第十四章 幼馴染み
フローラーの目を盗んで部屋を抜け出したアイリスは、大量の書物が保管されている書斎へと足を運んだ。
歴史書、魔導書、学術書、自叙伝と書き物をする部屋ゆえにその種類は多様性に富んでいたが、入るなりアイリスが真っ先に手を伸ばしたのは、以前読んで間もない魔物に関する専門書だった。
魔物が果たして危険な存在なのか、それとも人間の誤解によってそのような先入観を持たれている気の毒な存在なのか?
箱入り娘として常に孤独感を味わっているアイリスにとってその情報を得る唯一の手段は、様々な情報が文字として記されている膨大な書物だけだった。
大きな縦長の窓から差し込む陽光を浴びながら、アイリスはデスクの上に書物を広げて読みふけった。
昼時の空が茜色に染まり始めたときも彼女は無我夢中に文字の羅列と睨めっこを続けていたが、依然として自身の疑問を解消する回答を目の前の書物からは得られなかった。
読み疲れて大きく体を伸ばしたとき、突然部屋の扉が開かれた。
ハッとしたアイリスが振り返ると、開いた扉から父親のディアドロス国王が姿を現した。
「あッ、お父さま…」
アイリスは困惑顔を浮かべてディアドロスを見た。
ディアドロスも戸惑いの表情を浮かべていたが、デスクの上に広げられている書物を確認すると大きなため息を吐いた。
「またなのか、アイリス…」
「ごめんなさい。私、お父さまやエドガー牧師を否定するつもりじゃないけれど、魔物が本当に危険な生き物なのかどうしても確かめたかったの」
と、父親の心情を理解したアイリスはイスから立ち上がると、気まずそうにもじもじしながら弁解した。
「前にも言ったが、魔物は人間にとって災厄をもたらす危険な生物でしかないのだ。今でこそ我々人間に寄り添って友好的な姿勢を見せているが、いずれそれが表面的なものと判明すると同時に、連中は我々を滅亡させようと一気に反逆を開始するだろう。いくらお前が書物を漁って調べても、それは紛れもない事実なのだから無意味なことはよしなさい」
ディアドロスは最初こそ熱弁を振るっていたが、次第に語調を和らげると諭すように言った。
それでもアイリスは粘ろうとしたが、諦めると不貞腐れた子どものようにうつむいて、書物を元の場所へ戻した。
その際、アイリスは一冊の本をさり気なく引き抜くと、それを抱えて部屋から出ようとした。
しかし、それをディアドロスが制した。
「なんだ、それは?」
「『魔法律議書』よ」
「なんのために持って行く?」
「魔科学の本でも読みながら時間を潰そうと思ったの。これなら読んでも構わないでしょう?」
しかし、ディアドロスは首を横に振った。
「書斎の書物を無闇に持ち出すのはよしなさい」
「一人で部屋にいるだけなんて退屈だわ」
「フローラーを話し相手にすればいいだろう?」
「それはそうだけど、あまり煩わせるのも悪いわ。だから、お願い」
「ダメだ」
と、ディアドロスは彼女の手から強引に律議書を取り上げた。
アイリスが憮然とした顔で部屋から出たとき、憲兵騎士団隊長のロディルと入れ違いになった。
ロディルはアイリスに向かって一礼すると、中に入って扉を閉めた。
アイリスは何気なしにそっと扉に耳を当てた。
「城内のあらゆる場所を徹底的に調べましたが、あの男が隠れている気配はまったくありませんでした。手配書を作って街にも聞き込みを行ってみましたが、誰一人ウラベを見た者はおりません」
と、事務的な口調で言うロディルの声が最初に聞こえた。
続いて、ディアドロスのうなり声である。
「となると、城を出てそのまま王都を脱出したのかもしれんな」
「陛下と牧師が退魔の教えを唱えている間、門番を含む我々は広場の警備に当たっており城には女中たちしか残っていませんでした。恐らく、見張りがいなくなるのを見計らって逃げたのでしょう。ただ、王都を出たとなるとどうやって?」
「それは私にも分からん。しかし、城にも街にもいないとなると、そう考えざるを得んだろう。それより、私たちが王都の広場へ赴いていることをあの男はどうやって知ったんだ?」
「分かりません」
「それに、もう一人のタカセという異世界人はどうしたんだ? あの男がウラベの見張りに就いていたはずではないのか?」
「脱走に気付いたとき、ヤツは地下牢で眠っていたとロイスが言っていました。牢の施錠を怠ったまま居眠りをしてしまい、そのスキに逃げられたものと思われます。陛下、これは許しがたい怠慢です。やはり、あのタカセという男はただちに処刑すべきでは?」
