第十一章 大いなる遭遇
薄暗い秘密の抜け道を進んでいた浦辺は、通路を照らすカンテラの明かりとは別の明かりが照っているのを捉えた。
駆け足で向かうと、明かりは突き当たりの壁の隙間から漏れていた。
隙間の前に手をかざし、風が吹いているのを確かめてから浦辺は力を込めて壁を押してみた。
壁がゆっくりと前に移動した。
出口を塞いでいた岩が、ゴロゴロと前に転がったのだ。
浦辺が外へ出ると、茫洋たる大自然が広がっていた。
ラングの言っていたミデェール広原である。
現実世界の日本ではまずお目にかかれないほど広々とした平地で、地平線の彼方に目を凝らしても見えるのは山ばかりである。
(ここからどっちへ向かうかだな)
浦辺は服に付いた土を落としながら後ろを振り返った。オスニエルを囲う巨大な壁が真後ろにあり、隠し通路の出口が壁を越えて間もない場所にあることが分かった。
退魔の教えがまだ広場で唱えられているのか、もしくはもう終わって城に引き上げたディアドロス国王たちが脱走に気付いているかどうかは分からなかったが、どちらにしろのんびりこの場にとどまっているのは危険だった。
隠し通路の塞いでいた岩を元通りに戻してから、浦辺は出来るだけオスニエルから離れようとミデェール広原を突っ走った。
走りながら浦辺は周囲を警戒した。ラングは魔物が蔓延っている心配は皆無だと言ったが、なにせ初めて訪れた土地、しかも現実世界ではない異世界なのだから、どんな危険が待ち受けているか想像も付かない。そのため、イヤでも警戒してしまう。
それに、魔物ではなく警ら隊のような団体が巡回している可能性も視野に入れて、浦辺は慎重を期した。半ば取り越し苦労のような気もしたが、未知の世界に足を踏み入れている以上、用心に越したことはなかった。
無我夢中に走ってどれくらい経っただろう?
浦辺は一旦立ち止まって背後を振り返った。
まだ山頂の城がハッキリ分かる程度にしか離れていなかった。
しかし、無理に焦ってもイタズラに体力を消耗するだけなので、浦辺は一休みしようと近くにあった大きな岩にもたれて一息入れることにした。
汗を拭ってから空を見上げた。
白い雲が一定の速度で進む青空、火照った体を冷やしてくれる心地好い風が吹いているだけの静かな土地。車の走行音や人々の雑踏などの都会ならではの余計な雑音は一切聞こえない。
張り詰めた心境とは対照的な静謐な空間に取り残された浦辺は、無意識に瞼を閉じてしまった。先ほどの用心深さを失ってしまうほど、今いる場所は都会生まれの浦辺にとって夢のような快適さだった。
しかし、間もなくして彼は異様な気配を感じ取った。
さっきまでの心地好い風が打って変わり、生暖かい空気がやや強く顔に吹き付けてきたからだ。
まるでサウナのような熱気を孕んだ熱風にあおられ、浦辺はたまらずに目を開いた。
〈…あら、よかった。生きていたのね〉
と、目の前の「それ」が言った。
爬虫類のような目と立派に伸びたマズル、角らしきうねりのある突起物を二つ頭から生やし、前足にはあらゆる物を切り裂けそうな鋭い爪がキラリと光り、背中には折り畳まれた巨大な翼を誇らしげに持つ瑠璃色の大きなトカゲが、空色のタテガミを生やした長い首を覗き込むように伸ばして浦辺を見つめていた。
(ドラゴン…!)
