは少し体を引いてから言った。
「思ったよりも大きいんだな…。そばでフワフワしている光が胞子かい?」
〈そう。これを吸ったら、どんな魔物も凶暴になっちゃうんだ〉
テオは口から大きく息を吸うと、そのまま呼吸を止めてキノコの横を素通りした。
人間には無害で精々咳込むだけだとルミウスから教えられていたが、浦辺もテオにならうように息を止めてキノコの横をそそくさと移動した。
少しして、空を見上げたテオが目を輝かせた。
浦辺も釣られて見上げると、木の枝にリンゴと同じくらいのサイズの木の実がいくつもぶら下がっていた。色合いは食欲をそそるようなのもあれば毒を疑いたくなるような不気味なのもあったが、テオいわくどれも甘くて濃厚だという。
〈ちょっとだけ離れてて〉
と、テオに言われて浦辺はその場から少し離れた。
テオは大きな翼を羽ばたかせると、円を描くように舞いながらゆっくりと上昇した。
飛翔の影響で小さなつむじ風が巻き起こると、木の実をぶら下げた枝がザワザワと騒がしい音を立てて激しく揺れた。
砂埃の代わりに千切れた草が舞い上がり、離れた場所にいてもそれが顔に直撃したため浦辺は思わず腕で顔を覆った。
木の葉のざわめきとともにドサドサという音が聞こえた。
旋風が収まり腕を下ろすと、さっきまで枝にぶら下がっていたたくさん木の実があちこちに転がっていた。
地上に舞い降りたテオは、気を利かせてくれたのかあえて食欲をそそる色合いの木の実を選んでくわえると、それを浦辺に差し出した。
〈食べてみて、おいしいよ〉
テオに促され、浦辺は木の実をかじった。
リンゴを丸々かじり付いたような食感と瑞々しさが口一杯に広がり、咀嚼するごとに広がる濃厚な味もまさに現実世界のリンゴそのものだった。
「うん、うまい!」
〈でしょ! たくさん落ちてるから、どんどん食べていいよ〉
「さすがにこんなには食べられないな」
と、浦辺は地面に転がる無数の木の実を見て苦笑を浮かべた。
〈案外小食なんだね。ボクなら残らず食べ切れちゃうよ〉
「ウソ…」
〈…プッ、冗談に決まってるじゃん。こんなに食べたらお腹がパンパンになっちゃうよ。後で群れのみんなに届けてあげるのさ〉
と、テオは無邪気な笑みを浮かべた。
二人はそばにある木のそばで一休みすることにした。
テオは地面に体を伏せながら、両前足で木の実を固定してうまそうにシャクッシャクッと音を立てながら味わった。浦辺も途中だった木の実を頬張って、新鮮さと懐かしさが交差する風味を堪能した。
〈…フゥ。もうお腹一杯〉
と、テオは満足そうに大きな欠伸をした。
「本当においしかったよ。ありがとう、テオ」
〈えっへへ。ウラベが喜んでくれてボクも嬉しいよ〉
と、テオは浦辺の膝に頭を乗せてクルルル…と喉から可愛らしい音を鳴らした。
そのとき、奥の茂みからガサゴソと音が聞こえ二人はハッとした。
浦辺とテオはとっさに立ち上がったとき、茂みの中からイザベラが姿を現した。
「なんだ、イザベラさんか。よかった…」
音の正体が魔物ではなくイザベラと知り浦辺はホッとした。
イザベラもホッと胸を撫で下ろすと、
「よかったわ、無事で…」
と、二人を見て安堵の表情を浮かべた。
〈無事でって、どういうこと? …あ、やっぱりボクたちのことが心配でついて来たんだね。言われた通りキノコには近付いていないから安心してーー〉
「シッ!」
俄然、浦辺がテオのクチバシを手で覆った。
浦辺は静かな森の中で耳を澄ませると、テオとイザベラを引き連れて急いで木陰へと移動した。
木の陰からさっきまでいた場所を三人が窺っていると、やがて重々しい足音を立てながら三人の騎士が茂みの奥から姿を現した。
「強風が吹いていたのはこの辺りだったな」
「間違いない。見ろ、そこら中に木の実が落ちてる」
「手分けして捜そう。まだ近くにいるはずだ」