「そう早まるな。確かにウラベを逃がしてしまったのは大きな過ちだが、だからと言ってすぐに処刑することもないだろう。というのも、あの男もウラベ同様に異世界から召喚された人間。偶然ではあるが、なにかしらの利用価値はあるかもしれんからこのまま生かしておけ」
「愚かな異世界人が我々の役に立つとは思えないのですが」
「それは私が決めることだ。言っておくがな、ロディル。お前はその愚かな異世界人にまんまと逃げられたのだ。それを忘れるな」
「申し訳ありません。…して陛下、逃げたウラベですがどうされますか?」
そのとき、アイリスの背後で誰かが咳払いをした。
ギョッと振り返ると、女中のフローラーが両手を前に組みながら咎めるような目で見つめていた。
アイリスは苦笑を浮かべると、渋々と自分の部屋へと戻った。
一緒について来たフローラーは後ろ手に扉を閉めた。
「お嬢さま。盗み聞きは大変はしたない行為です。以後、お慎み下さい」
「…ええ、分かったわ。ごめんなさい」
と、アイリスは素直に謝った。
フローラーに促され、アイリスはドレッサーの前へと移動した。
イスに座ると、フローラーは手に持った手櫛を使っておもむろにアイリスの長い橙色の髪をとき始めた。父親たちの会話を聞き取ろうと扉に耳を押し当てた際、知らず知らずのうちに乱れたらしい。
「ねえ、フローラー。お父さまにとって、私ってなんなのかしら?」
と、黙々と髪をとくフローラーにアイリスは聞いた。
「もちろん、大切なお嬢さまです」
と、フローラーは即座に答えた。
「本当にそうかしら?」
「ええ、もちろんですとも。陛下は父親として、誰よりもお嬢さまのことを大切に思われています」
「それはお父さまでなくて、あなたでしょう? 私が物心の付く年頃に差しかかる前に病死した母親に代わって、あなたは私を本当の子どものように献身的に面倒を看てくれた。だから、あなたにはとても感謝しているの。それに引き換え、お父さまはいつも仕事にかまけていて、私に寄り添ってくれたことなんてほとんどなかった」
「仕方がありませんわ。奥さまがご病気で亡くなられたときから、陛下は国王としての責務に追われていました。奥さまが突然病死されたことで、陛下はお嬢さまとどう接するべきかとても悩んでおられました。その結果、城にお仕えさせていただいていた私にお嬢さまのお世話を任せられたのです。当時は、そういう経緯もあってお嬢さまと距離と縮められずにいただけなのです」
「本当にそうかしら? エドガー牧師とともに退魔の教えを広める活動に専念してから、余計に私のことなんて歯牙にもかけなくなった気がするけれど」
「それはお嬢さまの考え過ぎでしょう。陛下は今、エドガー牧師とともに対魔物の世を取り戻す活動に余念がないので、顧みる余裕がないだけと私は思っています。…終わりました」
と、フローラーは言ってから手櫛を置いた。
釈然としない顔を鏡に映すアイリスの肩に、フローラーはそっと両手を乗せた。
「ご心配なさらなくても、陛下は誰よりもお嬢さまを愛していらっしゃいます。もちろん、私も同じくらいに…」
と、フローラーは鏡の中のアイリスに向かって微笑んだ。
彼女の言葉で、アイリスの表情が徐々にほころんだ。
そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
フローラーが扉を開けると、騎士のロイスが立っていた。
「失礼します。アイリスさまはお部屋に?」
「ええ、いるわ。どんな用件かしら?」
「突然で申し訳ありません。どうしてもお話ししたいことがあったもので…」
「入れてあげて、フローラー」
アイリスの言葉でフローラーが退くと、ロイスはおずおずと会釈をして部屋に入った。
アイリスが二人だけにしてほしいとお願いすると、フローラーは承諾し静かに部屋を出た。
アイリスは背筋を伸ばしたまま佇立するロイスを見つめた。
「私と二人きりのときは、そんな風にかしこまらなくていいのよ。むしろ、堅苦しくいられると私が落ち着かないから、力を抜いてほしいわ。なんたって、私たちは幼馴染みなんだから」
「いえ、このままでお願いします。これから申し上げる内容も内容ですので」
堅物のロイスにアイリスは小さくため息を吐いてから、仕方がなさそうに微笑を浮かべた。
「…それで、お話ってなにかしら?」
と、アイリスは座ったまま尋ねた。
「本日、我々が王都の広場で陛下たちの警護に就いている間に、地下牢に監禁していた異世界人のウラベミチオが城から脱走しました」