浦辺はゴクリと生唾を飲んでから、大きく見開いた目でドラゴンを見た。
〈そんなに驚いた顔をしなくたっていいじゃない。失礼ね〉
と、ドラゴンが不服そうに言うと、浦辺はまた驚いてしまった。
「ドラゴンが口を利いてる…」
〈なに当たり前なこと言ってるのよ。上位種族が人間の言葉を扱えるのは常識でしょ。そんなことも知らなかったの?〉
と、ドラゴンはやや呆れた様子でフンッと鼻を鳴らした。
その仕草があまりに人間臭さに溢れていたせいか、浦辺は少し落ち着きを取り戻してから恐る恐る尋ねた。
「食べない…?」
すると、ドラゴンは露骨に表情をムッとさせた。
〈心外ね。共存共栄のこのご時世、誇り高いドラゴンである私がそんな野蛮な真似をしたら大変な騒ぎになるわよ。ハッキリ誓うけど、そんな秩序に反するような愚行なんて働かないわ。第一、私にとって人間は大切な友人であって家族同然みたいなーー〉
独り言のように言葉を発し続けるドラゴンを見て、浦辺はひとまずホッと安堵した。
非現実的な事象や存在に耐性のある浦辺は、この世界に召喚された時点できっと見たことのない生物や現象に遭遇する機会は間違いなくあるだろう、と予想していた。もちろん、最強と謳われるドラゴンに出くわすこともしかり。
しかし、そう構えていたつもりだったが、いざ実物を目の当たりにした瞬間に感じた圧倒的な存在感に、彼はいとも簡単に射すくめられてしまった。それほど、本物のドラゴンから漂うオーラはただならぬものだった。
そんなドラゴンという大きな存在との遭遇に浦辺は気が動転したが、驚いたことに相手は人間の言葉を理解し、その上自ら声にしてコミュニケーションを取っている。
そんな信じがたい光景を目の当たりにし、浦辺は妙な安心感を抱いていた。それはきっと、言葉の通じない異国で同じ日本人に出くわしたときの心理と似通っているのかもしれない。
〈…ちょっと、聞いているの? 私は人を食べないから、怖がる必要なんてないと言っているのよ。お分かり?〉
と、ドラゴンは黄金色の虹彩が美しい双眸で浦辺を見すえた。凛としたまつ毛を伸ばす瞳に見つめられた浦辺は一瞬鳥肌が立ったが、咳払いとともに気持ちを落ち着かせると小さく頷いた。
「悪かったよ。ごめん」
ドラゴンは仕方なさそうにフゥ…と鼻から息を吐いた。
〈いいわ、許してあげる。…それにしてもあなた、見たこともない格好をしているわね。ニオイもなんだか嗅いだことのない不思議な感じがするし〉
と、ドラゴンは浦辺のそばに再び顔を伸ばすと、興味深そうにスンスンとニオイを嗅いだ。そのたびに、あの生暖かい熱風が浦辺に噴きかかった。
「おい、やめてくれよ」
〈あら、怖がらなくたっていいじゃない。人は食べないとさっき言ったばかりなのに疑り深いのね〉
「そうじゃなくて、その生暖かい息を噴きかけないでほしいんだよ。それに、こんな間近でドラゴンを見るのは初めてだから、どうしても慣れるのに時間がかかるんだ。もう少し顔を離してくれ」
〈ふぅん…。それにしては随分と威勢がいいじゃない? それと、私には『リヴィア』というちゃんとした名前があるんだから、『ドラゴン』ではなく名前で呼んでほしいわね〉
自らリヴィアと名乗ったドラゴンはそう言うと、リラックスするように大きな体をゆっくりと地面に伏せた。
〈…さて。少しは落ち着いたでしょうから、そろそろ教えてもらえるかしら。あなた、ここでなにをしてたの?〉
「走って疲れたから一休みしていたんだ」
〈走ったって、どこから?〉
「王都のオスニエルから」
〈逃げて来たということ?〉
「そんな感じかな」
〈なにをしたの?〉
「なにかやったわけじゃないよ」
〈でも、追われているんでしょう。どうして?〉
「質問が多いな」