と、頑強な鎧に身を包んだ三人の騎士は互いに言い合ってから、探るような目で周囲を見回しながら分散した。
彼らの手には、切れ味の鋭そうな大きな剣が握られている。
〈人間の騎士だ…。どうしてこの森に?〉
「テオ、静かに。見付かったら大変よ」
と、イザベラは興味津々な息子をなだめた。
「イザベラさん、どういうことですか?」
と、浦辺が声を落として尋ねた。
「浦辺さんたちがフェルナールの森に向かってすぐですが、見回りに当たっていた群れの仲間が里に近付いて来る騎士たちを確認したんです。方角からしてグリンメル王国から来た騎士たちと思ったルミウスに、浦辺さんたちに伝えるよう頼まれてここへ来たんです」
イザベラの言葉を聞いた浦辺の脳裏に、憲兵騎士団隊長のロディルと配下のロイスの顔がよぎった。
(オスニエルの城から逃げ出したボクが里に向かったと推測して、ディアドロス国王がロディルたちを派遣したんだろう)
だとするとこの里に逃げて来たのはマズかったかもしれないな、と浦辺は後悔し唇を噛んだ。
「どうしましょう…。このままでは見付かるのも時間の問題です」
と、イザベラは徘徊する騎士たちを見ながら言った。
騎士たちは、いずれも一本気な面構えで注意深く周囲を調べていた。幸い浦辺たちの存在にはまだ気付いていないが、イザベラの言う通りこのままでは見付かってしまうのは時間の問題だった。
もっとよく観察しようとテオが少し身を乗り出した。
…ピキッ。
踏んだ枝が音を立てて折れた。
「なにか聞こえなかったか?」
と、分散していた騎士たちが顔を見合わせて言った。
浦辺たちは息を殺すと、音を立てないようにその場から離れた。
奥へ奥へと移動するが、気配を捉えたのか騎士たちも間隔を空けて浦辺たちが向かう方角へと続いていた。
(このままじゃ全員捕まる)
そう浦辺が思ったとき、イザベラとテオが突然立ち止まった。
木の根元に、またあのキノコが生えていたのだ。
(そうだ!)
閃いた浦辺はイザベラに顔を寄せた。
「イザベラさん。テオを連れて出来るだけ奥まで逃げて下さい」
〈なにをするんですか?〉
「あの騎士たちを足止めします」
浦辺が言うと、途端にイザベラの表情が青ざめた。
「まさか、昔みたいにまたお一人で立ち向かうつもりじゃありませんよね? もしそうなら、一緒にこのまま逃げましょう。いくら結界で守られているとはいえ、相手は頑丈な鎧を着た騎士ですよ。おまけに三人で武器も持っています。いくら浦辺さんでも無理ですって!」
「簡単に太刀打ち出来る相手じゃないのはボクも承知しています。でも、このままじゃいずれ捕まってしまう。大丈夫、ちゃんと計画がありますから」
「でも…」
〈なんだったら、ボクも手伝うよ〉
と、テオが意気込みを見せて言った。
「ありがとう。でも、テオは母さんを連れて奥まで逃げるんだ。いいかい? 今はキミが父さんの代わりに母さんを守るんだ」
と、浦辺は言ってから「頼むぞ」とテオの頬を撫でた。
テオは少し躊躇ったが、浦辺に向かって頷くと母親であるイザベラとともに森の奥深くへと逃げた。
その間も、騎士たちは着実にこちらに迫っていた。
浦辺は落ちていた手頃な石を拾うと、キノコの生えている場所からやや離れた所に生えている木まで移動した。
木陰から様子を窺っていると、騎士たちが重そうな鎧を必死に動かしながらキノコが生えている場所まで辿り着いた。
キノコの存在を確認した騎士たちは揃ってギョッと驚いたが、すぐにホッと胸を撫で下ろしてから苦笑した。
その瞬間、浦辺はターゲットに絞っていたキノコ目がけて持っていた石を思い切り放り投げた。
投石はキノコの柔らかな傘に直撃した。
大きく弾んだ傘からおびただしいほどの光の粒子が発生し、そばにいた騎士たちを包み込むように蔓延した。
光の胞子に包まれた騎士たちが激しく咳込んでいるスキに、浦辺はイザベラたちを追って駆け出した。