「知っているわ。さっき、そのことでお父さまとロディルが話しているのを耳に挟んだから。それが?」
「無礼を承知でお尋ねします。もし誤解であれば申し訳ありません」
「言ってちょうだい」
「…自分は、アイリスさまがウラベの脱走に手を貸されたのではないかと思っています。見張りを任されていたタカセは使命を怠っていましたが、施錠を忘れていたとは考えられません。あきらかに第三者の手によって、牢のカギは開けられたと自分は思っています」
「それが私だとあなたは言いたいの?」
「申し訳ありません。自分の勝手な推測なので、もし誤解であればーー」
「いいのよ。…ええ、認めるわ。私が彼を逃がしたの」
アイリスが正直に打ち明けると、ロイスは驚きの眼差しで彼女を見つめ、
「なぜですか?」
と、聞いた。
「あのままにしていたら、彼はいずれお父さまたちの命令で処刑されていたかもしれない。だから、そうなる前に私は逃がしたの」
「陛下たちの協力に同意していれば、少なくとも処刑されるはずがありません」
「かもしれないわね。でも、無駄よ。ロディルたちがいくら問い詰めたところで、ウラベはお父さまたちに彼らの居場所を教えたりしないわ」
「どうしてそう思われるのですか?」
「ウラベにとって、彼らが大切な存在だからよ」
「大切な存在…。しかし、番いの女性を除けば相手は魔物のグリフォンです。我々の世界とは違う別の世界から来たあの男にとって、まず出会うことのない異質な存在です」
「だから助けるのはおかしいと? ちょっと聞かせてもらうけど、あなたは魔物をどう思っているのかしら? やっぱり、人間を襲う危険な生き物だと?」
「陛下たちはそのようにーー」
「お父さまたちは関係なくて、あなた個人の考えを聞かせてほしいのよ。心配しなくても、誰にも告げ口したりしないわ。もちろん、あなたが敬う隊長のロディルにもね」
と、アイリスは言ってからロイスをジッと見すえた。
ロイスは困り顔を浮かべながら床を見下ろした。
そのとき、不意に扉をノックする音が聞こえた。
アイリスが入るように言うと、ロディルが入って来た。
ロディルは一礼してから、目を泳がせているロイスを見た。
「どこに行ったのかと思ったら案の定だ。ここでなにをしている?」
「えっと。そ、その…」
「ハッキリと言え。ここでなにをしている?」
ロディルの射すくめるような鋭い眼光と語調で、ロイスは叱責された子どものようにビクッと身を震わせた。
「私が呼んだのよ。だから、彼を責めないで」
と、立ち上がったアイリスがすかさず助け舟を出した。
ロディルは少し沈黙してからフンッと鼻を鳴らした。
「かしこまりました。…ロイス、後でオレの部屋に来い。話がある」
と、ロディルはオドオドしている部下に言ってから、アイリスに一礼し部屋から出た。
扉が閉まってもなお、ロディルは緊張が解けないらしく床を見下ろしながらブルブルと小刻みに体を震わせていた。
そんな彼にアイリスは近付くと、そっと抱き締めた。
「アイリスさま…?」
「いいのよ。今だけだから」
と、アイリスは言ってからロイスの背中に両手を添え、グッと力を込めて抱き締めた。
「さっきのあなたを見て、遠い過去を思い出したわ。よく一緒にイタズラをしてはフローラーたちに怒られて、そのたびにあなたは震えながら泣きベソをかいていたわね。でも、私がこうやって抱き寄せてあげると、すぐに泣き止んで抱き返してきたっけ? あんまり強く抱くから、私が泣きそうになったこともあったのよ」
と、回顧しながらアイリスは微笑んだ。
同じく遥か昔の無邪気な子ども時代を思い出したのか、戸惑いの表情を浮かべていたロイスの顔がかすかにほころんだ。
体を離すと、アイリスはそっとロイスの頬に手を添えた。
「騎士としての立場を重んじるのなら、これからは無理に緊張を解けとは言わない。でも、あなたは騎士である以前に一人の人間。自分の考えや気持ちを尊重する権利があって、それをほかの誰かにとやかく指摘される筋合いなんてないの。悩んだときは、あなた自身の気持ちを貫くのよ。それを忘れないで」
そう言ってからアイリスは背伸びをすると、おもむろにロイスの口元にキスをした。
「あ、アイリスさま…!」
ロイスは慌てて離れようとしたが、アイリスは官能的な甘い吐息とともに一層強く唇を押し付けた。
ロイスは顔を真っ赤に染め動揺したが、しばらくして彼女の柔らかな唇を静かに受け入れると、腰に両手を回して深く接吻した。