と、浦辺は文句を言った。
〈あら、気を悪くしたのなら謝るわ。でも、大目に見てくれる? 私って卵から孵ったときからずっと人間に育てられてきたから、ドラゴンよりも人間寄りの性格になっちゃったのよ。ほら、人間って好奇心が旺盛でしょう? だから、なんでも知りたがるのよ〉
「人間に育てられたって?」
〈ええ、そう。私が生まれたのは、ここから大分離れたヴァンハルトと呼ばれる王国なの。大昔、その国を治めていた国王が貢ぎ物として譲り受けた三つの卵から私と兄たちは孵ったの。そして、そこの人たちの愛情を注がれながら大切に育てられたわ。今では、現国王のイスカンダーが打ち立てた物資の空輸事業に携わる駄載竜として、兄たちと一緒に日々業務に専念しているわ〉
「ダサい…竜?」
当惑する浦辺を、リヴィアは冷ややかな目で見下ろした。
〈なにか勘違いしていそうな顔だけど、まあいいわ。とにかく、今回も仕事の一環で貧困地に調合薬を届ける途中だったのよ〉
と、リヴィアは背負っている大きなリュックを浦辺に見せて言った。彼女のいう調合薬が大量に詰まっているのだろう、リュックはパンパンに膨れ上がっていた。
〈近道をしようとミデェール広原の上空を飛んでいるとき、何気なしに地上を見下ろしたら岩のそばにいるあなたを発見したってわけ。てっきり野垂れ死んでいるのかと思って心配したけど、違ったみたいで安心したわ〉
「そういうことか。ご親切にありがとう」
〈どういたしまして。…ところで、あなた名前は?〉
「あ、ごめん。浦辺って言うんだ。浦辺道夫」
〈ウラベミチオ…聞き慣れない名前だわ。さっきも聞いたけど、どうしてオスニエルから逃げて来たの?〉
と、リヴィアは再び同じ質問を投げてきた。
説明しなければ埒が明かないと悟った浦辺は、彼女(声質と言葉遣いからメスと推定したがやはりその通りだった)にとって異世界である日本という国からここへ召喚されたこと、オスニエルにいる国王と牧師が共存社会を疎んで退魔の教えという対魔物の思想を広めようとしていること、自分にとって大切な友だちに危険が及ぶと判断して協力を拒んだこと、国王の令嬢によって脱走に成功しここまで逃げ延びたことを説明した。
リヴィアは真剣な様子で、淡々と語る浦辺の説明に耳を傾けていた。時折、相槌を打ったり首を傾げたりする仕草がいかにも人間味に溢れていたが、それもきっと人口育成された境遇ゆえに身に付いた癖なのだろう、と浦辺は感心した。
〈グリンメル王国が魔物に対して厳しい目を向けているのは知っていたけれど、今のディアドロスという国王は歴代の国王以上にタチが悪いみたいね。まったく…情勢の変化に伴って順応するのが国を担うトップの務めなのに呆れるわ〉
と、リヴィアはフンッと鼻を鳴らした。
「意外と的を射た意見を言うんだな」
〈ドラゴンだからってバカにしてる?〉
「まさか。後が怖いからしないよ」
〈それにしても驚いたわ。あなたが例のグリフォンたちの知り合いだったなんて〉
「そんなに?」
〈もちろんよ。常識的に考えて、人間と魔物がお互いに手を取り合う社会の実現なんて、まず考えられないことなのよ。そんな不可能を可能にした彼らは、いわば歴史的な偉業を成し遂げたわけだから、知り合いだったら自慢したっていいくらいだわ〉
「別に自慢する気はないよ」
〈あら、そうなの? 異世界人って、思いのほか謙虚なのね。…ともかく、巻き込まれて色々と大変な目に遭ったこと、深く同情するわ〉
「気にかけてくれてありがとう」
〈どういたしまして。ところで、これからどうするつもり?〉
「それを聞かれると困るんだよね。国境は越えたいけど、それまでに脱走に気付いた城の人間に追い付かれるかもしれないし、万一国境に辿り着いても国境警備隊に見付かって捕まるかもしれない。それだけはどうしても避けたいんだ」
〈国境警備隊の心配なら無用よ。身分証明書代わりのギルドカードさえ持っていればなにも心配…て、異世界人のあなたが持ってるわけないわよね〉
「ご明察」
リヴィアの指摘に浦辺は苦笑を浮かべた。
〈その格好も一際注意を引くから、警備隊の目をかいくぐって国境を越えるのはなおさら難しいわね〉
と、リヴィアはラングと同じことを言った。
「やっぱり、この格好のままじゃマズイか」
〈当たり前でしょう。それじゃあ、捕まえてくれって主張しているようなものよ。どうしてオスニエルで手頃な服だけでも調達しなかったの?〉
「持ち合わせがないんだ」
〈借りるぐらいなら出来たでしょう?〉
「街を出る前にちょっとしたトラブルもあって、そんな暇がなかったんだ。第一、ボクみたいな見ず知らずの人間が突然来ても、怖がられて門前払いを食らうのがオチだろう」
〈それもそうね〉
と、リヴィアはにべもなく言った。
「やれやれ、どうしたものかな」
と、浦辺は途方に暮れながら岩にもたれかかった。
そんな彼をリヴィアは不憫そうに見つめてから、おもむろに長い首を伸ばすと方角を確かめるように四方八方をキョロキョロと見回した。
彼女の目線が、山々の連なる山脈を捉えた。
〈輸送物の届け先はあの山脈を越えた先なんだけど、私の土地勘が正しければグリフォンたちが群れで暮らしている里も丁度同じ方角にあったはずだわ。今のあなたにとって、そこにいくのがベストじゃないかしら?〉
「確かに…。でも、さっきも言ったけど国境の山を越えるなら警備隊の目をかいくぐらなきゃいけないんだ」
〈心配しないで。私が連れて行ってあげる〉
「リヴィアが?」
〈ええ。そうすれば、あッという間にミデェール広原から離れられる上に、国境警備隊を気にすることなく国境も越えられるわ。しかも、短時間でグリフォンの里に到着よ。どう? 中々いいアイディアでしょう〉
「連れて行くって、もしかして飛ぶの?」
〈あなた、私をなんだと思ってるの?〉
「ドラゴン」
〈よくお分かりで。だったら、聞くまでもないでしょう?〉
と、リヴィアは胸を張ってから大きな翼を広げた。
「厚意はありがたいんだけど…」
と、なぜか尻込みする浦辺にリヴィアはムッとした。
〈なによ、まさかまだ私のこと疑ってるの? 甘いこと言って油断させてから食べる魂胆だとでも〉
「違うよ。ただ、ボクはーー」
〈はいはい、言わなくても分かってるわ。ドラゴンの言うことが簡単に信用出来ないって言いたいんでしょう? まあ、無理もないわよね。ドラゴンが存在しない世界から来たあなたにとって、私はいわば幻みたいなものなんだから。容易に信用しなくたって、私は別に咎めるつもりはないわ〉
「誤解するなよ。そうじゃなくてーー」
〈でもね、さっきも言った通り私は人間を食べたりしないの。大昔の遠い異国では巫女を生贄としてドラゴンに捧げていたらしいけど、私からしたらどちらもやっていることは外道よ。人間は一方的にドラゴンが滅亡をもたらす存在だと思い込んで罪のない女性を捧げ、ドラゴンはドラゴンで相手の勘違いに付け込んで巫女の肉を容赦なく食らい尽くしたらしいの。まったく、聞くに堪えない話だわ。…まさかあなた、私もそのドラゴンと同類と思ってるんじゃないでしょうね?〉
慌てて首を振る浦辺を、リヴィアは大きな瞳で見すえた。
浦辺は身震いしてから、
「…乗せて下さい」
と、つぶやくように言った。
〈最初からそう言えばいいのよ〉
リヴィアはフンッと鼻を鳴らすと、意気揚々と翼を地面に下ろして乗るよう促した。
タラップに見立てた翼に乗った浦辺の顔は、乗り気の彼女に反してひどく憔悴していた。